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秋の終わりに  作者: 夢追人
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金木犀の香り

その脚の美しい女性は金木犀の風の中に立っている。夕陽を浴びながら風になびく髪を押さえて微笑んでいる。その微笑みは幸一の胸の中に一生残り続けるだろう。

 恋人たちをしっとりと覆い隠す薄紫の夕暮れと、恋心をより切なく絞めつける金木犀の香りが、川の堤に腰掛ける若者たちの華奢な背中に、現在の甘い香りと将来への不安とを投げ掛けている。

 そんなカップルたちの背中には何の興味を持つこともなく、勤務先から帰宅するビジネスマン、散歩中の老人、通学生らが、風景と香りだけを楽しみながらそれぞれの速度で歩いている。

「私に何か用かしら?」

 やや高めのヒールの踵でターンを切るようにすらりと振り返った女性は、ストーカーに対すると言うよりも、女教師が男子中学生の悪戯を発見した時のような余裕の雰囲気を漂わせて詰問した。

「大した用事じゃないですけど、お茶など一緒にいかがかなと思いまして……」

 幸一は5メートルほど空いている二人の間隔をゆっくりと詰めながら、夕暮れを背景にして浮かんだ彫りの深い彼女の容姿を見てとても綺麗だと感じた。

「前にどこかでお会いしました?」

 淡いオレンジ色のワンピースは彼女の身体にしっかりとフィットしていて、短くタイトなスカートには彼女の美しい身体のラインが現れている。そして、幸一を見つめる瞳は柔らかだ。

「ええ、さっき。地下鉄の車両の中であなたの前に座っていました」

 幸一は彼女に手が届く位の位置で立ち止まったのだが、彼女から金木犀の香りが漂って来るような感覚を覚えている。

「へえ、こんな風にナンパするんだ。慣れていそうね」

 彼女は再び踵を返してゆっくり歩み始める。

「いえ、ナンパは初めてですよ。あなたの前に座った時に、余りにあなたの脚が綺麗だったので思わずついて来てしまいました。少しでも長い間見ていたくて」

 彼女に少し遅れて幸一も歩き始める。

「痴漢の素質がありそうね」

 彼女は賀茂川の川面にちらりと視線を投げてから、足元の落ち葉にその視線をゆっくりと落とした。

「でも、僕の帰り路からコースが外れたら、そこでお別れしようと思っていました」

 幸一は、彼女の背中に向かって真面目口調で説明する。

「出会ってもいないのにお別れ?」

 彼女はふっと笑って、一歩遅れてついてくる幸一を少しだけ振り返るとすぐにまた背を向けた。

「地下鉄で自分の前に座っただけでも、僕にとっては出会いです。美との遭遇ってとこかな」

 幸一の言葉を背に受けた彼女は、

「風俗嬢勧誘のバイトでもしているの?」

 と、背中を向けたままで問い掛ける。

「バイトはもう終わりました。勧誘の仕事ではなくて力仕事ですけど」

 彼女の背中に向けて真面目な返答を繰り返す。

「おしゃべりの仕事にも向いているんじゃない?」

 彼女は、そろそろ幸一が追いついて来て位置しそうな真横の空間に視線を向けたが、彼がいないと知るとすぐにまた視線を前に戻した。

「嘘はつけない性質なので無理ですよ」

 幸一は、一歩離れたままで足元を見つめながら自嘲的に答える。

「そんなに私の脚が気に入ったの?横顔もそんなに悪くないと思っているけど」

 彼女は歩みを緩めると少しだけ幸一を振り返り、横に並ぶように視線で(いざな)った。彼は軽く笑んでから彼女の横に並んでみる。すらりとしたスタイルなので離れて見ていると長身に思えたが、並んでみると案外小柄だ。

「どこの学生?ま、この辺りに住んでいるのならだいたい見当はつくけど」

 彼女は速度を緩めたままゆっくりと歩んでいる。

「そう。お察しのとおりS大学四回生の三浦幸一です。よろしく」

 幸一は慇懃に頭を下げてから彼女の自己紹介を待った。

「学部は?」

 彼女からの情報はまだ得られそうにない。

「一応、法学部です」

「へえ、将来は法曹会に入る人?」

 素直な質問のようでもあり、からかっているようでもある。

「まさか。たまたま法学部に合格しただけの、常にロマンを追い求める平凡な学生です」

 お調子者の明るい口調。

「なんだ、単なる怠け者か」

 言葉の意味には関わり無く、彼女の気持がこもった声色が甘く感じられる。

「するどい。もしかして同じS大学の学生だったりして」

 二人の関係を結ぶ糸口をつかめることを期待している。

「ご心配なく、試験勉強は苦手よ」

 先刻より夕闇が進んだためか、彼女の身体がまるで金木犀の甘い香りの中に浮かんでいるかのような幻想に、幸一の感性は包まれ始めている。

「ロマンを求めるなんて、まさに平凡な人なのね」

 思いも寄らない彼女の醒めた語気に、幸一の幻想的な薄暮は一瞬にして引き裂かれた。

「そうでしょうね。ロマンを求めると言っても、ひと時の間夢物語に逃避しているだけで、実際にはありきたりの道を選んで来ましたからね」

 ジョギングをしている学生風の男が二人を抜き去ってゆく。

「平凡に生きるって案外難しいものよ」

 彼女は幸一に横顔を向けたままで静かに語った。まさに語ると言うのがふさわしい表情だ。

「失礼ながらお幾つですか?人生を達観されていますね」

 からかい気味に言い放った幸一は、彼女の頭越しに川面の飛沫に目を落とす。最近訪れた台風の影響で水嵩を増したのか、賀茂川の所々で見受けられる流れの段差から、ゴオーという水の流れ落ちる音が力強く響いている。

「まだ学生よ」

 ゆりかもめが大挙して川面を蹴り立った。

「え!」

 彼女は、何十回となく表されたであろう男の驚きに辟易した風に、ゆっくりと幸一を斜めに見上げた。大きな円を描くように舞ったゆりかもめたちは、これから寝床を目指して琵琶湖に帰るのだろう。

「どういう驚き?意外に若い?学生だとは思えない?」

 この返答自体にも辟易しているのか、微妙に嫌気を漂わせた表情を浮かべて事務的な口調で幸一に畳み掛けて来る。

「驚いて見せただけですよ。女性と年齢の話をした時は、とにかく驚いて見せるのが無難です」

 実際のところ、彼女は二、三歳は年上かと感じている。

「やっぱり、たくさんの女を口説いてきたみたいね」

 彼女が幸一の瞳を見つめながら笑いを零した。

「トライはたくさんしましたよ」

 前に向直った彼女の横顔を綺麗だと感じた。

「でも、失敗ばかり?」

 再び教師のような視線を幸一に注いだ彼女はゆっくりと川面に視線を向けた。賀茂街道を赤いスポーツタイプの車が疾走して、爆音だけが遠くまで尾を引いてゆく。

 最初は彼女のことを色々知りたいと思っていたが、ほんの少し話した限りでは、何だかもうこのままで良いような、何も知らない方が幸福なような気がしてきた。

「仰るとおり、打率は極めて悪いですよ。やっぱり魅力ないですか?僕みたいな男は……」

 幸一の言葉は川の流れに流されてしまったのか、彼女は俯いたままで歩を進めている。そして一羽のゆりかもめが飛び立った時、

「正直そうだから」

 ぽつりと零した。そして対岸に腰掛けているカップルに視線を投げながら、幾分か歩く速度を落とした。

「正直で真面目そうな男の誘いには乗らないわ。不真面目で嘘つきでも、その瞬間は幸福にしてくれる人なら遊んでみようかと思うこともあるけど」

 そう言った彼女は、ほとんど沈みかけている夕陽に瞳を向ける。幸一も同じように秋の夕陽を心に映してみた。

「でも、正直なことは良いことよ。人間として最も大切なことでしょうね」

「本当に学生ですか?」

 再び茶化し気味に彼女の瞳を覗き込む。彼女はふっと笑いを漏らしてから足元の砂利に視線を移す。

「残念だけど、私はあなたのような怠け者は嫌い。親の好意に甘えているくせに、やりたいことも見つからず、趣味やスポーツに打ち込む訳でもなく、さりとて学業でトップを目指すわけでもない。ほどほどに勉強して、ほどほどにバイトして、女の子を追い求めてナンパ。一回の講義の授業料がいくらかなんて考えたこともない。だから平気で授業を休んで昼まで寝て、夜はマージャンかゲームに没頭し、バイト料はすべてデート代に消えてしまう」

 物悲しい夕風が彼女の髪を撫でてゆく。

「いいところ突いていますよ」

 彼女は学生との交際経験がかなり豊富であるように感じた。

「でも、そんな非生産的な時期も必要なんじゃないですかね、人間には。もちろん親には感謝しているし、自分に子供が出来たら同じようにしてあげたい。子供が僕と同じようにぐうたらな学生生活をしたとしてもきっと応援しますよ。でも、ひと言だけ注意するかな、男の子だったら……」

「何て?」

 彼女は目をクルリと見開いて、意外にあどけない表情を浮べた。

「脚のきれいな女には声を掛けるな」

 幸一はニッコリ笑うと、彼女から逃げるように賀茂川の堤を駆け上った。北山橋への上がり口がある。そして賀茂街道に登ってからもう一度彼女を振り向いた。彼女はその場に立ち尽くしたまま、金木犀の風に髪を乱されないように右手で鬢を押さえている。そして微笑を湛えたままで彼の方を見上げている。幸一は軽く右手を上げてさよならを告げた。


 翌朝、幸一はシャワーを浴びてから、下着一枚の姿でテレビの前にあるベッド兼ソファーに腰を降ろした。八畳程のリビングと半畳ほどの台所。及び、体育座りをしないと湯に浸かれないユニットバス。これが彼の生活スペースだ。

 引越ししてきた当初は、シャワーを浴びている最中に肘やら手首やらをあちこちにぶつけたものだが、さすがに4年目ともなると身体が覚えてくれて無様な怪我はしなくなった。部屋には1メートル幅のワードローブと小さな机。その横にテレビ台が置いてあり、先輩が卒業時にくれたビデオデッキもある。

 幸一はテレビを見ながら昨夜見た金木犀の女を思い出している。本当に学生なのだろうか?彼女は学生の行動をよく知っているようで、実はわかっていない。授業をサボッていると言われたが、文系四回生の秋時分なら毎日授業が有ることは珍しい。むしろ、今頃毎日授業を受けている者こそキリギリス的怠け者だ。

 テレビでは昼前のワイドショーをやっている。下らない芸能人のニュースや政界のスキャンダラスな情報などを、見飽きた芸能レポーターや、局の意向通りに意見を言う下賤な専門家が真剣な表情で報じている。芸能人の恋愛だの、浮気だの、つまらない情報を報道することが生業として成り立っている低俗さに辟易してしまう。まだ社会に出ていない者が生意気だとは思うが、自然な感情は致し方ない。

 昨夜コンビニで買ってきたサンドウィッチと牛乳を頬張り、脳の半分はサンドウィッチを味わうことに使いながら、残りの半分はワイドショーの報じるニュースを解釈するのに使っている。そのニュースの内容が政界ニュースに移ったので、自然とサンドウィッチの味は薄れていった。

 数ヶ月以内に行われることが濃厚になってきた内閣改造の際に、内閣入りが噂されている有力候補者三名がインタビューを受けている。中でも最有力候補と報じられているのが麻霧雅夫だ。貧困な家庭に生まれ、奨学金とアルバイトで大学を卒業し、様々な職業を渡り歩いた後、政治家としての師匠たる元厚生大臣、山崎徹代議士の秘書として十数年勤めた後、自身が議員として立候補し現在に至っている。

 代議士としてはやや破天荒な経歴や口調、タブーな発言にも踏み込むキャラクターが受けてか、最近よくマスコミに取り上げられている。幸一は政治に興味はあったが、政治家にはほとんど無関心だったので、麻霧のことは良く知らなかった。ただ何となく、胡散臭い、利権を呼び寄せる体臭を発している印象だ。

 話題はすぐにワイドショーお得意の芸能ニュースに移ったので、彼はパンの間からこぼれそうなスクランブルエッグを、コップを持つ左手の助けを借りずに上手く口に運ぶことに脳を費やした。そして自分の脳の少なさに落胆しながらも、意地っぱりな自分を制御出来ずに、床に落ちてしまったタマゴは無視して最後まで片手で食べ尽くした。自分の意図に逆らって落ちたタマゴは無視してドリップコーヒーを準備する。

 面倒臭がり屋のくせにコーヒーだけは拘った。安物の豆でも挽いたもので飲みたい。彼は、熱湯に反応して膨れ上がってはゆっくりと香りを発して萎んでいく挽き豆の光景に満足しながら、再び昨夕の美脚の女性を思い浮かべてみた。

 正確に表情を思い起すことは出来ないのに、彼女の横に並んだほんのひと時の暖かい融合感は、身体まで許しあった仲でしか感じられないような親近感を覚えた。それは、二人を包む直径1メートルの空間が外界とは全く隔離されたような感覚だった。完全に世間から孤立してはいるが、究極に落ち着いた雰囲気と感情に満たされた空間だった。そんな感覚の記憶が今も自然と湧き上がって来る。

 もう少し彼女のことを知りたかったが、なぜか、あれ以上一緒にいると身に危険が及びそうな予感を本能的に察知した。だから、自分の判断に後悔はしていない。あの美しさにもう一度出会いたいと言う欲望はあるが、過ぎ去った美をいつまでも追い求めるのは徒労だ。

 幸一は薫り高いコーヒーに先ほどの牛乳の残りを少し垂らしてから、再びソファーに腰を下ろしてつまらない番組のチャネルを変えた。


 沢口春香はやや短過ぎたデニムスカートの裾を下に引っ張りながら、彼が現れるであろうバス停の方向を何度となく確かめていた。約束の時間を十分程過ぎている。彼とは同じゼミで2年間を共にしてきたが、特に異性としての意識もなく、話しやすく接しやすい学友として仲良く過ごしてきた。  

 それが、先日のゼミの飲み会で、誘われるがままに酔った勢いで食事の約束をしてしまった。別に嫌な相手でもないので、酔いが醒めてからも後悔はしなかった。然るに、約束の時間に遅れるとはちょっと許せない気分になっている。普段はパンツ姿で出掛けることが多いが今夜は思い切って短めのスカートにしてみた。

 穿き慣れないせいか、道行く人がチラリと自分の脚に視線を送る度にどきりとする。チラリと脚を見てから全身をチェックするように視線を上下させる女性の視線に比べると、やや遠慮気味に盗み見る男性の視線は自然で暖かくさえ感じられる。そんな他愛も無い分析をしているところへ漸く彼が現れた。

「ごめん。言い訳にはならないけど、道に迷ってしまって……」

 そう言った彼は挨拶もろくにしないままで足早に歩き始める。実際、言い訳にはなっていない。京都に4年近くも住んでいて、ここ河原町四条の最もポピュラーな待合わせ場所へ来るのに迷うなんてあり得ない。

「気にしないで、十分位」

 春香の歩くスピードなどお構いなしに、自分のペースで早歩きする彼の横に何とか追いついた彼女は、やや大きめの声で言葉を届けた。そんな謙虚な春香の言葉など全く耳に入らないのか、彼はそのまま足早に歩き続け、天気の話題だの、知り合いの話だの、歩く速度と同様にハイテンションで話し続ける。

 正直なところ、春香は彼が遅れて来たことは気にならないが、さっきから自分のことを話すばかりで、女がついて行けないほどの速度で歩いていることにも気がつかない身勝手さには腹立たしさを覚え始めている。

 また、少々自慢の形のいい脚を惜しげなく見せていることや、念入りにメイクしてきたこと。小さめのフリーズシャツで強調した、人並み以上と自負している胸にも全く興味を示さない鈍感さにも、憤りに近いものを感じ始めている。

「で、どこへ行こうか?」

 初めての食事なのに行き場所も決めていないのかしら?だったらどこへ歩いているのよ、こんな早歩きで。

「私、行きたい店があるの」

 これほど自分に興味を示さない男なら、自分が知っている店の中で一番高い店に誘っておごらせてやろうと言う意地悪を思いついた。

「フレンチの店?」

 彼は軽い口調で確認する。

「何でそう思うの?」

「それともイタリアン?」

 再び質問を浴びせて来る。

「だから、どうしてそう思うのよ?」

「僕はフレンチとかイタリアンとかが良くわからなくて」

「?」

 彼は全く要領の得ない答えを返してきた。いや、答えると言うよりはひとり言を零している。彼女は何となく帰りたい気分になって来た。

 土曜の夕方の河原町は、学生や会社帰りのビジネスマン、観光客など、様々な人たちでごった返している。車道では市バスがクラクションとエンジン音を響かせて渋滞の波を騒々しく揺らせてゆく。

「君のメイクは洋風って言うか、化粧品のポスター風って言うか、和食を連想させないですね」

 春香は、ちょっと驚いて彼の横顔を少し見上げる。自分の発した言葉を忘れようとするかのように、周囲をきょろきょろとしている彼を見ていると、不思議な満足感が空腹を満たしてゆく。だが、そんな彼女の心模様など一切お構いなしに、彼はすたすたと更に歩みを速め蛸薬師の通りに入ってゆく。

「この店でも良いですか?」

「和食?」

 彼の言っていることと、やっていることが全くかみ合っていない。

「フレンチとかイタリアンとかは良くわからないんです」

 彼は申し訳無さそうに小首を傾げた。

(なんだ、要するに、洋食は良くわからないから和食を選んだってことか。と言うより、最初からこの店を目指して歩いていた訳だ)

そんな春香の戸惑いを路地に置いたまま、彼はさっさと入っていく。

 店内は夕食時だけあってかなり混んでいる。店員とひと言二言話した彼は奥に案内された。春香も、順番待ちをしているカップルの女性の前を小気味良い思いでヒールを鳴らして歩く。

「まあまあいけますよ、この店の料理は。と言っても、実は味なんて良くわかりません。とにかく満腹になれば幸せな性質なので」

 彼は言い訳しながら頭を掻いた。

「まだまだ育ち盛りってとこ?」

「精神的にはまだまだ育ち盛りですね。毎日大人になっていく自分を感じます」

 軽く笑った彼は、生ビールのジョッキを春香のそれに合わせる。二人とも、ジョッキの半ばまで一気に飲み干す。

「三浦君はどこの出身だった?」

 春香は、口の周囲に着いたかも知れない泡をハンカチで拭いながら、幸一の髭に付いた泡をチラリと一瞥してから尋ねる。

「兵庫県」

 彼は機械的な口調で答えた後、残りのビールを飲み干して店員に追加注文をした。

「何食べます?とりあえず、本日のお勧め品の刺身は注文しますね。あ、生ものは大丈夫ですよね。鹿児島ですものね」

 なぜ、鹿児島だと生ものが平気なのか意味がわからないが、自分の出身地を覚えてくれていることに軽い喜びを感じた。

「煮物を頼んでもらって良い?でもよく覚えていたわね、私の出身地」

「ゼミの連中はみんな覚えていますよ。あんなに芋焼酎をぐいぐい飲んで平気でいられるんですから」

 春香はやや落胆しながらも、まだ幼さの残る幸一の笑顔につられて大きく笑った。

「兵庫県のどこ?」

 春香は幸一のことをもう少し知りたいと思っている。

「言ってもわからないですよ、田舎の方だから」

「何で隠すの?あまり話したくない思い出でもあるの?あ、故郷の彼女に振られたな?」

 春香は、彼の過去に大した興味もないのに、彼の反応が気になって注意深く表情を覗いてみたが、彼の目元に陰りが浮かんだ瞬間、悪乗りし過ぎた自分を後悔した。

「故郷にはあまり良い思い出がないので。春香さんが羨ましいですよ。この前の飲み会でも、いろいろと故郷自慢していたし。どんな焼酎が旨いとか、きびなごが焼酎のあてに良いとか……」

「お酒のねたばっかりね」

 春香は少々ふて気味に零して、突出しのしめじの和え物を箸でつまむ。

「僕もきびなごは好きですよ。ここのメニューにはないですけど」

「で、やっぱり彼女に振られたの?」

 悪いとは思いつつも、答えを誤魔化された様で却って気になってしまい、つい問い質してしまった。

「彼女だとか、恋だとか、そんな具体的なことではなしに、何て言うか、方角が悪いと言うのか、肌に合わないと言うのか、いろんな思い出があるのに、何だか思い出全体がどんよりと雲に覆われているような重い感じ。楽しいはずの思い出までもが、悲しい感情を伴って回想されてしまう不思議な空間です、僕の故郷は」 

 店員が追加の生ビールを持ってきた。

「京野菜の煮物もお願いします」

 幸一はジョッキを受け取りながら、明るい語気で雰囲気を変える。

「嫌なことを言わせてしまってごめんなさいね」

 申し訳ないという気持ちと共に、彼には他人には言えないような過去があるのかも知れないと言った、不気味な不安を春香は抱いてしまった。

「このお店はよく来るの?」

 彼ほど明るい口調には切り替えられずに、却って不自然な空気になってしまう。

「滅多に来ないですよ。この店どころか河原町にもあまり来ない。君もそうでしょ?S大生は北の方で騒いでいるのが大好きですからね」

「確かに」

 二人はアルコール摂取の増加と共に、若いエネルギーを会話をしながら発散していった。


 平成元年。まだ携帯電話は普及しておらず、一部のビジネスマンが限られた地域で使用している程度だ。一般の人々の間では、固定電話のコードレス化が進んでいた。

 インターネットも、まだその存在すら一般庶民には知られていない。情報はテレビや新聞、雑誌等で収集するのが専らで、もちろん電子メールもない。

 景気はバブル真只中で株はうなぎ昇り。就職も売り手市場で企業が学生を奪い合い、内定者や新入社員には研修と称した海外旅行や贅沢な寮施設の整備など、至れり尽くせりの施策がなされていた。このまま永遠に好景気と平和が続くものと多くの国民が信じ、期待していた時代だった。


 食事を終えた二人は、適度な酔い心地で高瀬川の辺をゆっくり歩いて二軒目の店に向かっている。やや古いテナントビルの2階へ階段を上がってから、春香の示した店の前で二人は立ち止まった。春香が勧めるショットバーだ。彼女に視線で確認をとった幸一は、重厚な木製扉をゆっくり開いてから彼女を通した。

「ありがとう」

 春香は軽く幸一を見上げてからやや薄暗い店内に歩を踏み入れる。ジャズの音色が静かに響き渡る落ち着いた雰囲気のバーだ。半円形のカウンターに12~3席。カウンターと同じ高さの丸テーブルが5卓不規則に並んでおり、20~30人は入れそうなゆったりとした空間だ。店にはまだ客はおらず、店員も厨房に入っているのか誰も見当たらない。

「おしゃれな店ですね」

 幸一は店内をぐるりと見回してから、奥の壁に飾ってあるたくさんの写真の前にわざわざ足を運んだ。

「写真が好きなの?」

 10枚くらいの写真が額に入れられて飾ってある。無造作だがバランス良い配置だ。

「特に好きな訳じゃないです」

 幸一は、写真に背を向けてカウンターへ進む。春香は、幸一がどこに席を確保するのか、自分を左右どちらに座らせるのか、そんな他愛も無いことに興味を持った。

 驚いたことに、彼はカウンターの真中辺りの席を引いて自分の右側に彼女を誘った。カウンターに飾ってある一輪挿しの紅いバラがちょうど二人の間に位置している。

「普通は端から座らない?」

「バラが綺麗だから」

「端の席にもバラはあるわよ」

「端っこはひとりで来る常連さんの席でしょう、普通」

 妙なことに気づく幸一を不思議に思ったが、思いつきでいい加減なことを言っているようにも疑える。

「どうして私に右側の席を勧めたの?」

 椅子に座った春香は、スカートの裾を伸ばしながら、どうでも良いことを質問してみた。

「バラを左に見たかったから」

「?」

「だったら、あなたが右に来ないとお望みどおりにならないわよ」

「そっちの椅子を引いてから気づいたんですよ、女性のために椅子を引かないといけないって」

「なんだ、ここに座ろうとしていたのね。優しさに感動して損したわ」

 馬鹿正直な幸一が可笑しくて、春香はケラケラと高笑いをしてしまった。

「あら、いらっしゃい。ごめんね、気づかなくて」

 春香の笑い声が届いたのか、厨房から若い女性のバーテンダーが現れた。そして、そのバーテンダーの姿を目に留めたとき、幸一はポカリと口を開けたまま衝撃の表情で彼女を見つめた。

「あら!あなたは……」

 バーテンダーと幸一の二人が言葉と表情で驚きを表現する。バーテンダーの背後には数々のウイスキーボトルが並べてあり、それらがダウンライトの光を反射して各種の輝きを放っている。そしてその輝きを背景にしてひと際美しい表情を浮かべている女性は、いつぞや金木犀の香りの中で微笑んでいた脚の綺麗な女性だ。

「春香ちゃんの彼氏だったの?」

「そんな自覚はありませんけど」

 幸一は困惑の表情で即答する。

「お久しぶり」

 春香は、幸一の言葉は聞き流してバーテンダーに挨拶する。

「こんばんは」

 バーテンダーは温かいお手拭を手渡す。

「いつものカクテルとナッツをください」

「はい」

 笑顔と共に爽やかな返事をした脚の綺麗なバーテンダーは幸一にもお手拭を手渡す。

「三浦さんは何になさいますか?」

 幸一は、脚の綺麗な彼女が自分の名前を覚えていたことに驚いた表情を浮かべたが、

「幸一です。三浦幸一」

 と、軽薄な態度で明るさを振りまいて、驚きと歓喜の表情を誤魔化した。

「幸一さんは何になさいますか?」

「メイカーズマーカーをロックで」

 春香はお手拭をきれいに畳むと、

「どこかで会ったの?志保さんと」

 と、どちらかと言うと志保に鋭い視線を送った。

「志保さんというお名前ですか?」

 悔しいほど素早く幸一が反応する。

「後をつけられたの」

 今度は志保が笑顔で即答した。春香がちらりと彼の表情を確認してみると、彼の興味は志保に全集中している。

「歩くスピードが同じだっただけです、たまたま」

 幸一がゆっくりと春香の方を振り向いた瞬間、春香は視線を志保に向けて、シェイカーにジンを注ぐ彼女の表情を透かすように鋭く見つめた。

「常連みたいですね?」

 幸一の言葉は、どちらにも答えを求めているようで、どちらからの返答も期待していない。しばらくの間、ジャズの音色が不自然に三人の無言会話をつないでいる。

「月に1~2度は来て頂いていますよ」

 気を利かせた志保が柔らかく答えると、シェイカーを小気味良く振り始める。

「僕も常連になって良いですか?」

 シェイカーの音は、全く変化なく正確なリズムを店内に響かせている。

「三浦君も普通の男ね。ここに来た男性はほとんどそう言うわ」

 春香がやや意地悪な笑顔で幸一を捕まえてから志保に同意を求めたが、志保は軽く微笑むだけで仕事を続けている。

「そりゃ美しい女性を見れば熱くなるのが男の正直な反応ですよ」

 急に勢いづいた幸一が前のめりになっている。

「私にはとてもクールに接してくださるのにね」

 有頂天な幸一をいじめる様な口調。

「君は見飽きた」

 その言葉に二人の女性が反射的に彼を鋭い視線で射る。

「美人は三日で飽きるって言うでしょう」

 二人の女性の視線の痛みなど全く感じない様子で、彼は子供みたいな笑顔を春香に向ける。

「なるほどねえ」

 志保が大げさに驚いて見せてから注文のグラスを二人の前に滑らせる。春香はジンリッキーの氷を小指で回しながら、志保が幸一の飲物を作り始めたのを見てゆっくりと立上った。

「ちょっと失礼」

 幸一は、春香が化粧室に消えたことを物音で確認してから、さりげなくペンとメモを取り出して自分の部屋の電話番号を走り書きした。そしてカウンターを軽く叩いて、志保が振り向くやメモを手渡した。

「なに?」

 毎晩のようにメモをもらっているような慣れた態度だ。だが、彼女はメモをじっと見つめたまま無言でいる。

「学生なら文字くらい読めるでしょう?」

「文字が書いてあればね」

「僕の電話番号です」

「なるほど、草書体かと思ったわ」

 志保が口元に笑みを浮かべる。

「走り書きなので読みにくいのかも」

「そんなに急いで書かなくても大丈夫なのに」

 化粧室の方を一瞥してから大人びた瞳で幸一を見つめる。 

「僕は字が下手なので、走り書きにすれば言い訳できるでしょう?」

「そんなこと、口にしたら意味ないでしょう?」

 志保はくすりと笑いを漏らしてメモを見つめながら、

「これを頂いてどうすれば良いのかしら?」

 と、小声で白々しく尋ねる。

「何かあったら電話して下さい」

 幸一も小声で囁く。

「何かって?」

「うーん。お腹が空いたとか……」

「日に三度はお腹空くわよ」

 志保は目元に笑いを刻んでいる。

「できれば夕食が良いですね」

 幸一は急に荒くなってきた呼吸を何とか制している。

「でも2~3度は番号を間違いそうだわ。もっと丁寧に書いて、走り書きだと言えば良いわ」

 きれいに笑った志保の澄んだ笑い声が店の隅々まで届いた頃、春香が静かに戻ってきた。志保はさりげなくメモをパンツのポケットに忍ばせる。

「ところで、マスターはまだ来てないの?」

 幸一と志保の間の空気が自分の出現で僅かに緊張したことを感じ取った春香は、さあ、これから飲むぞと言わんばかりの張りのある語調で話題を変えた。

「そうね、最近は暇だから出勤が遅くなることが多いの。それにしても今夜は遅すぎるわね。もう10時前なのに」

 志保は幸一のロックを差出しながら眉間に心配を浮かべる。

「いつもは何時頃に来られるんですか?マスターは」

 幸一がウイスキーに口をつけながら興味を示す。そんなことを聞いてどうするのだろうかと、春香は彼の言葉に興味を持った。

「遅くても九時には来ています」

「そう」

 幸一はバラの花びらを愛でながらどうでも良さそうに呟いた。春香は、つかみどころのない彼が面白くもあり、真面目に捉えるのが馬鹿馬鹿しく面倒にもなってきた。特に、志保が現れてからは三人で会話しているようで面白くない。幸一のことが好きとか嫌いとか言うのではなく、自分が中心にいない現実が面白くなかった。

 春香は、軽々しい彼の会話を適当に扱いながら、切れのいいジンの飲み口を味あうことに専念した。聴き覚えのあるジャズのリズムがウイスキーボトルの光沢の中に吸い込まれていった。


 昨夜降り続いた激しい雨はすっかり上がっていた。賀茂川の堤防に連なる草木には、雨の雫がたっぷりとその草葉に潤いを与えている。秋の朝日が雫に輝いて、数多の水晶が川原全体に散りばめられているような美しい絵画的風景を演出している。川面にも薄っすらと靄が掛かって幻想的な空間が細長く流れていた。

 その堤の横を走る賀茂街道には、生業に忙しくひた走る人々のため息と、自動車の喧騒がいつもどおりに響き渡っている。この、幻想と、喧騒と、神秘と、嘆息とが平行に伴走する風景がいかにも京都らしい構図だ。

 幸一は愛車のCB400で北山橋を渡り、指定された喫茶店の駐車場に滑らかに滑り込んだ。バイクで走るには肌寒い季節になってきたが、自動車など持てるわけもなく、先輩から安く譲ってもらった走行距離10万キロの愛車とはどこへ行くのも一緒だ。

 喫茶店の扉を開けると、チリンチリンとベルが意外に大きく響いて、他のお客さんが驚かないかと、若者らしくない心配りをしてしまった。だが客たちは微動だにせず、新聞を読んだり、ぼんやり外を眺めてコーヒーを味わったりして、これから始まる生業に備えているようだ。

 しかし、そんなありふれた日常の中にあっても、非日常的な華やかさを放っている一隅があった。周囲よりもより多くの朝日が反射しているかのような、秋というよりは初夏を思い起こさせる白い光が乱反射しているような空間だ。

 幸一は、彼女がいつ、近づく自分に気づいてくれるかと、些細な興味を持ちながら心持足音を大きくして、眩しい光の反射の光源に歩み寄る。

「おはよう」

 艶のある声で挨拶した志保が、期待どおりの白光色の笑顔を幸一に向けて、彼女の癖なのか、左目だけでゆっくりと瞬きした。幸一の脳裏には、先ほどの草木の水晶が陽光を反射したきらめきが、彼女の笑顔に重なって拡がった。

「おはよう。夕飯の方が良かったのになあ」

 軽口を叩きながら彼女の正面には座らずに、四人がけ丸テーブルの横の席に腰掛けて、幸一は志保の左手に位置した。

「最初にお腹が空くのは朝よ」

 幸一が笑う間もなく、

「いらっしゃいませ」

 と、明らかにバイトとわかるウェイトレスが、やや遠慮気味に二人の会話に割り込んできた。

「ホットコーヒーを下さい」

「サンドウィッチもお願いします」

 志保の声が後を追う。彼女の胸の前ではレモンティーが芳香している。

「何があったと思う?」

 志保が身を乗り出して性急に話を始める。志保の身体から金木犀の香りが漂って来たような気がした。

「お腹が空いたんでしょう?」

 志保は幸一の冗談など軽く流して、やや強張った表情で興奮気味に囁いた。

「マスターが殺されたの」 

爽やかな秋の朝、明るいカフェで愛しい人との優雅な時間。

憧れますねえ。

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