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時計は回る

 安田はいきなり故障したスターターに動揺することもなく、有加里と共に押し掛けをしようとしていた。

「水温計!」

「異常なし!」

 有加里が面白がって答えた。

「燃料計!」

「いいって感じでーす!」

 フロントパネルを覗き込むと、有加里が報告した。

「回転計!」

「ゼロデース!」

 そりゃそうだ。安田は頷いた。

「カタパルト出力最大!」

「了解しました!」

 ここからが共同作業の見せ所だ。

「とりゃー」

「それぇー」

 それは始めての共同作業ではなかった。自宅前の長い下り坂を使って、押していたがこれで何回目だろうか。まだ星が幾つか残っている薄ら寒い空が頭上にあったが、正樹と有加里はケータハム・スーパーセブンを押すのに夢中だった。

 海に行こうとしていたが、一度止まったエンジンを再起動させるのに、正樹のセブンは押し掛けが必要だった。車重5百キログラム程のセブンであれば、二人で押したって大して重くはない。有加里の自宅マンションは遥か後方五百メートルであるが、まだ見える。スタートラインの幅は、あと3百メートルはあるかもしれない。

 正樹は段々と焦ってきていたが、有加里はこのまま海まで行くのも面白いと思っていた。

 その時、セブンのエンジンが蘇った。

「掛かった!」

「やったー」

 二人はセブンに飛び乗ると、顔を見合わせて笑った。

「ねぇ、どうしてこの車なの?」

 決してポンコツとは言わないが、そう言われてもおかしくはない。有加里が正樹に質問をしたが、さっきと打って変わって爆音を轟かせるセブンでは、会話もままならない。正樹はにこにこ笑う有加里の唇を読んで、質問の内容を理解した。

「その帽子に似合うと思ったのさ」

 正樹は有加里の帽子を指差して叫んだ。有加里は海に行くと言うので、ひさしの大きな帽子を選んでいたが、セブンは昔から正樹の手元にあった。有加里は右目を吊り上げて歯を見せる様に口元を引くと、少し顎を突き出して正樹を見た。

 判っている。正樹の夢が打ち砕かれた時、勢いで買ったのがこの車だ。

 正樹は前を向いたままニッと笑うと、セブンをスタートさせた。有加里はそのままシートに沈んだ。

 試験も終わった春の休日。季節外れの海に行きたいと言い出したのは有加里だった。正樹はもちろん賛成した。正樹も丁度海に行きたいと思っていた所だったからだ。渡りに舟とはこういうことだ。

「海に向かって出発!」

 正樹はギアをサードに入れた勢いで、左手を前に突き出した。

「おー」

 有加里も釣られて右手を前に突き出したが、オープンのセブンは外から丸見えだ。少し恥かしかった。それでも、一度走り出してしまえば、この車には見えないオーラがある。だから二人の世界に浸ることが出来るのだ。

 すれ違う車が見ているのは正樹と有加里ではない。一枚の絵画なのだ。朝日が見えて来て、正樹はサングラスを掛けた。有加里は帽子を少し深く被っただけだった。

「眩しいね」

「君もだよ」

 正樹はさらりと有加里に言った。右手の親指と人差し指で顎を擦る正樹に、有加里は軽く、ほんの少しの力だけでパンチをした。しかし、正樹は凄くおどけて、とても痛そうな表情をした。

 有加里はびっくりして、殴った所を擦ったが、正樹はくすぐったくて笑った。それを見て有加里も安心した様に笑った。正樹が有加里に殴られたのは、これが最初で最後だった。

 遠くに海が見えてきた時、正樹が機嫌よく歌い始めた。

「わったっしかぁらぁ、あっなったえぇー」

「こっのっうたぁをー、とっどっけよぉおー」

 その歌い出しを聞いて、有加里も歌いだした。財津和夫の『切手のないおくりもの』だ。二人はセブンの爆音をバックに、首を左右に振りながら子供の様に歌った。一番の最後は、お互いに指を指しあって笑った。

 二番が始まった時再びお互いを指差したが、二人はおどけて首を横に振った。そして誰もいない後ろを指差して頷いた。

 三番を歌い始めた時の歌詞がお互いに違っていて、正樹は有加里の歌に驚いて黙った。有加里は三番を最後まで歌うと、正樹を指差して笑った。

「ねぇ、まーくんの夢ってなーに?」

「お前をスターにすることさ!」

 正樹は気取って言ったが、あまり似合わなかった。だから有加里は右手をそっと口の所に持って行くと小さく笑った。確かに有加里はまだ全然売れていない。試験勉強もあったし、レッスンに取られた時間もあったが、それでも事実は事実。今日だって忙しければ、仕事が入っていたに違いない。

「この曲、三番が好きなんだー」

「へー、これが三番なんだ」

 前日の雨で残った水溜りをセブンが跳ね除けた。

「そうだよー。知らなかった?」

「聞いたことなかったなぁ」

「ちゃんと音楽の授業で歌おうよ」

「すいません」

 加速と共に正面に戻ろうとするハンドルに手を添えて、緩やかなS字カーブを鮮やかに駆け抜けた。しかし、有加里に言われて正樹はバツが悪そうに頷いた。そして、少し真剣な顔になって有加里に言った。

「ねぇ、好きな曲があるなら、カバーでも良いんじゃない?」

 その問いに有加里は、一瞬だけ、目元だけ寂しそうな表情を浮かべたが、直ぐに笑顔になった。

「まーくんが、それでいいなら」

 有加里の返事に正樹はハンドルを握り直しただけで、何も答えなかった。有加里は前を向き、下唇を前に出して下を見た。

 横目で正樹は有加里を見た。判っている。カバーなんて必要ない。有加里にはそれだけ輝くものがある。

 正樹は看板の指示に従ってハンドルを回すと、海への下り坂へ向かった。

「あ、海だよ!」

 正樹の声に有加里が顔を上げた。

「着いたー」

 有加里が叫んだ。季節外れの海は青く輝き、所々にこの辺では珍しい『黒いアザラシ』が波間を漂っていた。


 セブンが一服している間、二人は誰もいない砂浜に向かって走った。風に吹かれて、有加里の帽子が飛んだ。波打ち際で走る今日の二人は、どこから見ても恋人だった。

 錆付いた自販機から購入したカルピスを飲みながら、二人は錆付いたシャッターの前で、さびた椅子に座って一休みしていた。海に何をしに来たか、そんなことは忘れていた。ただ走りに来たのかもしれない。潮風を受けながら。

「仕事ないねー」

「ほんとだねー」

 二人は顔を見合わせて笑った。本当は笑い所の騒ぎではないのだが、正樹は有加里の顔を見ると、強く言えなくなってしまうのだ。有加里の笑顔は、もっと多くの人に幸せを与えるはずだと思っていた。

「水着の仕事ならあるんだけどね」

 有加里から目を逸らし、海の方を見て正樹が聞こえない様に言った。有加里は遠くから聞こえる波の音を楽しんでいた。正樹の方にゆっくりと顔を向けると、微笑んで言った。

「まーくんが、それでいいなら」

 有加里はそう言うと、波が押し寄せる度に段々と赤くなっていく正樹の耳を見ていた。

「いい仕事ないかねー」

「ほんとだねー」

 いい仕事とは、屋根のある、人が沢山いる所で歌うことだ。例えば商店街とか。

 話がスタート地点に戻った。二人は顔を見合わせて笑ったが、次の瞬間、大きな音を立てたシャッタの方を向いた。

「あんたら、仕事ないなら家で働くかね?」

 お婆さんの顔が一メートル程開いたシャッターの下から覗いた。やっとの思いでシャッターを開けた様だ。有加里が立ち上がってシャッターに手を掛けると、正樹も一緒にシャッターを開けた。お婆さんが曲がった腰を真っ直ぐにして万歳をすると、パチンとシャッターは巻き上がった。

「じゃぁ、テーブルと椅子出して、それとコンロに火」

「はいはい」

「判りましたー」

 笑いながら二人は店の準備を始めた。季節外れの海の家には、無重力を楽しんだ黒いアザラシが沢山集まって来ていた。


 それからその日は、夕方になるまで二人は働いた。やきそばを作ったり、ジュースを売ったり、おみやげも売った。でも一番働いたのは店長でもあるトミお婆さん。にわかバイトなど足元にも及ばない。

「あんた、見所あるよ」

「ありがとうございます」

 そんなトミが褒めたのは有加里の方だった。有加里は笑顔で礼を言うと、茶封筒を受け取った。

「あんたは全然だめだよ」

「どうもすいません」

 やきそばを焦がしてしまった正樹は、トミにお尻をパチンと叩かれた。トミも有加里も笑った。正樹も遠慮深げに両手を出したが、茶封筒はなかった。

「一緒に入れたよ。仲良く分けな」

 トミはそう言ったが、有加里は目を輝かせると、キャッキャと言いながらさっさとしまってしまった。正樹は慌てた。

「有加里ちゃん、あんたこんな男と別れて、家の孫と一緒にならんかね?」

「いえいえ」

 その問いに有加里は手をブンブンと横に振った。しかし状況は変わった。セブンが砂にスタックし、燃料もカラッポになり、ウンともスンとも言わなくなって、再びトミの店を訪れた時のことだ。

「お世話になります」

「おぉ、決心して来たかね」

 有加里とトミはにっこりと笑った。慌てた正樹は借りた電話の受話器を握り締め、物凄い早口でレッカーをコールした。

「じゃぁ、泊まっていきんしゃい」

「いえ、帰ります」

 正樹が断った。そしてトミと有加里の手を振り解いた。

「あれー」

「有加里ちゃーん」

 声の割りに、トミも有加里も笑顔だった。何とも楽しい別れ。バスと電車を乗り継いで、家に帰ることになった、何だか良く判らない『出稼ぎ』だった。それでも有加里は楽しそうにしていた。

「スターになったら、もう電車なんて乗れないよ?」

「じゃぁ、今日が最後だね」

 明日テレビ出演があった訳でもなかったし、今日が最後という根拠なんて、どこにもなかった。それでも正樹は、次は家まで車で送ることを決意していた。

 外は出掛けた時の様にすっかり暗くなっていた。ガタゴトと揺れる電車の中で、二人はいつしか言葉も少なくなり、ぼんやりと肩を寄せ合っていた。正樹の左腕に有加里は右手を巻き付けて、手を繋いでいた。

 時々左手の人差し指で正樹の手の甲をそっとなぞった。正樹はくすぐったくなって起きたが、しっかりと右手で抱えられた左腕を動かすことが出来なかった。何やってんだかと思いながら、時々夢の世界へ行っていた。

 そろそろ終点かなという時、有加里があくびをした。左手を正樹の手の甲から自分の口へ持って行き、そして今度は自分の右手の肘辺りへ伸ばすと、そのまま頭を正樹の肩に押し付けた。

「有加里の夢はなーに?」

 正樹は小さな声で有加里に優しく聞いた。

「お嫁さん」

 有加里も小さく答えて夢の世界へ行った様だった。直ぐに寝息が聞こえてきて、ゆったりとした心臓の鼓動を左手に感じた。正樹はもう少し電車に乗っていたかったが、車掌のアナウンスが車内にこだました。

「また明日ね」

「おやすみなさい」

 有加里を自宅に送った正樹は、玄関にあるでかい靴を見て早々に退散した。有加里の父は怖い人だったからだ。


 売れない歌手にとって、先輩の仕事を見学することは勉強でもあり、顔を売ることでもある。大抵の場合その辺の石ころか、便利な使い走りで終ってしまうが、運命の女神は時折粋なことをする。

 有加里は先輩歌手にくっ付いて、映画スタジオにやってきた。自分が映画に出る訳ではないが、有加里は映画スタジオに来れたこと自体を喜んでいた。しかし、現実は過酷だ。

 様々な雑用を言いつけられて、有加里は忙しく走り回った。海の家の様に。そして、少しの休憩時間が与えられた時、先輩歌手から言われた。

「あんた、私が立って休憩しているのに、何座ってるの?」

「す、すいません」

「イヌの散歩でもしてきたらどうなの?」

「は、はい、直ぐ行って来ます」

 先輩歌手も座れば良かったのだが、撮影で着る衣装の都合上座れなかっただけだった。それに撮影が押して、少しだけ機嫌が悪かった。それだけだった。

 酷い言われ様だが、有加里は素直に犬の散歩に向った。外に出て暫く壁際を歩くと、そこに大きな犬小屋がある。

「ジョン様、お散歩の時間でございます」

 犬小屋の前に膝を曲げてしゃがむと、有加里は犬小屋の中に向かって声を掛けた。人の声がして中で寝ていた白い老犬が、偉そうに片目だけ開けて、有加里を見た。

「本日の担当は高田有加里でございます。どうぞお見知りおきを」

 有加里がただの犬に、どうしてそこまで丁寧に挨拶をしたのか。それはジョンが、かつて一世を風靡したスター犬、つまり芸能界では有加里の大先輩だったからだ。今は引退して映画スタジオの片隅で余生を送っていた。

 有加里がそう言うと、まるで『そこまで言われちゃしょうがないな』という感じでジョンは立ち上がった。それを見て有加里も鎖を持つと、右手首に巻いた。ジョンは後ろ足で立てば、中学生の女の子位はあるだろうか。有加里は少し不安になった。

 そんな不安を余所に、ジョンはお決まりの散歩コースを歩き始めた。映画スタジオの中を、有加里は散歩させているというより、ジョンに引き回されているだけだ。

「お、ジョン、こんちわー。誰だい? そのかわいい子は?」

 美術倉庫に行った時、ジョンは声を掛けられた。するとジョンは頭を撫でられた後、『ほれ、挨拶しとけ』と言わんばかりに有加里を見た。

「高田有加里と申します」

「有加里ちゃんね。ジョンのお散歩頑張ってねー」

「はい。頑張ります」

 何事にも頑張る有加里は、頑張れと言われて頑張らないはずがない。にこやかに挨拶をして、有加里はジョンに引かれて行った。

 そんな感じで有加里は、広い映画スタジオのあちらこちらをジョンに紹介されて行った。社員食堂の裏口や、ゴミ捨て場、資材搬入口、そして広大な倉庫にも行った。そこで色々な人に紹介され、みんなから「ジョンの散歩を頑張るように」応援された。一人一人に有加里は「頑張ります」と、にこやかに答えた。ちょっとだけ不思議に思った。

 最後に守衛さんの所へやってきた。ジョンは尻尾を振って、一番最年長の守衛に挨拶をした。するとその守衛はジョンに気が付くと、直ぐに右手を上げ、近付いてきた。腰を曲げてジョンの顎を撫でた。ジョンが気持ち良さそうにしているのを確認すると、入口付近にある缶を持って来た。ジョンは尻尾を振って喜んだ。有加里は小首を傾げて微笑んだ。ぶっきら棒に歩いて来たジョンが、初めて喜んだからだ。

「おぉジョン、今度の彼女は随分かわいい子だな。この色ボケじじい」

「ワン! ワン!」

 ジョンはそこで初めて鳴いた。有加里はジョンが『やかましいわい』と怒っている様に聞こえて、くすっと笑った。ジョンは今までの様に守衛には紹介してやらないと言わんばかりに、有加里の方を見なかった。それは守衛から餌を貰っていたのも原因かもしれない。

「あら、ジョン、いいわねぇ」

 有加里は守衛の手から、ドックフードを貰って食べるジョンを微笑みながら見ていた。守衛は噛まれる心配がまったくない感じで、有加里の方を見た。

「ジョンの散歩をした人は、みんな売れっ子になるんだ」

「そうなんですか?」

 有加里は守衛から不思議な伝説を聞いた。有加里は笑いながらジョンの横にしゃがむと、餌を食べているジョンの頭を撫でた。

「ジョン様、頑張りますので、応援してくださいね」

 そう言って笑った。守衛も笑った。犬の散歩をして有名になれる程世の中甘くない。それでも今までに三人も売れっ子が出ていれば、それは『伝説』として十分過ぎる。

 有加里はジョンの大きな口元を見ると、横からドックフードがポロポロと落ちているのが見えた。

「あらあら」

「あぁ、ジョン歯がだいぶなくなっちゃったからなぁ」

 守衛はそう言ってビニール袋から追加の餌を出した。有加里は下に落ちたドックフードを拾った。そしてそれを口に入れた。

 驚く守衛を尻目に、有加里はガリガリとドックフードを噛み砕くと、手に戻してジョン様に差し出した。眠そうな目で有加里を見ていたジョンだったが、守衛の手のひらにあるドックフードと見比べて、有加里の方を選んだ。

 ペロリと一口に食べると、あっという間に飲み込んだ。有加里は大きく柔らかいジョンの舌を手に感じた。

「ワン! ワン!」

 ジョンが吠えて歩き始めた。有加里は引っ張られて守衛所を後にした。守衛にはジョンが『いいだろう。お前にはやらないぞ』と言っている様に聞こえた。守衛は有加里の名前を聞きそびれてしまった。


 映画の仕事は結構長い。だからといって毎日仕事がある訳ではないが、なぜか有加里はジョンの当番として認定されてしまった。毎朝映画スタジオに行って、ジョンの散歩をして帰る。何とも変な仕事である。あ、もちろん日当も交通費も出ない。これはもしかすると、単なる嫌がらせかもしれなかった。気が付いていないのは有加里だけで。

 それでも有加里はジョンのために、毎朝やってきた。

「ジョン様、おはようございます」

 にっこり笑って有加里がお辞儀した。ジョンは『来たか』位に片目を開けて有加里を見た。そしてゆっくりと立ち上がった。

 いくらジョンの方が偉くても、鎖を外すのは有加里だった。世の中にはルールというものがあるのだ。

「では、参りましょう」

 有加里は丁寧にお辞儀すると、ジョンの鎖を引っ張った。しかし、今日のジョンは、有加里とは反対の方向に向かった。有加里は振り返った。ジョンも振り返って有加里を見た。有加里はジョンのご機嫌を損ねてしまったと緊張した。なぜなら、ジョンは犬小屋の中に入り、尻尾を出していたからだ。

 ジョンは『なんだよ、来いよ』と言わんばかりに犬小屋から顔を出した。そしてまた犬小屋の奥に行ってしまった。

 不思議に思った有加里は、一歩犬小屋に近付いた。すると弛んだ鎖がピンと張った。有加里は「あれ?」と思いながら、今度は二歩犬小屋に近付いた。それでも鎖はピンと張ったままだった。

 不思議に思って有加里はその場でしゃがむと、犬小屋を覗き込んだ。すると犬小屋の奥に穴が開いていて、ジョンが手招き、いや、首招きをしていた。

「ワン!」

 それは『早く来いよ』と言っている気がして、有加里は周りを見渡した。誰もいないのを確認すると、犬小屋の中へ潜り込み、奥の穴を潜ってみた。

 そこは映画スタジオの隣にある公園だった。

 ジョンは尻尾を振りながら有加里を引っ張った。有加里は周りをキョロキョロしながら、ジョンの後に付いて行った。今日のジョンは、普段と違う散歩コースを選んでいる。トコトコと歩いて行くと、目の前に東屋が現れた。

「ワン! ワン!」

「お、ジョンだねー。おはよう」

 朝早くとは言え、寝巻き姿で新聞を読む男は、有加里より親しげに、有加里より先にジョンと挨拶を交わした。ジョンは物凄い勢いで尻尾を振っていた。そして、ジョン様が『ご挨拶なさい』と振り返ったので、有加里はジョン様に引っ張られたままのポーズで挨拶をしようとした。

「ワン!」

 ジョンが有加里の方を向いて着席し、両足を揃えて吠えた。有加里は慌てて気を付けをすると、その寝巻き姿の男に向かって、最高位の敬意を持って挨拶をした。

「高田有加里と申します。よろしくお願いします」

 何をよろしくなのか、よく判らなかったが、有加里はお願いした。男は笑って名前を名乗ると、ジョンに聞いた。

「ジョン、この子、見込みがあるの?」

「ワン!」

 ジョンは『はい、もちろんです』という感じで元気良く吠えた。男はジョンの頭を撫でて褒めた。

「まぁ、お掛けなさい」

 男は有加里に声を掛けた。有加里は「失礼します」と言って、東屋の空いている席に座った。男は沢山の新聞が積まれた山から、一部づつ取ってパラパラと見ていた。そして、時々紅茶を飲んだ。

「高田さんも、ご自分でどうぞ」

 新聞を読みながら、男が声を掛けた。有加里が小さく手を横に振ろうとすると、ジョン様がパフっと有加里の足を踏んだ。

「頂きます」

 有加里はなぜか用意されていた二つ目のカップに紅茶を注ぐと、もう一度「頂きます」と言って一口飲んだ。すると、男はにっこり笑って有加里を見た。そして質問をした。

「歌手なの? それとも女優さん?」

「歌手です」

 有加里は緊張して答えた。

「ほー。どんなのを歌っているの?」

「自分で作詞作曲したものを歌っています」

 すると男は新聞を閉じて、顔を有加里に向けた。

「ほー、それは感心ですねぇ」

「ありがとうございます」

「ちょっと歌って頂けませんか?」

 有加里は驚いて返事に困ったが、ジョン様がまた有加里の足をパフッと叩いた。

「判りました」

 有加里が答えると男は頷いて、曲目のリクエストをした。

「では、ツェーから二オクターブを、テンポ六十で半音ずつ二往復してください」

「判りました」

 お安い御用だ。友香里はすっと立ち上がると、言われた通り歌った。男は音に合わせて首を左右に振りながら上機嫌で聞いていた。一曲歌い終わって、男は盛大に拍手をした。

「良い声ですね」

「ありがとうございます」

 有加里は頭を深々と下げた。男は笑いながら右手を顎の所に持って行くと、有加里に指摘した。

「EsとAsとBが四分の一狂ってますね」

「申し訳ありません」

 上げ掛けた頭をもう一度下げて有加里が詫びた。しかし男は、笑いながら有加里に聞いた。

「オルガンですか? それともハーモニカですか?」

「オルガンです」

 オルガンもハーモニカも、チューニングが難しい楽器だ。有加里の答えに男は頷いた。

「そうですか。結構ご苦労なさってるんですね」

「恐縮です」

 男は全てを察したように有加里に声を掛けると、にっこりと微笑んだ。有加里は申し訳なさそうに、また頭を下げた。

 その日はジョンに引かれて終わりになった。男は「また歌を聞かせて下さい」と有加里に言い、手を振った。有加里はジョンと男の方を交互に見ながら、頭を下げつつ、引っ張られていった。


 次の日曜日、壁際の犬小屋前に有加里がいた。両手を胸の所で組み、不安と恥かしさが一度に襲う不思議な感覚があった。犬小屋の中からはジョンが呼んでいる。有加里はもう一度周りを見渡すと、ジョンの許へ向かった。

「ジョンさまー」

「ワンワン!」

 隣の公園はまるで別世界の様だったが、霧が出ているのは映画スタジオと同じだった。有加里はジョンに引かれるまま歩いた。今日は十分発声練習をしてから来ていた。だから先週より、もっと感情を込めて歌えると思っていた。

 霧の中から現れた東屋に、先週とは少し色の違う寝巻きを着た男が、先週とは全く異なる内容の新聞を読んでいた。

「おはようございます」

「おはようございます」

「ワン!」

 三人は同時に挨拶し、そして微笑んだ。男は空いている席を手で指し示し、有加里に座る様に言った。有加里は「失礼します」と一礼して腰掛けた。公園の東屋で、先客にこれほど気を使う必要があるのか、それは誰にも判らない。

「今日は先週よりも声が出てますね」

 挨拶の声を聞いて判った様だ。

「ありがとうございます」

「西園寺さん、お元気ですか?」

「はい」

「それは良かった。今度よろしくお伝え下さい」

「申し伝えます」

 何をどう調べたのか、それとも西園寺のヴォイストレーニングに、何か特徴があるのか、それは判らない。有加里は極度に緊張していた。

 その緊張を察してか、男はまた紅茶を勧めた。そして有加里に一言助言した。

「紅茶は咽に良いんですよ」

「はい」

 有加里は少し震える手で紅茶を注ぐと、「頂きます」と言って一口飲んだ。男は再び新聞の山に目を向けたが、手にしたのはそこに立てかけてあったA4サイズの茶封筒だった。

 有加里は立ち上がり、その封筒を両手で受け取った。男はにっこり笑って説明をした。

「例の三音は外しておきました。貴方に気に入って頂ければ幸いです」

 その言葉に有加里は驚いて封筒を見た。封はされていなかった。有加里はそっと中を覗いた。そこには五線紙が入っていて、白や黒のおたまじゃくしが泳いでいた。その場で失礼して取り出すと、そこから有加里の書いたことのない素敵な詩とメロディーが流れてきて、有加里の目の前に広がった。

「ありがとうございます」

 有加里は楽譜を茶封筒にしまうと頭を下げ、礼を言った。男は気に入って貰えた様で良かったと、嬉しそうに笑った。

「歌ってみて貰えますか?」

「はい。喜んで」

 有加里は封筒を手に持ったまま小首を右に傾げると、そのまま歌い出した。男は紅茶を飲みながら目を細めて聞いていた。


 有加里は上機嫌で公園を歩いて来たが、犬小屋から出る時には緊張していた。犬小屋から首を出し、周りを見た。誰も居なかった。そもそもここは行き止まり。ジョン様の御殿しかなかったので、誰かが来るなんてことはない。有加里はジョンにお尻を押されて外に出た。

「ジョン様、ありがとうございました」

 有加里はジョンに礼を言って、頭を撫でた。ジョンは片目を開けて有加里を見た。そして、ない歯を見せて笑った。それを見て有加里は、満面の笑みを浮かべてしゃがむと、自分の体と太ももの間に茶封筒を挟んだ。

「かわゆいのぅ。かわゆいのぅ」

 ジョンの大きさに最初は怖がった有加里だったが、自分の頭と余り変わらない大きさの頭や、手がすっぽりと入ってしまう大きさの口を、両手で激しく擦った。ジョンは顔をくちゃくちゃにされて、その表情を読み取ることは出来なかったが、尻尾を激しく振る音が犬小屋の奥から聞こえてきた。

 スキップをしながらくるりと回り、何度も手を振る有加里をジョンは見ていた。霧は晴れて、朝日が建物のレンガを赤く照らし、柔らかな乱反射は有加里を暖かく照らしていた。角の所で有加里の足、腰、胸、顔、右手、そして最後に長い黒髪が壁の向こうに消えたとき、ジョンは静かに目を閉じた。


 長い開店休業状態の間に、有加里は何十曲も作詞作曲をしていた。それらの中から、安田を初め、プロダクションの人達と一緒に選曲し、アルバムを出すことになった。曲数は四曲。一枚千円で発売予定とした。

 マルチトラックレコーダによって、一パートづつ録音したものを後で重ねるレコーディングを、有加里は好きになれなかった。仕上がりは素晴らしいのだろうが、緊張感が欠けている。そう思っていた。レコーディングの場に次々と現れる人たちが、バラバラに録音していく様は、音楽という芸術品を生み出すには少し違う気がした。

 有加里は効率の良い工場を思い浮かべた。そう。ここは音楽を作る工場なのだ。最後に微調整をして、バンとプレスをすると出来上がり。有加里はロボット生産工場から続々と出てくる有加里ロボットを思い浮かべた。

 しかし、走り出した列車は止められない。まして新人に等しい有加里のために、一流の音楽家達がスケジュール調整をしてやってくるのだ。来てくれるだけでも感謝せねばなるまい。

「これ、キーがめんどいなぁ。三音上げて演奏するから、後で下げといて」

 一流の音楽家たるもの、どんな困難であっても、その技術力でカバーするのだ。そして、それは聞く人にとって、あたかも簡単に出来ている様に感じられるものだ。

「俺急いでるんで、これならテンポ倍でも余裕だから、後で遅くしといて」

 スペシャルテクニックは人々を魅了する。まるで月へ人類を送り出した様に。しかし、それを素晴らしいと言う人がいても、芸術であるかを決めるのは百年後の話である。

「なんだ、ここのコード進行、あの曲と一緒じゃん。同じの使っといてよ。じゃぁね」

 有加里は疲れて廊下に出ると、化粧室に向かった。少しふら付いて軽い吐き気があった。鏡の前で溜息を吐いていると、隣に先輩歌手がやって来て、やはり溜息を吐いた。

「あら、有加里ちゃんも悩みごと?」

「えっ、はい、いいえ、私の悩みなんて、たいしたことないです」

「そうかー。私は深刻なんだ」

「どうしたんですか?」

「どうも曲が、しっくり来ないんだよねー」

 先輩歌手の目の下には、黒い隈が出来ていた。有加里は思った。私も悩むべきなのだと。人から貰った曲を歌うにはまだ早い。自分の実力を信じて努力すれば、きっと花開く。私はまだ努力が足りないんだ。

「先輩、スタジオEで新曲を歌ってみませんか?」

 有加里は声を掛けてみた。先輩は意外そうな顔をした。

「それは、あんたの曲なんじゃないの?」

 そう言われたが、有加里は首を横に振って答えた。

「私が作ったものではありません。それに、私は自分で作った歌で勝負したいんです」

「そうかい。それじゃぁ幹島ちゃんにお願いしてみようかな」

「はい。先輩なら一音下げて録音した方が歌い易いと思います」

 先輩は目を丸くして有加里を見た。そして笑って答えた。

「あんた、良く知ってるじゃん」

 二人はそこで別れ、先輩はスタジオEへ、有加里はスタジオを後にした。


 スタジオを後にした有加里が向かったのは、ジョンの所だった。折角有加里のために曲を作ってくれたのに、それに答えることが出来ないのを詫びに行ったのだ。

 しかし、守衛所で有加里が耳にしたのは、ジョンが死んだことだった。有加里はジョンの犬小屋に向かって走った。そして見た。振り返って後ろの景色を確認し、犬小屋があった筈の所をもう一度確認した。そこには新たな物置小屋が建っていて、入り口は鍵が掛かっていた。有加里はその場にしゃがみ込むと泣いた。

 有加里はふと思い出した。作曲したのはジョンではなかったことを。有加里は走って映画スタジオを飛び出すと、壁沿いを走った。走って、走って、走って、公園が出てくるまで走ったが、なぜか公園はなく、また映画スタジオの守衛所まで戻ってきてしまった。

 有加里は注意深く、もう一度走った。すると今度は、お寺の様な大きな門を見つけた。有加里は宮本と書かれた小さな呼び鈴を押してみたが、お手伝いさんに追い返された。途方に暮れたが、帰るしかなかった。


 それから一ヵ月後、町中で有加里が歌うはずだった曲が流れていた。先輩は若手歌手から人気歌手にランクアップし、有加里の視界から遠く消えた。有加里は相変わらず、アパートで作詞作曲をする売れない歌手だった。しかし、有加里は後悔なんてしていない。

 隣では正樹が、出来上がった有加里の曲を聞いていた。そして詩を見て朱書きした。

「うーん、疲れた」

 有加里が机の前で背伸びをした。そしてテレビのスイッチを入れた。すると、そこから聞こえて来たのは例の曲だった。今度はCMに採用されたのだ。来月はドラマの主題歌になって、そのドラマは映画にもなるのは確実だった。

「歌っておけば良かったね」

「えっ!」

 正樹の一言に有加里は振り返った。正樹は有加里の顔を見た時、深い悲しみの目を見た。今までにこんな目を見たことはない。そして有加里の後ろで何かが崩れ落ちる感じがした。はっとした正樹は言い直そうとしたが、有加里はその場に崩れ落ち気を失っていた。


 有加里は救急車で病院に運ばれたが、直ぐに意識を取り戻し、家族と正樹を安心させた。翌日には昨日のことなど忘れてしまった様に元気になっていた。しかし、まだ入院が必要と言われ、家族と正樹は医師の説明を聞くことになった。

「非常に珍しいのですが、若年性アルツハイマー病です」

 さらりと医者は言う。しかし、正樹はその時のことを忘れられない。

 有加里は段々と記憶がなくなって行くと言われた。医者の説明を受けた人の中で、最初に忘れられるのは正樹で確定していた。だからと言う訳ではないが、正樹は泣いて帰った。

 医者に言われた通り、有加里の時計は逆に回り始めた。正樹が言った一言を忘れ、最後のレコーディングのことも忘れた。海に行ったことも波にさらわれて、かもめと一緒に飛んで行った。

「安田さん」

 有加里がいつもの様にやさしく正樹を呼んだ時、正樹は驚きの表情で振り返った。しかし有加里は、それを不思議そうに眺め、理解出来ない様だった。

 それでも有加里は笑顔だった。少し目が泳いでいたが、遠目には病人とは見えなかった。

 友香里が「何か食べたい?」と聞くと、「アイス」と答えた。友香里は喜んで「何味?」と聞いた。有加里が「バニラ」と即答すると、友香里は病院を飛び出した。そして特大のバニラを買ってきた。泣きながらバニラを食べる友香里を見て、有加里は笑っていた。

 翌日、バニラを食べたことは忘れてしまっていたが、友香里は毎日バニラを食べさせた。

「バニラっておいしいんだねぇ」

「おいしいでしょー」

 まるで初めて食べる物の様に笑っている姉を見て、友香里は姉から毎日同じ箇所を注意されつつ、オルガンを弾いていた頃を思い出した。それを話すと有加里はいつも笑っていた。

 一人蚊帳の外になってしまった正樹は、必死に姉の記憶を手繰り寄せる友香里の後姿を見ているしかなかった。


 そんなある日、正樹は友香里に泣いて土下座をすると、有加里の曲を歌ってくれないかと頼んだ。友香里はそれを断った。

「私は有加里お姉ちゃんにはなれない」

 友香里が出した条件は、友香里が作詞作曲したもので勝負すること。それだけだった。正樹はその条件を飲んだ。二人はそこで固い握手を交わし、有加里のためにもヒットを飛ばそうと誓った。

 しかし、時計の針は逆回転に回りながら加速しようとしていた。友香里が投げた物が当たり、怪我をした正樹の手に絆創膏を貼っている時、電話のベルが鳴った。病院にいる母からだった。有加里は肝硬変を併発して、もう手の施しようがなくなっていた。

 正樹と有加里が車を飛ばして病院へ着いたとき、有加里はベッドで目を閉じ、かすかに息をしているだけだった。

 正樹は有加里の左手を握り「有加里!」と叫んだ。しかし、有加里は手を握り返し、指を少しだけ動かしただけで、あまり反応はなかった。友香里が正樹の隣で「お姉ちゃん!」と叫ぶと、有加里は少しだけ目を開けた。そして正樹と友香里を見た。

 その時有加里は、口元を緩ませて穏やかに微笑んだ。そして、何かを言おうとして唇を動かした。正樹は急いで耳を有加里の口元に近づけた。有加里は目を閉じ、かすれる声でそっと囁いた。

「おめでとう」

 正樹は何を言っているのか判らなかった。何かの聞き間違えかと思った。しかし、左手の薬指に巻かれた絆創膏を、有加里が指先でそっとなぞっているのを感じた。そしてそれが止まるのを見た。

 あっと思った時、正樹は有加里の手を握ったまま、もう開くことのない有加里の目から、一滴の涙がこぼれ落ちるのを眺めていた。

「何て言ったの?」

 友香里の問いに、正樹は答えられなかった。しばし沈黙した後、搾り出すような声で答えた。

「ありがとうって」

 それだけ言って、後は、ただ「有加里」と泣き叫ぶだけだった。

引用:財津和夫『切手のないおくりもの』

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