黒いカードとFランクの枷
『黎明の月』の男が去ってから、空の日常は以前にも増して張り詰めたものになった。
彼の作業服のポケット、ちょうど心臓の鼓動がわずかに響く位置には、あの黒いカードが冷たい重みとなって忍ばせてある。
このプラスチックの感触は、空の肌を通じて、能力者社会の冷酷な現実と、そこからの反逆の甘美な可能性を、毎日、彼の心に突きつけてきた。
空は、午後遅くの雑務として、Aランクの生徒の魔力剣の手入れをしていた。
今日の午前中の訓練で爆発させた炎魔法の熱が、まだ微かに剣の柄に残っている。
訓練で消費された魔力結晶の残滓は、空がFランクの雑務で得る週給の何倍もの価値がある。
目の前で、生徒は仲間と笑いながら、今日の探索で手に入れたという高価な魔石を自慢し合う。
その会話は、空には透明な壁の向こうの、遠い惑星の言語のように聞こえた。
この屈辱的な雑務。
能力者たちの足元を支えるための労働。
ここでどれだけ努力しても、俺は一生、彼らの影でしかない。
自分の手についた錆と魔力結晶の粉を強く握りしめた。
あのカードを使えば、この状況を一瞬で終わらせることができる。
流派の負債も、祖父の負傷も、全て解決できる……最短で、最大の富を得られる。
この思考は、麻薬的な誘惑だった。
しかし、雪月流の教えが空の倫理観の防波堤として、巨大な波に立ち向かう。
流派は代々、能力者社会の非人道的な支配に抵抗してきたが、その手段は常に「無魔の体術」という、正々堂々たる武の道だった。
雪月流の誇りは、闇に堕ちることで光の支配に抗ってはならないと告げていた。
月光は、自らの光で夜道を照らすものだと。
だが、この清廉な誇りを、Sランク首席の青柳雫の言葉が、論理的に、そして非情に打ち砕く。
彼女の論理的な警告――「Fランクの雑務では、目的は達成不可能」――は、空の無力さを前提にしている。
彼女の優しさですら、空を管理下にある危険なエラーとして見ている証拠だ。
雫の言う「統計」を覆し、流派を救うには、黎明の月の提示するような非合法な力を使うしかないのだろうか。
能力者協会の支配を打ち破るという目的は、雪月流が代々見据えてきた目標に、皮肉にも最も近い、しかし最も汚れた道なのではないか。
正道と裏道の狭間で、精神が引き裂かれるような葛藤を味わっていた。