↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

魔法素材をわざと弱くする馴化職人です――未加工の方が高性能? そう見えるだけですよ

作者: 本の寄生虫
掲載日:2026/08/22

ミナ・ローデルの仕事は、価値あるものを毎日少しずつ弱くすることだった。

朝の馴化工房には、処理液を温める低い沸騰音が絶えず響いている。石造りの床には六つの処理槽が並び、それぞれの蓋の隙間から白い蒸気が細く立ち上っていた。湿った石と金属、それに外域素材特有の、雨上がりの土をさらに濃く煮詰めたような匂いが混じっている。

ミナが一番槽の測定器へ手を伸ばしたところで、工房の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。

「先輩、大変です!」

声の主は見習いのニルだった。十七歳、工房へ入って三か月。革の前掛けにはまだ染みが少ない。彼は測定板を落としそうな勢いで胸へ抱え、そのままミナの目の前まで走ってきた。

「三番槽の脈晶です。昨日は六十三あったのに、今朝は五十一まで落ちてます。十二もですよ」

その顔を見る限り、本気で事故が起きたと思っているらしい。ミナは測定板を受け取り、昨晩の記録と並べて確かめた。六三・四から五一・二。散逸値も昨日より低く、処理液の温度にも異常はない。

「うん。順調」

「……順調?」

「そう」

「十二も魔力出力が落ちたんですよ」

「見れば分かるよ」

「じゃあ、どうするんです?」

「もう一日入れておく」

ニルは露骨に目を丸くした。

「まだ弱くするんですか?」

「四五を切るまではね」

彼の顔に、ひどく理不尽なことを言われた人間の表情が浮かんだ。五年前、ミナ自身も先輩に同じ説明をされて、たぶん同じ顔をしていた。

二人で三番槽へ向かう。蓋を開けると、青白く濁った処理液からじっとりした熱気が立ち上った。長い金属棒を槽の底へ差し込み、硬い感触を確かめてから慎重にすくい上げる。液面から現れたのは、拳ほどの大きさをした半透明の結晶だった。内部では淡い青光が細い脈のように走り、不規則に明滅している。

《脈晶》。外域由来魔力が長期間循環する土地で形成される結晶質資源である。照明から暖房、大型術具、防衛設備まで使い道は広く、辺境では重要な産業資源の一つだ。当然、値段も高い。

しかも採掘直後の脈晶ほど、よく光る。測定器へ載せれば大きな数字が出る。何も知らない人間が見れば、それこそ高品質の証拠に思えるだろう。だからこそ、馴化工房で行われている作業は、外から見るとずいぶん奇妙に見える。

「五一・三」

ニルが測定器を覗き込んだ。

「槽から出して三分置いて」

「はい」

砂時計を返す。二人で待つ間にも、脈晶内部の光は落ち着かなかった。青白い線が表面近くまで浮き上がった瞬間、工房の天井灯がほんの一度だけ揺れる。ニルは気づかなかった。ミナは帳面の端に、小さく印をつけた。

三分後。

「五二・一。少し戻りました」

「うん。まだ駄目」

「でも、五十以上あるんですよ」

「だから駄目なの」

ミナは脈晶をもう一度処理槽へ沈めた。液体が結晶を覆うにつれ、青白い光が少しずつ見えなくなっていく。

「一個、いくらすると思ってるんですか」

「私の半年分のお給料くらい」

「だったら余計おかしいじゃないですか。そんな高いものを、わざわざ弱くしてるんですよ」

「そうだね」

「価値が下がりません?」

「下がらないよ」

「でも数字は下がってます」

ミナは少し考えた。

「数字が大きいものほど優秀なら、火薬樽は暖炉より性能のいい暖房器具になるね」

ニルが黙った。

「……何の話です?」

「そのうち分かる」

「またそれですか」

背後から聞こえる不満を聞き流しながら、ミナは次の処理槽へ向かった。

◇

一番槽、九七・五。まだ早い。二番槽、七六・一。もう一日。四番槽、四三・二。

ミナは金属棒ですくった結晶を布の上へ置き、まず光の揺れ方を確認した。弱く、一定。内部光はゆっくりと安定している。掌へ載せても、皮膚の下を引かれるような不快な魔力感覚はほとんどない。

「散逸偏差は?」

ニルが帳面をめくった。

「一・八。規定内です」

「周辺干渉」

「〇・二」

「夜間戻り」

「ありません」

「なら出せる」

「これが?」

「これが」

ミナは脈晶の表面に残った処理液を丁寧に拭き取り、魔力吸着布を敷いた木箱へ収めて、最後に認証具を押しつけた。

――馴化済。

――出荷可。

乾いた刻印音が工房へ響いた。ニルが箱を覗き込む。

「一番弱いやつが、一番先に完成するんですね」

「今日はね」

「やっぱり変な仕事だ……」

馴化工房へ運び込まれるのは脈晶だけではない。樹脂も、甲殻も、鉱石も繊維も、外域から来たものはひととおり並ぶ。どれも魔法技術を支える重要な材料だが、外域に適応して生まれたものが、そのまま人間の生活環境へ馴染むとは限らない。むしろ、馴染まないものの方が多い。

ミナは黒い枝状の素材へ処理液の交換を指示し、次に薄緑色の鱗を手に取った。すぐ測定器へ載せず、まず作業台脇の照明へ目を向ける。鱗を近づけても火は揺れず、指先へ伝わる魔力感覚にも刺々しさがない。

「これは出せそう」

「まだ測ってませんよね」

「一応測るよ」

結果は規定範囲内だった。ニルが感心したように鱗とミナを見比べる。

「先輩って、こういうのに向いた《神賜》を持ってるんですか」

「持ってるよ」

「やっぱり」

「《整頓》」

ニルの顔から期待が消えた。

「……整頓?」

「机の引き出しの中が、ちょっと片づく」

「馴化に関係ないじゃないですか」

「便利だよ」

「そういう意味じゃなくて」

ミナは笑いながら次の素材へ手を伸ばした。素材内部の魔力を見る力もなければ、一瞬で性質を解析する能力もない。五年間、毎日この工房に立って、数字を測り、素材を触り、匂いを嗅いできただけだ。

昼前、工房の正面扉が開いた。冷たい外気が入り込み、処理槽から立っていた蒸気を大きく揺らす。入ってきた男を見て、工房長がすぐに作業台を離れた。

「ヴァイト調達官」

「突然すまない」

濃紺の制服の胸に、辺境防衛隊補給局の徽章。二十代の終わりほどで、細い銀縁眼鏡をかけている。制服には皺一つないのに、目の下には薄い隈があった。

オーレン・ヴァイト。防衛隊の物資調達を担当する官吏で、普通なら注文書だけ送りつければ済む立場の人間が、自分で工房まで来ている。

ミナは手にしていた鱗を作業台へ戻した。嫌な予感がした。こういう場合、大抵は無理を言われる。

◇

「脈晶を六個?」

やはり無理だった。

工房長室の机には境界道路の地図が広げられている。オーレンは二本の指で、道沿いに置かれた第二、第三防護塔を示した。

「三日前の雷雨で動力系統が損傷した。現在は応急動力で動かしているが、本来の六割程度しか出ていない」

「補修は?」

工房長が訊く。

「交換部品が届くまで十日」

「ならそれまでは出力を絞って――」

「五日後に冬季輸送隊が通る」

部屋の空気が少し重くなった。前線集落へ送る冬越しの食料と薬と燃料を、雪が本格化する前に届けなければならない。荷車は数十台に及ぶという。

「道路を閉じる選択肢は?」

「閉じれば前線側で備蓄が足りなくなる」

「迂回路」

「輸送量に耐えない」

オーレンの回答は速かった。すでに一通り検討してきたのだろう。

「交換用の脈晶が六個必要だ。工房の在庫表では、次の出荷予定が七日後になっている」

「馴化済みは三個です」

工房長が答えた。

「残りを二日前倒しできないか」

「できません」

ミナが言った。オーレンの視線がこちらへ向く。

「君は?」

「馴化担当のミナ・ローデルです」

「現場責任者?」

「馴化に関しては」

「二日では無理か」

「無理です」

「一日半でも?」

「もっと無理です」

工房長が小さく咳払いした。ミナは口を閉じる。しかし、オーレンは不快そうな顔をしなかった。

「現物を見たい」

それだけ言った。

◇

保管庫には十四個の未馴化脈晶が置かれていた。壁は厚い石造りで、床には魔力吸着砂。棚同士も互いの影響を避けて離してある。それでも扉を開ければ青白い光が薄暗い室内を満たし、肌の表面に細かい痺れを覚えた。

オーレンは帳簿と測定札を一つずつ見比べていく。一〇四、九八、九六。読み上げられるたび、ミナは間違いないと答えた。やがて彼は、別棚に置かれた馴化済み品へ移る。

「四三。四一。四四」

数値を確認したあと、しばらく何も言わなかった。

「確認したい」

やがてオーレンが口を開く。

「君たちは一〇〇前後の出力を持つ素材を、半分以下まで落としてから納品している?」

「そうです」

「意図的に?」

「もちろん」

「防護塔側の脈晶受入上限は一四〇だ。耐圧だけなら、未馴化品でも規格内に収まる」

「耐えられるかどうかだけなら」

「他に何がある」

ミナは棚に並んだ未馴化脈晶を見た。一つだけ、内部光の明滅が隣と僅かに同調している。二つの結晶の間で、目には見えない何かが行き来していた。

「その脈晶、魔力を出してるだけじゃありません」

「どういう意味だ?」

「周りを変えます」

「何を?」

「魔力の流れを」

「どう変える?」

そこでミナは言葉に詰まった。自分には感覚として分かっている。未馴化の素材を長く置くと、空気の重さが僅かに変わり、作業灯の火が揺れ、使い慣れた一般魔法がほんの少しだけ指先から滑るようになる。だが、その「ほんの少し」を言葉に変えた途端、急に説得力がなくなるのだ。

「自分に合うように」

「脈晶が?」

「はい」

「意思があるわけではないだろう」

「ありません」

「なら、自分に合うというのは?」

「……性質です」

言った本人が一番分かっていた。説明として、弱い。オーレンも同じように思ったらしい。ただし彼は笑わなかった。

「分かった」

「何がです」

「君が危険だと考えているのは分かった。理由は、まだ俺には理解できていない」

帳簿を閉じる。

「だから限定試験をしたい」

「未馴化品を?」

「一個だけだ」

オーレンは先回りして条件を並べた。集落から離れた試験場で、防護塔と同型の術具に一刻だけ接続する。専門技師を常駐させ、周辺魔力を継続測定し、異常が一つでも出れば即座に停止する。

「それで問題がなければ、輸送隊が通過する数時間だけ緊急運用する」

「反対です」

「理由は聞いた」

「伝わってないから言ってます」

「伝わるだけの材料が、今はない」

声は穏やかだった。だから余計に反論しづらい。

「規則を無視して前線へ持っていくと言っているわけじゃない。君の経験も軽視しない。だから試験する」

「試験で問題が出なければ?」

「安全条件を決めて緊急使用を申請する」

「……」

「五日後には輸送隊が来る。俺の仕事は、不足している三個をどうにかすることだ」

工房長は長く考えたあと、ようやく口を開いた。

「一個だけです。実運用は禁止。試験のみ」

「十分だ」

ミナは何も言えなかった。自分が持っているのは、何度か似たものを見たという経験と、説明しづらい違和感だけだ。対してオーレンが持っているのは、数字と、時間と、安全策と、前線の事情。その瞬間、説得力があるのは明らかに彼の方だった。

◇

そして試験は成功した。少なくとも、その日の夕方までは。

集落から半刻ほど離れた石造りの試験場に、防護塔と同型の大型術具が据えられていた。未馴化脈晶を装填架へ収め、接続部の術式線を締め、専門技師が三度確認してから起動する。低い駆動音が床を伝い、術具の上部へ淡い膜が張った。防護膜は最初の数十秒で形を整え、あとは呼吸するように一定の厚みを保ち続けた。

「出力、一〇三・八。流量偏差二・一。許容範囲です」

技師が測定器から顔を上げる。ミナは装填架から離れた位置に立ち、術具ではなく壁際の作業灯を見ていた。周辺照明、通信、防護術式の揺れ――訊ねるたび、返ってくる答えはすべて正常だった。三十分が過ぎ、一時間が過ぎても、記録板の欄には異常なしの印だけが並んでいく。

むしろ、性能だけを見れば素晴らしかった。本来なら複数の脈晶を必要とする規模の防護膜が、たった一個で余裕を持って維持されている。出力にはまだ余力があり、術具側にも目立った負荷はない。

「すごいですよ、先輩。馴化済みの倍以上あります」

ニルが抑えた声で言う。ミナにも分かっている。分かっているからこそ、返す言葉がなかった。

「流量に乱れは?」

「ありません。短時間の運用なら、馴化品よりこちらの方が性能は高いですね」

オーレンの問いに技師がそう答えたとき、ミナの胸の奥では、朝からずっと引っかかっている小さな棘がまた疼いた。けれど違和感は証拠ではない。照明は動き、通信も正常で、術具は壊れず、脈晶も暴走していない。自分が挙げられる根拠は、そのいくつもの事実の前で、驚くほど軽かった。

そのうち、もっと嫌な考えが浮かんできた。――馴化工程の方が、過剰なのではないか。五年前と比べて術具の性能は上がり、測定技術も進歩し、安全装置も増えている。昔の事故を防ぐために積み上げられた工程が、今も同じだけ必要とは限らない。ミナは五年間、そのことを疑ったことがなかった。先輩に教えられ、規定書にも書かれていたから守ってきた。だが、職人が経験と呼ぶものと、ただの思い込みとを、どこで区別すればいいのだろう。

「ローデル」

オーレンに呼ばれて顔を上げる。

「今日は予定通り、ここまでにする。一晩隔離して、明朝再測定だ。それでも問題がなければ、緊急使用を申請する」

「……はい」

ミナは反対しなかった。もう、できなかった。

◇

日が沈んだあとも、ミナは試験場に残っていた。皆を帰し、一人で記録の清書を進める。外はすでに暗く、静まり返った石造りの部屋では、羽根ペンが紙を擦る音さえ妙に大きく聞こえた。

開始前が一〇四・一。接続直後に一〇三・八。三十分後に一〇三・六。ここまでは、供給した分だけ緩やかに減っていく、ごく普通の推移だった。ミナはそのまま一時間後の欄へペンを進め、そこで手を止めた。

一〇四・四。使用前より、増えている。

差は〇・三程度で、測定器の精度を考えれば誤差として説明できる数字だ。ミナは一度そう考え、視線を別の記録へ移した。作業灯の通常消費が一二・二、試験中が一二・八。これも誤差の範囲に収まる。通信器には一度だけ応答遅延があったが、技師は術式側の一時的な不調と書いている。昼休憩にニルが使った保温魔法も一度失敗していて、あのときは本人が笑い、ミナも一緒に笑った。

一つだけなら何でもない。二つでも偶然だ。だが三つ、四つと紙の上へ並べていくうちに、それまで別々の欄に散らばっていた小さな誤差が、突然、同じ方向を向いているように見えた。

ミナは立ち上がり、試験場へ出た。夜気が、工房の熱で火照った頬を冷やしていく。大型術具はすでに停止し、脈晶も接続を外されて厚い隔離容器へ収められていた。近づいた瞬間、足元の作業灯がほんの一度だけ暗くなる。ほんの一瞬。けれど今度は見逃さなかった。

測定器を取り出し、容器の外から当てる。一〇八・二。眉を寄せてもう一度当てても、一〇八・三。喉の奥が冷たくなった。一時間、大型防護術式へ大量の魔力を供給したのだ。それなのに減るどころか、増えている。

容器へ直接触れないよう掌を近づけると、皮膚の下をほんの僅かに引かれる感覚があった。馴化前の素材を五年間、毎日扱ってきたからこそ、やっと気づける程度の弱い流れ。

「……取ってる」

声が漏れた。出した分を、どこかから補っている。ミナはそのまま工房へ走った。

◇

翌朝、脈晶の出力は一一六・七まで上がっていた。

「昨日より十二以上増えてます。測定器、壊れてませんか」

測定板を見たまま顔を上げないニルへ、ミナは三台とも同じ数字だと答えた。壊れているのは、別のものだ。

試験場へ入れば、昨日との違いはすぐに分かった。作業灯が一定の周期で僅かに暗くなり、通信器を起動すれば届く声がほんの少し遅れる。専門技師が試しに掌へ小さな火を作ると、拳ほどに収まるはずだった炎が一度だけ大きく膨れ、直後に急激に萎んだ。制御が滑る、と技師は眉をひそめた。工房長も複数の測定器を抱えて床を歩き回っていたが、《淀み》濃度そのものは大きく変わっていないという。

ミナは床へしゃがみ込み、部屋の四隅と中央で取った測定値を帳面へ並べた。一つ一つの数値は、どれも危険な水準ではない。問題は量ではなかった。魔力が流れている向きを比べると、すべてが僅かずつ、同じ一点を向いている。

「濃さじゃないです。流れが偏ってる」

顔を上げた工房長へそう告げながら、ミナは試験場中央の隔離容器を見た。昨日、あれは確かに術具へ魔力を渡していた。その認識自体は間違っていない。ただ同時に、周囲からも取っていたのだ。照明術式から、通信術式から、防護設備から、空気中に散った魔力から、地面から――人間が使いやすい形に整えてきた魔力の循環を、少しずつ、自分が形成された外域の環境に近い流れへ組み替えながら。

「だから昨日、減らなかったんだ」

一〇三を維持していたのは、こいつ一個の出力ではなかったのか、と工房長が顔を上げる。ミナは頷いた。高性能だったわけではない。試験場全体を、取り込み始めていたのだ。

背後で靴音が止まった。振り返ると、昨夜の連絡を受けて朝一番で来たらしいオーレンが立っている。彼は測定板へ目を落とし、それから不安定に揺れる照明を見上げ、短い沈黙のあとで俺の判断ミスだな、と言った。ミナが首を振って今はそれよりと言いかけると、彼はすぐに表情を変えた。

「ああ。どう止める?」

工房が試験を許可したからとも、技師が正常だと判断したからとも言わない。それだけで、ミナの中に残っていた小さな苛立ちはほとんど消えた。ここから先は、誰が正しかったかを決める仕事ではない。

「普通に外したら駄目です」

「もう術具からは切ってある」

「そうじゃなくて」

ミナは試験場全体を見回した。

「もう、脈晶だけの問題じゃありません」

◇

魔力の流れは目には見えない。それでも、そこにある。試験場の各設備から、床から、術式線から、通信器から、細い糸が無数に伸びて隔離容器へ繋がっているような状態だった。一晩のうちに、脈晶は周囲の術式系との間へ魔力的な結び付きを作ってしまっている。

「全部まとめて切れば」

言いかけたニルを、ミナは遮った。

「駄目。一気に切ったら、取り込んだ分がどこへ行くか分からない」

「爆発するんですか」

専門技師の問いに、分かりません、と答える。分からないものをとりあえず試すのは、馴化職人にとって本当に最後の手段だ。

安全に使える形へ、少しずつ変える。普段と同じだった。ただ相手が処理槽ではなく、試験場一つ分になっただけの話だ。

「ニル。工房に戻って、馴化済み脈晶を三つ」

「三つ?」

「昨日完成したものを含めて、一番安定してるやつ」

でもあれ、出力低いですよ、と戸惑うニルへ、だからいいの、とミナは答えた。何に使うんです、という問いには、隔離容器へ目を向けたまま短く返す。

「基準。人間の側の」

◇

しばらくして届いた三個の馴化済み脈晶は、出力四三・二、四一・〇、四四・一。昨日オーレンが、なぜ半分以下まで弱めるのかと訊いた、まさにその三個だった。

ミナは未馴化脈晶を中心に置き、三角形を描くように配置させた。床へ術式線を引き、一つずつ接続部を確かめていく。指先へ流れてくる魔力は弱い。しかし、素直だった。術式が求めれば流れ、要求を止めれば止まる。周囲から勝手に奪わず、自分の都合で環境を組み替えようともしない。昨日まで、ミナはそれを単に安全になったのだと考えていた。だが改めて触れてみると、これは人間が使う道具として完成された性質なのだと分かる。

「一番、起動」

淡い青光が灯り、ニルが四三・一と読む。二番、四〇・九。三番、四四・〇。技師が術式線を接続すると、三個の馴化済み脈晶から安定した魔力がゆっくりと試験場へ広がっていった。未馴化品のような眩しい輝きはない。弱い。だが、乱れない。

「対象、一一六・四」

「第一系統、一割絞って」

オーレンが操作盤へ手を置き、了解、と応じる。変化はすぐには出なかった。数秒、十数秒。やがてニルが一一三・八と読み上げ、数字が初めて下がった。まだ、とミナは答える。一〇九、一〇五――未馴化脈晶の内部を走る青白い光が少しずつ弱くなり、同時に、それまで周期的に明滅していた作業灯の揺れも小さくなっていく。

「九八」

「第二系統。八割まで絞る」

オーレンの指示に技師が調整を加えた。九一、八四、七六。ニルは数字を読み続けていたが、その声には、最初に脈晶の出力が下がったときの怯えも戸惑いもなかった。数字が減る。昨日までなら、それは価値を失うことに見えたはずだ。今は逆だった。

六八、六一。作業灯が一定の明るさへ戻り、通信遅延もほぼ消えたと技師が報告する。五六、と読み上げたニルの声が少し震えた。散逸偏差はまだ高いという。続けて、とミナは言う。

五二、四九。ミナは数字だけを見なかった。照明、通信器、術式線、技師が掌へ作る小さな火。昨日、自分が見落としかけた一つ一つの小さな変化を、今度は順に確かめていく。四八、四七、四六。作業灯の揺れが完全に止まり、通信器から届く声にも乱れはない。技師の掌の上では、火球が拳ほどの大きさのまま静かに燃えている。

「四七・八。散逸偏差二・〇、周辺干渉〇・三」

ニルの声に、ミナはようやく息を吐いた。

「外して」

「今ですか」

「今」

専門技師が慎重に固定具を解除し、脈晶を持ち上げる。その瞬間、試験場にいた全員が同じように息を止めた。何も起こらない。青白い結晶は暴れることも、周囲の魔力を引き寄せることもなく、ただ人間の掌の上に収まっていた。ミナは最後に周辺測定器を一つずつ確認していく。異常なし。

「……終わった?」

小声で訊くニルへ、ミナは頷いた。

「終わり」

その言葉を合図にしたように、皆がほとんど同時に長い息を吐いた。

◇

午後、未馴化脈晶はすべて工房へ戻された。防護塔に必要な残り三個は隣接地区の馴化工房から融通を受けることになり、輸送隊の通過にはぎりぎり間に合う見込みだという。

試験場の片づけが終わるころ、オーレンは入口近くの石壁へ背を預けて報告書を書いていた。

「ローデル。一つ訊きたい」

羽根ペンが止まる。

「昨日の段階で、今日こうなると分かっていたか」

「いいえ」

少し驚いた顔をするオーレンへ、ミナは手にしていた工具を箱へ戻しながら続けた。

「ここまで早いとは思いませんでした」

「なら」

彼は一度、言葉を選んだ。

「なぜ、あれほど反対した?」

「似たような失敗を、知ってるからです。……私もしました」

新人だったころ、測定値だけを見て安全範囲だと判断し、そのまま出荷した。翌日、納品先の照明術式が一斉に乱れ、素材を回収するために夜中の道を荷車で走り、帰ってきたあと先輩にひどく怒鳴られた。

――測定器は嘘をつかない。でも、測定器が全部を測ってくれると思うな。

怒鳴り終えたあとで、先輩はそう言った。その先輩も若いころに似た失敗をしていて、記録庫を探せばさらに昔の事故が出てくる。壊れた術具、体調を崩した作業員、局所的に変質した工房、使えなくなった水路。何十年分もの小さな失敗と大きな失敗の積み重ねの上で、馴化工程は少しずつ長くなり、細かくなり、面倒になったのだ。

「昨日、一〇四の素材を四二まで落とすのを見て、価値を捨てているように思った」

「捨ててますよ」

「……捨てている?」

「はい。人間にはいらない部分を」

「外域の物は」

ミナは少しだけ言葉を探した。

「強いから価値があるんじゃありません」

外域にあるだけなら、それはただそこにあるものだ。人間の都合など、最初から考えてはいない。

「人が使えるようになって、初めて資源になるんです」

オーレンはしばらく黙っていた。やがて、報告書に書いていいか、と言う。

「嫌です」

「なぜ?」

「恥ずかしいので」

「良い言葉だと思うが」

「そう言われると余計嫌です」

「なら意味だけ借りる」

ミナは少し考えた。

「使用料ください」

「いくら?」

「脈晶六個」

「高いな」

「馴化済みでお願いします」

オーレンは一瞬だけ呆れた顔をして、それから初めて、声を出して笑った。

◇

四日後の朝、工房にはいつもの音が戻っていた。処理液が沸き、金属棒が石槽へ当たり、紙をめくる音と測定器の低い唸りが重なる。湿った石と、金属と、外域素材の、変わらない匂い。

「先輩!」

奥から、聞き慣れた足音が近づいてくる。

「今度は何?」

一番槽の測定器を持ったまま振り返ると、ニルが測定板を差し出した。

「五番槽です。昨日五十八だった脈晶が、今朝は四四まで落ちてます」

以前なら青ざめていたはずの顔が、今は少しだけ嬉しそうだった。

「散逸偏差」

「一・七。規定内」

「周辺干渉」

「〇・一」

「夜間戻り」

「なし」

「じゃあ見ようか」

二人で五番槽へ向かい、ミナは金属棒を差し込んで底から脈晶を引き上げた。最初に工房へ届いたとき、それは眩しいほど青白く光っていた。今はもう半分以下、弱く静かに掌の上で光っている。近くの作業灯は揺れず、指先の魔力も引かれない。測定値、四四・二。問題なし。

布で表面を拭い、出荷箱へ収め、認証具を押す。

――馴化済。

――出荷可。

乾いた音が、いつもの工房へ響いた。ニルは箱の中を少し長く眺めている。

「来たときより、ずいぶん弱くなりましたね。半分くらい」

「それくらいかな」

「それで完成なんだ」

「そう」

ニルは考え込むようにしばらく黙ってから、僕、やっと分かった気がします、と言った。

「何が?」

「強い方がいいわけじゃない」

ミナは首を傾げた。

「ちょっと違うかな」

「また違うんですか」

「強い方がいいときもあるよ」

「じゃあ何なんです?」

面倒な先輩だ、と顔に書いてある。ミナは箱の蓋を閉じ、認証札を確かめた。問題なし。

「強いか、弱いかじゃない。ちゃんと使えるかどうか」

ニルはもう一度、出荷箱を見た。

「じゃあ、この脈晶は」

「うん」

ミナは次の処理槽へ向かい、蓋を開けた。中からまだ眩しい青白い光が立ち上り、工房の天井へ広がっていく。

「弱くなったんじゃない」

新しい測定板を取り出す。

「使えるようになったの」

そして今日も、外域から運ばれてきた、人間の都合など知らない素材を人間の道具へ変えるため、ミナはいつものように測定器へ手を伸ばした。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

面白かったと感じていただけましたら、評価・ブックマークで応援いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。