消せない葛藤
トロール討伐という極限の偉業を成し遂げた直後、全身を激痛に苛まれながらも、空の思考は驚くほど冷静だった。
彼の最初の任務は、勝利の確固たる証拠を確保すると同時に、自身の関与を示す痕跡を完全に消し去ることだった。
脇差でトロールの硬質な魔力岩の甲殻を砕き、その中心から慎重に取り出した巨大な魔石は、単なる素材ではなく、空の「個の力」の絶対的な証明であり、そして何よりも流派の負債を大きく減らすことができる現実的な資金源だった。
この魔石が持つ価値は、Aランクパーティにとって数週間分の労働に匹敵するものであり、空にとって正規のルートでは決して手に入らない規模の富を意味していた。
彼はその魔石を、汚れた作業服の内ポケットの奥深くに隠した。
この勝利を闇に葬るという行為は、空の心臓を深く、重く突き刺した。
祖父の教えには、「真の武とは、静かに為され、人に知られずとも己が心に刻まれるもの」という言葉があった。
しかし、この勝利を隠すのは、己の武の存在そのものを社会的に否定することに等しいのではないかという苦い葛藤が、空の意識の底で渦巻いていた。
それでも、彼の脳裏には、先日の戦闘で味わった屈辱的な敗北の予感と、毎月確実に迫る流派の負債の返済期限が、冷たい現実として焼き付いていた。
この成果を秘匿しなければならない理由は、「能力値ゼロ」の人間がAランク相当のトロールを単独討伐したと公になれば、雪月流という未知の武術システムが、学園という能力者社会の巨大な監視下に置かれ、研究対象として解剖されかねないという危機感にあった。
学園の正規ルートでは、彼の能力は「偶然」として片付けられるか、あるいは「システムの脅威」として徹底的に管理され、この魔石の正当な価値を認められることは絶対にないだろう。
彼は正攻法では、流派の負債を完済するだけの金銭を稼げないという、能力者社会の絶対的な経済原理を理解していた。
故に、流派の再興という至上の目的のため、「武の誇り」を一時的に「戦略的な欺瞞」の下に置くという苦渋の決断を下したのだ。
この勝利は、公にされることで価値を失い、闇に葬られることで初めて、最大の経済的価値を持つことになる。
雪月流の高度な呼吸法を駆使して「気」の残留を抑制しつつ、トロールの死骸を能力者の常識に合わせた偽装工作で処理した。
この魔石を闇ルートで換金することで、能力者社会の金銭の流れから独立し、負債完済という目標に一気に近づくという、危険で孤独な道を選んだのだった。
彼の心には、流派への責任と負債完済という現実、そして自身の生存戦略が複雑に絡み合い、激しい葛藤を抱えながらも、秘匿の決意を強固にしていた。
この一連の行動こそが、能力者社会の論理の外側に立つ雪月流が生き残るための、唯一の、そして最も賢明な「武の証明」だと信じようとしていた。