十、月が世界を照らしていた
(本日分3/3)最終話
連行されるレイジを見届けたフィリップは、喧嘩に負けた子供のような風情で振り返った。むっつりと手を差し伸べられたエヴェリーナが、仕方なく側へ寄って、二人は指を絡める。
白だとばかり思っていたエヴェリーナのドレスは、近くで見ると不思議な光沢を帯び、ゆらゆらと輝いていた。フィリップの瞳の七色にだ。フィリップの衣装も、彼女の瞳の色の布地に髪色の金刺繍を施してあるのだから、あるいは言うまでもない事だったかもしれない。シンプル過ぎると思ったデザインも、エヴェリーナの気品をこれ以上なく引き出すように計算し尽くされているのだと、マリエルも気が付いた。
二人はマリエルの目の前を通り過ぎて、灯りの落とされた回廊の奥へと消える。
取り残されたマリエルは、兵士に促されて明るい方へと歩き出した。なんだかずいぶんと歳をとってしまったみたいな背中を、バルコニーに出る扉の前で立ち止まったエヴェリーナが見送る。
扉の外は晴れわたる星空。先に空の下に出たフィリップが、怒りでも優越でもなく虚しさが影を落とすエヴェリーナの横顔を、食い入るように見ている。灼けつくような視線にエヴェリーナは重い口を開いた。
「悪い人。残酷だわ」
「お褒めに与り光栄だな」
皮肉げに鼻を鳴らしたフィリップは、護衛に向けて視線だけで壁際に残るよう伝えると、エヴェリーナの手を引いてバルコニーの中央まで進む。
「四年前にはもう、王太子と聖女を縁組むべきという意見が水面下で大勢になりつつあった。良い子で居たら、君を失うらしかった」
フィリップは満天の星を見上げて言う。
「びっくりして会いに行ってみれば、当人は君の足元にも及ばない平凡な小娘だろ?君なら黙っていられるか?」
エヴェリーナも、そっと果てしない空を見上げた。
「マリエルだって本当は、自分を追い詰めた権力の在処が分からなかった筈がない。あらゆる困難が突き詰めれば私の所為だと、少なくとも心の何処かでは、知っていただろう。だからこそ、私を抱き込もうとあれだけあざとく画策したのだ」
宴の灯りも届かない北の夜空はしんと瞬いて、何もかもを飲み尽くしそうだ。
「そうでなくとも、現実に目を瞑って耳触りのいい言葉に惑わされるようでは、人の上に立つ資格は無い。考える事を放棄した人間が王族に加わるなど悍ましいだけだ。ドグマに陥りがちな彼女には、修道者こそが相応しい。そうだろう?」
あの星空さえ支配する神の、加護をいただく未来の国王は、妻となるべき者に縋るように問う。それは断罪の刃のようで、己への呪縛でもあるだろう。彼は一人の人間でありながら、裁きの雷であろうとする。
エヴェリーナは、なんだか涙が溢れて来た。
「貴方って、世にも美しい猛毒よね」
透明な雫を零す蒼い瞳がフィリップを見上げる。エヴェリーナの涙が誰のために流れるのか、フィリップは聞く勇気が出なかった。
だから、代わりに最後の砦まで後退する。
「リーナは、こんな私でも、愛してくれているね?」
彼女の正面に向き直り、エヴェリーナの繊細な掌を両手で握って、祈るように尋ねる。もし、否と言われても、二人は生涯を共にする運命であるけれど。
エヴェリーナが白い頬をつたう涙を拭って、柔らかな唇を開く。フィリップの心臓は壊れそうに高鳴った。
「毒をくらわば皿まで、ですわ」
月光に浴する乙女は、金冠の重さにも耐え得ぬような、なよやかな姿形をして、フィリップという毒杯を受け入れて自ら毒となる事さえ厭わない、そう言い切った。まるで初陣を飾る若武者のように凛として。
呆気に取られたフィリップは思わず「おぉ」と感嘆の声を漏らす。するとその締まりのなさに、エヴェリーナが眉を顰めてフィリップを見返した。
「ふっ……」
フィリップの胸に、抑えきれないものが込み上げて満ちる。咄嗟に試みた抑制も虚しく決壊し、迸り出た。
「くく、ふっ、あははははは———!」
空と庭園に哄笑が響き渡り、驚いたフクロウが木陰から飛び立つ。
エヴェリーナでさえ、もう何年も見ていなかった底抜けに無邪気な満面の笑顔で、フィリップが笑う。エヴェリーナも驚いて涙が引っ込んだ。
ややあって、発作が治まってきたフィリップが、それでもまだクスクスと笑いながら跪く。エヴェリーナの手を恭しく捧げ持ち、顔を見上げて晴れやかに笑うと、手の甲にそっとキスを贈った。そしてまたいたずらっ子のように破顔する。
「リーナのそういう可愛げの無いところ、堪らなく好きだな」
フィリップは心からしみじみとそう思ったのだけれど、エヴェリーナは初めて明かした一世一代の決意を揶揄われたようで、珍しく顔を赤くして、目つきを鋭くする。
「はいはい。それで褒めてるつもりなんだから、浮気中の脂下がった顔を私も拝んでみたかったわ」
「ええ?嫉妬してくれたの?」
そっぽを向いてしまったエヴェリーナを、急いで立ち上がって覗き込んだフィリップは、白皙の美貌を染めて目尻を下げる。
「私の戦友は、可愛い恋人にもなってくれるんだから本当、最高だね」
耳まで赤いエヴェリーナがフィリップの胸元をパチリと平手で叩く。フィリップは不用意に眼前に踏み込んできたエヴェリーナを捕まえて、そのまま抱きしめた。
春先の夜風はひんやりと冷たくて、胸に閉じ込めた温もりを一層愛しくさせる。フィリップは熱くなる目頭をぎゅっと閉じた。
天上の星は堕ちない。
それは星自体が地であるからだ。
快楽がもたらす喜びが何が残してくれるのか。気まぐれに与えられる不確かな喜びに翻弄され、一喜一憂する者に何が守れるのか。
本当の喜びとは、奪ったり奪われたりせず、互いに分かち合うものだ。小麦の実りを分け合うように。
だから天国でも、地獄でもなく、大地に根を張って生きる。
満ち足りた気持ちで「ふふふ」と笑い合った二人は、抱擁を解いて触れるだけの口づけを交わすと、まだ宴の続く大広間へと戻っていく。
夜闇にホーホーと、フクロウが番を呼んで鳴く声が遠くの林にまで聞こえていた。
若い二人はしっかりと手を取り合って歩いて行く。
溶けだしそうな大きな丸い月が世界を照らしていた。
end