絶対零度と、羽毛の温もり
リアルが忙しいんでかなり投げやりになってしまいました。
すいませんいつも。
午前4時前。
けたたましい雄鶏の鶏鳴でたたき起こされる。
親父から引き継いだ養鶏作業は、まだ穢れを知らない若い俺には地獄のような日々だった。
鶏舎を開けると鼻を突く鶏糞の香り。
飛び交う羽毛は、マスクをしていなければ鼻や口を瞬く間に埋め尽くすだろう。
数千羽のニワトリが俺の姿を見るなり一斉にパニックになり暴れまわる。
幼少期に少しだけ手伝いはしていた。
にもかかわらず、大人になって改めてわかる不潔さ、不快さ。
子供のころは触れた昆虫や木の幹、川の水、公園の砂。
大人になるとそれらの物体が不潔であると知ってしまう。
鶏も同じだ、今目の前で暴れまわる鶏にはあらゆる細菌、ダニ、寄生虫が纏わりついている。
吐き気すら覚えながらも、鶏舎の床を竹箒で掃いていく。
新しく買いなおした白いツナギは、この一週間であっという間に糞のマーブル模様だ。
「…東京に戻ってもいいんだよ」
そんな俺を察したのか、鶏舎の扉の前で不安そうに佇む母親。
「母さん、何言ってるんだよ俺が望んでやってるんだから」
睡魔に襲われ、まだ半分目も開け切らないままマスク越しに笑って見せる。
わかっている、これは俺のエゴだ。
やりたくない仕事をやっている。
誰のために?
家族のためか?
大学を目前に控えている妹のためか?
違う。
お前のエゴだ。
親父の気持ちを理解せずに、地元を飛び出した事に対するお前が勝手に始めた贖罪だ。
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鼻腔を、少し濡れた芝生の匂いがくすぐる。
ズキズキとした頭を押さえながら身体を起こす。
酔っぱらってそのまま眠ってしまうほど飲んだのはいつぶりだろうか。
新入社員歓迎会ぶりぐらいか?
いや、接待でススキノで飲んだ時以来か?
…少なくとも、養鶏家になってからはこんな自堕落なことをしたことはなかった。
ボサボサの髪をかきながら大きく伸びをする。
「よお、起きたかぁ」
イグナシアが朝日を浴びて一人立っている。
上着の代わりに羽織っていた着物はなく、黒いインナーのまま海から昇る朝日を眺めている。
「…おはようイグナシア」
アケノの言葉に、少し表情を崩す。
「おう、出航までは時間があるし顔でも洗って来いよぉ」
「イグナシアは寝なかったのか?」
「いや、あまりに寝すぎて背中が痛ぇんだ」
「わかるよ、俺もそのまんま地面で寝たのは久しぶりだ」
ここまでルインと旅をしてきたが、意外にも野宿はこれまで無かった。
「飲んだのも久しぶりだ…なんかこう…こういうのも悪くねぇな」
イグナシアがニッと笑う。
普段気だるそうな彼女が、ふとした時に表情を崩す瞬間思わずドキリとしてしまう。
「…なーに、いい感じになっているんですか2人とも」
おそらく酒が入っていたであろう、子供の背丈ほどある瓶を抱えたままルインが目を覚ます。
「ちょっとアケノさんのパートナーは私なんですからね」
「パートナーって…お前ぇ嫉妬かぁ?」
「なんですって!」
「おお怖っ」
ルインが手にした酒瓶をイグナシアに投げつける。
「お、おい!ちょっとからかっただけだろ!」
「ちょっとで済みませんわ!」
近くにあった大きなテーブルを片手で掴み持ち上げたままイグナシアを追いかけるルイン。
その騒ぎを聞いたのか、周りで寝転がっていた人たちも次々と起き上がってくる。
「まあ…仲がいい事は良いことだよな」
ハァとため息をつく。
朝日が、黒曜島のある海面をまぶしく照らしていた。
「じゃじゃーん!これがパイラちゃんの豪華客船よ!」
木組みでできた大きな船、しかしその色はまるでハチミツのように黄色く輝いている。
そして特徴的なのは、いくつも連なっている帆とその後ろにある航空機のエンジンのような筒だ。
「外見の色はともかく…あの筒はなんだ?」
「あれは風の原石を使った帆船です」
「へぇ、てっきり火力とか…蒸気船が主流と思ったな」
「一部では火力船もあるそうですが、火の幻石は燃料にするにはあまりにもコストが高いんです」
要するに、燃えすぎるらしい。
小さく、細かく、強い炎を出すには常に魔力を調整する人の存在が必要でその火を閉じ込めるための装置もまた高コストなのだとか。
そして火の幻石が取れる場所が海上にあることも問題だ。
産出国が、他所へ輸送するために産出したものを燃やしてしまっては意味はない。
そこで、低コストで帆船としてのメリットを生かしやすい風力が主流なのだ。
さらに、風の幻石で船そのものを海面より少し浮かせているのだという。
所謂ホバークラフト船のように、海面の影響を少なくすることで船そのものの揺れを減らすのだとか。
「シケにも強いそうです、船そのものを別方向の風で覆うことで流される事が少なくなるそうですよ」
風を自在に操るというのも、現世にあったガソリンエンジンなんかより案外大きなメリットなのかもしれない。
「転生者がいると大変ね、こんな当たり前のシステムすら説明が必要なのね」
パイラが退屈そうに欠伸をする。
「そういえばパイラちゃんは、俺みたいな転生者を見ても驚かないんだな」
「それはそうよ、中央国にはあんたみたいな黒髪が何人も居るからね」
「何人も?!」
「ええ、貴族や王族の護衛だったり国の防衛班とか…パイラちゃんも何度か見たことはあるわ」
「へぇーどれぐらいの年齢の人が居たんだ」
「アンタぐらいの歳の女の子にあったことがあるわよ、ただ…」
何故か言葉を濁すパイラ。
「その女の子、陰湿で話しにくかったわ…」
「い、陰湿…」
「パイラちゃんがね、握手しても不思議な言葉で必死に話しかけてくるのよ。…転生者の言葉なのかしらね?とにかく何か訴えてる感じだったけれど…私に言葉が通じてないのか肩を落としてどこかへ行ったわ」
「可哀そうに…俺みたいに言語翻訳的な能力は与えられていなかったのかな…あの女神に、俺より嫌われたか…?ちなみに、どんな容姿だった?」
「黒髪にボサボサの髪を伸ばして…そうだ真っ黒い大きな眼鏡をしていたわ!」
頭の中に想像するその女の子は、現世にいる所謂オタク女子のような姿をしていた。
「…まさかね」
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「出航するぞー!」
ドワーフの水夫が係留していた縄を解き、船が徐々に港を離れていく。
港では、昨晩飲み明かしたギルドの人々や商人がこちらに手を振っている。
「領主をぶん殴ってきてくれー!」
「パイラちゃん~また歌いに来てくれよー!」
驚くほど明るい声に見送られて、徐々に船が海面から浮かび上がる。
風を受けた帆が大きく膨らみ、気球を真横にしたような形になる。
驚くほど静かに進み始める船。
顔を海風が撫でる。
パイラに何度も「船内で七面鳥なんて出したら海に沈めるからね」と散々注意されたので、今はニワトリのことすら考えるのをやめよう。
ふと、空を見上げると港にはありがちな物が見えない事に気が付く。
「…そういえば、カモメがいねえな」
「カモメ?」
ルインが不思議そうな顔をして空を見上げる。
「翼の大きな海鳥なんだ、こういう港町になら居そうなものなんだが」
甲板に紙を広げると、翼を広げたカモメの絵を描く。
「へー、この鳥は飛べるんですね」
「…俺は飛べない鳥の専門家じゃねえよ」
ふと、思いつく。
この世界は、鳥…空を飛ぶ生き物がとても珍しい。
エルフの森でも
オーク達と別れを告げた平原でも
上を見上げた時、鳥が飛んでいないのだ。
いや、時々見かけるその鳥は驚くほど小さい姿だった。
「この世界では、空は彼らの領域だったんです」
「彼ら?」
「巨大な牙、剣を通さぬ硬い鱗、羽ばたくだけで嵐が起こる翼、口からは全てを焼く地獄の火を吐く」
「…ドラゴンか?」
甲板に居た数人がビクッと身体を震わせたのがわかる。
「…転生者なのに、ドラゴンをよくご存じですねアケノさん」
「いや、俺の世界の創作話にはよくありがちだからね」
ルインが語り始める。
その昔、天を翼を持つ竜が支配し地上を縦横無尽に焼き払い、人々は竜に支配されていた。
ある日、中央国の空から異世界から遣わされた聖女が舞い降りた。
勇者と共に、聖女は竜の脅威を払い、人々を救う旅に出る。
聖女達は、世界を脅かす竜を次々と捕らえると天貫く山の頂に、竜を全て封じた。
残された竜は翼を捥がれ、人に遣われるようになり天を支配する者は居なくなった。
それとなく、ドラゴンの絵を描いてみる。
「どうして異世界の方がドラゴンの絵が描けるんでしょうね」
「いや、俺からしたらこっちの世界のほうが異世界なんだけどな…」
ルインが紙の端に、何か絵を描き始める。
「…犬?」
「ドラゴンです!ほら!翼もあるでしょ!」
どう見ても、4本足で左を向いている犬にしか見えない絵を見て唖然とする。
「ねえ、アケノさん…元の世界に戻りたいですか?」
ルインが唐突にさみしそうな顔をする。
「…本音を言うと、今すぐ帰りたい」
「です…よね」
「でもまあ、帰れた奴が居ないんだろうな」
「………」
ルインが顔を伏せる。
もし、現実世界に帰る手段があるのであれば。
謎の力を持って現れ、世界を混沌にまき込めかねない転生者はまさしく宇宙人、侵略者になりかねない。
この世界に、そんな侵略者を返す手立てがあればギルドなりルインがとっくにそれを実行するはずだ。
「そんな顔するなよ、今すぐ居なくなるわけじゃないだろ」
ルインの肩を叩く。
「もし、帰れる手段が見つかったらお前も来いよ」
「…え?」
ルインが驚いた顔をする。
「ニワトリ以外にも、旨いもの食べたいだろ」
「なんですか!まるで私が食い意地が張って付いてくるみたいじゃないですか!」
頬を膨らませて怒るルイン。
「もう!……そうですね、行ってみたいですね…ここではない、どこか」
愁いを帯びて空を見上げるルイン。
どこか寂しそうな顔をする彼女の心意を、今はまだ理解できなかった。
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船倉の一室。
ドアを開くと、顔色を青くしたイグナシアが居る。
その背中を、パイラが優しく含みのある顔で笑って撫でている。
「さあ…お姉さま…聖女の力で船酔いを治癒してほしいのであれば私とユニットを組むと言って」
「絶対に断る」
うふふふと嬉しそうに笑いながら、イグナシアの背中を撫で続けるパイラ。
「イグナシアは大丈夫そうか?」
「大丈夫、パイラちゃんに任せて」
全く無事に見えないイグナシアをため息を吐く。
「まさか船に弱いとはな、こんなに揺れないのに」
イグナシアの細い背中を撫でる。
…飲みつぶれて電柱に蹲る先輩の姿をなんとなく思い出した。
「…うるせぇ」
イグナシアから弱弱しく言葉が返ってくる。
「ねえ、アケノ。少し話せるかしら」
パイラがいつになく、真剣なトーンで話始める。
「な、なんだパイラちゃん」
周囲を見回した後、緊張した顔をして話始める。
「ルインちゃんは?」
「あ?ああ、船乗りの一人が巨大な魚を釣り上げたってんでおこぼれを貰いに…」
「ねえ、パイラちゃんが聖女なのはわかるよね?」
「ルインが教えてくれたな、聖女同士は共鳴するんだよな?」
聖女は聖女がわかるのだという。
雰囲気というか、空気感というか…とにかく近くに居ると聖女なのだと察するそうだ。
そして、その共鳴は互いに触れ合うとより強く発覚するのだという。
「最初に、ルインちゃんと手が触れたとき聖女だってわかったんだけど…金剛のルインが聖女だなんて知らなかったの」
「中央でも有名な冒険者なのにか?」
首を横に振るパイラ。
「金剛のルインは単独で動き、孤独を強く好んでいると聞いていたの。顔だって、鎧で覆われてて見たことなかったの」
そういえば、今のルインは出会ったときに比べてあまりにも軽装だ。
俺との旅を続けていくうちに、鎧の多くが失われて行き今や手足の甲と片方の胸当て程度の鎧しか着ていない。
顔だって、あれほど頑丈に覆われていた兜を被っていたのに。
「ねえ、彼女…どこの出身なの?」
「え…そりゃ中央なんじゃないのか?」
「ちょっと!私の話聞いてた?中央でもルインちゃんを見たことのある人は限られているのよ!」
「ご、ごめん」
「いい?ルインちゃんの力は異常に強すぎるの」
「強すぎる?そりゃ…とてつもない怪力だし…でも、すぐお腹が減るし」
「そこなのよ」
ビッとアケノを指さすパイラ。
「聖女の力ってのはね、どんなに強力な人でも時間をかけて傷口をジワーと止血する程度なの」
アゴに手を当て、いつになく真剣な表情のパイラの言葉に聞き入る。
「触れ合ったときわかったの、あの子の力の大きさが」
腕を大きく動かし輪を描く、何か膨大な質量のようなものが見えたのだろうか。
「…もし、あれほどの力を有してるのであれば王族の血統しかないわ」
「王族?」
「聖女の力ってのは、元々中央に突然現れた聖女の女性から派生していったの」
ルインが先ほどした、昔話を思い出す。
中央に降り立った聖女。
その聖女の子供の子供の子供の…と血は脈々と広がっていき世界中には聖女になり得る可能性のある血統が散らばっていったのだという。
「だから、純血の聖女と違って私たち派生した聖女の力ってのはとーっても薄いの」
「なるほど…」
ふと、彼女との旅の姿を思い出していく。
イグナシアに身体を焼かれ全身が黒焦げになった時、俺はまるで何事もなかったかのように治っていた。
あれが、ルインという聖女の本気の力なのだろう。
腕を捥がれても瞬時に復活し、常人の数倍の筋力を有する。
あんな聖女が、何人も居ては可笑しい話だ。
「ねえ…絶対に、あの子を中央に連れて行ってはダメよ」
パイラが真剣な表情でこちらを見ている。
「あ、ああ…俺も中央に行く予定は今のところないから」
「約束よ?いい?」
ズイッと詰め寄ってくる。
「わかったよパイラちゃん…」
俺が、彼女の殻を破ってしまい彼女を世間に晒してしまっているのではないだろうか。
出会った頃の彼女は、頑丈な兜で顔を隠し、他人との関わりを徹底的に拒絶していた。
それが俺と旅をして、ギルドの連中やイグナシア、パイラたちと関わるうちに、彼女は笑うようになり、兜を被らなくなった。
その結果、彼女の「異常な聖女の力」が、少しずつ世間に知れ渡り始めている。
俺が、ルインの平穏を壊してしまったんじゃないか?
――――――――――――――――――
「おい!来てくれ!海上に何か浮いているぞ!」
船倉からでも聞こえる声に、イグナシアを置いてパイラと共に甲板に出る。
大勢のドワーフや人間の船員が海上を指さしている。
小さな鳥が海上を飛び回っており、その下に白い塊が見える。
「あれは…人ですか?!」
船がゆっくりと浮いている物に近寄る。
髪の長い、小さな女の子だ。
水死体など、見慣れてはいないがその肌は恐ろしく白い。
ボロボロの衣服に、青みがかった白く長い髪。
海面に浮いていた小さな木切れに覆いかぶさったまま、身動き一つ取らずに浮いている。
ルインが目を伏せる。
「…酷いね」
パイラがポツリと呟く。
「埋葬しましょう、引き上げてあげなさい!」
パイラの声で船が止まると、船員が少女の身体を甲板に引き上げた。
死後間もないのか、その顔はまだ綺麗だ。
「こんな幼い子供が、可哀そうね」
「パイラちゃん、あっしら船乗りの方法で埋葬しましょうか」
「…ええ、お願いできる?」
船員が、手にしていた毛布で少女の身体を包み、用意していた大きな木樽に少女の身体をそっと納め始める。
「かわいそうに…火山島から逃げた人かもしれん」
「火山島から逃げた?」
人間の船員が怪訝な顔をしてそっと耳打つ。
「火山島では、ドワーフが主権を握っていて人間は彼らに雇われているんだ…ただ中央からの取り立てが年々激しくなり奴隷のように扱われている人間が増えてきていて、今回人間の領主が立ったのも人間の権利を守るためだとされている」
「だから…火山島から逃げた人も居る…というわけですか」
「うわっ、なんだ!?」
船員の一人が大きな声を上げる。
全員が視線の先を見ると、少女の詰め込まれたはずの樽がゆっくりと浮かび上がる。
いや、浮かんでいるのではない。
その樽の下に、霜柱のように氷が固まり樽を持ち上げていく。
バリン、バリンと木樽が割れていく音がする。
包まれた毛布から、水死したはずの少女が現れゆっくりと目を開ける。
フワリと宙に浮かぶ少女。
その身体の周りには、凍てつくような冷気が漂っている。
「い、生きてる?!」
船員が慌てて少女から離れると、少女はその場にゆっくりと着地する。
裸足の足元が、こちらに進むたびに氷の足跡を描いていく。
「…船に、聖女ちゃん、いる?」
紡ぐように、単語を淡々と呟く少女。
「まあ、パイラちゃんのファンかしら!」
フフンと鼻息を荒くして歩み出るパイラ。
少女がパイラの顔を見ると、不思議そうな顔をして首をかしげる。
「ううん、違う」
「なんですって!?」
ルインがゆっくりと後ずさるのが見える。
そうだ、おそらく彼女の狙いは。
周りを見回す少女。
「ねえ、どうしようか、ネネ」
虚空につぶやく少女。
すると、彼女の周りを纏っていた冷気が彼女の身体に纏わりつく。
その霞のような冷気が形を変えて、もう一人の少女の顔になると少女の耳元で囁く。
「そうだね、ミミは、この船を止めるのが、目的だもんね」
囁いてくる霞の少女に、うんうんと頷く少女…ミミ。
「あのね、この船を、火山島に行かせては、いけないんだって」
冷気の塊だった少女の姿が、ミミの身体の周りを回り始める。
「…白磁卿の使いか!」
船員達が武器を手に立っている。
「俺たちは白磁卿に頼まれて火山島に向かっているんだぞ!」
「はくじ…?」
首をかしげるミミ。
「ええい、船を傷つける者は子供だろうが許せん!」
ドワーフ一同が、まるで獣のような咆哮を上げる。
手斧を掴むと一斉に少女に向かって投げつけた。
ブゥンと空気を切り裂く音がするほどの勢いで投げられた手斧。
ところが、それらの手斧は少女の眼前に届く前に見えない壁に阻まれる。
まるで鋼鉄に物をぶつけたかのような、乾いた音が響き渡る。
それは、空中に散りばめられた小さな氷の礫だった。
それらの礫は、まるで少女の周囲を守るように浮いている。
「ネネ、ありがとうね」
少女が呟くと、少女を纏う霞が人の姿に変わり少女ミミの肩に手を添えている。
「化け物め!」
投擲が効かないのならばと、幾人かが武器を手に少女に向かって駆けていく。
「うおおおおお!!」と飛び込む男たち。
ところがその動きが少女に近づくにつれて、次第に弱くなっていく。
まるでスローモーションのように徐々に動きが止まっていくと、全身に霜をつけたまま身動き一つ取らずに止まってしまう。
寒い。
広い甲板で、少女からは距離が数メートル以上は離れている。
にもかかわらず、まるで衣服も着ずに雪原の真ん中に立たされているかのような。
芯が冷えるほどの寒さがある。
「凍っちゃったね、ネネ」
固まった船員達を見回し、少女の顔がこちらにゆっくりと向く。
「お姉ちゃんは、聖女様?」
無表情のまま、口角がゆっくりと上がる。
ルインが慌てて身構える。
こちらに少女が1歩、また1歩と歩み寄る度に身体を纏う気温が下がっていく。
「聖女様を、島に行かせては、いけないんだって」
「…それは、誰の、命令ですか」
ルインが、伺うようにゆっくりと問いかける。
「うーん、ネネが言ったらダメって、言ってる」
「では、従えません…凍った人たちを開放してください」
「水に、浸ければ、治るってネネが、言ってる」
「今すぐに!」
声を荒げるルイン。
「どけ、おめーら!」
火炎がパイラとルインの横を掠め、少女に向かって飛んでいく。
甲板を焦がし、少女の周囲を火炎が纏う。
少し顔色を悪くしたイグナシアが、ヨロヨロと立っている。
「気持ち悪くて寝ていりゃ、ワーワーギャーギャーうっせーよ!」
明らかに不機嫌な顔をして、両腕に火を纏う。
船体を凍り付かせていた冷気をあっという間に払い、半分氷漬けになっていた船員達が目を覚ます。
本来なら、木製の船舶で炎などご法度だろうが今は別だ。
イグナシアの周囲が、まるで希望のごとく温かい。
「無賃乗船のガキは失せなぁ!」
声を荒げ、自分の周囲に火柱を纏う。
そうだ、イグナシアという氷に対極的な味方がいるじゃないか。
激しい炎をまとう彼女を見て俺たちや船員たちに、安堵の空気が流れる。
「ネネ、やっちゃって」
風を切る音。
イグナシアの腕から、血が噴き出していた。
まるで、釘のように尖った氷がイグナシアの腕を貫通し、甲板に突き刺さっていた。
「…バカ…な」
吹き出た血を手で抑えているイグナシア。
髪をウネウネと揺らし、氷の杭を幾重も宙に浮かべている少女。
その顔つきは、無表情でありながら怒りに満ちているのがわかる。
「さっきのは、熱かった」
氷の杭が、蹲るイグナシア目掛けて降り注ぐ。
どんなに強力な炎であっても、その炎に晒される時間が短ければ氷は解けない。
それがわかっていて、高速で氷を飛ばしてきているのだろう。
「お姉さまによくも!」
パイラがイグナシアの前に立ちふさがる。
「パイラさん!」
「パイラちゃん!?」
「パイラちゃんがただのアイドルだと思ったら大違いよ!」
パイラが大きく息を吸い込み、その喉から、ただの歌声ではない「超音波」に近い高音の共振を放つ。
キィィィィン!!
鼓膜を突き刺すような激しい音波が空間を震わせると、空中で氷の杭が次々と弾けていく。
「本当に、聖女様なんだね、すごいすごい」
次第に氷の杭は、礫となり次々と降り注いでいく。
それに対抗するように、パイラも声を出し続けている。
そのうち、パイラの息も続かなくなり、その場に膝をつく。
パチパチとゆっくりと拍手をしながら舞い降りてくる。
「でもね、お姉ちゃんは、聖女様じゃない」
ゆっくりと、腕を上げて指さす。
「お姉ちゃん、でしょ」
ミミの指が、ルインを指していた。
「…違います、私じゃありません」
声が、震えている。
無理もない、周りには大勢の船員がいる。
「あれ?おかしいねネネ、この人じゃないの?」
霞の姿が少女になると、ミミの耳元で何かを囁いている。
「…そっか、じゃあこうしようか」
うんうん、と何かに頷いているミミ。
バキッ…バキッ…と船体の周りから不気味な音が響き渡る。
「嘘…でしょ?!」
パイラが悲鳴のような声を上げる。
船の周囲が巨大な氷塊の波に埋め尽くされていた。
氷塊の波は、船に覆いかぶさるとまるで人の手のように船を押しつぶしていく。
そのうち、周りの空気も激痛を伴うほどに冷たくなっていくのがわかる。
頭を抱え、船員たちがその場に蹲ると身動き一つ取らなくなる。
あるものは錯乱し、海に飛び込もうとするが船を覆う氷に激突しその場に失神する。
「もういいや、この船は、ここに閉じ込めておくね」
脳に棘が突き刺さったかのような痛み。
実際に脳に何かが刺さったわけではない。
この空間全体が、絶対零度に近い気温になっているのだ。
「ルイン!船倉に逃げ込むぞ!」
かろうじて声を上げ、蹲る小さなパイラの身体を抱える。
動揺したままのルインも、ハッと顔を上げるとイグナシアを抱え船倉に走る。
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階段を駆け下りて船内へ逃げ込み、一番近い客室へ飛び込む。
ベッドシーツ、クッション、テーブルクロス、カーテン…
半分凍っているあらゆる布を掴み、部屋の隅に山積みにする。
「ルイン、こっちに!」
ルインにありったけの布を押し付け、気を失っているイグナシアやパイラをルインに抱き着かせる。
「アケノさん!」
ルインがこちらに手を伸ばす。
「ルイン、よく聞いてくれ」
「アケノさん!早くこっちに!」
次第に身体が強張っていく。
喉が痛い。
肺が凍り始めているのだろう。
ミシミシと音を立てて、船全体が凍てつき崩壊していくのがわかる。
「ルイン、よく聞いてくれ。お前が生き延びれば、俺たちは生き延びられる」
「死んだ人は、生き返らないんですアケノさん!」
目にシャーベット状の涙を貯めながら、ルインがこちらに腕を伸ばしている。
「俺たち全員の体温をお前に預ける、お前は生きろよ…必ず」
伸ばした腕を掴むと、ルインがアケノの身体を引きずり込む。
まるでぬいぐるみのような扱いでアケノの身体を抱きしめる。
ルインの心臓の鼓動が伝わってくる。
激しく動揺しているのか、力強く速い速度で生きていることを伝えてくる。
「ルイン、悪かった…俺に付き合ったせいでこんな事になって」
「アケノさん…」
ゴホゴホと小さく咳をしているルイン。
身体に薄っすらと聖女の証である、羽衣のようなものが浮き出ている。
自分を徐々に治すことで、自分を延命しているのだろう。
「俺の世界に戻ったら、お前に卵料理食わせてやりたかったな…」
「卵料理?あんまり美味しくないですよ、皮がブヨブヨしていますし」
「皮?…あー、もしかして鳥の卵じゃない?」
「そうです、荷馬車とかに使われるトカゲの卵ですよ」
「そりゃ残念だ、ニワトリの卵は美味しいんだぜ」
「………」
「ルイン?聞いてるか?」
唇を青くし、小さく息をするルイン。
やれやれ…聖女様が俺より先に気を失うなよ。
まあ、あの寒空の下で防護服に身を纏い冷たい水を撒いて掃除していたあの日に比べたら。
あの日…俺の死んだ…あの日に…。
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コッコッコッ
はいはい、わかってるよ餌の時間だろ?
コッコッコッ
相変わらず臭いなぁ…このフンの臭いだけは慣れないな。
コッコッコッ
美味しいかお前たち。
コッコッコッ
…何か言ってくれよ、俺を恨んでいるとか、ここから出してくれとか。
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「そう、貴方たちは、それが望みなんだね」
「ううん、わかった、貴方たちに任せる」
「必ず、あの人を、守ってあげてね」
客室は、真っ白い塊に埋め尽くされていた。
それは、この世界には存在しないはずの鳥。
ニワトリが、客室のあらゆる隙間を埋め尽くしていた。
数百、いや数千のニワトリが空間という空間に詰め込まれている。
その多くは、寒さに絶命し息絶えている。
唯一、生存しているニワトリが意識を失っているアケノの額を突いていた。
霞がニワトリの隙間を縫って、アケノの傍に近寄る。
少女の姿になったその霞は、アケノの耳元に近寄るとそっと呟いた。
『聖女様をお願いしますね、異世界からの勇者さん』
船は、凍ったまま舵取りも無いままゆっくりと火山島へと流れていく。
運命に、流されていくかのように。




