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同士よ

 明け方早く友香里は飛び起きた。その日は少し遠い所で営業があったからだが、理由はそれだけではない。

「よくある名前だよねぇ」

 友香里は呟いた。『増田雄大』という名前、友香里の知っている人物は一人だったが、きっとよくある名前だ。もし、同姓同名の別人だったら、第一印象は相当悪くなってしまうに違いない。友香里は軽率なことをしたと思った。

 大きな溜息を吐くと、口をヘの字に結び、雑巾に水をしみ込ませた。何となく牛乳の匂いがした。それでも我慢して硬く絞ると、サンダルを引っ掛けて二〇三号室へ向かった。

 まだ朝の四時を回った所だった。こんな時間に起きているのは新聞屋さんと、豆腐屋さんと、パン屋さんと、それに、売れない歌手位なものだろう。友香里はそう思った。

 ふと、朝食は焼きたてのメロンパンと、いつもの保証牛乳にしようと思って笑顔になった。

 友香里のお気に入りである保証牛乳。どこのブランドなのかは知らない。ただ、牛乳キャップに大きく描かれた『保証』のマークが気に入っていた。それが一体、何を保証しているのか。友香里にはよく判らなかったが、これを飲めば『未来が保証される』と解釈していた。

 いや多分、牛乳の品質を『保証』しているのであろう。薄々は判っていた。友香里だってそこまで間抜けではない。しかし友香里に今必要なのは、輝ける未来であったのだ。

 友香里は二〇三号室の前に来ると、立ち止まった。そこにはベットリと流れ落ちた、レモン味のアイスがあった。

「アイスって溶けると、こうなるんだ」

 友香里は初めて見る光景に、しばし感慨にふけっていた。しかし、そんな暇はない。頭の中で朝のスケジュールが動き始めた。

 友香里は雑巾を広げると、増田雄大の名前を見た。ネームプレートは割れていなかった。弁償も覚悟していただけに、安堵した。

 友香里が少し牛乳の香りがする雑巾で、『増田雄大』と書かれたネームプレートを拭こうとした時、それは少し右に曲がりながら近付いてきた。

 友香里は、ドアが芳しい牛乳の香りに誘われて、優雅に朝の散歩へ出掛けるかに見えた。なんて素敵なドアなんでしょう。さぁ、手を取り一緒に出かけましょう!

 ドアは友香里に気が付いたのか、友香里の手を取った。そして親しげに近付いてきた。友香里は笑顔でそれを受け止め様としたが、ドアの愛は思ったより重たくて、友香里には支えきれなかった。

「あ、ごめんなさい」

 ドアから謝られた気がした。なんて優しいドア。友香里はなぜか牛乳の香りに包まれていて、視界が暗かった。さっき緑の木の間から、キラリと輝く朝の光が訪れたはずだった。倒れはしなかったが、手摺にもたれ掛かって倒れそうになっていた。

 雄大はコンビニに朝飯を買いに行こうとして、ちょっとドアを開けただけだった。アパート暮らし二日目にして、クラッシュ。しまったと思った。顔を出してヒョイと覗いて見ると、しかも相手は因縁深い隣人。小さくヤヴェと発音してみた。

 こんな朝早くから、雑巾を顔に載せて何をしているのか。それはきっと掃除だろう。しかし、顔の掃除ではないだろう。雄大は手摺を見た。綺麗に掃除されていた。廊下も階段も綺麗に掃除されている。雄大はその一瞬の時間の間に、自分が何をしてしまったのか悟った。それ位の観察能力と推理力は、雄大にとって極普通のことだった。そして隣人を見直した。

「痛くなかった?」

 未だ雑巾を顔に載せて動かない友香里に声を掛け、ドアをそっと開け様とした。

「大丈夫!」

 友香里が急に動き出して、ドアを止めた。ドア越しにも判る牛乳の香りに、雄大は鼻を曲げた。それでもにこやかな友香里は、とても掃除が好きな良い人に見えた。しかし、少し力が強いと見えて、雄大は首だけドアと壁に挟まれた。

「おはよう。あ、増田『ゆーだい』って言うんだ」

「はいそうです。おはようございます」

 友香里はネームプレートを拭きながら、雄大に笑顔で挨拶した。雄大は首を挟まれたまま答えた。息が出来る程度に開けて欲しかったが、友香里がにこやかに二〇三号室のドアを拭いてくれていたので、死なない程度に我慢することにした。

「私、高田『ゆかり』。よろしくね」

「はい。よろしくお願いします」

 そう答えてから雄大は聞き間違えかと思った。ちょっと聞いてみた。

「『ゆうかり』と書いて、ゆかりって読むんですか?」

 友香里はドアの中央付近を、サッと下まで拭いていた。そしてしゃがみ込んだ時、首を左右に振った。

「あれは、『あかり』って読むんだー。私のお姉ちゃんの名前」

「そうなんですか。二人で住んでるんだ」

 友香里は下からドアを雑巾で往復させて、上まで来ると、セロハンテープで張られた真新しいネームプレートをごしごしと擦っていた。

「違うよ。お姉ちゃんは休学中なんだ。だから私が代わりに住んでるの」

 大学時代に休学して海外へ出かけたりするのはよくあることだ。だから休学の理由は聞かなかった。友香里が留守番でもしているのだろう。それと同時に、隣人は自分と同じく芸大生ではないのだとも思った。

 ドアを拭き終わって、友香里はドアを開けてくれた。雄大は一歩前に出て廊下に出た。愛を語るのに朝は、あまりロマンチックではなかったし、雄大は腹が減っていた。掃除してくれたことに感謝しつつ、早い所コンビニに行きたかった。

「二階って女の子しか入居出来ないと思ってたのに」

「え? そうなの?」

 雄大はそう言われて、踏み留まった。折角昨日ピアノの組み立てをした所なのに、もう引越しかと思った。雄大は振り返って友香里を見た。友香里はうんうんと頷いていた。

「この部屋は幸運の部屋なんだ。だから結構入れ替わるんだけど、男が来たのは初めてだね」

 そう言って友香里は笑った。運勢にあまり関心がない雄大には、言葉の意味が判らなかった。

「幸運だと直ぐに引っ越すの?」

 その問いに、友香里は口を横に引き、目を垂らしてコイツはダメだという顔をした。

「男が出来るんだよ!」

 笑いながら雄大は左腕を叩かれた。雄大は咄嗟に答えた。

「男はいらねぇ!」

 友香里は、やっぱりコイツはダメな奴だと思った。


「俺、元教授の紹介で来たんだ」

「へー。そうなんだ」

「うん。今更出て行けとか言われないよなぁ」

 雄大と友香里は近くのパン屋に向かっていた。二人に付いて来るのはスズメ位だろう。今日はゴミの日ではなかった。

「でも凄いじゃん。芸大の先生に知り合いがいるなんてさ」

「そんなことないよ。うちは両親共、芸大卒なんだ」

「うへ! 音楽一族だね! すごっ」

 友香里の言葉は当たっていたが、芸大卒なのは両親だけではなかった。三代遡って全員芸大卒。もっと言えば、雄大より年上の親戚は全員芸大卒だった。しかし、それは言わないことにした。自慢というより、何かを通り越して嫌悪感さえあった。

 それでいて、自分も芸大に入ることに迷いはなかった。自分はああならない。自分は違うと思っていたからだ。

「別に凄くないよ」

 雄大はさらりと流した。同い年と聞いて安心したのか、友香里は雄大に親しげに話していた。

「私も芸大出の先生に教わっているんだー」

 それを聞いて雄大は、友香里が声楽を専攻していると話していたのを思い出した。

「へー、凄いじゃん。じゃぁ一緒に合格目指そうぜ」

 雄大は同士がいたことに、少しだけ希望が沸いた。友香里は苦笑いして、また雄大を見ると言った。

「私には無理だよ」

「そんなことないよ。頑張れば出来るよ」

「判っている癖に」

 悪戯っぽく笑う友香里の顔を見て、雄大には何が判っているのかが判らなかった。しかし、パン屋への角を曲がった時思い出した。

 朝日が友香里の顔を照らし、そこで友香里は光り輝いた。眩しい光に目を細めることもなく微笑むと、黒い瞳の中に小さな輝きを幾つも散りばめた。雄大は息を呑んだ。

「あそこだよ!」

 友香里は微笑みの残像を残して振り返ると、小さなパン屋を指差して走り始めた。勢いで結んでいた髪が解け、長い黒髪が朝日に揺れて遠い国の海の様だった。カコカコと鳴らすサンダルの音を追いかけて、雄大も走り始めた。少しだけ向かい風だったが、心地よかった。

 パン屋に入ると香ばしい良い香りがした。ふと、亡くなった亜希子叔母さんが作ってくれたパンを思い出した。しかし、それと同じパンはなかった。

 友香里は店の入り口で、解けた髪を再び結んでいた。ガラス越しに目が合うと、顎でメロンパンを指した。そして微笑んだ。雄大はうんうんと頷いて、トレイに次々とメロンパンを載せた。すると友香里が何か言って、慌てて店内に飛び込んできた。

「ずるい!」

 さっき見せたアイドルの輝きではなく、ただのメロンパン好きの女の子がそこにいた。

「そんなに食べないよ」

 雄大は笑いながら、自分のトレイから友香里のトレイにメロンパンを移した。それを満足そうに友香里は見ていたが、二人のトレイにメロンパンが二個づつになった時、自分のハサミで雄大のトレイからメロンパンを奪い取った。

「あっ! ずるい!」

 雄大が言った。友香里は顎を突き出してベーとやると、ヒヒヒと下品に笑って冷蔵庫の方に行ってしまった。まだメロンパンは棚に並んでいたが、雄大は別のパンに手を伸ばした。朝飯にメロンパンの大量購入は如何なものか。雄大はこの時、友香里の行動を疑問視していた。

 アパートまでの帰り道、友香里が早速袋からメロンパンを取り出すとかじり始めた。

「何個買ったの?」

 友香里が雄大に聞いた。

「三個だよ」

「あ、同じジャーン。結構買ったね」

 そう言いながら友香里は雄大の紙袋を覗き込んだ。

「そうでもないよ。三個くらい食うよ」

 雄大は袋の中を見せた。

「え? 何? メロンパン三個じゃないの?」

「メロンパンは一個だよ」

 何やっているのという感じで友香里は雄大を見た。一種哀れみの表情とも言えた。雄大はいくら美味しくても、そこまで美味しいものじゃないだろうと思った。

「ここのメロンパン美味しいんだ。知らないの?」

「へー、そうなんだ」

 昨日引っ越して来たばかりなのに、知っている訳がなかろう。それでも友香里は、前から知っている友達のごとく語り掛けた。そして、自分の食べているメロンパンの反対側を少し千切ると、雄大に渡した。

「たべてみ?」

「うん」

 おおよそ上品な渡し方、言葉遣い、そして食べ方ではなかったが、そのメロンパンは美味しかった。まだ焼きたての温もりがあった。

「どうよ?」

「旨い」

 雄大はペロリとメロンパンを食べ、友香里の手元を見た。

「もうあげないよー」

 友香里は殺気を感じて先に言った。そして思った。ライバルを増やしてどうするんだと。でもまぁ、いいやね。友香里は一人で納得すると、メロンパンを口にほお張ると、雄大にお願いをした。

「にぇえ、ぴあにょこんじょきか、ゴホゴホ」

「何言ってんだよ」

 メロンパンでむせた友香里の背中をトントンと叩くと、笑いながらも必死に吐き出すまいとする友香里の姿があった。

「ぴ、ぴぁ、ゴホゴホ」

「喋るなよ」

 笑いながら雄大は友香里の背中を叩いた。口に入れたまま喋るとどうなるか、身をもって示す好例、いや、悪い見本だ。雄大は友香里の言葉に『ピ』という単語があったので、大好きなピアノを思い浮かべた。ピーマンは嫌いだった。

「ピアノは西園寺先生に教わってるんだ」

 その言葉に友香里は目を丸くし、息が止まってしまった様だった。雄大の方を見て、何か言いたそうだったが、唾液の付いたメロンパンを食べる趣味はなかった。

「食っちゃえよ」

 呆れて雄大が言うと、友香里は足を止め、頷いた。不意に友香里が視界から消えたので、雄大も足を止め、そして振り返った。

「じゃぁ、今度一緒に行こうよ」

 自分の胸を叩いて飲み込んだらしく、友香里が言った。今度は雄大が驚いた顔をした。

「西園寺正太郎先生?」

 雄大が聞き直すと、友香里が他に誰がいるんだという勢いで頷いた。雄大は西園寺正太郎に会ったことがない。アパートの紹介と口添えをしてくれて、師匠斉藤から、教えを請う様申し伝えられた人物であるのに。

 雄大は友香里に聞いた。

「どこに住んでるの?」

「判らない」

「え?」

 基本的な質問に、友香里は笑って首を横に振った。安田に送ってもらっている間寝ているので、場所は判らなかったのだ。

「多分日本」

「当たり前だよ」

 雄大はもう何だか、この友香里という子が良く判らなかった。そして声楽をしている人は、みんなこんな感じなんだろうかと思った。親戚で声楽を専攻した人を思い浮かべて、友香里と比べた。雄大は首を横に振った。

「え、雄大行かないの?」

 友香里が残念そうに雄大に聞いた。

「行く行く」

 雄大は慌てて同行を希望した。気の小さい雄大にとって、知らない大人にアポイントメントを取って伺うことなど、面倒なこと以外になかった。

「じゃぁ、今度まーくんに言っとく」

 友香里はにっこり微笑んで頷いた。話をしながらもうアパートに着いていた。友香里は二〇三号室の前を通り過ぎ、二〇四号室へ行ってしまった。

 雄大は出会って二日目にして『雄大』と呼び捨てにされたことも気になったが、『まーくん』も気になった。

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