危険な魅力
空の心臓は激しく鼓動していた。
それは、Fランクの雑務員が死と隣り合う領域に足を踏み入れたことによる恐怖だけではない。
それは、興奮だった。
体内に流れる武術家の血が、この純粋な戦いの場を切望していた。
学園という能力者の牙城では、空は常に「能力値ゼロ」の雑務員として、能力者たちの傲慢な視線と冷酷な論理に縛られていた。
しかし、このダンジョンの内部では、魔物たちは空を「餌」としてしか認識しない。
そこにはFランクというレッテルも、青柳雫の統計的な侮辱も存在しない。
あるのは、脇差一本でこの殺意を捌ききれるかという、武術家としての純粋な挑戦だけだ。この剥き出しの真理が、空の精神を解放した。
(ここで、魔力に頼る能力者を圧倒するほどの力を見せつければ、俺の力は本物だ。そして、能力者社会の頂点に立つ者たちへの、静かなる反逆が始まる)
足元の湿った岩を踏みしめ、雪月流の呼吸法を深く、長く整えた。
洞窟の奥から響く不規則な唸り声、能力者パーティが残した微かな魔力の焦げ跡、岩肌の冷たさ。
五感で捉えられる情報すべてを、雪月流の「気」の奔流に変換していく。
空が危険な領域に踏み込んだのは、切迫した金銭的な理由だけではない。
能力者社会の頂点に立つ者たちに、能力を持たない武術家が匹敵する力を持つことを証明したいという、武道家としての根源的な渇望があった。
それは、空の内に潜む雪月流の誇りを、この世界に刻みつけるための、最初の、そして最も危険な一歩だった。
腰に提げた脇差に軽く触れた。
月光を模したこの無魔の刃こそが、彼がこの能力者の牙城で生き残るための、唯一の希望であり、反逆の証だった。
彼の心には、流派の負債を解消し、祖父との約束を果たすという重い責任がのしかかっている。
そのためには、自分自身の力が偽物ではないことを、この魔力の支配する戦場で証明しなければならなかった。
ポケットの中の黒いカードの冷たさを感じた。
黎明の月の誘惑に応じるかどうかを決めるのは、この試練の結果にかかっている。
もし、雪月流が通用しないと知れば、彼は誇りを捨ててでも、流派を救うために裏社会の闇に身を投じるだろう。
だが、もし力が本物ならば、彼は誰にも従わず、自らの月光の道を歩むことができる。
(京で散るか、それとも月光で生きるか。その答えは、この闇の中で見つけるしかない)
精神は、極度の緊張と高揚感によって、かつてないほど鋭敏になっていた。
低層ダンジョンの暗い洞窟の奥へと、その身を滑り込ませた。
彼の耳に、まだ遠い魔物の唸り声が届き始めている。それは、彼を待つ最初の獲物の、静かな予告だった。