何も起きなかったはずの夜
※大きな出来事は起きません。
静かな夜の話しです。
起業家たちが集まる忘年会は、
酒も入り、いつもより少しだけ
空気が緩んでいた。
美沙は三十六歳。
小学二年生の男の子を育てる
シングルマザーだ。
生活のために、仕事のために、
必死に世の中に食らいついてきた。
そのせいか、
人との距離が、ほんの少し近い。
男性に対しても、それは変わらなかった。
肩に触れる距離で笑い、
冗談に、ためらいなく身を乗り出す。
周囲から距離を置かれていることに、
気づいているのか、いないのか。
あるいはそれが、
美沙が生きていくために身につけた
ひとつの術だったのかもしれない。
彼は、そんな彼女を、
冷めた目で見ていた。
苦手なタイプだ。
そう判断していた。
勢いがあって、
距離感が曖昧で、
理屈よりも空気で動く女。
自分とは違う世界の人間だと、
線を引くには十分だった。
_____そのはずだった。
エレベーターを降りたとき、
彼が隣にいるのは、あまりにも自然だった。
会場を出ると、
雨が降りはじめていた。
「雨、かぁ......」
美沙は駅まで
走り出すこともせず、
まるで雨に打たれたいかのように、
歩き出した。
終電間際の永田町駅には、
人影がほとんどなかった。
その夜、
何かが起きたわけではなかった。
ただ、彼の隣にいると、
彼の匂いが混じった空気だけが、
わずかに温度を持った。
美沙はそれを、
気のせいだと思うことにした。
彼にとっても、
それは気のせいであってほしかった。
何も起きなかった夜の話しは、
もう少し続きます。




