Sランクの視線とFランクの鎧
ある日の午後、空がいつものように雑務用の倉庫で、投げ渡された剣の最終チェックをしていると、校内で最も清潔で穏やかな魔力を持つ人物が、彼の作業場に近づいてくるのを察知した。
そのオーラは、心を落ち着かせる薬草の香りのように優しかったが、同時に、空のFランクの汚れた現実を鮮明に照らし出す鋭利な光でもあった。
Sランク首席、青柳雫だった。
彼女は、空の汚れた作業服と周囲のジャンク品を、見下す視線で見ることはなかった。むしろ、その瞳には、空の存在そのものが抱える危険を案じるような、深い懸念と静かな心配が宿っていた。彼女の制服は塵一つなく、その手には、高機能な魔力解析パッドが握られている。
「あなたが、能力値ゼロの如月空さんですね」
彼女の声は静かで、空の耳に優しく響いた。
空は、袖の中の脇差の柄を握りしめる衝動を抑え、一歩引いて、形式的に一礼した。
「はい」
「私は青柳雫です。単刀直入にお話しさせてください。私は、あなたの能力値と雑務の危険度、そしてあなたの推定収入を分析しました。その結果、論理的に見て、あなたがこの学園にいることは、あなたの生命にとって極めて危険という結論に至りました」
雫の言葉に、空の胸の奥で、鈍い痛みが走った。
彼女の論理的な優しさは、空の心に鋭い刃のように突き刺さった。
彼女は嘲笑しているわけではない。
純粋なデータと合理的判断に基づき、空の存在を「処理すべきエラー」と見なしているのだ。
「あなたの現在の収入では、あなたが背負っているかもしれない負債を解消することは、統計上不可能です。私は、あなたの安全と効率を考慮して、退学を勧告します」
この言葉は、Fランクの生徒たちから浴びせられる直接的な侮辱よりも、空にとってはるかに深い屈辱だった。
彼女の言葉は、空の「稼ぐ」という唯一の目的を、無謀で非効率的な夢だと断罪していた。
それは、空の『無力』を前提にした、最も残酷な親切だった。
全身の筋肉を硬直させ、平然とした表情を貼り付けた。
雪月流の教えは、いかなる状況でも心を乱さず、相手に隙を見せるな、というものだ。
「ご心配ありがとうございます、青柳さん。ですが、私は行政指導の特例でここにいる雑務員です。私の身の危険や、目的の達成については、教師の指示に従うのみです」
自身を思考を持たない、ただの歯車として位置づけ、感情を完全に押し殺した。
彼は、Fランクの雑務員という、最も価値の低い鎧を身に纏い、自分の本質を隠し通そうとした。
「私の分析が間違っているなら、それを覆す『何か』をあなたは持っているのですね。それが、能力値に反映されない『非魔的な力』ですか?」
雫の視線は、空の袖口に隠された脇差の柄、そして空の体内で厳しく制御されている雪月流の呼吸法が生み出す「気の静寂」に注がれた。
彼女の目は、空の持つ力を脅威ではなく、未だ計測されていない可能性として見つめていた。
雫は空の言葉に納得したわけではなかったが、それ以上は立ち入らなかった。
彼女は解析パッドに何かを記録すると、空に向かってわずかに頭を下げた。
「分かりました。私の専門は支援です。もしあなたが窮地に陥り、合理的な支援が必要になった場合は、私の解析データはあなたの力になれるかもしれません。ただし、この学園の秩序は絶対です。能力を持たない者が、無秩序な行動をとることは、許されません」
このSランク首席の慇懃な態度は、心にさらなる重みを与えた。
彼女は空を対等な人間として扱っているのではない。管理下にある、危険な対象として、最大限の注意と礼儀を払っているだけだ。
その静かな敬意こそが、空のFランクとしての劣等感を抉った。
静かに一礼を返し、その場から立ち去る雫の澄んだSランクのオーラが完全に消えるまで、微動だにしなかった。
彼女が去った後、初めて強く息を吐き出し、袖の中の脇差の柄を強く握りしめた。
彼の心臓は激しく脈打っていた。
あの女の優しさは、俺の『無力』を前提にしている。俺が能力値ゼロである限り、俺の行動は全て「無謀なエラー」としか見られない。
この屈辱を晴らすには、彼女の「合理的な統計」を、雪月流の力で叩き潰すしかない。
汚れた作業服の胸元を固く握りしめた。Fランクという冷たい現実と、Sランクの温かい論理。
そのどちらもが、空にとっての能力者社会という名の檻だった。
この檻を月光の刃で切り裂く決意を、改めて胸に深く刻み込んだ。