音痴の歌手
営業が終わって、安田と歌手の高田はバンに戻った。後ろのドアを開けると、コンビニ前の熱気が蘇って来る。それだけでもう疲れが三倍になりそうだ。使い古した営業道具を投げ入れて、ドアを閉め様としたが、二人は顔を見合わせて躊躇した。苦笑いを浮かべると、全てのドアを開け、手に持っていた高田のポスターとCD広告を利用し、車の空気を入れ替えた。
また二人は顔を合わせると、手で車の温度を測った。行ける! これなら大丈夫だ。二人は今度こそ車に乗り込んだ。
「あぢぃー、早く! エアコン! 早く!」
「あっちぃー、友香里ちゃん、ちょっと待ってね」
椅子もハンドルも、全てが熱かった。友香里は営業用のミニスカートだったので、太ももが焼ける様だった。慌てて手を入れたが、今度は手が熱い。当たり前だ。今度は手を裏返しにしてみたが、やはり熱い。全く持って当たり前だ。
安田はその様子を見て、首に巻いていたタオルを投げたが、友香里は鼻を曲げて投げ返した。安田の顔にタオルが戻ってきたが、安田も鼻を曲げざるを得なかった。車のエンジンは直ぐにスタートした。
友香里は数少ないフロントパネルのスイッチの中から、送風スイッチを迷わず選ぶと、勢い良く強に回転させた。カツンと小さな音がして、既に強になっていることが確認できた。車を降りた時のまま、誰も触っていないのは明らかだ。
ならばと、冷風を期待して友香里は顔を前に出したが、出てきたのは熱風だった。既に崩れかけた化粧の寿命が最後の輝きを魅せた。
「なにこれ、壊れてんの? 最悪」
ドアが開いているのに営業色を感じさせない一言に、安田はとても怒った。
「窓を開けて走れば涼しくなるよ」
「そうね」
友香里は低い声で答え、納得してドアを閉めた。安田はレバーをリバースにセットすると後ろを見て走り始めた。風は生温い。
裏通りを走る内に車の空気が入れ替わり、人間として生きて行ける程度の室温になった。ハンドルはまだ熱かったが、安田は冷静に話し始めた。
「今日ね、友香里ちゃんの歌に『全然ダメ』って言った人がいたんだよ」
「へー」
関心の無さそうな返事に、安田はちらりと横を見た。
「まぁ、私、そんなに上手くないし。上手かったらもっと売れてるし。売れたって文句を言う人はいるっしょ」
友香里はサバサバとしていた。営業時とは全然異なる口調に、どっちが本物か判らない。しかし安田は、言い訳でなく、友香里の本音が聞きたかった。
「悔しくない?」
「悔しい」
即答を受けて安田は安心した。もう椅子はそんなに熱くなくなったのだろうか。友香里は左手を窓の所に持って行くと、安田の次の問い掛けに答えるつもりがないことを無言で主張した。
車は表通りに差し掛かった。目の前を黒い煙を吐きながらダンプが走りぬけた。
「窓閉めようか」
友香里の髪がブレーキと夏のそよ風に揺られていた。友香里は右手を伸ばして窓のスイッチを操作した。バンはエンジンもパワーがあったが、窓にも力があった。友香里の左腕を、その上の頭ごと持ち上げた。友香里は疲れてウトウトしていたが、窓に起こされた。
「その人ね、友香里ちゃんと同じ位の人だったんだ」
安田の問い掛けに、友香里の頭は混乱した。今日の営業はこれで終了。本日のCD売り上げは五枚。それを伝票に書いて、冷たいコーラを飲んで、クーラーの効いた部屋に戻って、寝る。スケジュールは満杯だった。
「誰?」
友香里には興味のない話だ。自分に興味がない人には、自分も興味がない。自分に興味がある人が、世の中に百万人位いれば、自分は歌手としてまぁまぁやっていける。
友香里はちょっと欲張りすぎかなと思って、クスッと笑った。
安田は前を向いたままだった。友香里は安田の横顔を見て気持ちを変えた。左手で耳の後ろに手を入れると、髪を整えた。そして、車に乗ってからの会話を頭の中で繋ぎ合わせ、もう一度安田の質問を自分自身に投げ掛けた。
「歌がダメだと言うこと?」
安田が前を向いたまま頷いた。それを見て友香里はカチンと来た。曲を作ったのは確かに友香里であるが、最終判断には安田もいた筈だ。それを今更ダメだと言って、この売れ残りのCDの山はどうするのだ。
「ターゲットがさ、絞り切れてないんじゃないかな」
「どういうこと?」
判りやすく言ったつもりだったが、安田は聞き返されて横を向いた。赤信号だった。
「だってさ、同年代の人たちに向けたメッセージなんでしょ?」
友香里はそこについては自信がなかった。選曲の時に言ったとっさの一言を、安田は覚えていたのだ。しまったなぁと思って友香里は左目を瞑り、左手でまた髪を整えた。
正直今回のCDは自信作ではない。しかし、前回のがまぁまぁ売れたので、少し多めにプレスしたのも裏目に出た。もし、友香里が有名になった時、ベストアルバムに収容されるであろう曲はないだろう。
「暑いからだよ」
友香里は気候のせいにした。もっと涼しい所で営業すれば売れたんだよ。そうね、あと五枚位は。
「現代の若者は、もっとクールだったと言うこと?」
「そうそう」
どうやら安田は「詩の内容が熱いから」と受け取った様だ。確かにそれはそれで間違いではない。友香里は頷いて、コーラを思い浮かべた。
「そうか。じゃぁもっと情熱的な若者がいる所に行かないとダメか」
「ハワイとか?」
友香里の即答に、安田は怪訝な顔つきで横を見た。にっと友香里が笑い、顎を前に突き出した。無言で「ねっ」「ねっ」と繰り返している様に見えたが、安田が賛成出来る筈もなかった。
後ろのクラクションに、安田は慌てて車を発進させた。信号は青に変わっていた。友香里はげんこつをされる代わりに、シートに叩きつけられた。
「グアムとか?」
頭を打って、おかしくなってしまったのだろうか。友香里はまた島の名前を口にした。安田は肩を落とした。
「ねっ!」
今度は声にして、友香里はグアムに賛成の一票を入れた。そして両手をヒラヒラとさせて、フラダンスを披露した。安田は苦笑いして、やはり頭の打ち所が悪かったのだろうと思うことにした。
「売れたらね」
前を向いたまま安田は答えた。その答えに友香里はフラダンスを止め、ふとももを両手でパチンパチンと叩いて怒った。
「売るために行くんだよ!」
その答えを安田は鼻で笑うと言い放った。
「車で行けるトコ」
ちらっと友香里の方を見ると、両手を握り締め、恨めしそうに睨む姿があった。この一言で、香港も台湾も沖縄も選択肢から一瞬にして消えた。友香里は頭を働かせ、次の島を考えた。思い浮かんだのは鹿児島の桜島だった。
「キーッ」
友香里の頭から煙が立ち昇ったが、安田はそれを横目で見ただけだった。しかし、実際には笑いを堪えるのに必死だった。腹筋を押さえる訳にも行かない。友香里がワーワー喚く声を聞き流しながら前を見て運転し、次の営業場所をどこにするか考えていた。
それから三日後。今日も暑い。やはり夏の営業は腰に来る。まだ二十台なのに年寄り染みた安田が出した結論は、意外な所での営業だった。
友香里は都内にある『さぬきうどん』という店の前で自慢の咽を鳴らし、熱い歌を通りに投げ掛けていた。友香里の前を通り過ぎる人達は、皆、うどんが目当てである。この暑い中、熱いうどんを食べる人なら、心も熱いに違いない。友香里の言葉を信じて安田が考えた結論だった。
「兄ちゃん、どう? 売れたかね?」
忙しい中、店の主人が冷水を持って安田に声を掛けた。安田は頭を深く下げた。
「あ、ありがとうございます。おかげさまで一枚売れました」
「そうかい。それは良かったね」
店の主人は四国と縁も所縁もなかったが、若い頃自分もミュージシャンを目指していたのだ。安田の真剣な眼差しに場所を提供したのだ。
「あぁ、良かったら、食券機にCD入れても良いよ?」
安田は面白い提案だと思ったが、それについては丁重にお断りした。主人は笑いながら厨房の奥に消えた。安田は考えた。むしろ、たぬきうどんの大盛を注文した方にプレゼントしたいと。冷たい水を一気飲みすると、安田は友香里の方に振り返った。
一度営業が始まると、友香里はプロ根性を発揮する。だから安田は安心出来たし、出来る限りのことをしたいと思った。足りないのは運? それとも実力? どこかにある大きな星、それを目隠しで探している様な一年だった。
「まだ一年さ」
安田はコップを食器の返却口に返し、軽く会釈をして友香里の所へ行った。午後二時を回って、人通りも少ない。友香里は予定通り最後の歌を歌い上げた。まばらな拍手が起こって、友香里の前から人が消えた。安田は急いで立ち去る客にチラシを渡すと、全員黙って受け取ってはくれた。
「おつかれさーん」
安田は友香里に声を掛けた。しかし友香里から返事がない。安田の方を見ないで、もっと遠くを見ている。安田は何だろうと視線をその先に送った。
そこには白髪の老婆が立っていた。さっきまで手押し車に腰掛け、友香里の歌を聞いてくれていた人だ。今はその手押し車を押しながら、商店街の道路を横断してくる。力不足で手押し車の方向が変えられないのだろうか、真っ直ぐに近付いてきた。
「五枚下さい」
優しい声だった。老婆は手に掛けていた小さなバックから、それと同じ位の財布を取り出すと、ゆっくりとした手付きで五千円札を取り出した。
「ありがとうございまーす。店長、五千円入りまーす」
元気の良い声に、うどん屋の店主が外を見た。そして無表情のまま仕事に戻った。そんなことは露とも知らず、友香里はにこやかに五千円札を受け取ると、CD五枚を袋に入れて、老婆の手押し車にそっとしまった。老婆は礼を言って頭を下げた。安田は深々と頭を下げた。
「がんばってね」
短い応援メッセージを残して、老婆は立ち去った。安田は腰を深く曲げ、老婆が隣のスーパーに入るのを見届けるまでお辞儀をしていたが、友香里はさっさと後片付けを始めた。
今の老婆は友香里の祖母だ。そのことを安田は知らない。とりあえず黙っていることにしよう。
「いやぁ、やっぱりうどん屋の前は熱いわ」
頭を上げた安田が、振り返りながらそう言うので、友香里は焦った。このままだと次はラーメン屋の前になりかねない。
「ちょっと、まーくん! 客層が違うでしょ?」
今日売れた六枚の購入者平均年齢は、優に五十歳を越えていた。いや、七十歳近いかもしれない。安田は苦笑いをした。
「この曲、お年寄をイメージして作ったの?」
「そうそう」
明らかに適当な答えだったが、友香里が不機嫌そうに言うので、安田はそれ以上何も言わなかった。黙々と撤収作業を済ますと、店の店主に礼を言い、CDを一枚置いて出た。それでも持ってきた荷物は、さほど減っていない。まぁ悔しいけど、こんなことは慣れっこだ。友香里には持てそうもない荷物を、安田は軽々と持ち上げた。
バンの中で友香里は、まだ不機嫌なのか一言も喋らなかった。ただ目を閉じて、瞑想をしている様にも見えた。炎天下バンを走らせて事務所に戻ると、日陰になった事務所の駐車場が涼しかったのか、それとも傾斜で前のめりになったからか、友香里は目を明けた。
駐車場は半地下で少し掘り下げてあり、上が事務所である。だから雨の日も濡れずに車に乗れる。そう、高価な衣装を着た時でも雨に濡れずに済むし、万が一カメラの放列が狙っている場合でも、シャッターを閉めてしまえば事務所まで安全に移動できる。
昔、この事務所にも売れっ子がいた。少なくとも友香里よりは売れたと言う意味でだ。安田と友香里は、バンのドアをバンと閉めると、クーラーのある事務所に逃げ込んだ。
「お、帰ってきたな。お疲れさん」
事務所には社長しかいなかった。窓を全開にして団扇を仰ぐ社長に迎えられて、二人はがっかりした。
「あちぃ」
「うん。最悪」
二人はそう言ってから「ただいま戻りました」と挨拶をした。
社長は二人が帰ってきたのを見て、机に置いてあった茶色い封筒を持つと立ち上がった。二人を追って一度クーラーの方に向ったが、途中で進路を冷蔵庫の方に変えた安田の後を追った。
社長は冷蔵庫の前でコーラを物色する安田に声を掛けた。
「おい、ファンレターが来てるぞ」
社長はそう言ったが、Letterと呼ぶにはその封筒は大きすぎた。なぜかA4サイズなのだ。安田は冷蔵庫を開けたままその封筒を受け取った。
久しぶりに『ファンレター』と聞いて、ソファーでコーラの到着を待っていた友香里が冷蔵庫の前に飛んできた。
「誰から? 誰から?」
その言葉に安田は変な顔をして友香里を見た。普通ファンレターの差出人を気にするだろうか。友達からの手紙じゃあるまいし。
しかし安田は本質的なことを見過ごしていた。普通ファンレターなら、宛名は友香里のはずだ。安田は宛名を見てもそこには気が付かなかった。
『マネージャー安田正樹様』
それを見て友香里はがっかりしたが、安田は急いで裏を見た。差出人には『増田雄大』とあった。
「一応、レントゲンに掛けた方がいいのかな?」
社長が心配して言ったが、その時安田はもう開封していた。もし、増田雄大なる人物がテロリストであったなら、翌日の新聞はこうだ。
『芸能プロダクションで爆発。熱烈なファンによる犯行? 社長・湊耕平、歌手・高田友香里、マネージャ・安田正樹 の三名死亡、日立・野菜中心蔵 重症(モーター異常なし)』
しかし、何も起きなかった。社長と安田と友香里は、冷蔵庫の冷気を浴びながら、封筒の中身を見た。
安田が最初に引っ張り出したのは五線紙。そこには見たことのあるような曲が書いてあって、所々赤くマークがしてあった。
「これなーに?」
社長が安田に聞いた。安田は無言で、食い入るように楽譜を見ていた。社長が隣の友香里に目を移すと、友香里の顔はとても冷たい表情で、目には生気がなかった。
友香里はいつまでも出てきそうにないコーラを自分で取り出すと、長い爪で苦労しながらプルタブを引いた。
「プシュ」という良い音がし、それをゴクゴクと音を立てて飲むと「あぁー」という下品な呻き声と「ゲフッ」という音をたてた。
友香里はだらりと缶を腰の位置まで下げると、ソファーに向って歩きながら、目をしかめて言い放った。
「感じ悪い」
友香里が言うのも無理はない。それは友香里が作った曲だったからだ。しかし三日前の午後、疲れていたので一回だけ一音半下げて歌った。その楽譜は、その下げた一音半で正確に書かれていたのだ。
「どういうことなの?」
社長が不思議がって二人に聞いた。友香里はコーラをぶらぶらさせてソファーにドカッと座った。返事は期待出来そうもない。安田もそれを追い掛けて、楽譜を見たままソファーに行ってしまった。二人に無視されて、社長は冷蔵庫の扉を閉めたが、もう一度開けると、コーラを取り出してからソファーに向った。
社長がコーラの缶を開けても、友香里と同じ音がした。そして、同じ様に「あぁー」という下品な呻き声と「ゲフッ」という音をたてた。安田は目の前に並ぶ二人は親子なのではないかと思った。
友香里と社長が並んで座り、テーブルを挟んで反対側に安田が座っている。手元の楽譜を見る安田から目を逸らす様に、友香里はソッポを向いていた。その様子はまるで、学校の保護者面談の様だ。
「友香里ちゃん、どういうことなの?」
団扇でパタパタ扇ぎながら社長が友香里に聞いた。友香里は答えない。その様子を見て、安田は次に社長が何て言うか想像した。
社長は誰にでも『ちゃん』を付ける。安田の様な男にもだ。だから安田は人前で社長に呼ばれるのが嫌だ。いや、むしろ社長と二人だけの方が気持ちが悪い。
今そんなことを考えている場合ではない。安田は軽く首を振った。
「この子は、コンビニ前で営業をしていた時に、友香里ちゃんの歌に『全然ダメ』と、ダメ出しをしたんですよ」
社長の目が友香里から安田に移った。
「へー。それで?」
そう言いながら社長は団扇を持ち替えた。
「はい、で、ですね、『どの辺がダメですか?』って聞いたら、物凄く怒った様子だったので、名刺を渡しておきました」
「へー。それで?」
社長はまた団扇を持ち替えた。
「やはり批判してくれる人も大切にしないといけませんからね」
「うんうん」
社長は頷きながら再び団扇を持ち替えた。
「それで?」
社長は団扇の取っ手でテーブルに置いてある楽譜をトントンと叩いた。社長にとって気になるのは、楽譜に書いてある赤い丸と数字である。音楽に疎い社長にも、そんな音楽記号がないこと位は判る。そして、それが何かを指摘しているということも。
安田は別の紙を見ながら説明を始めた。
「まず、赤い丸印が付いている所は、全部音が外れている所ですね」
「そうなの?」
社長は大きな声を上げた。余程驚いたのか、団扇で膝を打つパチンという音が事務所に鳴り響いた。しかし、直ぐに自分が動揺してはいけないと気持ちを切り替えると、友香里に優しく聞いた。
「友香里ちゃん」
友香里はソッポを向いて黙っていた。まるで得意だった英語の成績が下がってしまったかの様に。
「別に怒っている訳じゃないんだからさ」
社長にそう言われて友香里は振り向いた。そして、安田の方を向いて逆さまになっている楽譜を覗き込むと、赤い丸が付いている所を確認した。
「そうかも」
適当かもしれないが、友香里がそう答えたのには理由があった。一つは三日前の歌の調子なんて覚えていなかったこと。もう一つは思ったより赤い丸が多かったことだ。
「最悪」
その場に居辛くなったのか、短く吐き捨てると友香里は席を立った。社長はそれを見ただけで追いかけることもなく、安田の方に振り返った。
「安田ちゃんはどう思う?」
社長は団扇をテーブルに放り投げると、腕組みをしてテーブルの楽譜を覗き込んだ。社長も思ったに違いない。こんなに赤丸が付いていては、友香里が音痴であると言っている様なものだ。安田は返答に困った。
「私は、正しいと思います」
安田は答えた。その答えと同時に、バチンと窓が閉まる音がして、社長と安田は肩を竦めて顔を上げ、首を横に振った。
二人が見たのは、風が止んで髪がゆっくりと落ちてくる友香里の姿と、その奥に光る目。口元がゆっくりと上がって見えたかわいい八重歯であった。一歩踏み出した足の先が二人の方に向っていた。
それら一連の動作がスローモーションの様に見えたのは、友香里がコーラの缶をゆっくりと握り潰したからに違いない。
「こっち? それとも、あっち?」
社長は声を上ずらせながら安田に聞いた。何故なら安田が主語を明確にしていなかったからだ。社長は黒目を左右に振りながら安田に迫った。組んでいた腕を解き、右手で楽譜をトントンと叩いた。
社長が指差したのは楽譜と友香里である。安田は緊張を覚えながらも、会社の最高責任者である社長に正確な報告をした。
「こっちです」
勢い良く缶を握り潰す音がして、社長と安田は友香里の方を見た。明らかに怒っている。眉毛をひくひくさせ、唇を噛み締めている。それでいて目は笑い、口角も上がっていた。二人は長い編成会議の時と同じ顔をしていると思って、身の危険を感じた。
「ちっ」
友香里は二人の前で方向を変えた。首を短くして二人は左右に揺れる髪の毛を眺めていた。社長は友香里が視界から消えてホッとしていたが、安田はまだ緊張していた。怒っている。完全に怒っている。友香里はガニ股でゴミ箱の前まで行くと、コーラの缶を叩き込んだ。やはり正解だ。けたたましい音に、社長と安田は顔を合わせ、肩を窄めた。そして、互いにお前のせいだと思い、お前が何とかしろと思っていた。
しかし、編成会議の様に友香里は暴れたりしなかった。コーラの缶に全てをぶつけてスッキリしたのか、それともだらだらと長引いた会議と、音楽に関する話は別なのか。とりあえず今度は怒っている顔でソファーまで来ると、ドカッと座った。そして、ミニスカートなのに足を組んだ。社長と安田は気が合った様に、ちょっとだけ横を向いた。
「見せて」
そっくり返って偉そうに友香里は言った。右手を頭の支えにし、左手を真っ直ぐに伸ばしていたが、到底安田まで届かない。安田はテーブルの楽譜を左手に持ち、右手の説明書きを持って立ち上がった。そして、両手を伸ばして友香里の前に差し出した。
緊張のせいか、楽譜の向きは正しかったが、説明書きは逆さになっていた。
「逆じゃん」
友香里は笑って足を組むのを止め、右手で楽譜を受け取り、左手で説明書きを受け取った。安田は表情を変えなかった。
友香里は前のめりになりながら今受け取った楽譜と説明書きをテーブルに並べた。数秒前の十センチと変わっていない。
腕組みをして説明書きと楽譜を交互に眺める友香里の頭が、左右に動いていた。肘で上体を支え、低いテーブルに覆い被さっているので、その表情までは判らない。しかし、長い髪が獅子舞の様に揺れていたので、どんな顔をしているのかは判る。安田はそんな顔は見たくなかった。
「私、音痴ってこと?」
下を向いたままの友香里が発した問いは、まずテーブルに当って跳ね返り、安田の耳元をかすめて後ろの壁に当った。そのまま天井へ屈折して向かい、蛍光灯の丸みに当って乱反射した。そして事務所は再び静かになった。
感想を聞きたかったのだが返事がない。友香里は顔を上げた。友香里の目に社長と安田はたじろいだ。友香里は怒ってはいなかった。ちょっとだけ返事が遅いので、じれったかっただけだ。
友香里はもう一度聞いた。
「ねぇ」
事務所はクーラーが効いてきたのか、だいぶ涼しい。社長も安田も冷や汗を掻く位冷えて来た。二人の目と顎が細かく動いて、お前が言えと言っている様に見えた。
「別に怒っている訳じゃないんだからさ」
友香里は頭を振りながら冷静にそう言ったが、社長はガラス窓二、三枚の損失を覚悟し、安田は全治二週間を覚悟した。
「こいつが言っているんだよ」
「こいつが言っているんだよ」
社長は楽譜を指して言った。安田は説明書きを指していたが、二人とも同一人物を指していることには違いなかった。
「ほぉー。そうなんだ。ほぉー」
友香里は芸能人らしい、かわいい顔で微笑んだ。しかし口から発せられた声は意外にも低かった。
社長はミキサー担当を呼ぶ必要性を感じていた。一方の安田は、救急車を呼ぶ必要性を感じていた。夏の空もだいぶ色あせた夕方、事務所に程近いカエデの木から、カラスが一斉に飛び立った。