七、婚約破棄だなんてね……
(本日分3/3)
「ねえ聞いた?エヴェリーナ様の話」
「私もさっき教えてもらってびっくり。本当なのかしら」
「私の従兄弟に神殿に入った方が居るのだけれど、マリエル様って強い神力を見込まれて貴族籍を得たのですって。それでね、神殿で大切なお役目を頂いてるみたいなの」
「まあ、それで王家にもコネクションがあったのね」
「不敬を咎められない理由はそれだったのかしら」
「むしろ仕組まれていた?」
「要らない正義感であの方を不用意に諌めたりしなくて良かったわ」
「エヴェリーナ様でさえ……、ですものね」
「理想のカップルだったのに、残念よね」
「まだ本当かどうか分からないわよ」
「でも、この時期に休学なんて、御卒業には影響ないのかしら」
「もし、留年や退学なんて事になるなら、噂も真実味を帯びるわけよね」
「婚約破棄だなんてね……」
おしゃべりに興じる女生徒の足元を、掠めるように猫が横切る。
デカくてノロマな人間の動きを予測して避けて通るなんて、猫にとっては至極簡単。風と共に駆けて猫の道の経由地にまでやって来た。ここで待つ神官服の男との取引のため。
男の名前はレイジ。学園内の聖堂を任された神官である。くすんだような肌と艶のない黒髪、年寄りではないが若くも見えない。美しさとは無縁だけれど、醜くもない。特筆する所のないのが特徴の男だが、猫にとって大事なのは男に害意がなく、猫に必要なものを提供できる事。利害関係が成立すれば異種族のステータスなどは些末。猫は望みの干し肉を受け取り、男の手が自らに触れるのを許す。
猫の額にちょいと押し当てたレイジの人差し指に灯る光は、花火のように儚く爆けて無数の囁きの残滓が広がる。それは猫が耳にした人間の言葉の欠片のようだった。
猫は白靴下のハチワレで、今は大口を開けて硬い干し肉に齧り付きガジガジと咀嚼を試みている。その懸命な様子をレイジは無感動に見下ろした。
猫は甘いものを好まない。
多くの肉食獣も、甘いものを好まない。
鳥の一部は花の蜜を好み、他の同種の多数とは異なって甘いものを欲求する。
遠い昔の哲学者が「すべての生き物は甘さから栄養を得る」と言ったそうだが、人間を含む糖をエネルギー源とする生き物は確かに、甘いものを進んで摂取する傾向がある。彼らは、甘味を摂取した際に非常に強い幸福感を得るようなのだ。
レイジは神官としての経験上、依存度の高いある種の薬物よりも余程強い中毒性を甘味から感じ取っていた。
強い幸福感を伴うエネルギー源である甘味に、同じく中毒性の高い、魔力的エネルギー源である神力を付与して、大容量の魔力タンクを持つ大食漢に与え続けたら、どうなるか。
レイジは一人ほくそ笑んだ。
とりすました高位貴族ほど、魔力的には飢えやすいのだから面白い、と。
それを見ていた猫が、退屈そうに「にゃー」と鳴く。
とぷり…とぷり…雪は溶け落ち、大地に染み渡る。
——ざわざわざわ——若葉が目を覚まし、太陽を探して手を伸ばす。
白い平原に満ちる静寂をこじ開け、ぴょこり、ぴょこり、突き出した緑の草先が歓びを歌い始める。
長い忍耐の時が終わり、解放は訪れた。
私は短くとも美しく愛を謳歌しよう。
私は子供たちが笑う未来をこの手で守り育てよう。
私たちは幸福を取り戻そう。
屈服の冬は終わった。
——キラキラ、キラキラ、
光を、集めて織り上げたような、春色のオーガンジー。
部屋の中央に立つトルソーに着付けた卒業パーティー用の新品のドレスは、花びらみたいにしっとりと柔らかで花蜜が薫りそうに麗しい。
マリエルの髪と揃いのピンク色を基調にデザインされたマリエルの為だけの戦闘服。一世一代の晴れ舞台に立つマリエルに、きっとこれ以上なく似合うだろう。
贈り主の気持ちが嬉しくて、マリエルはドレスの胸元をそっと撫でる。
「これが殿下から賜ったドレスですか」
背後から不意に掛かった声に、マリエルが驚いて振り返る。戸口には、礼儀正しく両手を懐に納めるレイジが佇んでいた。
平凡な顔立ちの神官は、笑顔を作ると胡散臭いくらいに善良に見えた。
「素晴らしく美しいですね。やはり、私が申し上げた通りになったでしょう?」
神官服の肩衣に手を仕舞うお決まりのポーズで、ゆっくりと近付いて来るレイジはまるで信仰の権化のようだった。
「マリエル様のお力は本当に偉大だ。聖女としての素質はもちろん、貴女が望みさえすれば王妃の座さえ夢物語ではないのですからね。ああ、明日の卒業パーティーが本当に楽しみですね」
マリエルは手を握り合わせ、祈った。
自らの幸福を。
恋の成就を。
レイジがうっそりと笑い、祝福の言葉を紡ぐ。
「貴女を見くびった愚か者共を見返してやりましょう」