五、理不尽な圧力には屈しません
(本日分1/3)
「エヴェリーナ様、酷いです……いくらフィリップ殿下の婚約者だからって、こんなの!私たちの間に、エヴェリーナ様に対してやましい事なんて何もないんです!フィリップ殿下はただ私に親切にして下さっただけなのに、全部私が悪いって言うんですね……!」
エヴェリーナの目が、濡れそぼって凍えるマリエルから逸れて、ちらとクロードに向く。エヴェリーナの鉄面皮はそのままに、雰囲気だけが僅かにくつろいだのにマリエルは気付いた。無様に声を荒げた自分とは対照的な、静かに他人の心を食い荒らす捕食者の姿が、マリエルには見えた。
「そうね、確かにあなたが悪い。少し冷静になるべきよ。そうしなくては勘違いに気がつかないままで、間違いを重ねてしまうわ」
白々しくも憂い顔で説教を垂れるけだものに寒気がする。
「私、分かりません。分かりたくもない!私はただ幸せになりたくて、自分に出来る事を精一杯頑張ってるだけなのに、それが悪いなんて!そんな筈ないです!そんなのおかしい!」
でももしかするとマリエルの肌を粟立たせるのは、穢れた思想への嫌悪よりも、圧倒的強者に対する本能的な恐怖かもしれない。
「可哀想に、貴女は溺れているのね。だから命を拾おうと必死でもがいている。そんな時に、貴女が起こす波紋が他に与える影響なんて、構ってはいられないわよね。それは仕方がないわね。命懸けで足掻いているんですもの。理解できるわ。貴女はただ、生きようとしているのよね。だけどもしその行動が、貴女と同じように溺れる誰かを脅かしていたなら?やっぱり分からないし、分かりたくもない?」
マリエルは震える手で自分の胸元を握り締める。同じ制服、同じ歳、同じ性別の二人の運命は奇跡的にここに交差し、この先永遠に遠ざかる……、そんな気がした。
「……分かりません。エヴェリーナ様は溺れてなんか無いじゃないですか」
「そうね、私は船に乗って、溺れる貴女達をどうやって助けようかと考えているのだわ。船の数は限られているし、私も泳げないから」
「自分だけ高みの見物ですか。フィリップ殿下は私に優しくしてくださるのに、貴女は……!」
舞台に踏みとどまろうと必死のマリエルは、虎の威を借りてエヴェリーナを睨み付ける。きっとここを退いてはヒロインにはなれないから。
「フィリップは確かに貴女に親切にしたわね。彼なりに貴女に悪いと思っていたのかも知れないわ。だけどフィリップのした事が余計に貴女への反感を燃え上がらせたのも確かでしょう?本当に純粋な善意だったのかしら?少し疑問よ」
「やめてください!フィリップ殿下を悪く言わないで!」
マリエルは叫んだ。フィリップがヒーローで、マリエルがヒロインで。ヒーローは、困難な人生からヒロインを救い出してくれて、二人は末永く幸せに暮らすのだ。
幼児のように嫌々と首を振る。そうしてみると濡れた体に張り付く髪や衣服が擦れて只々不快だった。
「そうじゃないの、貴女の知るフィリップ殿下が偽物だと言うのじゃない。誰だって色んな顔を持っているものよ。でも、一つの顔をその人の本質と信じるのは危険だわ。貴女の知らないフィリップや、見えない事実が必ず在ると———」
「もう良いです!」
両耳を塞いで目には涙を溜め、正しくほうぼうの体で、それでもマリエルは虚勢を張った。
「とにかく、私はこんな理不尽な圧力には屈しませんから!それだけ、言いたかったんです!失礼します!」
そう言い捨ててエヴェリーナの横をバタバタと駆け抜ける。付き従うクロードもエヴェリーナの側まで来て少し歩を緩める。
「ナタリア・コストナー伯爵令嬢、他三名が関与しています」
「ナタリア嬢の婚約者は神殿派筆頭ね。ありがとう」
クロードは一礼するのに紛れて囁き声で伝達を済ますと、長い足を前に踏み出し先を急ぐ。残されたエヴェリーナは二人の進んだ道を振り返った。
「"理不尽な圧力"ね……」
マリエルの力が初めて権力の知るところとなった時、王国の首脳部はちょっとした騒ぎになった。路傍の石に等しい村娘に、長年待ち望まれた国防の切り札復活の可能性が秘められていたのだから。
急ぎマリエルを男爵家の養子にと、時の宰相からの進言を受けて、そのように決定したのは国王陛下であり、彼女の運命を捻じ曲げた不可抗力の正体は、国家だ。
建国にまつわる伝説に語られ、中央神殿に秘蔵される救国の聖杯は、今も人知れず国土に祝福を付与し続けている。エヴェリーナ達が享受する世紀を跨いだ国の平穏は、聖杯の力なくしては有り得なかっただろう。
しかし、最後の聖女が世を去ってから、効力は徐々に失われつつあり、新たに注がれる神力で満たされる時を、聖堂の奥でひっそりと待っていた。
その事実を知る者から、待望の神力の持ち主を男爵令嬢として生まれ変わらせる計画は大いに歓迎され、またある者は激しく反発した。
権力の集中を懸念する者、自身の地盤の動揺を憂慮する者、男爵に代わってマリエルを世話したいと手を挙げる者。エヴェリーナのアベニウス公爵家も反対に回った家門の一つであった。
しかし反対の意思を示すいずれの勢力にあっても、マリエルを国家権力の支配下に置くべきだという認識は共通していた。
マリエルには力がある。
過たず役立てれば王国を繁栄に導く尊い力だ。しかし、強すぎる力は使う者の裁量次第で破壊をも齎す。
それ故にマリエルは抑圧され、管理され、自由を制限されてきた。マリエルがその圧力に反発する限り、彼女に安らぎは訪れないだろう。
稀なる力を失う日までは。
なぜなら彼女の持つ大き過ぎる神力こそが、第二の不可抗力であり、理不尽そのものであるのだから。
エヴェリーナは夕暮れの空を見上げた。そこには開国より永きにわたり国を護る結界が展開している筈だけれど、何処にもその存在を知ることは出来ず、遠い空は静かに夜に染まっていくのだった。
そして、巡る季節は三度目の春を見送る。