月光の誘惑
「我々と手を組め、如月空くん。君が望む富も自由も、全て与えよう。我々は、君の雪月流の技術を正しく評価し、能力者社会の平均を遥かに超える報酬を支払うことを約束する」
男の声は、静かでありながら、空の「稼ぐ」という切実な目的に対する、抗い難い甘い誘惑を含んでいた。
その高額な報酬の提示は、空の不信感をさらに増幅させた。
空がFランクの雑務で得られる報酬は、Sランク能力者の数千分の一でしかなかった。
それにもかかわらず、男が提示する条件は、あまりにも異常な好条件であり、正当な手段ではありえないことは明白だった。
頭の中では、「流派の負債」という重石と、「危険な裏取引」という警告灯が、激しく点滅していた。
男の差し出す黒いカードと、背後に見える西京探索高校の威圧的な校舎を交互に見つめた。
彼の表情は、固く、冷徹に保たれていた。
もし、この男の組織が提示する報酬が本物ならば、空は祖父との約束を、数年ではなく数ヶ月で果たせるかもしれない。
その一筋の希望が、空の理性の壁にひびを入れようとしていた。
「あなたの組織は、一体何を目的としている?なぜ、能力値ゼロの私に、そこまでの報酬を支払う必要がある」
男は、空の質問に、細いサングラスの奥で笑ったようだった。
その感情の見えない笑みが、空に最も不気味な印象を与えた。
それは、人間的な感情ではなく、データが期待通りの反応を示したことに対する、機械的な満足感のようだった。
「目的はシンプルだ。『能力者協会の支配』からの脱却、そして、『異能の真の価値』の再定義だ。君のような非魔の力が、魔力の力に勝ることを証明する。それが、我々の黎明の月だ」
男の言葉は、能力者社会の矛盾を突く、最も危険な思想だった。
空の無魔の体質は、能力者たちにとってバグであり、異端だ。
この組織は、その異端性を、革命の旗印にしようとしている。
その思想に抗い難い共感を覚えると同時に、この組織がどれほど能力者協会に敵視され、危険視されているかを悟った。
男は、空がカードを受け取らないことを悟ると、有無を言わさず、黒いカードをそっと空の作業服のポケットに押し込んだ。
その傲慢な行動に対し、強い憤りと、テリトリーを侵されたことへの不快感を覚えたが、ぐっとこらえた。
この場で刀を抜くことは、流派の存在を公に晒し、最大の危機を招く。
空は、雪月流の教えに従い、感情を殺して、この不気味な誘惑を耐え抜いた。
「急ぐ必要はない。ただ、君の時間は有限だ。このカードは、君が『能力者社会への反逆』を決めた時に連絡するためのものだ。我々は、君の連絡を待っている」
男はそう言い残すと、空に背を向けた。
その姿は、来たときと同じように、周囲の魔力の流れを完全に断ち切った静寂の中で、夕闇に溶けるように立ち去った。
男が完全に視界から消え、周囲の魔力場が元の淀んだ状態に戻るまで、微動だにせず、警戒を解かなかった。
ポケットに入った冷たい黒いカードの感触を確かめた。
それは、彼の汚れた作業服の中で、異様に冷たく、重い存在感を放っていた。
この不気味な組織の誘惑は、空にとって不愉快だったが、同時に、流派を救う唯一の希望のようにも感じられた。
(あの男の言う通り、俺の時間は有限だ。Fランクの雑務では、流派は潰れる。だが、この道は、地獄への近道だ。しかし……)
空は、遠くで訓練を終えたAランクの佐倉響たちの騒々しい笑い声を聞いた。
彼らは、空の数千倍の報酬と自由を手にしている。
この能力者社会への屈辱を晴らすため、そして流派を救うために、最も危険な選択肢を、真剣に検討し始めた。
空の目の前に、能力者社会への反逆という、最も危険だが、富に満ちた道が開かれた瞬間だった。