最初の獲物
空が通路の角を曲がった直後、生々しい腐敗臭と共に、魔物が姿を現した。
通路の幅いっぱいに広がるそれは、低層ダンジョンで最も一般的な魔物、グロテスク・スライムだった。
魔力を帯びた粘液状の体を持つこの魔物は、接近するだけで能力者の皮膚を腐食させ、魔力付与された武器でなければ容易に断ち切ることができない。
スライムは、魔力を持たない空を「無価値な餌」と判断したのか、警戒心なくゆっくりと空に向かって蠕動し始めた。
その動きは、能力者に対する慢心に満ちていた。
空の体内の「気」が一気に高まる。これは、雪月流「無魔の体術」の、この世界での最初の実戦となる。
空は、Fランクの雑務員としてではなく、雪月流の継承者として、この戦いに臨んだ。
脇差の冷たい柄を握りしめ、地を這うような低い体勢を取った。
能力者ならば、ここで火や氷の魔法を放ち、距離を取るところだが、空の武器は純粋な肉体と刃だけだ。
彼は、スライムの腐食性粘液の届かない間合いで一瞬静止すると、大地を蹴り、爆発的な速度で一気に踏み込んだ。
それは、訓練場で繰り返した無数の素振りと、能力者たちの魔力残滓の中で磨き上げた集中力の結晶だった。
雪月流、月光一刀。
「気」の力が、脇差の刃に集中される。
魔力とは異質の、研ぎ澄まされた純粋な生命力だ。
スライムの中心にある核を正確に見抜き、魔力を完全に避けるように、水平に一閃した。
その動作は水の流れのように滑らかでありながら、鋼鉄の意志が宿っていた。
ザシュッ
粘液の体を持つスライムは、能力者の刃では容易に断ち切れない。
能力者は、魔力付与で刃の強度を上げる必要がある。
しかし、空の「気」が極限まで収束された無魔の刃は、魔力による肉体の抵抗を無視し、純粋な物理的な斬撃としてスライムの核を両断した。
切断された核は、魔力を失い、ただの塊となって地面に落ちる。
スライムの体が、魔力を失ったただの粘液となり、通路の床に広がる。
脇差の刃を一気に鞘に戻した。
その動作は、訓練場で繰り返した動作と寸分違わない、完璧なものだった。
彼は、体内の「気」の消費と、微かな全身の震えを感じながらも、心の中で確信した。
(通用する。この力は、魔物の魔力による肉体を、純粋な武で打ち破れる。能力者社会の誰もが否定した雪月流の力は、このダンジョンという純粋な戦場で、真の価値を持つ!)
空の胸ポケットの黒いカードが、わずかに熱を帯びたように感じられた。
この成功が、黎明の月との交渉において圧倒的な切り札になることを悟った。
この力を、能力者たち相手に試す切迫感を覚える。
その時、ただ低い、不規則な魔物の唸り声が聞こえた。
即座に静かに踵を返し、ダンジョンを後にした。