主導権の掌握
その日の深夜、空は自室の簡素なベッドに座り、黒いカードを取り出した。
このカードは、空が流派の負債を肩代わりさせるために、闇社会の巨大なインフラ、『黎明の月』へ接触を図るために用意した端末だった。
空の指先がカードに触れ、情報送信の特殊なコマンドを実行すると、端末の表面が微かに発光し、秘匿性の高い回線が開かれた。
空は、トロールの魔石の画像データと、自らの「能力値ゼロ」の証明書、そして流派が抱える負債の正確な金額を、交渉材料としてデータ送信した。
すぐに、カードから低く、落ち着いた、それでいて油断ならない男の声が響き渡った。それは『黎明の月』の交渉役、クロガネであり、空の提示した「情報」を精査していることが、声のトーンから見て取れた。男の声には、困惑と、それを上回る興奮の色が滲んでいた。
「…これは驚いた。アーマード・トロールの最高級魔石。そして、この『能力値：ゼロ』のID。あなたが、この素材の提供者だと？しかも、学園の情報管理センターからの緊急召集があった直後。SSランクの五十嵐部長の《完全調和》システムを、データ上のノイズとして処理させたとは、流石と言うしかありません、空」
男の声は、空の完璧な「演技」と武術の真の力が、彼らの組織の論理さえも上回る成果であったことを、最大の驚嘆をもって認めていた。
空は、極限の戦闘と最高峰の論理的追及を切り抜けたことで得た確固たる自信をもって、流派の運命をかけた交渉を開始した。
彼の声には、Fランクの学生としての卑屈さは一切なく、研ぎ澄まされた武術家の静かな威圧感が宿っていた。
「そちらの驚きは、俺の価値を証明している。俺は、単なる学生ではない。俺の要求は一つ。流派の負債、全額の肩代わりだ。そのために、このトロールの魔石と、俺自身が持つ秘匿された『無魔の体術』を提供する」
空は、男の返答を待たずに、さらに致命的な情報を突きつけ、交渉を完全に掌握した。
彼は、Sランク首席、青柳雫の存在を組織への最大の牽制として利用したのだ。
「五十嵐の論理は欺けた。彼女のシステムは『無能力者がトロールを討伐する可能性』をゼロと計算したからだ。だが、青柳雫の武の直感は、俺の『気』の変質を見抜いた。彼女は、システム上の異常ではなく、個の脅威として俺を認識し始めている。これ以上の活動をFランクの立場という欺瞞的な枷をつけたまま続けるのは、非効率であり、流派の秘匿という本来の目的に反するリスクが高すぎる。雫のような武の天才の監視下で、お前たちの活動を続けることは、お前たちの組織全体の存続にとってもリスクとなる」
空の言葉は、無能力者という立場から発せられたとは思えないほどの冷徹な交渉力に満ちていた。
自分自身が持つ情報（雫の疑念）と自分の力（SSランクのシステムを欺いた実績）を正確に価値換算し、組織に提示した。
彼は、黎明の月が能力者社会の秩序と情報に極度に依存している事実を見抜き、それを逆手に取ったのだ。
空は、命を懸けた戦闘の先に得た交渉材料を、一切の妥協なく最大限に引き出そうとしていた。
「俺が求めるのは、負債の解消と、学園の監視を完全に回避し、負債完済に直結する、リスクに見合った次の任務だ。俺は、単なる駒として扱われることは拒否する。俺の能力を最大限に活かす舞台を用意しろ。この条件を飲むならば、流派の負債を肩代わりし、この魔石を換金完了次第、俺は対等な協力者として、お前たちのネットワークを利用する。返答次第では、このトロール討伐の情報を能力者管理委員会にリークし、お前たちの存在そのものを論理的な異常値として学園に検知させることも可能だと理解しろ」
