判る人達
翌日も朝から澄み切った青空が広がっていた。うんざりする暑さが間もなくやって来る。待ち人も間もなく来るはずだ。
誰が来るのか。それは友香里のCDを発売する時にお世話になった、ミキサーの幹島だ。昨日社長が電話をしておいたのだ。
幹島は首と肩を回すのが癖だ。いつもグリグリと回している。十本の指をフルに使い、各セクションの音量を調整しつつ、一曲を仕上げるのだ。ミキサーのレバーは滑らかに動く様調整されていたが、それでも緊張するのだろう。
「おはよーっす」
肩をグリグリ回しながら幹島は定刻より十分遅れてやって来た。予定より遅くなるのは職業柄いつものことだ。そのことに触れる者は、もはや誰もいなかった。安田は入り口の扉を閉めると、生意気にも『極秘会議中』という看板を掛け、鍵も掛けた。それを見た幹島は、ミキサーもないのに閉じ込められて、嫌な予感がした。
幹島はポケットに手を入れてタバコを取り出したが、一本も入っていなかったので、壁際のごみばこの所へ行くとそれを捨てた。そこには真っ二つに割れた、熊の置物が入っていた。社長の机の上にあったやつだ。
「お、ご苦労さんです。すいませんね」
「どうもー」
社長の湊が、到着早々ゴミ箱へ向かう幹島へ親しげに挨拶をした。今朝まで別の歌手のミキシングをしていた幹島は適当な挨拶を返す。社長に指差されたソファーに座ると、生あくびをした。ちょっとの用事を早く終わらせて、家で寝たかった。
「何飲みます?」
安田が幹島に聞いた。幹島は目の前でコーラを飲む友香里を見て、自分も飲みたくなった。
「コーラで」
「はーい」
そうは言ったものの、氷を入れたグラスを二つ用意して自分の麦茶を淹れた安田は、もう一つに少しだけ麦茶を淹れてしまっていた。しかし、構わずコーラを上から継ぎ足した。幹島はビールに醤油を垂らしても、判らない奴なのだ。安田は二つのグラスを手に持つと、ソファーまで歩いて行った。
「はい、どうぞ」
平然と安田は、幹島に麦茶入りのコーラを手渡した。幹島はそれに直ぐ口を付け、三口程ゴクゴクと飲んで、既に紙が置いてあるテーブルの端にトンと置いた。
「プハー。何か違うな」
その言葉に安田はドキっとした。社長はその言葉の意味が判らなかった。
「入れ直そうか?」
安田がコーラを指差して、恐る恐る聞いた。しかし幹島は目の前に置いてある楽譜を指差して言った。
「一音半下げてない? やり直し?」
そっちかと思って安田は安心した。幹島は安田の方を向いた。しかし返事がない。幹島は自分の言ったことに明確な返事が来るまで、もう一度コーラを飲むことにした。社長が首を振りながら幹島に尋ねた。
「いや、そうじゃなくてね。友香里のファンが、この楽譜を送って来たんだけど、この赤い丸の所で音を外しているって書いてあるんだ。俺たちじゃ判らないんだけど、幹島ちゃん、どうなの?」
社長の言葉を、幹島はコーラを飲みながら聞いていた。最初は楽譜を見て、次に社長を見て、もう一度赤い丸を見た。そして、コーラを飲み終わるとコップを安田に渡し、友香里の方を見た。
友香里は幹島が入ってきてから一言も喋っていない。幹島に見つめられて、コーラを持ったまま横を向いた。幹島は短く言った。
「調子が悪かったんだよね?」
その言葉に友香里は笑顔になって頷いた。幹島は社長の方を向くと言葉を続けた。
「疲れた時とか、たまには音を外す時もありますよ」
そう言うと、幹島もにっこり笑って背もたれに寄りかかった。そして肘掛に両腕を乗せた。そして、何だ、そんなことで俺を呼んだのか。という感じの顔になった。
「結構直すの?」
安田は一般的な意味で聞いた。幹島は安田の方を向いてその表情を読み取ると、一般的な意味でと捉えて答えた。
「そりゃぁ直すよ。だって、そのままじゃ出せないでしょ? その為に、あんた、別々に録音してるんだからさぁ」
幹島は至極当たり前の表情で言い、皆を安心させた。実際幹島の腕は確かだった。友香里がどんなに『疲れて』いても、きっちりと仕事をこなしていた。
「そうなんだ」
社長は納得し、そして安心した。安田は不安になった。
「いいんだよ。なぁ、ラジオの生演奏じゃあるまいし、かわいければTVではOK!」
幹島の言葉に友香里は大きく頷いた。安田は思った。まだテレビに出るほど売れていないだろうと。
「以上ですか? 終わり?」
早く帰りたい幹島は社長に聞いた。社長は頷いてにっこり笑った。それを見て幹島は、ソファーの肘掛を両方ポンと叩くと立ち上がった。まるで、コーラを飲みに来ただけ、そんな感じだった。
安田が氷だけが入った空のコップを持って、幹島を出口まで送った。カチンと鍵を開けたとき、幹島は安田にボソッと言った。
「コーラさ」
安田はドキッとした。幹島は笑いながら言葉を続けた。
「俺にはレモンないの?」
その言葉に、安田は笑って首を左右に振った。レモンは友香里専用だった。氷を入れてガラスのコップに入れただけでもありがたく思え。
「あ、それと、友香里ちゃんね、EsとAsとBの音、合ってない。お姉ちゃんと一緒だね」
幹島はさり気なく指摘した。それを聞いた安田は、ショックの余りガラスのコップを落としてしまった。
子供の頃、壊れた楽器や調律のおかしいピアノを聴いて育つと、その音が正しいと認識してしまう。そしてそれは、大人になって苦手な音として残ってしまうのだ。そんな音感は、少しの努力では直らない。
加速しながら落ちて行くコップの行方を、幹島は冷静に眺めていた。それは幸いにも安田の右足の甲に落ちたので、破壊を免れた。
「いってぇ!」
安田はとても大きな叫び声を上げた。それを見て幹島は首を回し、笑いながら帰った。大げさな奴だなぁと思いながら。四分の一調整なんて、今の時代、どんな歌手でも当たり前の様に処理していることだったからだ。
安田は手帳を取り出すと、痛みを堪えて幹島が言った言葉を書き留めた。幹島は時々専門用語を使う。メモしておかないと忘れてしまうからだ。
丁度その日の午後は、友香里がヴォイストレーニングに行く予定になっていた。何も緊張することはないのだが、安田は手帳のメモを見て、いつもより緊張していた。
バンに揺られながら、友香里は助手席で寝息を立てていた。安田はちらっと友香里の方を見た。友香里をこの世界に誘ったのは安田だった。自宅にまで押し掛けて、泣いて頼んだ。友香里は最初絶対嫌と断っていたが、安田の涙に折れて承諾した。それから二人三脚で努力してきた。
安田は思い出していた。
咽に良いと言われれば何でも買ってきた。カリンは電子レンジに入れても食べられなかった。詩の感情が浮かばないと言われれば、小豆で波音を立てたりもした。南国気分を演出するために、アメ横でバナナのたたき売りから何度もバナナを買い、サクラと間違えられたこともあった。
だから、幹島に言われたことが気になって仕方がない。友香里は音痴なのだろうか? 友香里は一体どこへ行ってしまうのか? 安田は事故を起こさないように慎重に運転していた。しかし、幹島の『姉と同じだね』の一言も気になっていた。
友香里も姉と同じく、遠くへ行ってしまうのだろうか? 安田は言い知れぬ不安に襲われて、思わず隣を見た。友香里はいつもの様に寝ていた。別にどこへ行くこともない。安田はまた前を見た。
「ハワイとか?」
ハッとして安田はまた友香里を見た。しかし、友香里は寝返りを打っただけだった。
思い出すと彼女は、友香里の姉・有加里は、一度しかレコーディングをしていない。それでも、その時の担当が幹島であったか、それは安田の記憶にはなかった。
幹島に言われた言葉を打ち消すため、バンの中で友香里のCDを掛けたが、安田にはよく判らなかった。そもそも、どの音が『エス』で、どこが『アス』で、そしてどの辺が『ベー』なのか判らなかったのだ。
幹島に言われたことを書き留めたメモを安田はもう一度見た。しかし、そこには『Sと明日渡米』とだけ記載されていた。安田は小さく「エスエス」と言いながら、頭文字に「S」が付く人間を探していた。
幾分涼しくなったのは雷雨のせいだった。雷に驚く様子もなく、かえって喜びながら教室に飛び込む友香里の後ろを安田は追った。
笑顔で出迎えたボイストレーナーの西園寺正太郎に、安田は幹島に言われたことを手帳を見ながら正確に伝えた。すると西園寺は稲光の中頷いて、短く「そうだね」と言った。安田は驚いた。
西園寺は芸大卒のエリートであったが、気さくな性格で腰も低い。おっとりとした口調で人当たりも良く、誰とでも親しくしていたし、誰からも敬意を払われていた。友香里も「ちゃん」付けで呼んでいた。
余りにも安田が驚いているので、西園寺は怪訝な目をした。稲光が西園寺の顔を照らし、過去の苦労を一瞬だけ浮き彫りにさせた。しかし、それは安田には「何を今更」と語っている様にも見えた。気が付かなかったのはお前だけだと。
西園寺には妻も子もいるのだ。安田は膝を付いて倒れそうになったが、それでも、友香里の気持ちを確かめるため、レッスン室に入った友香里の後を追った。そこには、にっこりと微笑む友香里がいた。安田は全てを察して、言葉が出なかった。遅れて鳴り響いた雷鳴が心に響いて、そして目の前が真っ暗になった。
「おじいちゃん! よろしく!」
友香里が元気に西園寺へ声を掛けた。西園寺も孫の面倒を見るかの様に曲がった腰を少し真っ直ぐにし、右手を上げた。そして二人は寄り添う様に、ゆっくりとピアノの前に行った。
「今日は、EsとAsとBに気を付ける様、マネージャーさんから言われましたので、そこに注意しましょうね」
「はーい」
車の中で十分寝たからなのか、友香里は右手を上げて元気良く返事をした。そして、西園寺もにこやかに頷いてレッスンが始まった。しかし、壁際の椅子にがっくりとうな垂れている安田の耳には、何も入っていなかった。
事務所へ戻るバンの中で、友香里は今日のレッスンが無駄になってしまう位笑っていた。ドアも閉まっていたし、窓も閉まっていたが、傍目に見ておおよそ芸能人とは思えない。足でフロントパネルを蹴散らし、前が見えないだろうと言う位に目を細め、口は出来る限り開けていた。隣の小物入れを、手でバンバンと叩いて笑う姿を、安田は耳を真っ赤にし、横目で見ていた。
友香里は手帳を見ながら、自動車電話を使っていた。そしてドイツ音階が判る友達が大笑いをすると、受話器を安田の耳元に持ってきて聞かせた。
安田はその笑い声を聞かされる度に耳を真っ赤にして照れ、十人目で怒った。そして安心した。
友香里はそれでも笑いが収まらない。事務所に着くまで笑い続け、あちこちを叩きながら先にバンから降りた。そして安田に舌を出すと悪戯っぽく言った。
「社長にも言っちゃおう!」
「えー、止めてよ」
「だーめー」
キャハハと黄色い声を上げ、友香里は笑顔で事務所への階段を昇って行った。一人車に残された安田は、小物入れに友香里の手帳が裏返して放り投げられているのを見つけた。
別に中身を見るつもりはなかったが、手帳を表にした安田は閉じる手を留めた。そのページは音楽仲間の電話番号が書き記されていたが、一番最初に書かれていたのは安田の電話番号だった。
車中で笑い者にされたことを安田は苦々しく思ったが、自分が音楽仲間として認識されていたことを、嬉しく思い、幸せに感じ、そして、不勉強を恥じた。
安田は手帳を閉じるとバンを降り、駐車場のシャッターを閉めて事務所への階段を昇った。上の方から一斉に笑い声がして、安田はまた耳が赤くなるのが判った。