一、何かの間違いじゃないのか?
彼女はお気の毒な境遇だと思いますわ。
不可抗力によって陥った状況を、不可抗力に頼って生き抜くしかなかったのですもの。どれほど心許なかった事でしょう。
人間は愚かですわね。
苦しみのどん底に差し伸べられる救いの手があれば、縋り付いて簡単に愛を捧げてしまうのですから。それが自分を突き落として自由を奪った張本人の手だとして、それでも愛を覚え得るのだもの。
当人にとってはどんな愛も愛は愛。
エヴェリーナが振り返ると、ずぶ濡れの女が震えながら立っていた。夕刻の迫る学舎の片隅。色を変え始めた穏やかな空が、彼女の足元に生じる水鏡にじわじわと広がっていく。
「エヴェリーナ様、酷いです……いくらフィリップ殿下の婚約者だからって、こんなの!私たちの間に、エヴェリーナ様にやましい事なんて何もないんです!フィリップ殿下はただ私に親切にして下さっただけなのに、全部私が悪いって言うんですね……!」
そう一息に言い放った彼女が、どんな目に遭ってここに辿り着いたのか、エヴェリーナには想像力を働かせる以外になかった。けれども相手もそう考えてくれるとは限らないようで、普段は庇護欲をそそる頼りなさげな彼女が、射殺しそうな目つきでエヴェリーナを睨み付けている。
と言うのも、昔、彼女はしがない村娘であったから、本物の御令嬢と比べれば、話し方も振る舞いも考え方にも粗野な部分を元々持ち合わせていて、歴然と横たわる生まれ育ちの違いを理由に人品を蔑まれまいと、これまでは堅く方正を心掛けていたのだろう。彼女の目の中に、努力と挫折の跡が見て取れるようだった。
全ての障害がエヴェリーナの仕業だと言わんばかりの彼女と、視界の隅でポーカーフェイスを引き攣らせている彼女の護衛騎士との対比の滑稽さに、心が少し和まされる。
旧知の人間がたった一人、少なくとも、責める目をエヴェリーナに向けないでくれる。それだけで、こんなに慰められるのに。根を張る大地から掘り起こされて、見知らぬ土地に植え替えられた彼女の心を、何が癒しただろう。
かつて、多少容色には恵まれたかという程度の、何も持たない平凡な村人だった彼女の人生は、一夜にして転変した。
ミッドグラン王国ではもう何百年も平和な時代が続く。農村部の家庭はどこも子沢山の大家族ばかり。彼女の生まれも七人兄弟の真ん中で、祖父と両親、子供七人の十人暮らしをしていた。困っていれば誰かが助けてくれるし、喧嘩があっても翌日には忘れる。お金のない半自給自足の生活も、大自然と家族が在れば心は豊かだった。
多少お転婆で夢見がち。どこか直観的な楽天家。彼女はごく有りふれた少女だった。いつだってその他大勢だった彼女が、物心ついて初めて主役を演じる日。国教に定められた七歳の洗礼式での事だ。
左手を父親、右手を母親と繋いで親子三人で並んで歩いた。忙しい両親を独り占めにする滅多に無い機会に、踊る心のまま飛び跳ねてやって来た白亜の神殿。高鳴る鼓動とは裏腹に静まり返る回廊を歩きながら、入口で別れた両親を恋しく思った。
両親に代わって付き添いを務める神官は、農民とは違った耳慣れない話し方で厳めしく彼女を促した。扉をくぐって行った奥の祭壇で、言われた通りに銀杯に手を触れる。すると杯の水はぐるぐると渦巻き、まばゆく黄金に輝いた。
これは面白いと少女が感心している後ろで、神官達の顔が青くなる。
「これは……まさか!……本当に!?」
「いや……、分からない、その子を捕まえておけ!」
不意に手首を掴まれて驚いた彼女が振り返る。びっくりしている彼女の頭上で神官が口々に言い合っていた。
「信じられない。何かの間違いじゃないのか?」
「間違いでも、まずは報告せねば!」
「誰か!伝令を!!神官長にお知らせするんだ!」
さっきまで静謐な雰囲気が漂っていた神殿は、あっという間に蜂の巣をつついたような騒ぎになり、目を白黒させる彼女を黙殺して事態は急転していく。
両親は、神官の説得に応じて日暮れ前に家に帰って行った。神殿に留め置かれる事になった彼女には、もう帰れない温かい家へ。
一人だけ硬い床の神殿に取り残されてしまった幼い彼女は、稀少な魔力属性を豊富に保有しているとかで、今まで通りの生活はもう望めないらしかった。良い事なのか悪い事なのか理解する暇もなく、気付けば男爵家の養子に取られていた。
それで、彼女の生活は長閑な村の暮らしから一変、稀有な力を秘めた令嬢としての日々が始まったのだった。
降って湧いた別世界の貴族生活。
初めは想像もつかない贅沢にはしゃいだりもしたけれど、次第に里心がついた。養家がいくら恭しく扱おうとも、生まれたての子猫を親兄弟から引き離して育てると同じで、理不尽に奪われた温もりが恋しくなるばかり。
彼女の生来のおおらかさは鳴りを潜め、新しい家を怪物の巣のように怯えて過ごした。
窮屈で苦痛に満ちた日常を耐え、お転婆な村娘が貴族令嬢に作り替えられるまでに、七年の歳月を要した。
そんな彼女が、自国の第一王子フィリップと初めて出会ったのは、王立魔法学園への編入を懸けた試験勉強の追い込みに王立図書館へ通っていた頃のことだった。