四、だからなのね
フィリップはマリエルによく笑顔を見せる。フィリップの笑顔は、"花も恥じらう"と言って良いある種の迫力があって、見る者に幸福感を抱かせる。マリエルを虜にした笑顔である。
けれど、フィリップの婚約者のエヴェリーナ・アベニウス公爵令嬢や一部の側近が相手になる時、彼らはフィリップからその極上の笑顔を奪ってしまう。彼らは、彼ら以外の誰もがフィリップの笑みを冒さないのに反して、フィリップの表情を著しく損なわせ、彼ら以外の全員がマリエルを邪険にするにも関わらず、彼らだけがマリエルに対して親切であった。
マリエルは、どうやらフィリップに疎まれているらしい彼らが、逆に可愛がられている自分に優しくする理由を想像して、分かりやすく嫌悪を向けてくる人々より余程胡散臭いものを感じた。
季節は、マリエルが学園で迎える二度目の春になっていた。
コツコツと重い木の扉を叩く乾いた音が響く。ペン先が紙を掻く音は止まず、書類を抱えたカイルが応答する。大きな執務机で仕事をするのは宮廷作法の授業を免除されている王太子フィリップで、静かに入室した来訪者が部屋の中央まで来ても、顔も上げずにペンを走らせている。
「フィル?少しおいたが過ぎるのではないかしら」
「リーナか」
溜息交じりに書類を捲るフィリップは、俯いたまま声の主を言い当てる。フィルはフィリップ、リーナはエヴェリーナ。幼少期より親交があった二人は、一国の王太子とその婚約者という立場になった今も、私的な空間ではこうして互いを愛称で呼び合っていた。
「もうこれくらいになさったら?クロード卿のシンパも派手な動きを見せてるわ。貴方少しマリエルを買い被ってるのではない?あの子が潰れてしまうわよ」
「いいや、マリエルは想像以上に強かだよ。あの強さは平民が本来持っている力なのかな。そのうち集まった嫉妬でパンでも焼き出すぞ」
フィリップのつむじを見下ろすくらいまで近くにエヴェリーナがやって来て、カイルも机の脇に控えた。それでもまだフィリップは客人に頭のてっぺんを向けたまま。
「パンなら料理人に焼かせて頂戴。軽口を叩く前に、反対派の旗頭にされる人間の身にもなって欲しいわ」
緩く波打つ金髪に蒼い瞳。細っそりと長い手足が優美なエヴェリーナは、嫌味を言っても品がある。
「あー悪いね。今、手を引いたら却ってリスクだから、もう少し辛抱して欲しい」
「目下、フィリップ殿下のお気に入りの徒花を共有したい輩が、増殖中なのです」
徒花とは実を結ばぬ花。会話に割って入ったカイルの言葉にエヴェリーナは不快感を露わに目つきを鋭くする。補佐役は美人の睥睨に、大人しくなって口を噤んだ。
「薬が効き過ぎては却って命を縮めるわ」
「どこまで毒が回っているのか確かめたいんだ」
仕事にかまけて目も合わせない婚約者に、エヴェリーナの声が低くなる。
「深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているの。貴方少し覗き過ぎている」
まるで亡者が墓を這うように、がっぷりと机に齧り付いていたフィリップが、はたと夢から覚めて、寝ていた自分を意外に思う人に似た顔でエヴェリーナを見た。
「そうかな。そうかもしれない」
「あまり自分を過信しない事ね。カイル卿も、フィルの暴走を止めないのは職務怠慢ではなくて?」
「諫言耳が痛いです」
裁きの女神然としていたエヴェリーナは、一つ溜息をつくと幾分表情を緩めた。
「貴方たちが失敗するのを、待ってる人の思い通りにならないで」
「ああ、君は相変わらず手厳しいな」
目を細めて婚約者を見たフィリップは、そのまま瞼を伏せて形の良い唇を尖らせると、ガリガリと頭を掻き混ぜた。
そこに「殿下」と扉の向こうから声が掛かる。しかつめらしいクロードの声だ。カイルがフィリップの乱れた髪をさっと整える。
「マリエル嬢をお連れしました」
ドアが開くとマリエルは遠慮もなく足を踏み入れ、盲目的にフィリップに駆け寄る。
「フィリップ殿下、お疲れですか?お顔の色が優れません。私のクッキー、魔力が回復するなら疲れにも効くのかも!食べてください。私に出来ることがあれば、なんだってお手伝いしますから、おっしゃって下さいね!」
「ありがとう。マリエルがそう言ってくれると救われるよ」
フィリップが神様みたいに鷹揚に笑う。
マリエルはその笑顔に満たされて有頂天になった。口元を緩め、憂いを帯びた目で婚約者を見るエヴェリーナを盗み見た。
「貴女みたいな人、学園に通う価値ないのよ」
(いいえ、私は聖女になるの。無価値なんかじゃない)
「貴女が幾ら媚を売ったところで、お世嗣を産むのはエヴェリーナ様よ」
(決めたのはフィリップじゃないんでしょ?そんなのどうなるか分からないじゃない)
「お情けを頂いたとしても若い内だけの事、どうせ直ぐに捨てられるのよ。エヴェリーナ様とは違うわ」
(フィリップはそんな事しない!きっとずっと私を愛していてくれるわ。エヴェリーナ様こそどうなるか分からないわよ!)
「フィリップ殿下だけでなく、クロード卿にまで手を出すなんて!恥ずかしくないの?」
(おかしな事言わないで!フィリップが私を心配して頼んだのよ!フィリップがしてくれたのよ!エヴェリーナ様にだって護衛くらい居るじゃない!)
「貴女、素行の悪い男性から徒花と呼ばれてるんですってね。徒花って、娼婦のことでしょう?」
(嘘よ!そんなの知らない!私はそんな女じゃない!誰が言ったのよ!エヴェリーナ様なの!?)
「君みたいなのが聖女だとか、世も末だな」
(私よりもエヴェリーナ様の方がよっぽど悪女らしいじゃない!冷酷で嫉妬深い人に違いないわ!)
「フィリップ殿下ばかりじゃなく、私たちの相手もしてくれよ」
(私は、貴方達が思ってるような人間じゃない!!エヴェリーナ様にはへつらうくせに、どうして私ばかりを蔑むの!)
「フィリップ殿下をお優しい王子様だと思ってるなんて、可哀想にな」
(やめてやめて!私やフィリップを悪く言わないで!あの方だけが私を救ってくれるの!私だけがあの方を救えるのよ!エヴェリーナ様じゃなくて、私が!)
「エヴェリーナ様に敵うところが一つもないくせに。厚かましい女よね」
(いいえ!私の方がずっと深くフィリップを愛してるの!誰にも負けないわ!)
「貴女って本当に、なんて愚かなのかしら」
(私は愚かなんかじゃない!私は愛されてる!私は幸せになる!)
(そうよ、フィリップだけが本当の私を見つけ出して掬い取ってくれるの。私だけが本当のフィリップを見つけ出して愛し慈しむの。二人の間には真実があるのよ!)
(だからなのね)
——糸が見えた。細い細い糸。
ゆらゆら揺れて、きらりきらりと輝いて。
これを掴めばきっと幸せになれそうな、そんな糸。
だけど掴むな、と言う人がいて、救いの糸を横取りする気かと聞こえないふりをした。
そうして掴んだ私の糸は、途切れてダラリと垂れ下がった。
降って来たのは災いだった。