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秋の終わりに  作者: 夢追人
2/7

危険な香り

突然の殺人事件と志保の美しさに巻き込まれていく幸一。

 突然マスターの死を告げられ、言葉も出ずに固まっている幸一の様子などお構いなしに、志保は熱く話を続けている。

「あなたと春香ちゃんが店に来てくれたのは一昨日の夜でしょ?実はあの夜、結局マスターは来なかったの。でもまあ、連絡なしに休むこともたまにあるので別段気にも留めていなかったけれど、昨日の夕方に開店準備をしていると、警察の人が来て教えてくれたの」

「何で殺されたのですか?」

 幸一は、疑問は浮ぶものの、まだ自分の身近で起きた事象としては捉えられていない。

「さあ、警察でもまだ何もわからないみたい。中島さんの、つまりマスターの部屋がかなり荒らされていたので、物取りの可能性が高いとは言っていた」

 真剣な表情の志保も美しいと心の片隅で感じながら、

「何時頃ですか?」

 と、左脳の興味を満たそうとする。

「詳しくは教えてくれなかったけど、夜の10時から12時まで、私がどこに居たのかを確認されたから、多分その時間帯じゃないかしら」

「それで何か盗まれたのですか?」

「だから詳しいことは何も教えてくれなかったの」

 今度は両目でゆっくりと瞬きをした。

「マスターに恨みを持っていた人は居そうですか?」

 幸一自身、何でこんな話に興味を持つのかわからない。

「さあ、安い給料で働かされている私くらいかしら。人当たりも良くて、結構若い女性にも人気があったのよ、羨ましいでしょう?」

 志保の笑顔に幸一も軽く笑みを返してから、

「羨ましい?まだ死にたくはないですね」

 と、コップの水をひと口含んだ。

「お幾つでした?マスターは」

 静かにコップを戻しながら、やや上目遣いに志保を見つめている。

「確か55か6だったと思う」

「あなたのお父さんくらいの歳ですかね?」

「そんな誘導尋問には乗らないわよ、私は年齢不詳なの」

 幸一は軽く笑いながらも、志保が存外真面目に言っていることに違和感を覚える。幼さの残る彼女の素顔を見ていると、年齢を隠す理由など何もないだろうに。

「マスターは家族と同居していなかったのですか?」

 些細な違和感など横に置いて好奇心を露わにしてゆく。

「家族の話は聞いたことがないわね。ずっとひとり暮らしたみたい」

「そうですか。それじゃあ、怨恨による殺害ではなさそうですね」

 幸一が物騒な言葉を放った時に、朝ののんびりとしたこの空気に不似合いな足音を響かせて、ウェイトレスがサンドウィッチとコーヒーを運んできた。

「ありがとう」

 幸一が軽く微笑んで礼を言うと、彼女も少し微笑んでから今度は足音静かに去っていった。

「好みのタイプなの?」

 志保が茶目っ気たっぷりな表情で見つめている。

「まだ寝ぼけているので、そんな余裕はないですよ」

「でも、彼女の大きな胸を見ていたわよ」

 彼の本心を探るような視線を刺して来る。

「顔を見るのに寄り道しただけです。帰りにも寄り道しましたけど……」

 正直に白状した幸一は、志保の胸の前で芳香している紅茶に視線を落とす。幸一が到着した時から置いてあるレモンティーだが、彼女は一度もカップに手をつけていない。

「もしかして猫舌ですか?」

 さっき感じた金木犀の香りは、この紅茶の香りだったのかも知れない。

「大人だから……。熱いお茶も子供の相手も平気よ」

 意味不明な志保の言葉に困惑したが、彼女の長い睫毛が付け睫毛でないことを発見して驚いた。

「でも、どうして怨恨じゃないと思うの?女の子にもてるから?」

 その長い睫毛が微かに震える。

「女にもてるなら恨まれるでしょう、周囲の男連中に……」

 幸一は笑みを零してから言葉を続ける。

「平日の夜10時から12時なんて、通常マスターは店に居る時間ですよね?怨恨殺害が目的なら、マスターが部屋に居る時間帯に侵入するのが普通じゃないですか?つまり、犯人は怨恨殺害の目的でなく留守を狙って侵入したと考える方が自然だと思います」

 志保は赤い花柄のカップにほんの少し唇を触れてから、静かに紅茶の香りを流し込んだ。

「じゃあ、空き巣?」

 志保の問いに少し首を傾けてからコーヒーを口に運ぶ。少し酸味の強いブレンドだ。

「そもそも、僕はマスターの顔も名前を知らないし、全く情報が無い中で勝手に想像しているだけです」

 幸一は音を立てないように静かにカップを置く。志保は黙って紅茶の香りを味わっている。

「私も仕事以外のつき合いは無いので、中島さんのことはほとんど知らないと言うのが実際。でも山内さんの話だと、ああ、山内さんというのはあの店のマネージャをしている人。彼からの情報によると、中島さんは一度も結婚したことがなくて子供もいない。身寄りも無い。ずっと水商売の仕事をしていて、過去に二回ほど、経営していた店を潰したけどその都度再建した凄い人らしいわ」

 幸一は、志保から漂ってくる紅茶に混じった甘い香りにうっとりと酔いそうになっている。

「凄い人なら店を潰さないでしょう。まあ、何が凄いかによりますけど」

 幸一はコーヒーの香りで彼女の香りを消しながら、話の先を語るよう目で促す。

「競馬とパチンコが趣味で、パチンコにはほぼ毎日通っていたとか。競馬場にもよく足を運んで、サラ金にも借金があったみたい。すべて山内さんの情報だけど。でも、時々その筋らしい風貌の人がうちの店にも来ていたのも事実よ」

 志保の横に腰かけるやいきなり事件の話を聞かされて現実に足がついていなかった幸一は、ここにきてようやく自分を取り戻し、白いワンピースの胸の辺りが、彼女の細い身体とはアンバランスに大きく膨らんでいる様子をさっきから見つめていることに気が付いた。

「へえ、ある意味凄い人だ」

 彼は色んな興奮を冷ますためにお冷に手を伸ばす。そうして、まっすぐに幸一を見つめている志保の、きめ細かい頬の肌がプリンのようだと思いながら言葉を続けた。

「中島さんには申し訳ないけど、殺される理由があっても不思議じゃない人のようですね」

 幸一の言葉に志保は軽く頷いてから、

「でも良い人よ」

 と微笑んだ。

「安い給料でこき使うのに?」

「私の胸を10秒以上見つめたりしない」

「給料は安いのにパチンコや競馬につぎ込んでいた訳でしょ?」

「博打は好きだけど良い人よ。ついでに女性も好きだった」

 実際のところ、志保は中島のことを軽蔑しているように思える。

「要するに、仕事熱心ではなく、余りお手本となる大人では無かったということですね」

 なぜか、一度意識すると彼女の胸の膨らみが目についてしまう。

「一文でまとめるとそう言うことになるわね」

 彼女のワンピースの胸元は開いたまま、幸一の視線を呼び込もうとしている。

「中島さんは病気でもしていたのですか?余命何ヶ月とか……」

「さあ、そんな話は聞いたことがないわ。でもどうして?」

 カップを手にとって口に運んだ彼女の胸元が更に開いて、谷間の陰まで目に入る。

「何となくそんな感じがするだけです。目標を無くして、ただ漫然と日々の生活を送っているような、刹那的な生き方をしているに……」

 幸一はもう一度水を飲んで小さな興奮を冷ます。

「へえ、まるで幸一さんの生活みたいね」

 志保がからかい気味に目を細める。やはり左目の方が細い。

「僕の生活をご存知なんですか?何も話していないのに……」

 単なる冗談だとわかっていながらくだらない質問をしてみる。

「だいたい想像がつくわ。学生の生活なんて似たり寄ったりだから。でも、中島さんの生きる姿勢を見破るなんて、あなたは若いのに大した想像力ね」

「若いから想像するんですよ、経験が少ないから」

 そう言って、先ほどのウェイトレスが隣のテーブルで注文を聞いている後姿を何となく見つめた。志保は幸一の言葉に少し笑いを零してから、

「あなたの言うとおりよ。中島さんはとても刹那的な生き方をしていた。仕事に興味は無く、店のことは山内さんと私で運営していたし、経営状態も毎月赤字と黒字の境界線で、店を維持していくのがやっと。中島さんはやる気が無い……。いえ、無かった」

 と、やや冷めた口調で情報提供した。

「店を辞めてどうする積りだったのでしょうね?」

「どこかの田舎で土地を買って、のんびり暮らしたいとか言っているのを聞いたことがあるわ」

「借金があるのに土地を買おうなんて、無計画な人だ」

「そうね。どこまで本気で言っていたのかわからないけど。もしかしたら、あなたの言うとおり、余命数年だったのかも……」

 志保がスプーンで琥珀色の液体にゆっくりと渦を作る。幸一の脳裏には再び金木犀の香りが漂ってきた。

「マネージャの山内さんは中島さんと仲が良かったのですか?山内さん経由の情報だとか言ったけど」

「そうね、良かったと思うわ。よく二人で飲みに行ったり、中島さんのマンションで女の子を呼んで宴会なんかもしていた。私も誘われたけど一度も参加しなかった」

「どうして?山内さんや中島さんが嫌いだったとか?」

「いいえ、反対よ。中島さんに内緒で私と山内さんがつき合っていたから。水商売では、店内の恋愛を快く思わないオーナーが多いからね」

 志保のさらりとした言葉で、いつかは聞かされるであろう恋人の存在が明白になり、その事実に落胆を覚えている自分が不可思議だ。志保にはまだ興味を惹かれている程度だと思っているのに。

「過去形表現ということは、もう終わった恋なのですか?」

「さあ、どうかな……」

 終わっていて欲しいという気持ちが沸き上がってきた自分を幸一はあざ笑った。

 昨夜、志保から電話を貰って朝食に誘われた時から、志保のことを何も知らないくせに自分勝手な想像をして舞い上がっていた自分の記憶を削除したいほどの羞恥を覚えている。

「失踪したの。マスターが殺される1週間ほど前に……。店にも来なくなったわ。このことは警察にも話してないので秘密よ」

 幸一は微妙な心境に陥いる。異常事態が起きているなら色恋とは次元の違う話だ。

「マスターの死と何か関わりがあるんですか?」

「さあ、私には何もわからない」

「恋人のあなたに、何の連絡もして来ないんですか?」

 志保はゆっくりとまばたきをして肯定の意を表した。志保の平静な態度から、本当は彼のことを余り愛していないのではないかと言う、自分本位な想像を膨らませていた。

「今までにこんなことは?」

 志保はゆっくりと首を横に振る。彼女の口元に微かに浮かんだ笑みが気に掛かったが、ふと、ツナサンドが気になって手を伸ばした。

「あっ」

 志保が唐突に高い声色を放つ。

「何か思い出しました?」

 幸一はツナサンドに手を伸ばしたままの中途半端な姿勢で尋ねている。

「ツナは私が頂くわ。あなたはハムにしなさい」

 彼は虚を突かれたままエッグサンドに方向転換して、視線で彼女の許可を求める。彼女に朝顔のような笑顔が開いて、事件の話のために何となく沈鬱に染まっていた彼の胸中が、一瞬にして明るく楽しい空気に入替わった。

「もう少し山内さんのことを教えて頂けますか?」

 幸一はエッグサンドを口に頬張る。

「彼の名前は山内元哉25歳。交際を始めて約1年。どうせ聞かれるだろうから先に言っておくわ」

「お気遣いありがとう」

 そう言って、今度はレタスサンドを口にする。エッグサンドを口にして一旦食欲に火がついてしまった彼は、彼女の許可を取るのも忘れて忙しく口を動かした。山内に関する質問をする暇も無く、次々にサンドを口に運んでいる。すると、彼の口元についたマヨネーズを志保がさりげなく人指し指で拭ってくれた。 

 子供の頃、母親によく同じようなことをされたが、あの頃は上から手が下りてきたのに、今は自分より小さな女が下から手を伸ばしてくることに暖かな違和感を覚えた。そして、子供の頃と同じような安堵感に包まれる。

「彼女のお尻も気に入った?」

 突然、ウエイトレスの話を蒸し返してきた志保の意図がわからずに、幸一はぼんやりと彼女を見つめる。志保はツナサンドを手にして手際よく上品に食している。忙しいキャリアウーマンがランチを食べる時のようなリズム感に、幸一の心は共鳴してゆく。

「僕は女性の後姿では何も感じませんよ」

 口一杯に詰め込んだ彼が、質問の意図もわからぬまま不明瞭な発音で答えてみる。

「へえ、若い男の子はお尻の形とかで感じないんだ」

「好みの問題ですから歳は関係ないと思いますが、僕は全く……」

 妙なことに興味を示す志保が不思議だったが、そんなことよりも、彼は空腹を満たすことに集中して、無言で残りのサンドウィッチを食べ尽くした。

 そんな姿を、母親のような微笑みを浮かべて見つめていた志保は、幸一がコーヒーまで飲み終えるのを待ってから、

「お散歩しようか?」

 と、デートにでも誘うようなはにかみを漂わせて身を乗り出した後、照れ隠しのように紅茶を飲み干した。最後のひと口はかなり冷めていただろうなと、つまらないことが気になった。

「喜んで。夕食まで歩いていても良いですよ」

 大人びた表情を作って見せると空のコーヒーカップをさっと仰いだ。志保が優しい瞳で微笑んでくれた。


 春香は、新京極のアーケード街を当ても無くぶらぶらと歩いている。平日の正午前だが、通りは修学旅行の学生達で賑わっている。彼女は修学旅行の思い出などを脳裏に浮かべながら、さほど年齢は変わらない女子高生達の清潔さを眩しく感じている。

 その清潔は、辟易するほどに湿った春香の内面に、真夏の太陽のように照りつけて来る。自分でも不愉快になる昨夜の行為が、余計に彼女達を眩しく感じさせているのかも知れない。

 昨夜は、決して愛しているとは言えない男と一晩中ホテルで過ごし、酒と快楽に身を任せていた。睡眠不足と酒のやっかいな後遺症で曇った意識のためか、学生達の喧騒に耐えられず、活気に追い立てられるようにして、何の興味もない御香の専門店に逃げ込んだ。

 やや強すぎる香りの中にいると、最初は脳が麻痺しそうな感覚だったが次第に慣れきたのか、むしろ心が落ち着いてきて、つい2時間ほど前に男の口から吐かれた別れの言葉を冷静に思い出すことが出来た。

 彼とは2~3回夜を共にしたことがある。特別な感情はないが、接していると何かと優しくしてくれるし居心地も良いから、何とはなしに彼の準備した道筋どおりに流れてしまう。何の思い出も恋も存在せずに、ただ風のように通り過ぎて行った男に恨みはないが、なぜか、自分に全く興味を示さなかった幸一の、あの夜の態度が思い出されてきて、全く別の事象がひとつとなって彼女の心に苛立ちを掻き立てている。

 春香は少し心を落ち着けてからお香のお店を出た。河原町の方へ向かって歩いてゆく。部屋に戻って眠りたい。惚れてもいない男から別れ話を持ち出されたことは、何とも白けた空気を味わったものだが、そのような経験をしたこと自体が腹立たしい限りだ。 

 しかも、別れの理由が単純すぎる。単に京都を離れるからという理由。別段興味は無いが、どこへ行くのか尋ねてみたところ答えは無く、ただ人生の勝負に出るとだけ答えた。

 惚れている男が中途半端な夢を追い掛けているのなら、氷水を浴びせ掛けてでも目を覚まさせてあげるが、所詮どうでもいい男だ。そんな男がどんな勝負に出ようが全く興味も無い。ただひとつだけ、気になる言葉を残した。

 もしも自分の身に何かが起きたら、ある女に言葉を伝えてくれと……。

「何て言えばいいの?」

 ホテルの広いドレッサーで髪を梳かしながら、話の流れで何となく尋ねてみた。

「例のてらはこうふくの中にある。ちょっとしゃれているかな?」

 彼の言葉が耳に入ってはきたが、髪の流れが思うようにならないもどかしさのために、意識の半分も言葉には向けられなかった。

「ちょっとしゃれているかな?て言うのも伝えるの?」

 春香は髪をあきらめてブラシを静かに置いた。

「ああ。そうしてくれ」

 春香はバスに乗り込んで最後尾の席に腰を下ろした。高校生の頃の春香は好きな男性が現れるとのめり込んでしまって、他の物は目に入らない性格だった。相手の男性は、初期の頃は彼女を気に入ってくれるものの、時間を重ねると共に彼女から離れて行くのが常だった。

 何度か同じような経験を繰り返して漸く自分の客観的な姿を自覚したのは、大学二回生の時につき合った先輩から放たれた『重い』という言葉だった。

 それ以来、少しでも男性と時を共にすると、冬の突風に吹き上げられる枯葉のようにそんな言の葉が心に舞い上がって来る。自然に燃え上ろうとする心にブレーキを掛けるために、相手のことを冷めた感性で見透かしてしまう癖がついてしまった。そのためか、最近は男性に恋をすること自体が少なくなっていた。良い相手が現れないのか、自分の感性が恋心を失ってしまったのか、寂しいくらい静かな大学生活を過ごしてきた。

 幸一とはゼミが一緒で三回生の時から顔見知りだが、二人で遊びに行ったのはこの前が初めてだ。彼は楽しくて目立ちたがり屋の軽薄な男と言う以外に特に魅力も無いが、ゼミ旅行の帰り、たまたまバスの席が隣り合わせになり、四方山話をしていた時の空間が違和感の無い居心地の良いものになった。

 それからは幸一と会う度に、あの空間が二人の間にあるように春香は感じるが、彼は全く感じていないようだ。

 食事に誘われた時も、何か深まるものがあるかも知れないと、宝くじを買うとき位の期待感はあったが徒労に終わった。幸一が志保に再会した時の無邪気な高揚は、馬鹿馬鹿しくなるほど素直で羨ましくさえあった。あんなに単純に気持ちを表現して行動に出られる彼は、恐らく相手の気持ちなど微塵も気にしていないのだろう。そして、仮に振られたとしても何ら痛みを感じない図太さを有しているように思える。

 バスは河原町通りから加茂街道へと入り、紅葉の間隙から河の流れを覗くことが出来た。そして、その秋の狭間に幸一の姿を見たような気持ちになりながら、春香はいつの間にか浅い眠りへと誘われていった。


 賀茂川の淀みに落葉が踊っている様子を見下ろしながら、二人は金木犀の香りが漂う堤をゆっくりと歩んでいる。この堤の対岸辺りで初めて志保に出会った時の雰囲気を思い出しながら、幸一は切ない金木犀の香りを全身で味わっている。

「良い天気ね」

 志保は青空の果てまで透き抜けるような清らかな笑顔で大きく背伸びをしてから、清々しい瞳で幸一の横顔を少し見上げて、ゆっくりと左目だけ瞬きをした。

「山内さんとはどこで知り合ったのですか?」

 先ほどからの志保の清々しい瞳が少し曇る。

「あの店よ。私がアルバイトの情報雑誌であの店を知って、最初に面接をしたのが山内さん」

「山内さんの方が年上なんですね『さん』づけで呼んだからというだけの理由ですけど」

「さあ、私は『君』づけでは呼ばないの。それに年齢の話には乗らないから」

 どこまで冗談なのかわからないが、志保は、秋の柔らかい陽射しが溶け込むような白い笑顔を浮かべている。

「それから?どちらかのひと目惚れですか?」

「どうかなあ。働き始めてから2ヶ月経った頃から、時々仕事の後に食事に行くようになって、どちらからともなく自然に距離が縮まっていったような感じかな」

「何をしている人ですか?バーテンが本職ですか?」

「いいえ。K大学の院生よ。外国語学部でラテン語を専攻しているの」

「へえ、僕には全く縁の無い世界だ」

 志保のやや自信の無さそうな語気に微かな違和感を覚えたが、それよりも大きな不自然を感じた幸一は、彼らよりも川上にある木製ベンチで新聞を読んでいる、体格の良さそうな男をちらりと見た。

「あのベンチに座っている男だけど、さっきもバス停で新聞を読んでいましたよ」

 志保もちらりと男の方に視線を向けてから、

「私なら新聞をひと通り読むのに2時間は掛かるけど……」

 と、怪訝そうな瞳を幸一の硬い表情に注いだ。

「バス停で新聞を読んでいたならバスに乗るでしょう、普通……。あの男を先ほどの喫茶店に入る前に見ました。北山通りを挟んで向かい側に座っていました」

「そうなの?私は全く見覚えが無いわ」

 志保は全く意に介さない様子で歩を進め始める。幸一は彼女の歩幅に合わせながら、時々振り返ってベンチの男を確認したが男は動かない。幸一はやや安堵して、川面に浮かんで餌を探しているゆりかもめをぼんやりと見下ろしながら歩いた。そしてどちらからともなく北大路橋のそばにあるベンチに腰掛ける。

「失踪の原因は何も思い当たらないのですか?最近別れ話をしたとか……。あ、何もわからないって、さっき言いましたよね、ごめんなさい」

 チラリと志保の冷静な横顔を覗いて、彼女はもう山内のことを好きではないのか、それとも心の奥を安易に表に出さないだけなのか判断に迷った。

「いいのよ」

 幸一の視線を感じているのか、秋空に浮遊する真綿のような雲を真直ぐに見上げて言葉を続ける。

「つき合っていたと言っても、あなたと春香ちゃんみたいに熱い間柄ではなくて、割と冷静に接していたわ。だからあなたが感じているように、私は彼のことを熱愛していないのかも知れない」

 幸一は心の奥を見透かされたようでどきりとしたが、

「倦怠期ってやつですか?」

 と、さらりと誤魔化してから更に、

「それから参考までにお伝えしますけど、僕と春香はただのゼミ友だちで、それ以上の仲ではありませんよ」

 と、つけ加えた。志保は口元を少し緩める。

「そうなの?でも春香ちゃんはあなたに興味津々だと思うわ。それから私も参考までに言っておくけど、私たちも互いに興味を持ち合った時期はあったけど、互いを理解し始めてからは一切盛り上がっていないの。だから倦怠期というのは間違い。そもそも熱くならなかった」

「だったら何でつき合っていたのですか?」

 幸一には理解出来ない行動だ。

「さあ、寂しかったからかな。でもプライベートで会っていたのは週に一、二度よ」

「寂しがり屋なんですね。僕で良ければ、毎日でも夕食につき合いますよ」

「夕食限定なのね」

 ふっと浮かんだ志保の笑みが暖かな風に流れてゆく。

「やはり、お酒を酌み交わしながらゆっくり食事したいですよ。朝食は忙しくていけない」

 ずっと幸一に横顔を見せていた志保が、漸く振り向いてゆっくりと両目で瞬きをしたが、やはり左目が遅れて開いてくる。

「ありがとう。でも、やっぱり彼のことが心配なの。愛していたかどうかは関係なく、もしかしたら生死に関わるかも知れない状況だから」

 川原の風は街の風よりも冷たく湿っている。草木の露を撫でているのか、芳香な気が志保の白いワンピースをすり抜けていった。

「失踪に関して何もわからないって言っていたのに、どうして命の危険を感じるんですか?」

 幸一のやや意地悪な質問に彼女は彼の瞳を見つめたまま、

「山内さんが失踪して、何の連絡もなくて、マスターの中島さんが殺されたのよ。何か関連があるかも知れないと感じるのが通常の感覚だと思うけど」

 と、静かな口調で説明した。幸一は彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうになりながら、恍惚として彼女の言葉を吸い込んだ。

「山内さんの親御さんは?」

「いないそうよ。少なくとも私にはそう言っていた」

「じゃあ、実家はどこだとか出身地はどこかなんてことを質問しても無駄ですよね?」

 志保と瞳を合わせて話していると、言葉とは別の次元でも会話しているような錯覚に陥ってしまう。

「あなたも少しは進歩するのね。話題になったことはあるけど明確には答えてくれなかった。でも、関西圏であることは間違いないと思う。言葉のイントネーションが純粋な関西人のものだったから」

 志保の瞳を見つめ、美しい表情をじっくり眺めているだけで幸一は幸福な気分に浸れることが出来る。このままずっと見つめ合っていたい。が、ふと後ろが気になって振り返ると、先ほどの新聞男が二人の背後を通り過ぎて川下の方へ堤を歩いていった。

「もうひとつ理由があるの」

 志保の声に呼び戻されて再び彼女の美顔に視線を向ける。

「山内さんが関西人である理由ですか?話に落ちをつけたがるとか……」

 志保は少し目を細めて笑みを漂わせると、

「出身地に興味はないわ。中島さんの死と山内さんの失踪が関連しているかも知れない理由よ」

 ゆっくりと笑みを閉じて視線を川面に転じる。

「山内さんとお酒を飲んでいた時だけど、彼が少し気になることを言ったの」

「僕には、どこで飲んでいたかが気になりますけど」

「一応つき合っていたのだし、大人だから……。ご想像に任せるわ」

「はい。今、想像しました」

 志保は少し口元を緩めて続ける。

「彼が酔ってきて、私に宝探しをするかって聞いたの。何でも、どこかに宝物を隠してあるらしく、それを私に探してみるかって持ち掛けてきたの。まあ酔払い男の話しだし、私も適当に相槌をうって、ヒントをくれたら隠し場所を当ててみせるって答えた」

 彼女は心持記憶を懐かしむような表情を作っている。

「ヒント?」

 志保の横顔に問いを掛ける。出来ればこちらを向いて話して欲しい。対岸の加茂街道を、救急車がけたたましいサイレン音を発して下ってゆく。だがしばらくすると賀茂川の流れの音に浄化されて、緊迫した現実社会の喧騒は流されてしまった。

「”ずばり、てらの中。ちょっと洒落ているかな”て」

 彼女は白い素顔を幸一に向ける。

「どこの寺で、何が洒落ているのでしょうね?」

 振り向いた志保にどきりとしながら彼女の長い睫毛を見つめて嘆息した。

「どんな宝物かは聞かなかったのですか?」

 志保は長い睫毛を一度閉じてゆっくり開くことで幸一に答えた。

「でも……」

 と、志保が何かを言い掛けて言葉を飲み込む。

「でも?」

 幸一が彼女の瞳を覗き込むようにして先を促す。

「でも、彼は言ったの。”もし俺がいなくなったりしたらその宝物を探してくれ”て」

「たったそれだけのヒントで……。無責任ですね、他に何もヒントはないんですか?」

「ええ、彼が急に話題を変えてしまって、それ以来宝物の話題は一切出なかったわ」

 過去の記憶探しから戻った彼女の瞳はひと際澄んでいる。

「その割にはよく覚えていましたね、そんな酔払いの取るに足らない話を」

 だが幸一の素朴な視線に志保は答えようとはせず、川の流れに耳を澄ませている。少々沈黙の時間が流れ、川の流れる音に心は満たされていく。

「ほんの一瞬、彼の瞳が輝いたような気がしたから……。覚えていたのかも知れない」

 横顔のままで再び記憶の世界を遡ってゆく。

「瞳が輝いたのは、”宝物を隠している”と言った時ですか?それとも”宝物を探してくれ”と言った時ですか?」

「”いなくなったりしたら”と言った時……」

 数羽のゆりかもめが賑やかに着水した。

「”いなくなったりしたら”て、どう言うことでしょうね。自分の意思でいなくなるのなら、宝物を自分で持って行けば良いのに……。そこにあるからこそ価値がある物?それとも運べない物?いずれにしても、自分の意思でいなくなるのなら、あなたに隠し場所を告げてからにすれば良い」

 志保に尋ねていると言うよりは自問している風に感じたのか、志保は答えを返さずに幸一の言葉を横顔でじっと聞いている。

「山内さんが想定していた”いなくなる”は、自分の意思に関わらずいなくなるという意味。つまりは拉致されるとか、殺されるとか言った類の、物騒な状況を想定していた」

 幸一はひとりで結論を出した。ゆりかもめ達は器用に川面を渡り歩きながら、冷たい水に顔を差し込んで餌を求めている。そんな様子を眺めている志保の瞳は彼らの所作に全く興味無さそうだ。

「あなたは、その宝物に関連して中島さんが殺され、山内さんが失踪したと考えているのですね?」

 幸一は足元の小石を拾って、ゆりかものいないスペースを目掛けて放り投げる。

「あくまでも可能性があるという話だけど……」

 志保の視線も幸一が投げた小石を追う。彼の思いやりにも関わらず、投げた小石の飛沫に驚いて一羽が飛び立つと、時間差はあるもののすべてのかもめ達が羽ばたいて飛び去った。

「みんな行っちゃった」

「確かに何か感じるものはありますね。実際に山内さんは”いなくなったり”してしまった」

 幸一は次の言葉を口に出すべきかどうか一瞬ためらった。

「しかも、あなたに隠し場所を告げる余裕もなく連れ去られた。或いは……」

「或いは?」

 志保が幸一の瞳をじっと覗いて次の言葉を求めている。彼女は次の言葉を口にして欲しいのか、して欲しくないのか、彼は判断に迷っている。山内さんから未だに何の連絡も無いことから考えて、既に殺害されている可能性も大いにある。

「覚悟はできている積りよ。あなたの思うとおりに言ってちょうだい」

 志保が性根の座った語気で畳み掛ける。本当は彼女がすべてを理解していて、それを現実のものとして受け入れるために背中を押して欲しいだけなのかも知れないと感じた。

「或いは……」

 と、言い掛けた幸一は、突然閃光のように脳裏で開いた別の考えを口にした。

「或いは、山内さんは本気であなたに探してもらおうとは思っていなかったのかも知れない。なぜなら、宝探しはとても危険だから。危険だから自分だけの秘密にしていた。それは辛いことだった。だから泥酔した時につい口走ってしまったけど、それ以降は口にしていない。あなたを危険から遠ざけたい気持ちと、自分の身が危険に陥った時のために、その原因を示唆しておきたい気持ちとが葛藤していたように思います」

 二人の間を金木犀の香りがゆっくりと通り過ぎていった。

「だからあなたを誘ったの」

 幸一は志保の言葉が理解できずに、一度深呼吸をして、薄れゆく金木犀の香りを胸一杯に吸い込んでみる。

「お腹が空いたからじゃないんですか?」

「それもあるかな。でも、幸一さんは賢くは無さそうだけど、勘は良さそうだから……。だから宝探しに貢献してもらえるかも知れないと思って誘ったの」

 志保の強い眼差しに心がとろけそうになる。

「危険ですよ」

 幸一の言葉に彼女の呼吸が一瞬止まった。

「ごめんなさい。嫌なら良いのよ。出会ったばかりの幸一さんにこんなお願いをすることが非常識なのはわかっているから」

「僕の危険じゃなくて、あなたの危険を心配しています。覚悟は出来ているんですか?」

 幸一の強い語気をしっかりと受け止めた志保はゆっくりと頷く。そして同時に静かに瞳を閉じてから、再びゆっくりと開いていった。いつものように左目が遅れて開いた。

「山内さんと二人で出掛けたお寺はありますか?」

 志保は群青色に広がる秋空を見上げて、記憶を遡るような仕草をする。

「三千院ぐらいかな。昼間に二人で出掛けたことは少ないの。夜の仕事だからね、目覚めたらいつもお昼だわ」

「じゃあ、明日三千院へ行ってみましょう。今日は遅くまでバイトがあるので明日の午後で良いですか?」

勢いよく言った幸一はすらりと立上った。

「あら、バイトがあるのに夕食に誘っていたの?」

 志保が下から斜めに見上げてニコリと笑っている。

「夕食につき合って頂けるならバイトなんて休みますよ」

「やっぱり軽薄ね」

 そう言ってもう一度笑った志保の身体から、再び金木犀の香りが漂って来た。

最近は新聞を読んでいる人なんてあまり見かけませんね。私も20代前半で新聞とはおさらばしました。

新聞は私が最も信頼していない情報ソースです。

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