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二、私、……帰らなきゃ

男爵家メリウェザーの姓を得て以来、彼女は家庭教師に愛の鞭を頂きつつ、学園への編入許可を掴み取る支度に忙しく立ち回った。けれどどうやっても教養不足は補いきれず、初等・中等時の受験を見送る事になった。


それで後がなくなって、十五歳からの高等学部初年の編入を目指して、彼女は猛勉強の日々を送っていたのだった。


政治経済、魔道具の仕組みやエネルギー効率まで、多岐にわたる履修科目に、せめて中等部初年に間に合っていればと後悔しても後の祭りで、ほとんどノイローゼになりながら、その日も図書館の長机にへばり付いていた。


身に降りかかる難題と、目の前の難問に、今にも唸り出しそうな状態だったから、声をかけられた時は「なんて迷惑な」と思った。




「やあ、君、とても頑張っているようだね。少し顔色が悪いけれど、平気かい?」


酷いクマの浮いた青い顔をして、しかも仏頂面で、不満も露わに見上げた彼女の目の前に立っていたのは、輝くような美貌の若者。


「だ、大丈夫、です」


なんとかかんとか返事をした彼女は、惚けた顔を赤く染める。


「本当に?人を呼ぼうか?」


光を集める白金の髪と、プリズムカラーが複雑に混じり合う瞳を持ち、その色合い以上に貴重で完璧な造形を誇る美の結晶体のようなその人に、重ねて気遣われて、彼女はとても悪い事をしてしまった気になった。


「いえ!少し寝不足なだけですから!本当に、大丈夫です!!」


はじめ、胡乱げに据わっていた目が皿のようになって、次に、その視線は全身を舐めるように這い回った。不躾な事この上ない。けれど不愉快なもてなしへの戸惑いを、おくびにも出さずにその人は微笑んだ。


「そうかい?無理はしないでね。僕はフィリップ。この図書館は僕の庭みたいなものなんだ。分からないことがあれば何でも教えてあげるよ。代わりに君の名前を教えてくれるかい?」


「わ、私はマリエル。です」


「そう、マリエル。素敵な名前だね」


美しい人は声までも極上。控えめに言って天上の人みたいなフィリップに名前を呼んでもらって、彼女——マリエルはなんだか、この時に初めて世界に生まれ落ちたような気分になった。いや、天に昇ったのかもしれない。


それがマリエルの初めての恋だった。


「これが、分からないのかな?」


ぽーっとなっていたマリエルが我に返る。小さい子供に尋ねるみたいに気遣わしげに話しかけるフィリップが、見おろすノート。


マリエルが書き付けた数式と、誤答をかき消す縺れた筆跡。汚いノートも解けない数式も、まるっと見られてマリエルは狼狽えた。なんならちょっと泣きそうになった。


「あ、あの、あぅ……」


「良かったら、僕が教えようか?」


「え!?……いいの?」


「一時間くらいなら」


マリエルの表情に喜色が溢れる。


「うれしい!!!」


大声で叫んだマリエルに、軽く目を眇めたフィリップが人差し指を口元に立てる。途端に青くなって口を押さえたマリエルの様子に、今度はフィリップが笑い声を溢し、二人は顔を見合わせて忍び笑った。


その日、フィリップは許された僅かな時間の内に、マリエルの学びの躓きをあっという間に解決してしまった。その上、勉強の面白ささえ教えてくれた。


伏せられた長い睫毛も、仄かに発光しているような滑らかな肌も、胸いっぱいに吸い込みたくなる森のような香りも、全てが好きでしょうがなかった。


だから、彼が着ている制服が自分の目指す魔法学園のそれだと気付いたマリエルが、義務でしかなかった目標をマリエル自身の心からの望みに変えたのも当然だった。


この夢のような束の間に、どうしようもなく"フィリップ"はマリエルにとっての"希望の象徴"になっていった。


けれど、夢は醒めるもの。


「マリエル」


フィリップから、困ったようにこちらを伺う人物の存在を知らされ、マリエルの顔が曇る。書架の影に控えて居たのは普段からマリエルに付き添ってくれている侍女のマーサだった。


「私、……帰らなきゃ」


フィリップに夢中になる内に、約束の時間を過ぎてしまったらしい。マリエルは、まだ帰りたくないなどと我儘を言える身分ではなかった。


急に重くなってしまったような体に鞭打って帰り支度を始めると、待ってましたとばかりにマーサがやって来て、テキパキと片付けを終えてしまってあっという間に別れるばかりになる。


「フィリップ次は——」


「ひっ、ぉお嬢様っ!」


マリエルが再会の約束を得ようとするのをマーサに阻まれる。いつもは穏やかな厚い手の平で、マリエルの口を塞ぐほどの勢いに気圧される内に、体格の良い侍女はぐいぐいとマリエルを引っ張って行ってしまう。「やだ、ちょっと、まって、まだ……!」なんて必死で抵抗しているのもお構いなしに、自分だけフィリップに向かって深々と頭を下げると、さっさとマリエルを連れ出してしまった。


それを、ひらひらと手を振りながら笑顔で見送ったフィリップの背後に騎士が姿を表す。専属護衛だろう。


「どう思う?」


そう尋ねたフィリップより、ひとまわり大きい騎士は、表情の乏しい飄々とした逞しい男で、主人に対しても気後れした様子が見られない。


「はあ、普通ですね」


「そうかい?私はもう少しマシなのかと思っていたよ。やっぱり教育って大事だね」


「殿下の求めるレベルが少々高すぎるのかと思いますけどね」


フィリップが驚いたように眉を上げて振り返える。


「そうかな」


「そうです」


「でも普通じゃ務まらないし、それ以下じゃ問題外だ。学力以上にモラルが危うくて入学させられなかったんだろうけど、待ったところで変わらなかったと見える。高等部では一波乱あるだろうな」


フィリップが溜息をつく。


どんな共同体でも異分子への風当たりは優しくないものだ。乱れた気流は雲を集め嵐を呼ぶ。風雨の後にもたらされるのは実りの季節か、瓦礫の山か。


マリエルに見せたのとは違う顔をして、フィリップは窓の外を見た。半年後、フィリップの憂いは現実となり大荒れの三年間が始まる。




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