もう一人の妹
友香里、雄大、そしておまけの早苗は、車を駐車場に入れている安田より先に西園寺邸にお邪魔した。
西園寺は雄大を見ると一目で判ったらしく、親しげに声を掛け、早苗はひ孫でも見る様に目を垂らすと、早苗の頭を撫でながら優しく聞いた。
「いらっしゃい。お父さん元気?」
「知らない」
「おやおや」
西園寺は少し困った顔をして立ち上がった。友香里は父のことを『知らない』と切り捨てたことに驚いたが、西園寺も雄大も、そこについて深く追求しなかったので、口を挟むのを止めた。
「お父さんが同じ、異母兄弟かしら?」
友香里は、雄大が早苗を『妹』と紹介したことを忘れた訳ではなかった。
「先生、良い部屋をご紹介頂き、ありがとうございました」
「いやいや、これからですから、頑張りなさい」
「はい。ありがとうございます」
雄大が緊張して挨拶をするのを、友香里は後ろで薄笑いしながら見ていた。西園寺の前では、雄大なんてガキ同然の様だった。
「挨拶は以上? じゃぁ、おじいちゃん、よろしく!」
「はいはい。友香里ちゃんの番ですね。あ、雄大君、後で渡すものあるから待ってて」
友香里は、西園寺とのやりとりを驚きの眼で見る雄大を見て、満足していた。そして自分との約束を優先し、雄大を待たせたことについて、優越感に浸っていた。どっちにしろ安田の車に乗らないと帰れない所だったのだが、それは忘れていた。
友香里のボイストレーニングは一時間程で終わった。友香里は西園寺に深く礼をし、西園寺はそれを笑顔で受けた。そして、その目を今度は早苗に向けた。
「早苗ちゃんのピアノ聞かせて欲しいなぁ」
西園寺は口を横に伸ばしてしわを伸ばし、目じりを下げてしわを深くした。
「嫌」
早苗の答えは短く、そして明快だった。友香里は早苗もピアノが弾けるのかと思った。思えば雄大の妹だ。弾けて当然と言えば当然なのだろう。
「お姉ちゃんも、早苗ちゃんのピアノ聴きたいなぁ」
友香里が早苗の前にしゃがんで言った。早苗は余計嫌そうな顔をした。
「お姉ちゃんは『猫踏んじゃった』しか弾けないんだー。ねぇ、何か弾いてよ」
それを聞いて、早苗の闘争心に火が付いた。目をキラリと光らせると、ピアノの前に行き、椅子にポンと飛び乗った。それを見て西園寺は雄大に目で合図した。雄大は席を立った。
部屋を出る西園寺と雄大の後ろから聞こえて来たのは『エリーゼのために』だった。雄大は振り返って様子を見たが、ピアノの陰に隠れて早苗の様子は伺えなかった。その隣で友香里が目を丸くしているのを見て、少し優越感に浸っていた。
西園寺は雄大をそっと別室に案内すると、そこで二つの紙袋を持ってきた。中を覗くと、それぞれぬいぐるみが入っていた。
「猫と熊、どっちが良いかねぇ」
西園寺も紙袋を上から覗き込むと、雄大に聞いた。一つは早苗、もう一つは雄大だろうか。雄大はにっこりと微笑んだ。
「私は熊が良いです」
「君のじゃないよ」
西園寺は即答し、薄笑いを浮かべて雄大を見た。雄大は少しがっかりした様な、やっぱりそうだよなという気持ちになった。しかしそこでピンと来た。
「春香ちゃんですね」
「そうそう。斉藤君から頼まれてね」
「判りました。お預かりします」
「行ってくれるかね」
それでも西園寺は、熊のぬいぐるみが入っている方を雄大に渡した。西園寺も熊の方がかわいいと思ったのだろうか。
「この猫、口がないんだよね」
「そうなんですか? 欠陥品ですか?」
西園寺は首を捻りながら、猫のぬいぐるみを取り出した。赤いリボンのついたかわいい猫ちゃんだ。
「可哀想だから口を書いてあげたんだ」
首根っこを掴まれてニャーと言わんばかりに、黒いマジックで口が書かれていた。雄大は顔をしかめた。
「先生、それはどうなんでしょう?」
「いやぁ、口がないと、ご飯食べられないからねぇ」
雄大は首を横に振ってダメだなぁという仕草をし、西園寺の持っている猫の口を指差した。
「歯も書かないと、ダメなんじゃないですか?」
「おぉ、流石斉藤君の一番弟子!」
西園寺はいまいちしっくりしていなかったことが解決したかの様に、凄く納得した様子だった。そこで、反対側の扉へ行くと、妻を呼んだ。
「おーい、幸枝、マジック」
それを見て雄大は、追い掛ける様に扉の所へ行くと、慌てて西園寺に助言した。
「先生、やはり口は赤く塗らないといけません」
雄大の言葉を聞いて西園寺は頷いた。
「おーい、赤も!」
直ぐに追加オーダーをした。
やがて和服を着た西園寺幸枝が、右手に黒、左手に赤のマジックを持ってやって来た。スススと歩く様は何か楽しげだ。
「あなた、かわいく書いてあげて下さいね」
「大丈夫だよ」
その言葉を聞いて安心したのか、幸枝は自由になった両手で口元を押さえながら部屋を出て行った。口を赤く塗る前に、雄大は考えた。
「先生、やはり犬歯も要るのではないでしょうか?」
「ゆーだい君。それはちょっと違うな」
西園寺には判っていた。雄大の指摘には誤りがあることを。
「子猫にはまだ生えてませんか?」
「いや、猫なのに『犬』歯なのか?」
「あ、猫歯ですね」
雄大はポンと手を付いて答えた。西園寺は頷いて、ぐっと大きく猫歯を書き加えた。
「あ、良いですねぇー」
「うむ。これで獲物も捕らえられるというものだよ」
西園寺は猫の手を持ち、自分の目を鋭く光らせると、シュッシュと素早く動かし、少し甲高い声で鳴いた。
「ニャオ! ごろニャーン!」
「流石百十の王ですね」
「猫族百十種の頂点に君臨する王として、相応しい」
雄大が褒めると、西園寺もそれに同調した。そして、赤いマジックに持ち替えると、口の中を赤く塗った。綺麗に塗り終わって、手を伸ばし、少し遠くから、まるで生きている様に躍動感をみなぎらせた猫を眺めた。
「良いんじゃないかな。猫らしくなって」
「そうですね。早苗も喜ぶと思います」
「うんうん」
西園寺は孫のプレゼントでも用意したかの様に嬉しそうに微笑むと、猫のぬいぐるみを紙袋にしまった。隣の部屋では早苗のピアノが終わった所だった。二人は紙袋を一つずつ持ってレッスンルームへ戻って行った。
雄大と早苗は、レッスンが終わってから安田に駅まで送ってもらった。駅までの道中、雄大と早苗は後ろの席に座っていた。助手席の友香里と後部座席の早苗は、ふざけているのか、一度も目を合わせなかった。
バンを降りた雄大と早苗は、安田と友香里に頭を下げた。二人が何処へ行くのか聞いたが、明確な答えはなかった。早苗の手を引いて駅の人ごみに消えていく雄大を、友香里は名残惜しそうに見ていた。
雄大と早苗は、電車を乗り継いでみのり園にやってきた。ここは交通事故遺児を預かる民間の施設だ。事故で春香の両親が亡くなってから、しばらく祖母と住んでいたのだが、足が悪い祖母だけではどうにもならなかった。
「ごめんください」
「はいはい。ちょっと待ってね」
大量の洗濯物を持ったおばさんと、その取り巻きの子供達に雄大は声を掛けた。家の中からは子供達の賑やかな声が聞こえてくる。事情を知らなければ、子沢山の家の様だ。
「山本春香に、会いに来ました」
「春香ちゃんね。ゆーちゃん、呼んどいで」
「ハーイ」
雄大と早苗はその場で少し待った。すると中から早苗と良く似た、まんまるお目目の女の子が男の子と笑いながらやって来た。年は早苗より少し下だろうか。
「お姉ちゃんが来てくれたよ」
おばちゃんは春香に声を掛けた。すると春香は早苗の顔を見て足が止まった。表情も笑顔から曇りだし、やがて豪雨のごとき涙と共に家の中に消えた。一瞬の面会だった。
「ごめんなさいね」
申し訳なさそうにおばちゃんが言った。
「いいえ」
判っていたこととは言え、余りにもショックだった。早苗は雄大の足元にしがみ付き、何も言わなかった。
春香の両親が事故で亡くなった時、唯一助かったのが早苗で、春香は駄々を捏ねて乗らなかったのだ。幼い子供の心に深く刻まれた傷は、何かのきっかけで開いてしまう。春香にとってそのきっかけは、父違いの姉、早苗だったのだ。
「一緒に住めたら良かったのにね」
雄大はやり切れない思いで、早苗の頭を撫でた。雄大はズボンから生暖かいものを感じたが、どうすることも出来なかった。
「これ、春香ちゃんに渡して下さい」
「誰からですか?」
雄大は熊のぬいぐるみを渡したが、返事に困った。事故の加害者は斉藤秀雄、春香の母、亜希子の元夫である。
「サンタさんからと言うことでお願いします」
「判りました」
まだクリスマスには日があったが、おばちゃんも納得して受け取った。やるせない気持ちで一杯だった。
雄大は葬式の光景を思い出した。
「早苗ちゃんは良いけど、春香ちゃんはダメだよ」
そう言い切ったのは父だ。
「どうして? 二人とも亜希子の娘よ?」
食い下がったのは母だ。
「ダメだよ。春香ちゃんはピアノが弾けない」
あっさりとした理由だ。この世にこれ以上の理由はあるだろうか。
「そんな理由なの?」
雄大も思った。しかし、雄大はまだ子供だった。
「そうだ。お前の兄貴に言われたんだよ」
父が指差していたのは母だ。うむ。母の兄ならそれ位のことを言うだろう。雄大には理解できた。
「そんなの無視すれば良いじゃない!」
賛成。家族は多い方が良い。雄大は扉を開けて、母の応援をしようとした。
「無理なんだよ! 今、宮本家から目を付けられると、家の店は困るんだ! 全員路頭に迷うことになっても良いのか!」
「皆で路頭に迷えば良いじゃない!」
父と母の怒り狂う声が聞こえてきて、雄大は手を止めた。
「何を甘いことを言っているんだ! お嬢様育ちのお前に何が判る!」
「痛い!」
雄大はおよそ喧嘩なんてしたことのない両親が、母の妹の葬式で殴りあいの喧嘩をするとは思ってもいなかった。
「いつもは元気ですから、安心してください」
おばちゃんの声に雄大は我に返った。そして早苗の頭を撫でると、ハンカチを渡した。早苗はハンカチで鼻を拭くと雄大のポケットに捻じ込んだ。
「よろしくお願いします」
雄大と早苗は目を赤くしてみのり園を後にした。後ろから照らす日差しが二人を照らしていたが、何の温かみも感じられなかった。
雄大と早苗は、父が経営するレコード店の前を通って駅に向かった。客が結構入っていたが、買う人は余りいない。ヒット曲は売れるが、それ以外はポツポツと売れる程度だ。
売れなかったCDの運命、それは再びプレスされること。その瞬間、そのCDが歌うことは二度とない。永遠の品質を保証されたCDが、その運命を全うすることなく廃棄されるのだ。
消費者の手元に届いたCDと、店に取り残されたCDの運命はこんなにも違う。消費者に届いたCDは、毎日上機嫌で歌っているかもしれない。いや、もしかしたら車の中で変形してしまっているかもしれない。それは困る。それでも歌うことが出来たなら、幸せというものだろう。
綺麗に保存されるという意味において、図書館に所蔵されたCD程幸せなCDはあるだろうか。沢山の人に愛されて、何度も歌い、大切に保管される。それでもいつか、廃棄されるのだろうか。
「リサイクル、されるよね」
雄大は呟いた。早苗が「ほにょ?」という感じで雄大を見た。永遠の命を得たCDと言えど、取り扱う人間に寿命がある以上、その寿命は遅かれ早かれやってくるのだ。雄大は大きく頷いた。