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『速記せぬ女房』

作者: 成城速記部

 ある村にプレスマンの芯屋が住んでいました。プレスマンの芯なんて、日に何千本も売れるようなものでもありませんので、生活は楽ではありませんでした。

 ある夜、一人の女がプレスマンの芯屋の前にうずくまっていました。具合でも悪いのかと思って声をかけると、泊まるところがなくて困っているのだと言いますので、一晩くらいならと思って、泊めてやりました。

 次の朝、女がまだ寝ているうちに、プレスマンの芯屋は仕入れに出かけました。これから仕入れに行くくらいですから、プレスマンの芯屋の家には、盗まれるようなものもありませんので、別に構わないと思ったのです。目が覚めたら勝手にいなくなるだろう、と。しかし、プレスマンの芯屋が帰ってくると、女は、まだいました。掃除をして、食事をつくって待っていてくれたようです。しかし、女の分の食事はありません。尋ねてみると、私は食事はいただかないのです、などと答えます。女の素性をいろいろ尋ねようとしましたが、肝心なところは話したがらず、わかったことは、行くところがないということ、家族もいないということ、食事はしないということ、速記もしないということ、掃除と洗濯は得意だということ、でした。

 次の日も、その次の日も、女は帰ろうとしません。事実上、女は、プレスマンの芯屋の女房になりました。その後は、特に、何ということもない日々が続いたのですが、プレスマンの芯屋には、少し気がかりなことがありました。商売物のプレスマンの芯が、少しずつ減っているような気がするのです。初めは気のせいかと思ったのですが、細かく出入りを帳面につけてみると、間違いなく減っていることがわかりました。

 状況から見て、女房があやしいのですが、何かわけがあるのかもしれず、いきなり問い詰めるのもどうかと思って、お寺の和尚さんに相談してみました。こういうときは和尚さんです。和尚さんは、間違いなく女房があやしい、と断言しました。まあ、和尚さんじゃなくても、そう言うとは思いますが。和尚さんは、プレスマンの芯屋に、今度、仕入れに出かけるようなふりをして朝早く出かけ、そっと家に戻って梁に上り、そこから女房を監視するよう入れ知恵をしました。

 次の朝、プレスマンの芯屋は、和尚さんに言われたとおり、朝早く出かけて、きょうは遠方まで仕入れに行かなければならないから、帰りは遅くなる、といって、そっと家に戻って、梁に上り、女房を監視しました。すると、女房は、家の掃除をてきぱきとこなし、洗濯を終えると、水をくんできてかめをいっぱいにし、夕食の下ごしらえまでも終えてしまいました。ここまでが午前中の出来事です。実によくできた女房です。疑って悪かったな、とプレスマンの芯屋が思った直後、女房が、ちゃぶ台を持ってきて、押し入れの奥から原文帳を引っ張り出してきたかと思うと、商売物のプレスマンの芯、十本入り一ケースに手をつけ、髪留めのふりをして差してあったプレスマンに装填しました。もちろん装填したのは一本です。二本入れると、プレスマンは芯が詰まります。

 それはさておき。女房は、これから速記をしようとしているようですが、速記というのは、朗読者が朗読して、速記者が速記するものです。この状況は、誰かがやってきて、女房と二人で、夫であるプレスマンの芯屋に内緒で、白昼堂々、速記に興じようということなのではないでしょうか。プレスマンの芯屋は、何とも言いがたい気持ちで成り行きを見守りました。

 しかし、事態は、プレスマンの芯屋が考えたのとは違う方向に進みました。女房が、髪留めのふりをして差してあったプレスマンを外した後、ざんばらになっていた髪の後頭部を二つに分けると、そこには、何と、口があったのです。後頭部に口が。

 女房は、ちゃぶ台の上の原文帳に向かって正座し、いかにも速記を始めるような姿勢になりました。しかし、朗読者がいません。どうやって速記するのだろう、プレスマンの芯屋がいぶかったそのとき、はい読みます、の声に続いて、朗読が始まり、女房は速記を書き始めたのです。プレスマンの芯屋は目をこらしました。何と、女房の後ろの口が朗読をし、女房がそれを速記しているのです。何と便利、いや、何と恐ろしいことでしょう。一人で速記ができるのです。じゃ、やっぱり便利です。

 女房が朗読と速記を繰り返し、十本入り一ケースの芯を消費し終えて昼寝を始めたのを見て、プレスマンの芯屋は梁から降り、家から出ることができました。あてもなく歩いて時間をつぶし、仕入れから帰ったようなふりをして、家に戻りました。

 プレスマンの芯屋は、女房に出て行ってくれるように頼みました。女房は、わけを尋ねましたが、本当のことを言うわけにはいかず、つい梁に目をやってしまいました。

 女房は、実は山姥でしたので、この目線だけで全てを悟りました。夫が前から疑っていたことも。山姥は髪留めのプレスマンを抜き、髪を振り乱して、恐ろしい形相に変わりました。そうして、プレスマンでプレスマンの芯屋を刺し殺そうと、じりじりと迫ってくるのです。プレスマンの芯屋の背中が壁につきました。もう逃げられません。プレスマンの芯屋は、懐を探り、手に触ったものを投げつけました。プレスマンの芯屋の懐に入っているものといえば、プレスマンの芯に決まっていますが、そんなものを投げつけても、山姥がひるむはずはありません。

 しかし、山姥は、床に散らばったプレスマンの芯を丁寧に拾い集め、手に持ったプレスマンに装填しました。もちろん、一本だけです。二本入れると、プレスマンは詰まります。ちゃぶ台を用意して、押し入れの奥から原文帳を取り出し、正座してしまいました。条件反射、かもしれません。

 プレスマンの芯屋は、朗読を始めました。山姥の表情が、どんどん柔和になっていきます。十本の芯を消費し終えたときには、いつもの女房に戻っていました。

 プレスマンの芯屋は、思い直し、女房がプレスマンの芯をくすねるのをとがめないことにしました。食べ物屋さんの従業員がまかないを食べるようなもので、大した消費量でもありませんし、速記をする山姥に悪い山姥はいませんから。



教訓:殺されかけた話がうやむや。


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