お前は誰だ
今日は長い一日だった。夕焼け空の下、鼻歌交じりに友香里はアパートに帰ってきた。割とぼろいし、余り綺麗な所ではない。しかし、友香里はこのアパートが気に入っていた。窓からは細長い公園が見える。昔は川だったそうだ。時々浮浪者が景観を損ねるが、まぁ、だいたい庭みたいなものだ。
しかし、友香里の一番のお気に入りは、この建物の防音効果だ。隣の『家屋』に音が漏れるなんてことはない。実際、一階の一〇三号室には、毎晩何人もの人が集ってシャカシャカしているし、隣の一〇四号室は、朝から晩までジャラジャラと『シジミを洗う音』が響いていたが、近所から苦情が来たことは一度もない。
カンカンと音を立てて階段を上ると、防音効果がドア側には余りないのか、窓から住人が顔を出す。友香里はこのアパートのアイドルなのだ。仕事から帰ってくると、今日も二人の住人が友香里に手を振った。
「はぁーい」
「やっほー。お仕事お疲れ様ー」
友香里はファンに手を振るかの様に、少し気取って手を振った。しかし、相手はだらしない格好の貧乏学生である。友香里は相手にしていなかった。
完璧なはずの防音効果だが、部屋と部屋の間はそうでもない。両方に部屋がある所は最悪である。その最悪な部屋である二〇三号室で、引越しが行われていた。友香里は大きな荷物を避けつつ、中を覗きこんだ。
「お引越し?」
友香里は中にいた幸子に声を掛けた。すると部屋の後片付けをしていた幸子が、友香里に気が付いた。
「あら、友香里さん」
「どうもー。随分急なんですね。家賃滞納ですか?」
友香里は笑いながら元住人に言った。幸子はにっこり笑うと、雑巾を左手に持ち替え、右手を招き猫の様にして振りながら答えた。
「そうなのよ。三ヶ月も滞納したら、流石に出て行かなきゃねぇ」
「えっ? 本当?」
明るく答えられて、友香里は固まった。それを見て幸子はおかしかったのか、右手を口に持って言ったが、それは雑巾の匂いがした。
「うっ。いえ、冗談よ。彼氏の所に引っ越すの」
「へぇー」
友香里は安心して頷き、そして少し嫉妬した。私にはいないのにと。そして荷物を眺めた。
荷物の殆どは、ここの住民らしく、楽譜と楽器が多くを占めていた。隣の幸子は今年芸大を卒業したが、そのままこのアパートに居座っていた。
「バンドの仲間ですか?」
友香里は聞いた。幸子は少し耳を赤くして友香里の質問に答えた。
「そうよ。一緒に活動するなら、一緒に住もうって言われたの」
「そうなんだ。いいなぁ」
「ありがとう。友香里さんもバンドにすれば?」
「そうね。今度まーくんに相談してみるわ」
友香里は笑って答えながら自分の部屋に向って歩き始めた。幸子が何か言っていたが、友香里は別のことを考えていた。バンドにしたら目立つかもしれない。しかし、きっと社長がうんと言わないだろう。うちの事務所は貧乏そうだし。
結局そこに帰結して、友香里は二〇四号室のドアを開けた。
このアパートは芸大の学生ばかりが住んでいる。だからどの部屋からも音楽が聞こえてくる。ジャンルは様々だ。隣の幸子はバイオリンで、彼氏はマンドリン。いや、友香里が知らないだけだ。バンド名も、何とかアンサンブルとしか記憶になかった。友香里とはジャンルが違うので、興味がなかったのだ。しかし、睡眠薬代わりにはなった。それを思うと友香里は残念に思った。
扉の前で幸子に別れの挨拶をして、友香里は部屋に入った。最初にしたことはクーラーのスイッチを入れること。次にしたことは寝ることだった。その日は下から地響きの様にシジミを洗う音と、時々「ロン」とか「きたねぇ」とか、そういう音だけが聞こえる静かな夜だった。
翌日、早朝からやかましい音に、友香里の安眠は打ち砕かれた。大きなトラックがピィーッピィーッピィーとだらしなく最後が下がるメロディーを奏でたからだ。今日が休みの友香里は、もう少し寝ていたかった。
しかし、世間にはそれを許さない人がいたのだ。玄関のチャイムがビィーと鳴った。今時そんなボタンを押す人がいるのかと思いながら、友香里は上着を着て玄関に向かうと、ドアを開けた。
そこには、なんと男が立っていた。友香里は驚いた。このアパート、上の階は女性だけのはずだ。こいつオカマ? 友香里はじろじろと股間を見たが、見えるはずもなかった。
「初めまして。今度隣に引っ越して来ました、増田と申します」
男は「御挨拶」と書かれたタオルを出して頭を下げた。友香里は左手で耳の後ろから髪を整えながら、右手でそれを受け取った。
「高田です」
友香里はタオルをひっくり返しながら答えた。その辺で売っている安いタオルだった。別にそれが不満だった訳じゃない。
「よろしくお願いします。今日は引越しでうるさくなると思います」
丁寧に挨拶をされたが、フーンという感じで増田の方を見た。友香里は挨拶が気に入らない訳ではなかった。何か大学生にしては若い感じがしたが、それもどうでも良かった。
「どうせ、その後もうるさいんでしょ?」
友香里はサンダルを左足にだけ引っ掛けて、増田を押しのけながら玄関の外に出た。増田は慌てて横にどいた。初めての引越しで、何か変な所に来ちゃったと思った。
友香里は右足を上げながら、引越しの様子を見た。しかし、目の前で何が起きているのか判らなかった。今まで見たことのない、黒い楽器が運ばれていたからだ。いや、楽器ではない。多分楽器だ。
「これ、なーに?」
友香里は左手で手すりに捉まりながら、後ろの増田に聞いた。増田は早く引越しの作業に戻りたかったが、行き止まりの廊下から動けなかった。目の前には、ドアと手すりに捉まって片足で立つ友香里がいた。増田は自分が通る隙間を探していた。
そこに変なことを質問されて、増田は何を言っているんだと思った。ここは芸大生が住んでいると聞いていたのに。
「ピアノですよ」
「へー。こんな風になっちゃうんだ」
ピアノをバラバラにして運ぶと後が大変なので、あまり業者もしたがらない。しかし、オーバーホールも兼ねていたので、ついでにばらすことにしたのだ。
友香里は珍しそうに見ていたが、すぐに飽きたのか、それとも片足で立っているのが辛くなったのか、部屋に戻ろうとした。友香里が左手を手すりから離したので、増田は手すりの方からすり抜け様とした。
ぴょんと一歩サンダルで跳ねた時、友香里はバランスを崩して右手でドアを引き寄せた。するとドアは出番だとばかり、期待された動きをした。友香里はあせった。今はドアに、閉まって欲しくなかったのだ。
夏の早朝、もうすぐ蝉も鳴き始める時間だったが、一足先に、友香里が髪を揺らしながら叫び声を上げた。サンダルを履いていなかった右足がドアの横をすり抜けて、高く上がった。
しかし友香里は倒れなかった。トンと背中を軽く支えられて、髪だけが後ろに流れた。目の前には、ちょっとかっこいい、でも友香里の好みではない増田の顔があった。
「大丈夫ですか?」
友香里は化粧をしていなかったことに加え、叫び声を上げてきっと酷い顔になっているだろうと思い、恥かしくなった。
それに、ダンスの如く優雅にポーズを決めている時間はなかった。友香里はヒョイと起こされて、その時男という動物は、結構力があるものだと知った。
「どうも」
友香里は短く礼を言った。増田は何も言わなかった。友香里がそそくさと玄関に入って、扉を閉め様とした時、増田の耳が真っ赤になっているのを見た。
増田は妹の早苗を肩車した時と、さほど代わらない友香里の軽さに驚いていた。そして何か気恥ずかしかった。
玄関ドアの隙間から視線を感じたので振り返ると、ドアは直ぐに閉まった。増田の目には鉄の扉と、二〇四号室という番号と、少し古いネームプレートがあった。
「高田有加里って言うんだ」
増田は自分もネームプレートを張ろうと思った。しかし、文房具屋が何処にあるのかは判らない。何しろ引越しのトラックで来てしまったのだ。一体ここが何処なのか、駅はどっちなのか、何も判らなかったのだ。
午後も一時を回ると、もう外は、どうにでもしろという暑さになる。元気なのは蝉だけだ。二〇四号室の友香里は、一日休みのはずだったが、朝から起こされて仕方なく机に向かっていた。
机ですることと言えば、まず化粧。次に爪の手入れ。これ重要。爪は芸能人の命。机の中には爪の手入れグッズが一通り揃っていた。次にすること。そうね。人知れず鼻毛を抜くこと。窓は開けっ放しだったが、友香里は平気だった。
その他に机ですることとして、作詞があった。前回使用した詩は若者向けを狙ったが、実際に買って行ったのは年寄りだった。いや、正確には売れなかったと言って良いだろう。友香里は唇と鼻の間に鉛筆を挟んで、自分の顔を見ていた。
さっきから一向に作詞が進まないのは、鏡に映る自分に酔っているからだ。いや、そうではなかった。その後ろの壁、その向こうからピアノを組み立てて、調律する音が聞こえていたからだ。
聞き慣れないピアノの音に、友香里は集中力を欠いていた。そして催眠術の様に、一定の周期で襲い来る衝撃波が作詞を妨げた。言葉を繋ぐのに、『の』にするか『を』にするか迷っている間に、繋げるべき言葉を失った。友香里は鉛筆を落とさないように溜息を吐いた。
友香里は鉛筆を落とさないように立ち上がって伸びをすると、窓際に向かった。ピアノの音は窓際に行くと大きくなった。隣の部屋で、さっきの増田という男が、窓を開けたまま調律をしているに違いなかった。
優れた防音効果を発揮するアパートと言えど、窓を開けていては効果が得られない。友香里は新しい隣人に困り、そして呆れた。御挨拶タオル一本ではとても割に合わない。友香里は窓を開けるとサッシに両手を付き、上半身を窓から乗り出した。
二階の窓にベランダはなかったが、出窓風のいかにも安そうなサッシが付いていて、幅は三十センチ程あった。秋の夜、月を見ながらコーラを飲むのには、なかなかオツな場所である。
顔を出した瞬間、やはり隣からのピアノの音が一層大きくなり、さっきの増田という馬鹿者が調整をしているのを確信した。友香里は怪訝な顔で二〇三号室の方を睨んだ。
するとそこには、その馬鹿者が、サッシに腰掛けてこちらを見てにやにやしていた。友香里は予想外の出来事に、目を吊り上げた。
その瞬間、唇と鼻の間に挟んでいた、うさちゃん鉛筆の摩擦係数が低下した。初速五キロからコンマ三秒の間に、一気に二十五キロまで加速すると、上唇に押される形で空中に飛び出した。やがて、にっこり笑ったうさちゃんは、友香里が下を向いた時にギリギリ見える所まで跳ね上がると、夏の入道雲を掴むかに見えた。しかし、速度がゼロになって、一気にリンゴと同じ運命を辿った。少しだけ東南に傾きながら。
うさちゃん鉛筆は、二種類の絵をクルクルと回転させながら手を振っていた。その時のうさちゃんはいつも通り笑っていたが、友香里にはその小さな目から涙が流れ、遠心力で飛び散っているのが見えた。そう、はっきりと。
やがてその小さな涙は、午後の重い空気に押しつぶされて更に小さな霧になり、うさちゃんが飛び跳ねた軌跡を記した。友香里は叫びながら、微かな跡を目で追ったが、それは夏の強い光りに一瞬だけ輝くと、時折吹き抜ける夏のそよ風に揺られて消えた。
友香里にとってこのうさちゃん鉛筆は、只の鉛筆ではない。共に悩み、苦しみ、そして、数々のヒット曲を綴っては、共に喜んできた愛用の鉛筆だったのだ。
残念なことは鉛筆だけではなかった。鉛筆挟みの友香里新記録も、九十三分四十秒で途切れた。今日の口輪筋とオトガイ筋の調子からいって、百分は、いやもう少し頑張れば、百二十分も狙えたはずだった。
「あはは。変な顔!」
友香里は激怒した。少なくとも『変な顔』なんて言われたことは一度もない。しかも初対面の大馬鹿野郎に。悔しかった。そして、悲しかった。友香里は目を吊り上げて横を見た。窓辺で膝を曲げながら、左手でサッシを叩くクソッタレ大馬鹿野郎が許せなかった。
「弁償して! 私の鉛筆弁償して!」
右手の人差し指で、ちょっとかっこいい奴を指差すと、友香里は叫んだ。
増田は友香里に指差されて固まった。引越し早々隣人とトラブルを起こすのも大人気ない。それでもなぜ自分が、鉛筆を買わなければいけないのか、その理由が判らなかった。
鉛筆位増田だって持っていたので、今すぐ必要ならあげても良かったはずだ。それなのに暑い中わざわざ歩いて、コンビニも通り越して、ショッピングモールまで来た意味が判らない。
目の前で友香里が鉛筆を選んでいたが、これがなかなか決まらない。紛失したのはうさぎの絵だった筈だが、今手にしているのはアニメのだし、さっき見比べていた二本は、ヤギとキリンだった。意味が判らない。
増田は今更ながら思った。領収証と現金を交換すれば良かったと。彼がこの極普通のことに気が付かなかったのには、理由がある。一つは友香里が凄い剣幕で怒り、買いに来いと言ったこと。もう一つは駅までの道を知ることだった。
駅までの道を覚えた増田にとって、もう付き合う必要がないと思えた。
「あのー、高田さん」
「あのさ、どっちが良いと思う?」
友香里に切り出した増田だったが、友香里からの質問を受けた。増田はその質問に答えれば、帰れるものと思った。女の子らしい赤い方を増田は指差した。
「こっち」
増田の答えは、日本語的に言うと『ぶっきら棒』という、かなり特殊な棒で例えられた。しかし、友香里にとって今手に持っている棒は、特殊ではなく特別な意味を持っているのだ。大げさに言えば、これからの人生が、この一本に掛かっているのだ。友香里は増田の目を見て、その選択を拒否した。
「じゃぁ、こっちにしよっと」
友香里が反対側の鉛筆を選んだが、増田は動揺すらしなかった。本当にどっちでも良かったのだ。決まってホッとした感じすらあった。早く帰ってピアノの練習をしたかった。
友香里はそんな増田の気持ちを汲んだ。しかし、うさちゃん鉛筆の恨みは大きかった。友香里は手に持った鉛筆を両方レジの所にもって行くと、二本とも買った。そして、別々の袋に入れてもらった。
増田はその様子を見ていたが、それでも動揺なんてするはずもなかった。増田の家は金持ちだ。鉛筆の一本や二本で動揺なんてするはずもない。家の建て替えで、一人ピアノと共に別の部屋に引っ越しをしても平気な家庭だった。増田はさっさと会計を済ませると、レジを通り抜けた。
「増田君」
友香里に名前を呼ばれて、増田は振り返った。もう用事はない筈だ。何かと思った。確認すら面倒。
友香里が片方の鉛筆を、増田の胸ポケットに勢い良く突っ込んだ。増田は両手をポケットに突っ込んでいたので、受け取りを拒否することが出来なかった。シャツがだいぶ歪んだので、増田はそれに驚いた。
「あの鉛筆は私にとって、幸運の鉛筆だったんだ。そして、今日買ったこの鉛筆で、これから私は勝負をする。あんたとね。あのアパートに来たのなら、あんたも音楽家なんだろう? どっちが売れる曲を書くか、勝負しようじゃないか!」
もう片方の鉛筆を握り締め、増田の目の前で振りながら友香里は言った。増田はその挑戦状とも言える口上をじっと聞いていた。
その時増田は思い出した。そしてやはり、EsとAsとBの音が外れていると思った。
そんな増田の思いとは関係なく、友香里にはまがりなりにも自分の曲を売った実績と自信があった。あまり自慢にはならないが、まぁ、数百枚、いや千数百枚は売った筈だし、来月になればもう少し売れると思うし、次の曲が売れれば、多分今までの曲だって一緒に売れるといいな、と思っていた。
一方の増田はピアニスト志望である。だから作曲は本業ではない。それでも師匠斉藤は、作曲することについて増田に強く薦めていた。だから、良い曲が出来て売れたらラッキー位には思った。
「OK。その勝負受けて立とう」
毎日いらついていた増田にとって、それは情熱を傾けるに値するものとなった。友香里は目を光らせた。そして、手に持っていた鉛筆の袋を破った。それを見て、斉藤も胸のポケットから鉛筆の袋を取り出すと、勢い良く引きちぎった。
「勝負!」
「おうよ!」
友香里と増田は大きな声を上げた。売り場を歩く人が、何事かと振り返っても、気にする様子すらなかった。目を合わせ握り締めた鉛筆を友香里は縦に、増田は横に突き出した。
はたから見た時、若いカップルが催眠術でも掛け合う位の、他愛のない出来事に見えたことだろう。使っているのは鉛筆だったが、それでも二人は真剣だった。
今この時、この瞬間から、この見知らぬ二人はライバルになったのだ。それは音楽という共通の世界にありながら、まったく異なる世界に新風を吹き込む第一歩であった。
友香里と増田は相手のことをまったく知らなかったので、互いの手の内を探ることにした。
「逆じゃね?」
「逆だ」
増田に言われ、友香里は慌てて増田の手から青い鉛筆を奪い取った。そして、自分が持っていた赤い鉛筆を増田に突きつけた。
「勝負!」
もう一度友香里が、今度は青い鉛筆を突き出した。増田は赤い鉛筆を受け取りながら、こんな奴とは勝負にならないだろうと思った。
ショッピングセンターの出口には、持ち帰り用の移動式クーラーが売っていた。友香里は足を止めると、増田に声を掛けた。
「ねぇ、アイス買って行こうよ」
「ん? いいけど」
こういう場合、男がおごるのかもしれないが、増田が答える前に友香里はさっさと店に入って行ってしまった。増田は財布から小銭を出して手に持つと、ジャラジャラいわせながら順番を待った。
うんざりとする暑さの中、帰り道で増田と友香里はアイスを舐めながら歩いていた。増田はバニラ、友香里はチョコチップとレモンを二段にしていたはずだが、既にレモンまで到達していた。アパートまではもう少しだ。
「増田君、食べるの下手ねぇ」
「しょうがないだろう。俺は猫舌なんだ」
それを聞いて友香里は笑った。炎天下で町全体が歪んで見えたが、増田は手元だけが冷やされていて正常に見えた。しかし、友香里は口の周りだけが冷やされていたにも関わらず、正常には見えなかった。友香里が笑いながら増田の方を見た時、その一瞬だけアイスは減らなかった。
友香里はアイスが好きだ。子供の頃、姉と二人で近くのアイス屋さんに歩いて行った。姉は音楽に夢中だったが、友香里が声を掛けた時はにっこり笑って振り向いた。姉と話しながら歩くのは楽しかったので、友香里はアイス屋さんがもう少し遠くにあれば良いのにと思っていた。
一日一回だけのささやかな楽しみ。姉はいつも無難なバニラだったが、友香里はチャレンジャーだった。異なる種類のアイスを二段重ねにし、姉が目を見張る速さで食べた。そして、家の玄関前で姉のコーンを奪い取り、バリバリっと食べるのが儀式の様になっていた。姉の有加里はもういない。
「有加里さんって言うの?」
増田の声に、友香里は足を止めて振り向いた。前の隣人にそんなことを聞かれたことはなかった。友香里はなぜ増田が姉の名前を口にしたのか、姉を知る人物なのか、それとも数少ない姉のファンだったのか考えた。しかし、答えは出なかった。
今日初めて逢った相手に、何故自分の過去全てがお見通しなのか不思議に思った。しかし、友香里はドアのことを思い出して笑った。そして答えた。
「そうよ」
時々変な顔をする新しい隣人が、増田の問いに、にっこり笑って答えたので少しだけ心が癒された。笑顔は荒んだ奴の心に沁みるものだ。
「へー。芸大では何を専攻しているの?」
しかし、増田の次の質問に、友香里は困った顔を見せた。聞こえなかった振りをしても良いと思って、増田はコーンをかじると、大きな音がした。友香里は少し考えて答えた。
「声楽よ」
その答えを聞いて、増田は笑った。前に聞いたことがある。『声楽を専攻している女には気を付けろ。痩せていても必ず太る』と。友香里は痩せていたが、やがて太るのだろう。今の友香里からは想像し難い、丸々と太った姿を思い浮かべた。そして両手を胸の前で水平に組み、オーケストラの前で歌う友香里を想像した。
「別にいいんじゃない?」
増田の反応に、友香里は付いて行けなかった。右の眉毛を上げ、左の眉は少しだけ下げて、アイスを食べるのを止めずに増田の方を見た。増田はまた変な顔になったと思った。
「声楽は太るんだってさ」
友香里はアイスを左手に持ち替えると、右手を大きく振りかぶり、増田の背中を叩いた。バチンといい音がした。増田の鼻にコーンが突き刺さるのを見て、友香里は「ざまぁみろ」と思った。
しかし悪いことは出来ないもので、暴力に訴えた者は、その自らの行為によって己の身を滅ぼすのだ。友香里の左手はアイスの高さと角度を維持するには非力だった。そもそも友香里は、左手に持ち替えたことなどなかった。右手が増田の背中を捉えた時、その反動で左手が上がり、そして右手のフォロースルーによって、友香里自身が気が付かない位、顔が少しだけ前に出た。
増田は背中に衝撃を感じたが、それは早苗のキックに比べれば全然痛くなかった。そして振り向いたとき、そこには顔にアイスを付けた、今日一番の変な顔があった。
「変な顔!」
友香里は激怒した。同じ奴に、一日に二度も言われるなんて、今までになかった。目の前に立つ、この薄らトンカチな大馬鹿野郎の顔を目掛け、友香里はアイスを突き出した。増田は上体を反らし、間一髪でそれをかわした。そして叫び声を上げて走り始めた。友香里も叫び声を上げると、増田の後を追って走った。
酷い暑さで、マンションも、街路樹も、遠くにある送電線も、緩やかに波打っている様に見えた。暑さの余り、誰も歩いていない住宅街を二人は走った。友香里の長い髪も左右に揺れていたが、路地を曲がって見えなくなった。
アパートに二人分のカンカンという音と、けたたましい叫び声が響いた。その物音に、いつもより五割り増しのギャラリーが外に出て、鉄の階段を見ていた。一人は我らが共鳴館のアイドル、もう一人は一段飛びで先に行ってしまったが、知らねェ野郎だった。友香里が階段を通り過ぎると、全員部屋に消えた。
増田は廊下を走って自分の部屋である二〇三号室まで来たが、鍵が掛かっていた。迂闊だった。直ぐ後ろには凶暴なアイドル、友香里ザウルスが、アイスを突き出して迫っていた。増田は絶対絶命だった。焦ると左手の薬指が震える癖が増田にはあった。だから右手で鍵を探していたが見つからない。
「とりゃっ!」
友香里は左手のアイスを右手に持ち替えると、増田目掛けて突き出した。増田はドアノブから手を離して一歩後ろへ飛ぶと、右手で手すりを強く叩きつけてピョンと飛び乗った。そして、そのまま長身を生かして屋根の雨樋に左手を掛けると、左足を真っ直ぐ百八十度にまで開き、その勢いも加えながら右足一本で手すりを蹴った。
「待て!」
友香里も負けてはいない。右足で廊下を蹴って左に飛んだ。そして、その勢いのまま左足で二〇三号室の扉を蹴ると、手すりの上に飛び乗った。一瞬の出来事だった。手すりの上に乗った友香里は、躊躇なくクルリと反転し、二〇二号室の前にある柱に向かって走った。
その時増田は、左足を屋根に掛け体を引き寄せると、体を捻り右手で屋根のトタンを叩いた。バン! という音がした。増田は太陽を背にして、熱い屋根に着地した。
柱を蹴る音がして、友香里の右手が屋根に付くのが見えた。そして、次に右足を伸ばし、左足を曲げた友香里が逆さまになって現れた。左手はスカートを押さえていた。
増田は左手と左足を前に出し、バランスを前後均等に掛けて戦闘態勢を取った。その目の前で友香里は、見えない様にクルリと回って屋根に着地すると、右足を後ろに引き、左足を前に出して膝を曲げ、ポーズを取った。そして右手を真っ直ぐ横に伸ばした。
「もう逃げ場はないぜ」
低い声で友香里は言い、口元を横に引いた。友香里の歯が太陽に反射してキラリと光った。増田は目を細めた。それと同時にアイスが落ちてきて、友香里が伸ばした右手にすっぽりと納まった。アイスも太陽の光を反射して、増田を照らした。
太陽を背にした増田の方が戦術上有利なはずだったが、頭に血が登った友香里には、たいした問題ではなさそうだ。それに眩しそうにしているのは、増田の方だった。
「来る!」
増田は身構えた。
時として人は目の前にある現実から目を背け、空想の世界に逃げる。「これは夢だ」と、人の頬っぺたをつねるあれだ。この時増田は余りの恐怖のため、現実逃避をしていたに過ぎなかった。
実際には二〇四号室の前、廊下の行き止まりに増田は追い詰められただけだったのだ。足元の植木鉢を蹴っ飛ばさない様、下を見た時、友香里の放った追撃のアイスが増田の口を捉えた。少し鼻に入ったが、明らかにレモン味だと判った。
「やーい、変な顔!」
友香里は言い返してスッキリしたのか、満面の笑みを見せた。増田は、もう変な顔と言うまいと思った。手で顔に付いたアイスを拭き取って舐めた。確かに甘酸っぱいレモンの味がした。
もう友香里が攻撃してきそうになかったので、増田は自分の部屋に向かった。友香里もそれを妨害しようとはしなかった。一歩下がって道を譲った。
「間接キスなんかしちゃったぜ」
増田はすれ違いざまに言った。友香里は「ケケケ」と他人事の様に笑い飛ばした。そして増田の後姿を追って、自分も部屋へ戻ることにした。友香里は少し変形したアイスを左手に持ち替えると、スカートで右手を拭いて鍵を開けた。二人はほぼ同時に、増田も鍵を開けた様だった。友香里は右手でノブを持って左を向くと、増田と目が合った。
「勝負、忘れるなっ!」
友香里は左手に持った食べ掛けのアイスを増田の方に向けたが、増田は本来なら、それは鉛筆であるはずだと思った。友香里を睨み返したが、薄笑いを浮かべ、ドアを開けた。そしてそのまま部屋に入った。
その様子を笑顔で見ていた友香里だったが、二〇三号室の下に張られたネームプレートを見て笑顔が消えた。そこには忘れもしない名前、『増田雄大』と書かれていた。
友香里は二〇四号室のドアを開けっ放しにしてツカツカと歩くと、二〇三号室の扉の前に立った。歯を食いしばり、左手に持ったアイスをポンと投げると、右手に持ち替えた。そして拳銃を回すように手のひらでクルリと逆手に持った。
右手を真っ直ぐ後ろに引くと、躊躇なくアイスをネームプレート目掛けてぶち込んだ。鈍くドンという音がして、友香里の髪が左回りに揺れた。
アイスのコーンにとって、その日は厄日だったに違いない。かつてないパワーで握り締められ、そして何か固いものにぶつかって、原型を留めなくなる程破壊された。
雄大は鉛筆を電話メモの所に放り投げた時、後ろで扉を叩く音を聞いた。ノックなら二回鳴る筈だった。しかし、鳥が当たった様にそれは一度だけだった。
「Es、いや四分の一低い」
小さく呟いてピアノに向かった。
友香里は子供の様なことをしたと思っていたが、真っ直ぐ前を見ていた。二〇三号室の扉に叩き付けたアイスを、惜しいとも思わなかったし、垂れていく先を追おうともしなかった。あの野郎に悪いとも思わなかった。
友香里の右手は、再びアイスの味がしたに違いない。ドアノブも同じ味になった。電気のスイッチも、右目の下も、靴のかかとも、洗面所の扉も、ちょっと触ったタオルも、左耳も、その後ろの髪も、みんな甘酸っぱいレモンの味になった。
最後にレモン味になったのは水道の蛇口だった。友香里は手を洗い、両手で水をすくうと蛇口に掛けた。そして手を振りながらタオルを見ると、そこからレモンの香りがした。反射的にスカートで手を拭くと、洗ったはずの手から、またレモンの香りがした。
友香里は奇声を上げた。そしてシャワーを浴びてサッパリすると、少し早いが寝巻きに着替えて座布団に飛び込んだ。隣からはピアノの音が聞こえていた。友香里の知らない曲だった。
それは構わない。いつもそうだ。ここの住人は知らない曲しか演奏しない。しかし友香里には判っていた。自分と姉の様に、大きな差があることを。いや、隣から聞こえてくるピアノは姉以上に差があることを。
それでも友香里は許せない点が二つあった。一つは隣の馬鹿野郎が勝負をせず、創作活動に入らなかったことだ。友香里は舐められていると感じた。もう一つは、姉の有加里だってピアノさえあればあんな音がしたに違いないと言う点だった。
二つ目の方は、いささか理不尽であったかもしれない。友香里は古いオルガンが家にやって来た時、姉の有加里が父に飛びついて喜んでいたのを思い出して、取り下げることにした。多分それがピアノだったとしたら、有加里は嬉しさの余り、そこで死んでしまったことだろう。友香里は思い出して微笑み、そして一人頷いた。
「よし、先手必勝!」
プロである友香里は、既に先手を打っていた筈だったが、心も鉛筆も新たに、気持ちを切り替えた。
「先ずは詩からだな」
バッチリ削った鉛筆を持って友香里はノートに向かった。そして題名と最初のフレーズを書き込んだ。次の瞬間、目の前に姉が現れて一緒に花畑で遊んでいる風景が広がった。
はっと気が付くと、目の前の時計が十五分進んでいた。友香里は時計を合わせようとテレビを点けたが、時計はだいたい正確だった。天気予報の後、時報に時計を合わせようと思っていたが、気が付いたら時計を持ったまま三十分経っていた。友香里はテレビを消し、時計を転がした。
もう一度机の前に座り直し、鉛筆を鼻と唇の間に挟んで鏡を見た。その隣には、にこやかに笑う幼き日の友香里と有加里の写真があった。
「ちょっと参考にしても良い?」
友香里は鏡に映る有加里に声を掛けると、本棚に立て掛けてあるノートに手を向けた。一瞬有加里の目が怖くなった気がして、友香里は手を引っ込め、頭を掻いて髪を整えた。
優しい姉だったが、宿題はやってくれなかった。友香里は片目を瞑って、ゲンコされたのと同じ所を自分の拳で叩いた。
二〇三号室の雄大は、赤い鉛筆を見ただけで削ることもなく、電話の横に放り投げていた。その時雄大は、友香里を舐めていたことを後に告白するが、それは彼が、いささか世間知らずのボンボンだったということだけでは説明が付かないだろう。
雄大はその時もその後も、この赤い鉛筆を使うことはなかった。
アパートに引っ越した初日は、既に十六時間が経過していた。雄大は一日八時間、ピアノに向かうと決めていたのだ。それが友香里の邪魔にあって、もう余裕がなかった。
雄大は師匠斉藤の目を忘れてはいなかった。これから受験までをピアノ漬けで暮らす。その決意で、家族と別れて住むことにしたのだ。雄大はピアノの蓋を開けた。
ピアノの蓋を開けたとき、先ずすることがある。それは挨拶だ。
「AKIKOさん、よろしくお願いします」
別に雄大が変態という訳ではない。このピアノは師匠斉藤の妻、亜希子が嫁入り道具に持参したもので、斉藤が愛する妻の名前をピアノに命名しただけだ。
斉藤がピアノに挨拶する所を、雄大は見たことがない。しかし、今は亡き亜希子夫人に敬意を込める意味で、雄大は小さく、とても小さく呟く。雄大自身も、ピアノに声を掛けるなんて、とても恥かしいことだと思っていた。
蓋を開けたら次にすること。それは全音チェック。斉藤に従事していた時は、斉藤自らが行っていた。一日一回行えば良い。もしそこで不調な音があったら、その音を使わない曲を探す。斉藤は自分で調律していたが、雄大にそこまでする腕はない。
今日はオーバーホールをしたので、ハンマーの位置、ペダルの踏み込み具合、鍵盤の戻り具合等、キリッと締まって良い感じである。しかし、雄大は不満だった。それはこのピアノが、斉藤のピアノなのに、別人がオーバーホールをしたからだ。医者の嫁を、別の医者が診る様なものだ。仕方がない話であるが、雄大はピアノを弾きながら、いつヘソを曲げるかヒヤヒヤしていた。
時計が二十三時五十九分を回った所で、雄大は曲のペースを猛烈にアップさせた。そして秒針が真上を指した時、雄大はフィニッシュポーズも短く決め、トイレに駆け込んだ。弾き始めた曲を途中で止めることなど、斉藤の教えにはなかった。
雄大の長い一日は、トイレの中で終わった。夜空にきらめく星を結んでピアノの形に出来るとしても、トイレの窓から眺める夜空では少し足りなかった。
隣の部屋では友香里が、一つ詩を完成させて気分良く眠っていた。今日は何か長い一日だった。それでいてあっという間だった気もしていた。大きなステージで歌う自分を思い浮かべ、夢の続きを楽しむことにした。