駆け引き
パン屋に行った日から、雄大の部屋に時々変な音がする様になった。今日も午後からスズメの声に混ざって変な音がする。
「ピンポーン」
「はーい」
雄大は聞き覚えのある音に反応した。
「ピンピンポーン」
「はーい」
「ピピピポーンピポーン」
「誰だ!」
いや、判っている。友香里だ。二〇三号室の前を通る時、いつも押しやがるのだ。朝の寝坊した時は良い。しかし、友香里が出掛ける時や、仕事から帰ってきた時にも押して行く。
雄大は三回玄関に出たが逃げられた。それでも一回目はヒヒヒといつもの下品な笑いを浮かべ、階段を走り降りて行く所だった。二回目は雄大が追い掛けて来ないと踏んでか、余裕で階段を降りて行く。憎憎しい。三回目は階段の方にダッシュしたが、「こっちだよー」と言われて振り返ると、ヒヒヒと笑って二〇四号室の扉が閉まる所だった。
雄大はトイレの中で呼び鈴の音を聞いていた。しかし、今日はドアを開けても友香里は逃げない。なぜなら友香里と出掛けるからだ。雄大はちゃんと手を洗うと、綺麗な鞄を取って玄関を出た。
「うるさいよ」
「ヒヒヒ」
友香里はよっぽど呼び鈴が好きなのか、雄大が外に出ても呼び鈴を押し続けていた。
「電気代、俺が払うんだぜ?」
「けちくさっ!」
友香里は振り返ると呼び鈴を押すのを止めた。日曜の午後、出掛けるには少し遅い。友香里は手摺に両手を乗せ、寄り掛かりながら迎えが来るのを待っていた。
「遅いねぇ」
「渋滞してるんだよ」
実はまだ約束の時間にはなっていなかった。というのも、安田がいつもの友香里時間を見越し、少し早めの時間を伝えてあったのだ。二人はアパートの廊下で夏の空を見ていた。
もうそろそろ夏休みも終わる。そうしたら一日八時間はピアノが弾けないかもしれないと思っていた。せめて六時間は確保したい。雄大は友香里の話をうんうんと聞きながら、そんなことを考えていた。
「だれ? 呼んでるよ?」
友香里が指差した先を見て、雄大はにこやかに手を振った。それを見て友香里は、少しだけ若さに嫉妬した。しかしそこにいたのは、ランドセルを背負った小学生だったのだ。嫉妬する程のことか。
「おー、早苗ー」
雄大が反応を示したのに満足したのか、その早苗という少女が階段をトントンと上がってきた。友香里も微笑みながら早苗の方を見た。しかし早苗は友香里を無視していた。真っ直ぐ雄大の所へやってきた。
「どうした、遊びに来てくれたのか?」
「うん」
「何でランドセル背負ってるの?」
「宿題」
「そうか。宿題を提出しに行ったのか」
「水泳大会」
何となく不機嫌な調子で話す早苗に、友香里は幼い日のことを思い出しておかしくなった。
「雄大、この子だれ?」
友香里の質問に、雄大が振り返った。早苗も振り返っていたが、雄大の陰に隠れて、友香里からは見えなかった。雄大は「あぁ、そうだよね」という感じでランドセルを掴むと、早苗を友香里の前に立たせた。少し早苗が抵抗していた様にも見えたが、雄大の力の前に簡単に屈した。
「妹の早苗。こちらお隣の高田友香里さん。御挨拶なさい」
雄大が早苗の隣に立ち、にこやかに紹介した。友香里はかわいい妹の登場に、雄大が羨ましくなった。
早苗は雄大に言われてペコリと頭を下げると、真っ直ぐに友香里を見た。その目に友香里はドキッとした。覚えのある目だった。
「『斉藤』早苗です。よろしくお願いします」
妹との紹介に、明らかな不満表明を表した早苗は、友香里から目を逸らさなかった。友香里も負けじと目を逸らさなかった。友香里はその場にしゃがむと、早苗の目線と水平になる様にした。
笑っていれば、ぱっちりとしたお目目のかわいい女の子であったに違いない。しかし今は、女豹の様に鋭い眼光をぶつけ合っていた。
「早苗ちゃん、幾つ?」
「九歳。もうすぐ十歳」
友香里はちらっと雄大を見た。そしてもう一度早苗を見た。
「水泳大会だったの?」
「そう」
「何泳いだの?」
「バタ足」
バタ足って、まぁそんなものか。
「おー、二十五メートル泳げるの?」
「横」
「そっかー、横かー」
「うん」
「水着はどんなの?」
「黒いの。学校の」
うんうんと頷いて、友香里は話を聞いていた。そして早苗に言った。
「お姉ちゃんビキニ」
その瞬間、早苗は唇を噛み締め、鼻をすこーしピクっとさせた。そして、友香里を更に鋭く睨んだ。その表情を見て友香里は見切った。この子はビキニが欲しくても買って貰えないのだと。いや、どちらかというと言い辛いのだと。
友香里は少し鼻の穴を広げて息を吐き出すと、その勢いで立った。その間も早苗から目を離さなかった。早苗も敗北感にさいなまれながら、目線を追った。そして、下目に見る友香里と、上目に見る早苗が一触即発の雰囲気を醸し出した。
友香里の右足がじわりと捻るように前に出た。早苗の右足もそれに呼応するかの様に、つま先を軸に、かかとが少しだけ外へ流れた。
雄大は今日何時に帰って来れるか、それだけを考えていた。
女の戦いが始まろうとした時、下の方で車の止まる音がした。友香里と雄大はそちらを見た。早苗だけが取り残された。下の車から男が出てきて、三人に手を振った。
「お、早いね。お待たせー」
「まーくん遅いよ!」
友香里が笑顔で手を振った。雄大は丁寧にお辞儀をした。早苗は友香里を、牛乳とワックスが染み付いた学校の雑巾を見るかの様に凝視した。それでも友香里と雄大が、下の車へ向かったので、早苗もトコトコと付いて行った。小さな手を、ランドセルの肩紐に添えて歩く様は、やはり小学生である。
下から見上げた安田は、何やらおまけがくっついて歩いて来る様に感じていたが、あまり驚かなかった。家にはそう、早苗より少し小さい妹がいたからだ。
安田家のアイドルでもある美紀は、悪戯好きでよく兄を困らせた。しかし、十五も離れた小さな妹を、兄の正樹がぶん殴ったりするはずもなく。両親もかわいがれど、叱ったりなんてしなかった。そんな妹と印象を勝手に重ね合わせていた。
「こちら、どなた様?」
安田は友香里に聞いた。友香里がにっこり笑って紹介した。
「こちらが増田雄大様。こっちは妹の早苗ちゃん」
そう紹介して友香里は、早苗を勝者の目で見た。
早苗は友香里の方を見て睨み返したが、安田にはミニスカートを覗いている様にも見えた。そして『ケッ水玉かよ。いい気になりやがって』と吐き捨てて下を向いた、様に見えた。安田は早苗の将来が不安になった。
「増田雄大です。先日は生意気な物を送りまして、失礼致しました」
「早苗です」
「いえいえ、早苗ちゃんって言うんだー。とんでも御座いません。ありがとうございました」
同時に言われてペコペコする安田を見て、友香里は笑っていた。そして、今度は『斉藤』と言わなかった早苗をかわいらしく思い、本当に妹なのか、ちょっと興味を持った。
「こちらが、まーくんさん?」
少し言い方が変だったが、雄大が友香里に聞いた。友香里はハッとして答えた。
「『マ』ネージャーさんよ」
「安田『ま』さき、です」
安田が雄大に自己紹介した。雄大は友香里の説明で名前を思い出していたが、安田の挨拶でそれを確認することが出来た。一方早苗は、安田に共感するものがあった様で、一瞬目を光らせた、様に見えた、かもしれない。
四人は車に乗って、西園寺の元へ向かった。バンの中で安田と友香里は、いつもと違ってバックミラーで見つめ合い、話をしていた。しかし、どちらかと言うと、隣の雄大と話をしている方が長かった。それに今日は、足を揃え、両膝を付けて座っている。
安田の隣には早苗が座っていたが、さっきまでの勢いと、鋭い目付きはなくなり、借りてきたネコの様に大人しくなっていた。靴を脱ぎ、きちんとシートベルトを締めて、膝を抱えて座っていた。安田にはちょっと不思議な姿勢に見えたが、子供だし、あまり気にしなかった。
もうすぐ西園寺邸という時、後ろの二人が免許取得について言い合っていた。どっちの方が早く免許を取るか、そんな争いだった。
「俺の方が誕生日早いから、先に取れるぜ」
「何言ってるの。試験落ちまくりで、私が後から追い越すわ」
「俺が試験に落ちる訳ないだろう? 俺だぜ?」
「何よ! どうせ免許取ったって、学校に預けるんでしょ?」
そう言われて、雄大は言葉に詰まった。苦々しい。引き分けに持ち込まれたかと思った。試合に勝って、勝負に引き分けた。そんな感じ。いや、まてよ? それって一勝〇敗一引分じゃね?
雄大が勝率を計算しているのを放置して、友香里が安田に話しかけた。
「安田さん、セブン持ってたよね? 免許取ったら貸してよ!」
セブンと聞いて雄大が反応した。MAZDAのRX7と言えば、かっこ良いスポーツカーである。安田はブレーキを踏み、ハザードを点けてサイドブレーキを引くと振り返り、笑って友香里に答えた。
「良いけど、スターター壊れたままだから押し掛けだよ?」
「えー。やだー」
「直しましょうよ!」
友香里と雄大は、安田のセブンを一瞬で諦めた。そして笑いながら車を降りて西園寺邸へ入って行った。
固まっていた早苗も、慌てて靴を履き、外へ出ようとしたがシートベルトに引っ掛かった。安田は優しく外してあげると、早苗は安田の方を見て少し小首を傾げ、そして小さく礼をして二人を追い掛けて行った。
早苗は安田の目に、小さく光るものを見た。西園寺の玄関扉の前で振り向くと、安田がハンドルに肘を付け前屈みになっているのが見えた。