第一章 普通の世界
大学のキャンパスは、昼前になると一気に賑やかになる。
講義が終わった学生たちが、廊下にあふれ出すからだ。
「零!」
後ろから声がして、私は振り返った。
友達の美咲が手を振っている。
「今日お昼どうする?」
「学食行く?」
「うん、いいよ」
私たちは並んで歩き出す。
周りには同じように笑いながら話す学生たち。
賑やかな声。
笑い声。
私はこういう空気が好きだった。
人がいる場所。
誰かと一緒にいる時間。
それだけで安心できる。
私は、孤独が嫌いだから。
小さい頃からそうだった。
施設の部屋は、夜になると静かすぎた。
みんな寝静まると、廊下の音だけが聞こえる。
その静けさが怖かった。
だから私は、人のいる場所が好きだ。
大学に入ってからは特にそうだった。
友達ができた。
サークルにも入った。
そして――
恋人もできた。
「そういえばさ」
美咲が言う。
「昨日彼氏とデートだったんでしょ?」
私は少し笑う。
「うん」
「いいなー」
「映画見ただけだよ」
「それがいいんじゃん」
私たちは学食に入る。
昼の時間帯は混んでいる。
トレーを持って並ぶ。
周りには友達同士のグループ。
カップル。
サークルの仲間。
普通の大学の風景。
私はその中にいる。
それが少し嬉しかった。
席に座る。
少しして、もう一人が来る。
「零」
声がして顔を上げる。
彼氏の翔太だった。
「やっぱここにいた」
「講義終わったの?」
「さっき」
翔太は私の隣に座る。
美咲がニヤニヤしている。
「相変わらず仲いいね」
「普通だよ」
翔太が言う。
私は少し笑う。
こんな時間が好きだった。
友達。
恋人。
誰かと一緒にいる時間。
それだけで、自分がちゃんとこの世界にいる気がする。
食事をしながら、何気ない会話をする。
授業の話。
サークルの話。
週末の予定。
本当に、普通の時間。
その時、翔太が聞いた。
「そういえばさ」
「ん?」
「零の親ってどんな人なの?」
私は一瞬、言葉を止めた。
美咲も少し気まずそうに視線をそらす。
私は小さく笑った。
「分かんない」
翔太が驚いた顔をする。
「え?」
「私、施設育ちだから」
翔太は少し申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん」
「いいよ」
私は首を振る。
慣れている。
この会話は何度もしてきた。
「親のこと、全然分からないの?」
美咲が聞く。
「うん」
私は少し考える。
「顔も知らない」
「名前も知らない」
翔太が言う。
「寂しくない?」
私は少しだけ空を見た。
それから笑った。
「だから友達いっぱい作ってるんだよ」
冗談っぽく言う。
美咲が笑う。
翔太も少し笑った。
でも、それは半分本当だった。
私は孤独が嫌いだ。
だから、誰かと繋がっていたい。
食事が終わる。
私たちは席を立つ。
「午後の授業だるいなー」
美咲が言う。
「わかる」
翔太は私を見る。
「今日帰り一緒に帰る?」
「うん」
「じゃあまた後で」
私たちは別れる。
私は一人で歩き出す。
キャンパスの道。
学生たちの声。
笑い声。
人の気配。
それが少し心地いい。
その時。
ふと、ポケットのスマホが震えた。
私は画面を見る。
通知ではない。
ただ、画面が一瞬だけ光った。
黒い画面。
そこに、ぼんやり何かが映る。
私は足を止めた。
よく見る。
自分の顔。
スマホの画面に反射している。
その背後。
ほんの一瞬だけ。
何かが立っているように見えた。
人の形。
私は振り返る。
誰もいない。
キャンパスの道。
学生たちが歩いている。
私はもう一度スマホを見る。
黒い画面。
そこには、もう何も映っていなかった。
私は小さく息を吐く。
「……気のせいだよね」
そう呟いて、スマホをポケットにしまった。
私はまだ知らない。
この世界が、
少しずつ私を忘れ始めていることを。




