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赤と青

 友香里は毎日曲を作っていた。幸運の青い鉛筆を信じ、青いノートと青い消しゴムを追加購入して頑張った。その甲斐あってか、友香里の新曲は売れた。売れに売れた。

 前作と比べれば3百パーセント増。つまり四倍だ。事務所でも社長が左団扇で喜んでいた。安田もコーラで祝杯を挙げて喜んだ。

 友香里が、用意されたくす球を笑顔で割ると、中から大きな垂れ幕が降りて来た。

「祝! 千枚突破 おめでとう!」

 赤い字で書かれたその垂れ幕を見て、友香里は喜んだ。皆の優しさが嬉しかった。しかし、幸運をもたらしたのは赤色ではなく、青色だろうと思い、常に持ち歩いている青い鉛筆に感謝した。


 友香里は上機嫌でアパートに帰ってきた。

「千枚ー、千枚ー」

 適当に作った千枚の歌でさえ、売れるんじゃないかと思える自信を得ていた。二〇三号室の前を通ったとき、ピアノの音が聞こえてきた。

 友香里はいつもより力を込めて呼び鈴を押した。しかし、ピアノの音が鳴り止まない。友香里は笑顔で何度も何度も呼び鈴を鳴らした。もしかしたらこの曲も、さくっと千枚位売れちゃうのではないかと思えてきた。今日の友香里は自信に満ち満ちていた。

「うるさいわね」

 扉を開けて出てきたのは、早苗だった。友香里は驚きもせず右手で早苗の頭を撫でた。

「いよう! 妹よ、元気にしてたか?」

「妹じゃないわよ」

 友香里に撫でられても不機嫌そうに早苗は言った。そして、奥へ走って逃げた。友香里は笑いながら図々しく上がり込んだ。

 勝って知ったる人の家。間取りは友香里の部屋と同じである。建具や窓枠も一緒。違うのは窓から見える風景が、少し左に寄っている位だ。それはそれで新鮮かなとは思った。

 奥からはピアノの音がしていた。バラバラになったピアノが、こんな音を鳴らしているのを友香里は初めて聞いた。壁越しに聞くよりクリアな音だった。

 ひょいと覗くと、早苗がピアノの横に陣取って本を読んでいた。よくもまぁ、そんな所で読めるものだ。雄大は友香里が上がって来てやったのに、お茶を出す様子もない。友香里は雄大の背中にそっと近付いたが、早苗が人差し指を口に充て「シーッ」とやるので、ド突くのを止めた。


 仕方なく友香里は部屋を見回すことにした。

 台所はきちんと整理されていて、おおよそ高校生の一人暮らしとは思えない。食器は少ないが、種類毎にきちんと重ねられている。友香里とは大違いである。

 それに比べて冷蔵庫の中は野菜や果物が少なく、主食は冷凍食品と思われる。好物は冷凍のエビピラフと見た。友香里は薄ら笑いを浮かべて冷凍庫のドアを閉めた。

 何か飲み物をと漁ったが、何もなかった。あったのはコーヒー豆とミルとフィルター。そして細長い口のケトル。

「自分で淹れろと言うこと?」

 招待された訳でもないのに、友香里は勝手に文句を言うと準備を始めた。ケトルに水を入れてコンロに掛けた。

 コンロは友香里の部屋とは違って、直ぐに火が点いた。しかし、友香里はいつもの調子で直ぐに消してしまった。癖というのは恐ろしいものだ。

 再び火を点けると友香里はピアノの方に行き、早苗を手招きで呼んだ。早苗は気が付くと、嫌々ながら友香里の方にやってきた。

「コーヒー淹れようよ」

 友香里はしゃがんで、早苗の耳元にそっと囁いた。すると早苗は嫌そうな顔から一転、笑顔になった。

「うん」

 雄大の方を一瞬見て、友香里に向かって頷いた。二人はそっと台所に向かうと、テーブルに並んで腰掛けた。

「これなーに?」

「これはミルだよ」

「見る?」

「ミル見る」

 友香里は笑いながら適当にコーヒー豆を袋から出すと、キョトンとする早苗を余所にミルへ入れた。

「押さえてて」

「うん」

 早苗の小さな手がミルの足元を支えた。友香里はミルのハンドルと、早苗の手の上からミルを支え、ゆっくりと回し始めた。上の方にあるコーヒー豆がカサカサという音をたて、真ん中ではゴリゴリという音がした。そして下には粉になったコーヒーが落ちているはずだった。早苗はテーブルに顎を付けたり、上から覗き込んだり面白そうに眺めていた。

「やる?」

「やる!」

 友香里はハンドルを指差して早苗に微笑むと、早苗は元気良く返事をした。しかし、友香里から「シーッ」と言われて慌てて口を塞いだ。そのままピアノの方を見たが、曲が途中で終わることがなかったのでホッとした様子だった。二人はハンドルを回すのを交代し、静かにゴリゴリという音を響かせた。

「ピーッ」

 ケトルの口からけたたましい音がして、二人は縮こまった。その音が響くと、ピアノの音が止まった。友香里と早苗は肩を窄めたまま寄せ合い、大きな音をたてたのは自分達ではないことをアピールした。

「何やってんの?」

 一曲弾き終えて台所に来た雄大の目の前に、不思議な光景があった。お湯が沸いたことをアピールするケトルを放置し、目を瞑ってコーヒーミルを仲良く握り締め、ピクリとも動かない友香里と早苗がいた。

 雄大はコンロの火を止めて、フィルターを用意した。そこに二人が挽いた粉をセットすると、再びコンロに向かった。友香里と早苗は食器棚からコーヒーカップとソーサーを取り出すと、自分の目の前にちょこんと置いた。そして両手で暖めながら、雄大の様子を見た。

 それを雄大は、年の離れた姉妹の様だと思いながら眺めていた。髪を後ろに流し、にこにこ微笑みながらカップを暖める様子は、とても微笑ましかった。

 ケトルを持ち上げると、雄大は少し気取って高い位置からフィルターの上にお湯を落とした。コーヒーの粉がお湯を吸って膨らみ、周囲に柔らかなコーヒーの香りを漂わせた。するとテーブルの向こうで友香里と早苗が、そろって鼻をヒクヒクさせながらコーヒーの香りを楽しんでいた。雄大は少し手を止め、コーヒー豆の中央に出来たお湯溜まりが、ゆっくりと下へ染みて行くのを眺めていた。手で鼻へ向けて仰ぐと、コーヒー園を思わせる風景が小さな台所に広がった。

「俺のは?」

 まだ鼻をひくひくさせている二人に聞いた。友香里は無反応だった。

「それで飲めば?」

 とは言ってないが、コーヒーが溜まっているガラスポットを顎で差した。それを見て早苗が食器棚に走ると、雄大の分を持って来た。そして雄大の隣に座った。友香里は笑いながら早苗に鋭い視線を送った。早苗は逃れるように雄大の方を見たが、肘で頭をゴツンとやった。

「危ないよ」

 雄大は自分で頭を撫でる早苗に注意した。そしてコーヒーにお湯を注ぐことに集中した。その様子を友香里は笑いを堪えて眺めていた。

「やーい」

 と言っていたが、声には出していなかった。早苗はその言いっぷりを見てカチンと来たのか、舌を出して友香里に反撃した。しかし友香里にそんな攻撃は通用しない。

「ヒヒヒ」

 友香里がいきなり下品に笑ったので、雄大は手を止めた。友香里の目線の先を見ると、しかめっつらの早苗がいた。子供と喧嘩するなんて、大人気のない奴だ。雄大は再びコーヒーの出来に気を配ることにした。


 ガラスの容器がコーヒーで満ち溢れた。雄大はそっとドリッパーを外すと、招いたつもりはないが、一応来客者で年長でもある友香里から注いだ。次に小さな妹の早苗。早苗のカップには半分位入れた。そして自分のカップに注いで座った。

 友香里はカップを持ち上げてコーヒーの香りを楽しむと、そのまま一口飲み、深く息を吐いた。それを見て早苗も真似をして一口飲んだが、小学生には苦かった様だ。顔をしかめて雄大を見た。

 どうやら早苗には、友香里には甘い所を、早苗には苦い所を淹れた様に考えている様子があった。雄大は早苗が缶コーヒーしか飲んだことがないのを知っていた。

「牛乳とお砂糖持っておいで」

 早苗は納得して冷蔵庫へ走った。そして牛乳を持って来ると、ドボドボとコーヒーに投入した。ついでに砂糖も入れた。

「子供だねぇ」

 意地悪く言う友香里に、早苗の目は冷たかった。雄大は一口飲んで、早苗に言った。

「俺のにもミルク入れて」

 その声に早苗は救われた様な顔になり、牛乳を手にした。そして、得意気に雄大のカップに牛乳を投入した。入れ終ると早苗は、友香里にはやるもんかと言わんばかりに、牛乳を持って冷蔵庫へ行ってしまった。

「気が強そうだねー」

 友香里は雄大に小さい声で言いながら、早苗の後姿を指差した。雄大は首を横に振って答えた。

「そんなことないよ」

 早苗は後ろで、雄大が何か言うのが聞こえた。振り返って首を傾げた。

「ねっ」

 雄大が早苗に言ったので、早苗は頷いた。雄大の言うことに賛同しておけば、自分が不利になることはなかったからだ。振り向いた友香里と目が合って、早苗は友香里に「ベー」をしたかと思うと、笑いながら雄大の隣に戻った。今度は肘が当たることはなさそうだ。


 友香里は雄大に話し掛けた。

「私のCD、千枚も売れたんだよ」

 どうだと言わんばかりに雄大に言ったが、雄大の反応は期待したものではなかった。

「へー、凄いじゃん」

「それだけ?」

「それだけって?」

 雄大は聞き直した。早苗は二人の様子を見ていたが、パチパチと拍手をすると言った。

「おめでとう」

「ありがとー」

 早苗の声に友香里は嬉しそうに目を細め、早苗を見た。そして雄大に向かって鋭い眼を向けた。雄大は思い出した。友香里と勝負をしていたことを。それにしてもズルイ。友香里はプロ活動をしているのだ。雄大がいくら良い曲を作ったとしても、発表の機会すらない。

「おめでとお」

「ありがとお」

 悔し紛れの言い方に相応しいお礼を友香里は返した。雄大はコーヒーがいつもより苦く感じた。

 曲の発表すら出来ない雄大を見て、友香里が嘲り笑うのを趣味としている訳ではなかった。友香里だって子供ではない。雄大が作った曲が素晴らしければ、発売の有無に関わらず、負けを認めることだってやぶさかではない。

「何曲作ったの?」

 友香里の問いに雄大は答えられなかった。友香里はこれまで苦労してきた日々を振り返り、それと同等の苦労を雄大がしてきたか確認したかった。

「結構短くなったでしょ」

 友香里はコーヒーを飲みながら、青い鉛筆を取り出して机に立てた。かなり使ったと見えて、青い鉛筆は拳位の長さになっていた。早苗が珍しそうに手に取ったが、普通の鉛筆だった。

 雄大は困った様子で席を立った。友香里も席を立って後を追いかけた。早苗は鉛筆をテーブルに転がして友香里の後を追った。

 雄大はピアノの隣に置いてある鞄からルーズリーフを取り出すと、そこで五線紙のページを開いたが、そこにはパラパラと書き掛けの曲が並んでいるだけだった。

「メロディーだけね」

 雄大にとって作詞は難しいものだった様だ。雄大はピアノの前に座ると、その楽譜を自分で演奏し始めた。コードはその場で追加していたので、あたかも曲の様に聞こえた。友香里には羨ましいことだった。

「へぇ、一応それっぽいじゃん」

 友香里は感心して頷くと、右手を肩の高さまで上げた。そしてそのままピアノに寄り掛かろうとした。

「お母さんのピアノに触るな!」

 突然叫んだのは早苗だった。友香里は驚いて左足を前に出し、両手を左右に伸ばしてバランスを取った。ピアノには髪が触れただけで、指紋は付かなかった。

「早苗、お姉ちゃんに謝りなさい」

「お姉ちゃんじゃないもん」

「良いんだよ。大事なものなんでしょ」

 雄大は早苗にきつ目に言ったが、友香里がそれを咎めて早苗を部屋から連れ出した。台所のテーブルへ戻ってくると、友香里は早苗に謝った。早苗はうんうんと頷いていた。それを雄大は半ば呆れて見ていた。

「お姉ちゃんの部屋に行こうよ」

 友香里は早苗がこのままだと雄大に怒られそうなので、自分の部屋に連れて行くことにした。泣き出しそうな早苗の手を引いて、友香里は雄大の部屋を出ようとした。

 ふと玄関に置いてある電話を見て、友香里は血相を変えた。そしてそこに置いてあった赤い鉛筆を握り締めた。

「おい、雄大!」

 急に呼び捨てにされて雄大は驚いた。いや、今日に限らず呼び捨てにされていた気がする。

「何?」

 そう言った雄大だが、目の前に突き付けられた赤い鉛筆を見て、それが一体何を表し、何を答えてしまったのか理解していた。しかし既に遅かった。

「お前! 全然使っていないじゃないか!」

「だって」

「だってじゃない!」

 友香里が握り締めた赤い鉛筆は、買った時と何も変わっていなかった。手垢すら付いていなかった。友香里は雄大が、自分と同じスタートラインにすら立っていないことに激怒したのだ。自分も相当舐められたものだ。友香里は頭に血が昇って行くのが判った。

 そうだ、雄大は最初から自分を舐めていたのだ。相手になんかしていなかったのだ。友香里を無視して通り過ぎていく通行人の一人なのだ。

 雄大が何か言いたそうだったが、友香里は発言を認めなかった。全てはこの未使用の鉛筆が語っていた。友香里は赤い鉛筆を握り締めた拳を前に突き出した。

「随分と舐められたもんだね」

「いや、そうじゃなくて」

「うるさい!」

 友香里は赤い鉛筆を握り締めたまま振り下ろした。勢いで髪が鬼の様に揺れていた。友香里はテーブルに転がっている青い鉛筆を指差した。

「お前にあの鉛筆をやる」

 雄大はテーブルの方を見た。友香里が使い込んだ青い鉛筆だった。

「いや、だからさ」

「言い訳は聞きたくないんだよ!」

 友香里は再び手を振って怒りを顕にし、髪を揺さぶり、足を踏み鳴らして怒った。そしてもう一度挑戦状を叩き付けた。

「幸運の鉛筆を使いな。ハンデだ」

 雄大はまだ何か言おうとしていたが、友香里は雄大が口にする言葉全てを否定するつもりでいた。雄大もそれが判ったらしく、何も言わずに頷いただけだった。

「じゃ、行こうか」

「うん」

 雄大は早苗に対する態度を見て、友香里が完全に壊れてしまったのではないと思って、少し安心した。しかし、それはほんの数秒後には否定された。友香里はドアを物凄い勢いで閉めた。その激しい音と、すざましい風圧に驚いた雄大は、短くなった青い鉛筆を落としてしまった。

「芯、折れちゃった」

 雄大は一人呟くと、えんぴつ削りを探しに行った。


 友香里は早苗を自分の部屋に連れて来た。早苗は物珍しそうに友香里の部屋を眺めていたが、ピアノがないことに気が付いた。

「ピアノは?」

「私は声楽なの」

 友香里は一応そう答えた。早苗にとって、ここの住民は全てピアノを弾くのだと思っているのだろう。早苗はもう一度部屋を見渡して友香里の方を見た。

「太るよ?」

「うるさいね!」

「うふふ」

 生意気なことを言われて、友香里は早苗を追い掛けた。雄大の奴、こんな子供にまで何吹き込んでいやがるんだと思った。ホント雄大は失礼な奴だ。

 早苗は勝手知ったる人の家を走り回って逃げた。そして、古いオルガンの前で止まった。

「教室のと同じだ」

「へーそうなんだ」

 追い付いた友香里が、早苗を抱きしめた。早苗は笑いながら友香里の腕から逃れようとしていた。それと同時に、目の前にあるオルガンの蓋を開けようとした。

「これ、お姉ちゃんの?」

「ううん。お姉ちゃんの、お姉ちゃんの」

 友香里がそう言うと、早苗は手を引っ込めた。友香里はそれを見て早苗がかわいそうになった。別に友香里は姉のオルガンに触った位で怒ったりはしない。例えそれが恋のライバルだとしても。

 ライバル? そんな馬鹿な。あんなムカつく奴が他にいるか? 冗談じゃない。友香里は隣から聞こえてきた、人差し指だけのメロディーを聞いて思った。

「お姉ちゃんはね、作詞作曲をしているんだ」

「へー」

「やってみる?」

「うん!」

 子供は怖いもの知らずである。友香里は早苗を後ろから抱きしめたまま、机の所へやってきた。そして一冊の新しいノートを取り出して、早苗に渡した。

「これ、使って良いよ」

「え?」

「ここに、思ったことを書いて行くんだ」

 小学生に大学ノートは新鮮だった様だ。マス目のないノートをどう使って良いか、早苗には判らない様子だった。友香里は笑いながら、手に持っていた赤い鉛筆をえんぴつ削りに突っ込んだ。

「じゃぁ、これで書いてごらん」

「これで書くの?」

 早苗が目の前に出てきた赤い鉛筆を指差して質問した。友香里には早苗の質問の意図が良く判った。良く判っていたが、回答はYESとしか言い様がなかった。

「赤鉛筆で書くの?」

「そうさ。気分で色を変えるのさ」

 友香里はなかなか良い答えをしたと思ったが、まさか赤鉛筆を使わないことに、あれだけの怒りをぶつけてしまったことを悔いた。後で謝らなければいけないし、これは恥かしすぎる。

 友香里は雄大が『赤鉛筆』であったことに気が付いていなかったことを期待したが、そんな筈はなかった。耳が熱くなって来るのがはっきりと判った。

「何書けば良いの?」

 早苗に言われて、友香里は我に返った。

「詩はね、心に思ったことを素直に書けば良いんだよ」

「うん」

「嬉しかったことを書けば、歌と共に嬉しさは何倍にもなる」

「悲しいことは?」

 子供の割りに悲しい方を聞いて来るとはただの子供ではない。雄大は一体どういう教育をしているのだ。

「悲しかったことを書けば、歌った人達と涙を共にして、悲しみを分け合って少なくなる」

「ふーん」

「悲しかったことあるの?」

「うん」

「そうか。じゃぁ、目を閉じて」

「うん」

「その時を思い浮かべて」

「うん」

「そこからどうしたいのか、その思いを書くんだ」

 友香里が言うと、早苗は閉じたまぶたから涙を流し始めた。友香里はびっくりしてハンカチで早苗の涙を拭いた。

「大丈夫」

 早苗は笑顔こそ見せなかったが、友香里の手を払い除けた。そして赤鉛筆を握り締め、ノートに詩を書き始めた。友香里は驚きつつも、その様子を見守っていた。

「出来た!」

 さらさらと書かれた詩を見て友香里は驚いた。そして早苗を抱きしめた。

「赤は悲しい詩を書く時に使う色だから、今度は他の色にしようね」

「うん」

 友香里はいつか、この詩に曲を付けてあげたいと思った。そして早苗の悲しみを少しでも減らしてあげたいと願った。それでもその時は恥かしさと悲しさで、頭の中はコーヒーに溶けていくミルクの様に渦巻いていた。


 友香里は黒い鉛筆を早苗に渡した。早苗はそれで楽しそうに詩を書いた。その様子を友香里は妹でも見守る様に眺めていた。こんな出来の良い妹だったら、姉になるのも悪くない。友香里は、自分はダメな妹だったと思いながら、姉が困った顔をしているのを思い出した。優しい姉だった。

「ねえ、早苗ちゃん」

「なーに?」

「早苗ちゃんのお姉ちゃんになってあげるよ」

 友香里は頬杖を突きながら、笑顔で早苗に声を掛けた。早苗は手を止め、友香里の方を見た。そしてとびきりの笑顔を見せた。

「やったー」

 万歳すると立ち上がって、友香里を見下ろした。友香里は座ったまま頬杖を止めて早苗を見ると言った。

「本当のお姉ちゃんになってあげてもいいよ?」

「それはダメ」

 上げた両手を勢い良く振り下ろすと、早苗は怖い顔になって言った。友香里はそれを見て、やはり賢い子だと思った。侮りがたし小学生。それでも友香里は笑顔でいた。こんなに面白いことは久しぶりだった。

「じゃぁ、素敵な愛の詩を書いた方の勝ち」

「うん!」

 友香里の挑戦に、早苗は笑顔で答えた。友香里は赤鉛筆を鉛筆立てに入れて、自分の鉛筆を用意した。二人は机の向こうとこちらでノートに向かったが、小さい机だったので頭がぶつかった。二度三度とぶつけ合い、そして笑った。

 その時二人が書いた、背中がむず痒くなるような愛の言葉は、最初は一人の男に向けられたものだった。しかしやがて、全ての人々に向けられた愛の言葉に変わっていた。その時、二人は世界で一番幸せな姉妹であったに違いなかった。

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