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秋の終わりに  作者: 夢追人
3/7

おとなの香り

秋晴れの中を二人でツーリング。幸一と志保との距離が縮まるにつれ、彼の心は熱く強く志保の魅力に惹かれてしまう。

 宝ヶ池トンネルに入ると、思いの外空気が冷たくて志保が驚いたように幸一にしがみついた。幸一は彼女の胸の柔らかさを背中に感じながら、スロットルを開けてスピードを上げてゆく。

 一昨日の約束どおり、幸一は昼食後に志保のマンションへとバイクを走らせた。十階位はありそうな高い建物だった。独身者用マンションのようで、家族連れの姿は見当たらず比較的若い人の出入りも多かった。だが、幸一のような学生らしき姿はなく、いずれも高収入の雰囲気を持った社会人だ。

 そんな観察をしているところに、ピンク色のトレーナシャツとジーンズ姿の志保が優しい笑顔で現れた。幸一は急に鼓動が高くなる様子を悟られないようにしながら志保にメットを手渡してから、彼女に背後から抱き着かれる幸福を背中いっぱいに感じながら出発した。

 トンネルを抜けると、再び秋晴れの温かい風と柔らかな陽射しに心が緩む。岩倉辺りから益々緑が深くなり、大原郷へと進んで行くにつれ田畑が広がる長閑な風景が広くなってゆく。紅葉にはまだ早いが、それでも山肌の所々は色づき始めている。

 秋の観光シーズン序盤だが、既に大原三千院ふもとの駐車場は大型バスでいっぱいだ。こういう時に二輪は便利だ。隅の空きスペースに駐輪した。メットを脱いだ志保はミラーを覗いて髪形を整える。鏡を覗く女性の視線は、自分の顔以外の何物も視野に入らない集中力がある。

 幸一は、そんな視線をいつも畏怖の念をもって眺めていたのに、志保も他の女性たちと同じ視線を持っていることに何となく安堵した。

 二人は駐車場から三千院に続く道をゆっくりと歩き始める。田畑の風景と民家。それに時折現れる土産物屋。なだらかな上り坂になった静かな山里なのだが、観光客でにぎわう頃になると落ち着きが無くなる。彼はシーズンオフにバイクを走らせに来るので、この里の静かな顔も良く知っている。

 だが、今はそんなことよりも、三千院に何かを隠すなんてことが出来るのか、そればかりを考えている。若しくはここへ来ることで大きなヒントを得ることが出来るのか……。

 話の成り行きでここまで来てしまったものの、冷静に考えてみると、そんなに単純な話ではないことを幸一は実感し始めた。

 そもそも山内は、本気で志保に探してもらいたいと思っていたのかどうかもわからないし、酔った勢いでいい加減なことを言っただけで、まともなヒントなのかどうかもわからないのだ。

 そうなると、ここへ来たことは全くの無駄足と言うことになるのだが、まあ、志保と秋晴れの中をツーリング出来たことを思えば、十分満足できるイベントだと考え直した。

 二人は苔むした石垣沿いに歩を進める。途中に魚山園があり、その辺りから三千院にふさわしい景観となってきた。幅の狭い呂川に掛かる魚山橋を渡ると三千院の御殿門が遠くに望める。

 御殿門まで来ると、志保が向かいにある土産物屋に幸一を誘った。そして自らは化粧直しをしてくると言って未明橋の方へ歩いていった。

 幸一は時間つぶしに土産物屋の中をゆっくりと見て歩く。京都の土産物屋ならどこにでも置いてあるような物もあれば、大原限定の物もある。彼は一番小さなしば漬けの包を買って、皮ジャンのポケットに押し込んだ。

 志保がまだ戻らないので店内をもう少し歩くことにした。幸一の目の高さ位に手鏡が幾つかぶら下げてある。何気なくその中の一番大きな鏡を見た刹那、彼の心臓が瞬間冷凍された。

 男の姿が映っている!バス停で新聞を読み、賀茂川で二人を尾行して来た男が鏡に映っている。人混みに紛れて、さりげなく幸一の背中を監視しているようだ。幸一は、志保が誰かに狙われていることを確信した。彼は店を出て、男に怪しまれないような速度で志保が向かった方向に歩む。

 と、遠くに志保を視野に捕らえたが、同時に、彼女がスーツ姿の男と会話していて離れた瞬間のような光景を見た。やがて彼女が笑顔を浮かべて近づいて来る。

「お待たせ」

「知り合いにでも会ったのですか?」

「まあね。時々店に来ていたお客さんよ」

「ナンパでもされたんですか?」

 やや怪訝な口調で志保の瞳を見つめる。

「まあ、そんなとこかな」

「もてるんですね」

 幸一は少し不機嫌な表情を浮かべている。

「羨ましい?」

 志保はにこりと笑って幸一の頬を下から指先で突いた。

「もうひとり、あなたのファンが来ていますよ。わざわざ大原まで追い掛けて来るとは、よほど好かれているんですね」

 幸一は自分に従うように彼女に目で合図する。

「別に珍しいことじゃないわ。私が東京へ遊びにいった後から追い掛けて来た男も何人かいたわよ。幸一さんはどこまで来てくれる?」

 幸一をからかった志保は、彼の横に並んで歩き始める。彼は来た道を戻り始めた。志保は彼の行動に何の疑問も呈さずに従っている。

「で、誰が追って来たの?」

 志保は楽しそうな表情で幸一を見上げる。

「誰って……。僕とあなたが共通で顔を知っている人と言えば、春香と、バス停で新聞を読んでいた男しかいないでしょう」

「まあ、春香だって。呼び捨てにする関係なんだ」

「この前も呼び捨てにしていましたけど、今更ですか?」

 幸一は溜息を吐いてからやや呆れた口調で付け加える。

「それより、興味を持つ所が違うでしょう」

「あの大柄の男が来ていたのね。結構渋くて良い男よね。でもやっぱり怪しい人だったのね」

 何となく楽しそうな口調だ。

「恐くないんですか?尾行なんかされているのに……」

「幸一さんがそばにいてくれたら、何も恐くないわ」

 志保は目を細めた愛らしい笑顔を浮かべている。彼女の言葉は本心なのか、からかっているだけなのか判断出来ない。反応のしようが無いので、わずかに微笑を浮かべただけで彼は黙して歩いた。

 5分ほど下り坂を下った所で幸一は立ち止まる。小さな漬物屋があって軒先に漬物や土産物が並んでいる。男が引き続き尾行しているかどうかを確認するために、軒先の商品を見る振りをして通行人をさり気なく観察する。遠くの方まで目を配ったが男は見つからない。

「まあ、可愛いマグカップ。欲しい?買ってあげようか?」

 志保は今の状況を理解していないかのような能天気な仕草で幸一の緊張をほぐしてくれる。一度志保の笑顔に触れてから再度通行人の顔を目で追った幸一の前を、チャコールグレーのスーツを着た男がひとりで通り過ぎていった。武闘派と言うか、一見ヤクザ風の凄みのある中年男性だ。

「今の男はあなたをナンパしていた人じゃないですか?」

「そうかもね」

 彼女はちらりと男を見たが、全く興味無さそうに漬物へ視線を戻した。

「観光地にスーツで来るなんて珍しいですね」

 幸一はまだ男の背中を目で追っている。

「仕事の途中なのかも」

 志保は面倒そうに答える。

「仕事中にナンパか」

「幸一さんもするでしょう?」

 片手間にからかった志保は、しば漬けをひとつ買った。


 二人は国道を北上してから花背(はなせ)に抜けた。途中の花背峠ではワインディングの連続がある。バイクに慣れない志保はキャーキャーとはしゃいでいだが、その割には、言いつけどおりにしっかりと幸一につかまって体重移動をしてくれたので、楽しく越えることが出来た。

 花背の里中は、野焼きの香りが漂ってくるような長閑な風景だ。やや速度を落として後方を注意していたが、尾行して来る車は1台も無い。

 幸一は少し安心して、農業を営んでいる老人たちを横目に見ながら、秋風の切ない香りを胸一杯に吸込んで愛車を心地よく疾走させる。農作業で発せられた白い煙が、普段街中で暮らしている幸一たちの感性を異次元の世界へと引きずり込んでゆく。だが、その香りは遠い記憶のどこかに潜んでいるのか、何となく懐かしい思いが湧き上がると共に心が落ち着いてくる。そして、先ほどまでの異常な興奮がどこかへ押しやられていった。

 そんな穏やかな感性は志保にまで伝染したのか、彼女もまた、しっかりと幸一のお腹を締め付けていた腕を柔らかにして、ふくよかな胸を彼の背中に預けている。幸一は、志保の感性にもこの哀愁を含んだ秋風がまとわりついているように感じて、

「哀しい空気ですね」

 と、大声で叫んでみた。

「何?」

 志保がヘルメット越しに耳を近づけてくる。

「志保さんのことが好きかも!」

 聞こえないことを良いことに、幸一は自分でもまだ半信半疑な気持を口にしてみた。

「何?聞こえない」

 道沿いを流れる狭い小川の水が清潔に澄んでいる。このまま秋の風に乗って、二人でどこか知らない世界まで飛び立ちたいと言った、センチメンタルな感情が幸一の全身に広がっている。

 志保は幸一の言葉を耳で聞くことを諦める代わりに、彼の身体をグイと抱きしめて、彼の身体から言葉を絞り出そうとしているかのようだ。幸一は、志保の胸の柔らかさに再び緊張しながらも、五感すべての感覚を研ぎ澄ませて、牧歌的風景を味わいながら風を切って進んでゆく。

 ほど良い所に簡易休憩所があった。花背川の辺にある新しく質素な休憩所だ。堤防の小高い位置に木製のベンチが四脚あって、茅葺の屋根が田舎の風流を醸し出している。

 バイクを降りた二人はベンチに腰を下ろし、暖かく優しい陽射しを浴びながら、田畑の広がる風景を心一杯に吸い込んだ。彼らのいる休憩所は地面がこんもりと盛上がっているために、花背川と周囲の緑深い風景を見渡すことが出来る。

「志保さんは子供の頃、こういう所で遊んだことがありますか?」

 自分の幼少期を思い起こしながら言葉を投げ掛けてみる。だが、彼女は無言のままで清流の小波を見つめている。その瞳は実に透き通っている。氷のような透明色の清流深くに隠れた懐かしい思い出の数々を、清潔に澄んだ瞳で追い駆けているのだろうか?

「僕は、冬になると田んぼで凧上げをしたり、キャッチボールをしたり、米のもみ殻を焼いている端で芋を焼いたり、川で魚を獲ったり、かなり野生的な遊びをしていましたよ」

 賀茂川の辺とは違った、芳醇な香りを含んだ秋風が二人の間を抜けてゆく。しかしその哀愁を漂わせる肌触りは、賀茂川に吹く秋風と何も違っていない。

「そう。楽しい幼少期を過ごしたのね」

 志保の髪が微風に小さく流れた。つい先ほどまでは、バイクの加速と傾斜に大はしゃぎしていたのに、今は清潔に澄んだ瞳に悲しみが混じっている。

「どうかしましたか?」

 彼女の横顔に尋ねてみるが、その美しい素顔は微動だにしない。そしてその素顔はいつもよりも幼くなったように感じる。

「バイクに酔いましたか?」

 微かに彼女の瞳が揺れて、今にも泣き出しそうな輝きを放った。

「それとも僕の魅力に酔いましたか?」

 明るい口調で寂しそうな志保を労わってみる。唾を飲み込む瞬間ほどの僅かなしじまが柔らかく過ぎる。

「気持ち良いわね。バイクで走るって最高!」

 瞳の色とは不似合いな明るい口調で言葉を吐くと、横に座っている幸一にグイと両手を伸ばして彼の頬を軽くつねり、志保のいつもの笑顔を浮かべた。

 微かに潤んだ彼女の瞳が堪らなく可愛くて、幸一は思わず抱きしめてキスをしたい衝動に駆られたが、何とか自制した。志保は彼の手を取って膝の上で柔らかく包むと、頭を彼の肩に預けて、目の前を流れてゆく長閑な時間を静かに眺めた。幸一は声を出すのも憚れるようで、しばらくは胸の鼓動を抑えながら志保の甘い肌の感触を味わうことにした。

 秋風と共にゆっくりと流れるこの長閑な時間がこの上なく幸福だと感じた。バイクに乗って二人風を切って走り続けるのも良いが、二人立ち止まったまま風を受けるのも素敵だ。志保の肌から漂う甘い香りが恋の香りのように感じた幸一は、ふと、肩にもたれた彼女の表情をそっと見下ろしてみた。長い睫に隠れている彼女の瞳を覗くことは出来ないが、何とはなしに、彼女は必死で秋の風景を記憶に留めているように感じられた。


 春香は河原町で買い物をしたついでにショットバーを訪れてみた。当然、彼女も中島殺害事件のことは知っているので、店が開いているとは思っていない。しかし、別れた男から伝言を預かっている以上、確かめずにはいられない。

 春香はネオンサインが揺れる高瀬川を遡り、小路を進んだ。そして周囲のビルと比べてやや古いテナントビルの2階へ階段を上る。別れた男はこの店のマネージャとして働いていた。名前は山内。案の定、扉はシャッターに覆われて閉じている。春香は小さく溜息を吐いて踵を返した。

 と、正面に柄の悪そうな背の高い男が立っている。反射的に彼女は周囲を見渡す。通路に人はいないが通路に並ぶ店は数軒開いている。春香は、やや俯き加減に男の横をすり抜けようとする。と、その男が身体をずらせて進路を防いだ。

「久しぶり」

 男の声に驚いて顔を見上げた彼女は、記憶を手繰り寄せてこの男の名前を思い出した。

「どうも」

 山内と河原町で食事をしている時に会ったことがある。山内が働くショットバーでも何度か見かけたことがあった。山内と知り合いのようだが、山内はこの男のことを避けている風に思えた。この男の名前は原田とかいった。

 春香が、どうやってこの場から逃げ出そうかと思案していると、

「まじめな学生さんに悪さはしないから安心しな。マスターが殺された事件は知っているな?」

 と、割りに優しい口調で尋ねてきた。

「ええ」

「山内の居場所を教えてくれ」

 言葉は優しいものの、春香を射抜くような鋭い眼光に彼女は怯えた。

「知りません。突然、京都を出ていくと言って、それ依頼連絡はありません」

 春香は、真直ぐに原田を見つめて真実を訴える。

「本当か?」

 全身から出る威圧の気に一瞬怯んだが、慌てると疑われるかも知れないのでじっと彼を見つめたまま、

「本当です」

 と、静かに答えた。

「そうか。もし、連絡があったら、必ず原田まで連絡するように伝えてくれ」

 原田の言葉に小さく頷いた春香は、逃げるようにしてその場を去った。どうしてあの男があんな所にいたのだろう。もしかしたら山内が志保に会いに来るとでも思っているのだろうか。

 そんな想像をしながら足早に河原町通りにまで出た春香は、人混みに安心したのか急に膝がガクガクと震え始めた。


 エレベータを5階で降りて、志保の指示通りに529号室のドアフォンを鳴らした幸一は、やや緊張した面持ちを柔らかくほぐすべく、両手で顔を摩った。

 志保と二人で三千院へ向かった日から二日が経った昨夜、彼女から連絡があって、夕食をご馳走するから明日の夕方に部屋に来るようにと言われたのだ。

 すぐさま志保の返事があってロックが外れる。そして爽やかな笑顔を現した志保は、気のせいか先日までの志保よりも明るくて幼い感じがした。

 今日の気候が秋という季節にしてはかなり暑いためか、志保は淡いブルーのノースリーブシャツとピンクのホットパンツという装いで、惜し気もなく美脚を披露してくれている。量感のある胸の膨らみに、背中が覚えている彼女の感触を思い出して、幸一の鼓動がどきりと響いた。

「どうぞ」

 彼女の笑顔に導かれて幸一はフローリングの短い廊下をゆっくりと抜ける。仕切りのドアをくぐると、二十畳ほどのダイニングキッチンになっており、足を踏み入れた瞬間、彼は思わず息を飲んだ。木製のテーブルに彩り鮮やかな料理が並んでいる。器は純和風のものが多く使用されているが、洋風の物も混じっている。

「すごいご馳走ですね!」

 テーブルに並んだ繊細な料理を目で追いながら感嘆した。

「もう少しで出来るから、あっちのソファに座っていて」

 志保がややはにかみながら、いつもよりも幼い表情で幸一に指示する。

「これ、つまらない物ですけど」

 幸一は大原で買ったしば漬けを、土産物屋の包みのまま差し出した。

「あら、あなたも買っていたの」

 笑顔で受取った志保の手は、水仕事のためかやや赤らんでいた。その手が子供の手のように幼く感じてつい握りたくなる。

 幸一は指示どおりにリビングにある革張りのソファに腰掛けた。そこはテレビの正面になるものの、キッチンにいる志保には背中を向ける位置となる。彼は腰を掛けたものの、テレビも電源が落ちていて手持無沙汰だ。と、テレビ台の横にある木製キャビネットに乗った地球儀が目に留まって、さっと立上るとそれを手に取った。

「アフリカ大陸が少しずれてますね。志保さんが作ったんですか?この地球儀」

「いいえ、地図には興味ないわ。女は地図が読めないて言う噂を聞いたことあるでしょう?だから地球儀なんて……」

「じゃあ、山内さんが作ったんですね」

「ええ。良くわかったわね」

「わかるでしょ、普通……」

 小声で漏らす。

「彼はラテン語を専攻していたの。その地球儀を回しては、この国に行ってみたいとか、行ったことがあるとか……。そんな話を良くしていたわ。世界中の国を訪れてみるのが彼の夢だったみたいよ」

 志保は料理を作る方に集中しているためか、片手間に話しているかのようだ。そのためか、男の夢など、女にとっては子供の戯言程にしか思われていないような言い草に聞こえた。

「さあどうぞ。でも先に手を洗ってきなさい。うがいもするのよ」

 志保が明るい笑顔を浮かべて幸一のお尻を叩いた。適当に手を洗って戻った幸一は、

「本当に美味そうだ」

 と、勧められた席に座りながら興奮気味に料理を見渡した。海鮮サラダに刺身、冷製の煮物に焼物、揚物、八寸が並んでいる。

「まずはビールね」

 冷蔵庫から缶ビールを取り出した志保は、冷えたグラスにビールを注ぐ。

「でも、どうして急に?」

 幸一は乾杯の前に疑問をぶつけた。志保には珍しく、はっと驚いた動揺を見せてからグラスに視線を俯せた。

「僕がしつこく夕食に誘ったからですか?」

 一瞬の気まずい空気を掻き消したくて、幸一は軽い口調で尋ねてみる。

「バイクに乗せてもらったから……」

 幸一には意外な言葉を吐いてにこりと笑った志保は、彼の瞳を下から見つめるようにして乾杯のグラスを合わせた。やはり左目の方が細い笑顔だ。

「あんなことでこんなにご馳走をしてもらえるなんて。いつでも乗せてあげますよ」

 幸一はビールを一気に飲み干す。

「ゆっくり飲みなさい。酔いつぶれて泊まろうなんてプランは見苦しいからよしてね」

 言葉の割には優しい微笑を浮かべて、空になった幸一のグラスにビールを注ぐ。

「するどいですね。でも男としては、一歩進んでみないと女性に失礼ですからね」

 幸一は八寸の煮凝りを口に運んだ。

「美味い!」

 会話の流れなど忘れて思わず叫んでしまう。

「ありがとう。でも、男としてのお気遣いは無用よ。こんな露出度の高い格好をしているのも、決してあなたを誘っているわけじゃないから誤解しないでね」

 やや興ざめな血潮が一瞬彼の全身に拡がったが、志保ほど素敵な女性に言われる分には全く拘泥しない。正直なところ、そんな宣言こそ無用だ。夕食を共に出来るだけで幸福なのに、単に部屋に入れてもらったからと言って、すぐにその先を期待するほど愚かでもない。

 以前、全く興味を抱いていない女性の部屋で同じようなことを言われたことがある。その時、幸一は黙って彼女の部屋を出て行った。そんな光景を思い出してしまった彼は、冷やした焼茄子を箸で摘まんで静かに口へ運ぶ、流れるような志保の仕草を、まるで映画の中の貴婦人を見つめるような瞳で見入ってしまう。

「単に暑いからですか?」

 ふっと現実に戻った幸一が、少々失望したような口調を演じて尋ねてみた。

「サービスよ」

 箸を置いてグラスを口に運んだ志保は、妖艶な瞳で幸一を見つめると、

「どうせ今夜も眠る前にするでしょ?その時のお役に立とうと思ってね」

 と、さらりと言ってのけた。そして予想だにしない言葉に虚を突かれた幸一の瞳を見つめて悪戯ぽく微笑んでいる。

「男性経験が豊富なんですね」

 真白になった脳みそから搾り出した唯一のフレーズ。

「そんなこと、保健体育の教科書に書いてあるわ」

 志保は艶美な瞳で幸一を再び惑わした後、海鮮サラダを小皿に取って幸一に手渡してくれる。

「山内さんにも、こうやってご馳走を作ってあげていたんですか?」

 サラダをテーブルに置きながら尋ねてみる。

「いいえ。あなたが初めてよ」

 幸一は軽く鼻で笑ってから湯葉の刺身を味わう。志保の言葉をそのまま信じるほど子供ではない。

「じゃあ僕は、志保さんがつきあった数々の男たちの誰よりも幸せな男ですね」

「数々、だけ余計よ。野菜を食べなさい」

 母親口調で幸一の戯言を封じた志保は、ふいと立上ってソファのある部屋に足を進めて音楽を流した。静かなクラシック音楽が部屋中に響いて、ビールのアルコールで心地良くなり始めた幸一の心を甘く溶かし始める。

「冷酒、好きでしょ?」

 すらりと伸びた脚からヒップへのラインを強調するかのように、冷蔵庫にもたれ掛かって扉を開けた志保は、露に曇った日本酒のビンを幸一の目の前に置いた。

「もちろん」

 志保の美しい所作を眺めながら、彼女はこうやって色々な男を手玉に取っていくのかも知れないと言った漠然とした不安と、余りに素直な彼女の笑顔とのギャップに混迷している。それは、賀茂川の堤防で初めて会話した時から覚えていた感覚だ。奥深い大人の雰囲気と、少女のように素直な表情を浮かべる瞬間とのギャップが、幸一にはつかみどころの無い不安でもあった。

 もしも彼女が二つの表情を意識的に使い分けているとしたら、彼女はもう全く手の届かない大人の世界の住人だ。そんな世界に入る能力も資格もない今の自分は、今ここで色々考えても詮無きことだと悟った。どんな不安があろうとこの心の流れを止めることなどできない。志保に惹かれるまま流されるより道はないと、彼は秘かに決心を固めた。

 欲望と不安が蓄積されて、いつでも暴発しそうな二十歳そこそこの幸一にとって、年齢は定かではないが大人の雰囲気を醸し出す志保は、落ち着きがあり、艶美で優しくもあり、厳しくもあり、だからこそ、時折見せる幼い表情や不安げな仕草は、幸一の男気を人いち倍奮起させたりする。

「山内さんとは同棲していたのですか?」

 冷製の煮物は薄味だが、冷酒の芳醇な風味と調和して、幸福な香りが鼻から抜けてゆく。

「同棲はしないの……。どろどろするのは嫌だから」

「同棲すると、どろどろするんですか?」

「そうよ。だから誰も部屋には泊めない。焼物を先に食べてね、冷めると美味しくなくなるから」

「どろどろって何ですか?」

 五切れほどの牛肉にホワイトソースが掛かった焼物を口に運んでからゆっくりと咀嚼した彼は、

「ウマ!」

 思わず叫んだ後、すぐさま次の肉片を箸ですくって口に放り込む。

「あなたに説明してもわかってもらえない。まだ子供だから」

 小声で諭した志保は、もう質問したことさえ忘れてしまった幸一の口元に手を伸ばして、ホワイトソースを指で拭った。

「春香ちゃんとはもうしたの?」

 突然の展開に一瞬、彼の口が止まる。

「おかずにすらしたことないですよ」

 大人の志保に、ささやかな抵抗の矢を射ってみた。だが彼女は全く動じずにカルパッチョを口にして冷酒を舐めると、

「春香ちゃんはあなたをおかずにしてるわよ、きっと」

 さらりと返してくる。幸一の完敗だ。

「女子もおかずが必要ですか?」

「無の状態で性欲処理なんて、お釈迦様でもできないわ」

 志保は意味深な瞳で幸一を見つめてから冷酒を注いだ。

「春香ちゃんはあなたのことが好きよ。あなたはどうなの?」

 冷酒の瓶を置いて、揚物の蓮根を箸で割ろうとしている志保は蓮根の固さに苦戦し始めた。

「ただの友人ですよ。それよりも、そのまま食べたらどうですか?大口で食べても良いですよ、僕しかいませんから」

「それはそうね」

 志保は箸で摘まんだ蓮根の揚物を幸一の口に無理やり押し込むと、細い目をしてきれいに笑った。

 夜も深まり、昼間の暑さとは打って変わった涼やかな風が、秋の香を乗せて二人の間に流れ込んできた。幸一は最後に出された温かいご飯と薄味の京風お吸物を飲み干して大満足した。

「ああ、美味かった。満足満足!」

 お腹を叩きながら、大声で感嘆する。

「ご馳走様!」

 手を合わせた幸一は、まだお吸物をすすっている志保の表情をちらりと覗いた。志保は幸一の幸せそうな様子を肌で感じながら微笑を浮かべている。そして淡々と自分の食事を進めているが、気のせいか、瞳が微かに濡れているように思えた。


 春香は少し遅れてカフェに辿り着いた。今日はいつもどおりのジーンズ姿だ。

「遅れてごめんね。講義の後、友だちに捕まっちゃって……」

 愛想笑いを浮かべた彼女は、オープンテラスの白い椅子を引いて腰を下ろした。友だちに捕まった理由は、今夜合コンがあるから参加して欲しいという誘いだった。乗り気はしなかったが、断るには時間が掛かりそうだったので反射的に承諾してしまった。

「僕もさっき来たところだから」

 幸一はカップ半ばまで減ったコーヒーをずるりとすする。幸一が機嫌を悪くしていないのか気にしながら瞳を窺ったが、彼に怒っている様子はなく、さりとて楽しそうな表情でもなく、淡々とコーヒーを飲んでは春香が話し始めるのをじっと待っている。

「志保さんとはデート出来たの?」

 春香は作り笑顔を浮かべる。

「食事はしましたよ」

 幸一も軽く微笑む。

「そう。楽しかった?」

「まあ、それなりに」

 幸一が怪訝な表情で春香を見つめている。幸一に何か誤解されそうなので彼女はすぐに本題に入ろうとしたが、

「何か関係あるんですか?今日の用事と……」

 と、幸一に先を越されてしまった。

「ええ。もしあなたが志保さんに嫌われていたらお願い出来ないから」

 春香がやや早口になって彼を呼び出した理由を説明しようとした時、

「飲み物買ってきたらどうですか?」

 と、彼がにこりとしてカフェカウンタを指差した。

「そうね。少し待っててくれる?」

 幸一は軽く頷く。春香は大きく深呼吸をしながらカウンタに向かい、心を落ち着かせようとする。何を焦っているのか自分でも不思議だ。 

 今から白状することは、幸一にとっては何の衝撃にも問題にもならないことだ。だから、何も緊張する必要はない。彼女は自分に言い聞かせながら温かいカフェオーレを買って再び席に戻った。

「甘そうですね」

 どうでも良いような質問をしてくる。

「砂糖入れてないから甘くはないわよ」

 面白みの無い自分の返答に辟易しながら春香はひとくち味わってみる。勿論甘くはない。そして小さく息を吸ってから、

「私ね、志保さんの彼氏と時々遊んでいたの」

 と、思い切って口火を切ってみた。一度口にしてみると案外楽だ。

「へえ。何して遊んでいたの?」

 幸一は真直ぐな瞳で見つめてくる。

「何して……。と言われても……」

 春香は、幸一が意地悪で言っているのか、それとも本当に普通の遊びを想像しているのか、この男のことが益々わからなくなってきた。

「大人の遊びよ」

 春香は思い切って白状する。ほんの少し間が空いて、

「ああ、そういうことでしたか。ゲームセンターにでも行っていたのかと思いました」

 と、素な表情で反応した。やっぱり普通の遊びを想像していたようだ。でも、あまりに素気ない反応に、彼は大人の遊びの意味を理解しているのだろうかと、春香は少々不安になる。

「確か山内さんでしたね?あの店のマネージャだったとか」

 幸一は何の動揺も表さずに淡々と語る。春香は、動揺しない彼の態度になぜか落胆した。

「志保さんから聞いたの?」

 内心は隠して平静な表情を作ってみる。

「詳しくは聞いてませんけど、それほど良い仲ではなかったみたいですよ」

 空になったコーヒーカップを確認して、空だと知りながら幸一は口に運んでみて更に言葉を続ける。

「確か、大学院生でラテン語を専攻していたと言う、頭の良さそうな人みたいですけど」

 彼はじっと春香を見つめる。彼女は羞恥を覚えてちょっと視線を外すと、

「それも志保さんの情報?」

 と、冷静な口調で尋ねた。

「こんなことを僕に話す人は他にいませんよ」

 彼は少々面倒臭そうな表情を浮かべた。

「実際のところ、志保さんと山内さんはつき合いが浅かったのかも知れないわね」

 幸一の瞳が一瞬輝いたように感じる。

「どうしてですか?」

「山内さんは大学院なんていってないから。それどころか大学を中退して、チンピラみたいなことをしていた。マスターの中島さんとは競馬場で知り合ったのよ。そんなことも知らないなんて、本当につき合っていたのかしら?」

 春香は、幸一が驚くかと思っていたが彼は全く平静だ。

「なるほど。ありそうな話だ。で、今、山内さんはどこにいるのか知っていますか?」

 春香は静かに首を振って、

「この前、京都を離れたわ。理由も行先も言わなかったし聞きもしなかった。それで別れたんだけど、最後に気になることを頼まれたの」

 と、幸一の瞳を見つめた。

「何ですか?」

「志保さんへの伝言」

 一瞬の沈黙が過ぎてゆく。

「そうですか。志保さんは、山内さんのことなんてもう好きではないらしいですよ。だから、あなたが遊んでいたと知っても怒ったりしないと思います」

 幸一の言葉を聞きながら彼の瞳を覗いてみる。それは事実なのか、それとも彼の望みなのか。しかし春香は、そんなことはどうでも良いと考え直して、

「直接伝えても良いけど、彼女の連絡先を知らないの。お店はもうやっていないし。三浦君ならもう知ってるかなと思って」

 と、事務的に依頼を託すことにした。

「わかりました。何て伝えれば良いのですか?」

 彼女はバッグから小さな紙切れを取り出して、

「『例のてらはこうふくの中にある。ちょっと洒落ているかな』」

と、一度読み上げてから幸一にメモを差出した。

「”彼の身に何かが起こったら”という条件つきだけど……」

 春香が付け加えた。幸一は黙ってメモを受取り文字を目で追っている。そしてそのままメモの中に溶け込んでしまうのではないかと思えるほど集中していった。

「じゃあ、お願いね」

 そう言って、春香はカップを口に運ぶ。

「確かに預かりました。でも、この伝言どういう意味?」

 幸一は、何も知らない様子で春香に質問する。

「山内さんに尋ねたけど何も教えてくれなかった。山内さんもどうでも良さそうな感じだったので忘れようと思ったけど、預かったまま忘れるのも気が引けるので、三浦君には悪いけどお願いしますね」

 もう少し話しを続けていたいが、幸一の興味はメモに集中して春香の存在自体も薄くなっている。

「じゃあ私、約束があるから……」

 春香はゆっくりと席を立つ。彼にとって存在感のない今の空間が許せなくて、早く逃げ出したい。

「他に何も言っていませんでしたか?どんな些細なことでも良いです。思い出してください」

 幸一の真剣な瞳にじっと見つめられて、春香は立ち尽くしたまま淫猥な夜の行為がいろいろと思い浮かんできたが、それ以外は、髪の毛が上手く梳けなかったことくらいしか思い出せない。彼とはあまり会話らしい会話も無かった。が、ふっと思い浮かんだ言葉が自然と口に出てきた。

「人生の勝負に出るとか言っていたような気がする……」

「山内さんがそう言ったのですね?」

 幸一の瞳が恐いくらいに輝いている。

「ええ。何をするかは言わなかったけど」

 春香はもう一度腰を下ろして話を続けようかと思ったが、再びメモに集中してしまった幸一を見て小さく溜息を吐いた。

「じゃあ」

 彼女は溜息の延長のような声で別れを告げる。

「さようなら」

 小さく返して、ほんの一瞬春香に視線を向けたがすぐにまたメモに集中してしまった。春香はそんな幸一を一度にらみつけてからゆっくりと離れていった。


『ずばりてらの中。ちょっと洒落ているかな。例のものはこうふくの中にある。ちょっと洒落ているかな』

 幸一は、志保から聞かされたヒントと、山内が春香に託したメッセージを頭の中で比較してみた。ヒントの続きだろうが意味は不明だ。

 幸一は今、授業を受けているがヒントのことが気になって何も耳に入らない。

「例のものとは宝物のことだろう。宝物がこうふくの中にある……コウフク……。幸福だと全く洒落ていない」

 幸一はぶつぶつと呟きながら周囲を見渡す。大講堂の授業で、後ろに座っている学生たちは眠っているか、小声で雑談したりしている。正直なところ余り面白くない講義だ。こんな状態を幸福と呼べるのだろうか。志保に揶揄された、平均的な学生生活の堕落を思い起こしながら自分の四年間を振り返ってみた。が、そんな思考の中でふと、一枚の写真が記憶の中で閃いた。

「あっ!」

 思わず小声で叫んでしまった彼はそのまま机の影に沈みこみ、講師が背中を見せている瞬間をついて大講堂から脱走した。そして図書館に走り込んだ幸一は、

「何を探す?美術、建築、歴史……」

 と、呟きながら小走りに館内を駆け巡った。と、一瞬視界に入った百科事典を手早く手にして捲り始める。興奮で手先が震え、膝までも小刻みに震えている。

「あった。これだ!」

 幸一はしばらく写真を見つめて、記憶の中の写真と照合した後確信を持った。

 

 春香は千鳥足で四条通を歩いている。両脇を若い男子学生に抱えられて何とか歩いている。余り乗り気になれない合コンだったが、男子たちの明るいノリに乗せられてつい酒が過ぎてしまった。昼間の幸一との会話で、実質的に自分が無視されたことが悔しかった。幸一にとって自分が特別でないことが悲しかった。そのためか自暴自棄的な飲み方をして強かに酔ってしまった。

 十人で始めたコンパは、二軒目のカラオケを出ると解散して皆三々五々に散っていった。真直ぐ帰る者もいればもう一軒飲みにいく者もいる。春香は男たちに誘われて、彼らの部屋で飲むことになった。

 男たちは早くタクシーに乗せようとしたが、春香はアイスが食べたいと言い張って、どこか適当なカフェを探しながら歩いている。

 と、正面から短いタイトスカートを穿いたセクシーな女性が歩いてきた。見ようによってはホステスにも見えるが、水商売ほどの派手な衣装でもメイクでもない。ベージュのワンピースを着ていたが、長く伸びた脚は嫉妬するほど美しい。

「春香ちゃん?」

 近づいたその女性が春香に声を掛ける。両脇の男たちは女性に見惚れるようにして歩を止める。

「あれ、志保さんじゃないですか。お久しぶりです」

 春香は志保をぼんやりと見つめて、幸一が惹かれるのも仕方ないと感じた。女の自分が見ても、大人の色気と余裕のある落着きが、美しい表情の奥から伝わってくる。

「随分酔っているわね」

「大丈夫です。酔ってなんかいませんよ」

 既に呂律が回っていない。志保は軽く笑いをこぼしてから、

「もう飲んではダメよ。今夜は帰りなさい」

 と、優しいが凛とした口調で春香と二人の男子に告げた。

「あなたたち、春香ちゃんをタクシーに乗せてあげて」

 二人の男子は全く反論する余裕も無く、志保の言われるままに従っている。志保は運転手にやや多めのお札を渡してから春香を送るように依頼した。

「折角のチャンスだったのに残念だったわね、ごめんね」

 志保は二人の学生にウインクしてからその場を去ってゆく。二人の学生は志保の色気に悩殺されて、去ってゆく彼女の後姿を茫然として見つめたまま、いつまでもその場に立ち尽くしていた。

 

 幸一は三度インターフォンを鳴らしたが応答は無かった。昨夜の話しでは、志保は部屋にいるはずだ。

 昨日、春香からもらったヒントと、そのヒントを元に図書館で発見した仮説を少しでも早く志保に教えたくて、図書館を出てすぐに電話をしたが彼女は留守だった。留守番電話にメッセージを残しておいたが、志保から電話があったのは夜十時を過ぎていた。

「ごめんね、遅くなって」

 志保が謝った。

「いえ、気にしないで下さい。それより、宝物のことで確かめたいことがあります」

「何?」

 幸一は、まず春香から託された山内の伝言を志保に伝えた。案の定、彼女は山内が春香と遊んでいたことを聞いても全く動揺しなかった。それどころか、逆に幸一の心境を心配して、

「幸一さんはショックだったでしょ?春香ちゃんが山内さんと遊んでいたなんて」

 と、労わりの言葉を投げ掛けてくれた。

「遊ぶくらい、別に良いでしょう」

 何で遊びと言う言葉に拘るのか、幸一には理解出来ない。

「へえ、寛容なのね。でも、どんな遊びかわかっているの?」

「大人の遊びでしょう」

 春香の言葉を思い出して口にしてみた。

「そっか。わかっているんだ。じゃあ、良いわ」

 志保の語気に少し疑問を感じた幸一は、昼間も疑問に感じたことを思い切って尋ねてみた。

「あの、志保さん。ひとつ聞いても良いですか?」

「何?」

 大人びた優しい彼女の声が彼の胸に沁みる。

「大人の遊びって、食事したり、飲みに行ったり、ドライブしたりすることですよね?」

「……」

 幸一は、志保の沈黙に少々驚いた。

「違うんですか?」

 幸一の脳裏には、昼間の春香との情景が蘇っている。

「間違ってはいないわよ。でも、普通はその先のことを言うのよ」

 昼間の、春香のためらう様が彼の脳裏に浮かんできて、その躊躇の理由に初めて合点した。

「春香ちゃんは山内さんにやられちゃったのよ、わかる?」

 志保のやや厳しい声が耳に響いたが、春香の事実よりも志保の口から発せられた、やや欲情をそそる言葉にドキリとした。

「そんな露骨な言い方されなくてもわかりますよ」

 平静に努めて穏やかな声で志保を制した。

「ごめんなさい」

 素直な志保の声が新鮮だった。

「いえ、良いです。何度も言いますけど、僕は彼女のことは何とも思っていませんから大丈夫です。そんなことよりも、宝物のことでひとつの仮説が思い浮かんだんです」

 余計な回り道をしてしまった幸一は、刺激的な志保の言葉は記憶に残しておいて、早く伝えたい本題に話を進めた。

「山内さんの第二のヒントにあった『てら』と『こうふく』というキーワードからある物を連想したんです!」

 抑えていた興奮が語気に現れてしまう。

「何を?」

 女が愛の告白を受け止める時のような落着きが伝わってくる。

「興福寺!」

 単純な幸一は感情のままに大声を出した。

「興福寺て……。奈良にある?」

 幸一が興奮すればするほど志保は落ち着いてゆく。

「そうです」

 幸一は深く呼吸をした。

「三千院に負けないくらい広そうだけど、どうやって探すの?」

 深呼吸で落ち着いたためか、志保は今、どんな姿でいるのだろうかと、夕食に招かれた時のセクシーな姿がまぶたに浮んできた。

「いえ、店にあるんです。志保さんが働いていた店の壁に……。壁にいろいろな写真が飾ってあったのを覚えていませんか?」

 幸一は彼女の言葉を待った。志保の艶美な肢体は脳裏から去っている。

「あの中の一枚に興福寺の写真があったはずです。僕の記憶が正しければ、ですけど。それを今から確かめたい。店の鍵を持っていませんか?」

「持っているわ。でも、今夜は遠方にいるから無理なの。明日の昼過ぎにマンションまで来てくれる?」

 遠方て、どこなのだろう。何となく志保の後ろにいる男の影のようなものを感じて不愉快な気分に陥った。

「今、誰といるんですか?」

 思いも寄らぬ言葉がつい口から零れた。

「あら、一度部屋に入っただけでもう彼氏気分?」

 言葉の割には優しい声が受話器から伝わってくる。

「ごめん」

 幸一は自分の言葉に羞恥を覚えながら素直に謝った。

「ひとりよ。名古屋にいる学生時代の友だちに会いにきただけ。しかも女友だち。安心した?」

「別にそんな意味じゃ……。でも、何だかほっとしました」

 一瞬、志保の含み笑いが漏れ聞こえた。

「じゃあ、明日の午前中に戻るから、お昼過ぎに部屋に来てね」

 二人はそう約束をして電話を終えたのだった。

 志保が何らかの事情でまだ戻っていないのかと考えて、一旦自分の部屋に戻ることにした。彼女が戻ったら呼び出されるだろう。何せ、宝物の在り処がわかるかも知れないのだ。

 幸一は一階に下りてマンションのロビーを出る。と、そこにがっちりとした体格の、サングラスを掛けた男が立っていた。例の新聞男だ。やはり志保の尾行を続けていたのだ。男はサングラスの奥から幸一を見つめているようだ。幸一は全身の血が引いて行くような緊張感に包まれて、一歩ずつ、ゆっくりと歩を進めてゆく。

女性に初めて手料理を振舞ってもらう時の反応は難しいです。大げさに美味いを連発すると見透かされそうで、正直に反応すると物足りなさそうで。。。

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