危険領域への一歩
『黎明の月』からの黒いカードは、空の胸ポケットで熱を帯びた選択肢として重くのしかかっていた。
この冷たいカードの存在が、空のFランクとしての日常の枷を、いよいよ断ち切ろうとしていた。
Fランクとして許された物資運搬の境界線を、意図的に、そして決然とした意志をもって越え、低層ダンジョンの内部へと一歩を踏み出した。
その一歩は、能力者社会の「光」から、非能力者の「影」へと自らを投じる行為だった。
足元の湿った土は、校舎周辺の雑務エリアの土とは全く違う、生々しい重量感を持っていた。
ダンジョンの空気は、校舎周辺で感じていた淀んだ魔力の霧とは一線を画す。
周囲は、湿った土と、血、そして生きた魔物の濃密なオーラに満たされている。
その魔力の奔流は、空の無魔の体質をもってしても、その殺意に満ちた圧力は遮断できなかった。
まるで、深海の水圧のように、彼の肉体と精神に直接のしかかってくる。
雪月流の呼吸法を深く、長く整え、体内の「気」を極限まで収束させることで、この外界の圧力から内面の平静を守ろうとした。
空の目的は、黎明の月に応じる前に、雪月流の「無魔の体術」が、この能力者社会で通用する「真の力」なのかを証明することだった。
彼は、ダンジョンの入り口を振り返り、遠くに見える校舎の人工的な光を一瞥した。
あそこは、富と地位を魔力という尺度で測る、冷酷な世界だ。
しかし、このダンジョンの内部には、その無意味な階級は存在しない。
あるのは、脇差一本で、この殺意に満ちた空間を生き抜けるかという、武術家としての純粋な真理だけだ。
岩肌に沿って生える青白い発光苔が、ダンジョン内部を不気味に照らし出している。
その光景は、圧倒的な殺伐さを纏いながらも、どこか原始的で魅力的だった。
能力者たちがここで命を賭けて戦う理由は、高額な報酬だけではない。
この危険が剥き出しになった空間には、能力者たちの傲慢な魔力や階級の枷が一切存在しない。
Fランクの腕章も、ここで意味を持つのは、魔物から見れば、ただの新鮮な餌という認識だけだ。
この純粋な弱肉強食の真理が、空の武術家の血を騒がせた。
脇差の柄を握りしめ、前へと進む。
彼の身に纏うのは、汚れた作業服と、能力値ゼロという最弱のレッテルだけだ。
しかしその内部には、能力者社会の能力という名の光に抗う、雪月流の「月光」の誇りが、静かに燃え上がっていた。
このダンジョンを、自身の「無魔の体術」がこの世界で通用するかの試金石と定めた。
この試練を乗り越えなければ、彼は黎明の月の誘惑に応じるにしても、対等な立場で取引することはできないだろう。