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さよならこんにちわ

 翌朝友香里が目覚ましで起きたのは夜明け前だった。雄大は多分寝ているだろう。いつもならにぎやかに呼び鈴を友香里だったが、その日は手を掛けたものの押すのを止めた。階段をそっと降りて部屋を見上げると、始発電車めがけて走り出した。

 今日は雄大の実技試験のある日だ。それは前から知っていた。それにその日が、早朝から営業であることも決まっていた。友香里はまた目覚ましをセットしてあげないと、と思っていたが、目覚ましは友香里の部屋に転がっていた。

 近道の路地で雄大とすれ違った。ハッとして友香里は顔を上げ、足を止めて振り返った。直ぐ後ろを走って行ったのは自分だった。手にはアイスを持っていて振り回していた。友香里にはそれが何味か判った。

 二人の幻は、今、友香里がそっと降りてきた階段を激しい音をたてて上って言った。友香里は雄大が起きるだろうと文句を言いたくなったが、階段を上った所で二人は消えた。

「がんばれよ」

 少し涙ぐんだ目を擦り、友香里は再び走り始めた。しかし、風に乗ってメロンパンの香りが届いたとき、友香里は再び足を止めた。友香里はふと思った。部屋に雄大は居ないのではないか? 昨日部屋を追い出した本人が言うのもおかしいが、あれから雄大の姿を見ていなかった。

 その時、パン屋から紙袋を持った雄大が出て来るのが見えて、友香里は安心して走り始めた。雄大がいた。それだけで良かった。きっと今日の実技試験は上手く行くに違いない。あんなに練習したんだし、悔しいけど姉よりもピアノが上手い。きっと合格は間違いない。何も心配することなんてなかったのだ。

 友香里にはパン屋を出た雄大が、その後どうするか知っていた。隣にいた友香里がメロンパンをあげると、それをペロリと食べるのだ。友香里は涙を拭くこともなく駅へ走った。

 チカチカと点滅する青信号を見ながら横断歩道を駆け抜けると、周りの目を気にせず、歌いながらスキップをしている女の子を追い抜いた。

「馬鹿な女」

 友香里にはそいつが、どういう運命にあるか知っていた。そこの花壇の上でクルリと回り、ヒールが折れるのだ。本当に馬鹿な女だ。走る時は運動靴に決まっているだろう。


 安田に起こされて、友香里はバンを降りた。笑顔で走り去る安田に、寝ぼけ眼の振りをした友香里は手を振った。アパートからピアノの音はしなかった。昨日までアパートのテーマソングの様に流れていた曲が、今日は聞こえなかった。

 友香里は二〇三号室の前で立ち止まったが、何もしないで通り過ぎた。部屋は今朝と同じ様に電気が消えていた。言い知れぬ不安があった。友香里はまた今朝と同じ様に、涙が止まらなくなった。

 二〇三号室を通り過ぎれば、誰にも逢わないはずだった。廊下の奥は自分が育てた植木鉢が並んでいる。狭いアパートだが、廊下の分だけ他の部屋より広いのだ。そんなちょっとお得な感じが友香里は気に入っていた。

 見上げると二〇四号室の扉の前に雄大が立っていた。友香里は嬉しくなったが、手にタオルを持っていたので友香里は首を振った。その後どうなるか、友香里には判っていた。もう判った。判ったから。友香里はもう一度首を振り、頭を掻き毟り、足を踏み鳴らして雄大を追い払った。

 雄大を振り払った友香里は、ドアノブの所に掛けられたビニール袋に気が付いた。この白い袋がタオルに見えたのだろう。友香里は溜息を吐いてこのビニール袋を覗いた。

 そこにはメロンパンが三個と、手紙が入っていた。友香里は取っ手を左腕に掛けると、手紙を取上げた。封のされていない茶封筒に入ったその手紙は名前が書いてなかったが、雄大からに違いなかった。

『ゆかちゃんへ 試験が終わったらしばらく実家に帰る。呼び鈴鳴らしても出ないぞー。朝飯に食っとけ』

 今日は早朝から仕事だと言っていたのに、雄大は忘れていた様だ。

「ダメな奴」

 友香里は手紙に涙を落としながら笑った。自分でも何で泣いているのか判らなかった。不思議で不思議で仕方がない。右手で目を擦ったが、それでも涙が止まらなかった。友香里は鼻をひくひくさせながら手紙を封筒に戻すと、ドアノブを回した。しかしドアは開かなかった。

「ダメな奴」

 もう一度呟いたが、それは自分に向けてだった。友香里は鍵を取り出すと、ガチャガチャと回したが開かなかった。違う鍵だった。一人で笑いながら二〇四号室の鍵を探し、三本目でやっと鍵が開いた。手が震えていた。

 友香里はドアを開けながら、メロンパンを一つ口にほお張った。何だか少ししょっぱい様な、それでいて甘酸っぱい様な、いつもとは違うメロンパンの味がした。しかし友香里にとって、そんなことはどうでも良かった。

 靴を脱いで、友香里はメロンパンを咥えたまま、右手を伸ばし、クルリと一回転回って見せた。右手が壁に当たって、メロンパンが咽に詰まってむせ、友香里は笑いながら床にへたり込んだ。今日は背中を叩いてくれる人がいなかったが、友香里は一人で立ち上がった。

 友香里はもう一度メロンパンを咥えると、ビニール袋の一番下に、メロンパンで隠されたもう一つの包み紙を見つけた。友香里はそれを無造作に取上げると、勢い良く破いた。

 中から出てきたのは、いかにも安っぽい、ビニール袋に入ったお菓子だった。友香里はその只の飴玉を見ると、目を丸くして驚き、そして何か言った様だが、メロンパンに遮られて正しく発音出来なかった。まるで呻き声の様な奇声をあげながら、ビニール袋と飴玉を持って、友香里は部屋の中で何度も回った。

 友香里はビニール袋を机にそっと置いたつもりだったが、勢いで吹き飛んで行った。しかし気にすることもなく、空いた左手でオルガンの蓋を勢い良く開けると、EsとAsとBの鍵盤を叩いた。電気が入っていなかったが、それで十分だった。

 友香里は窓辺でメロンパンを食べることにした。今までの経験から言って、そこには雄大がいるはずだった。友香里は笑顔で窓を開けた。


 手紙の通り雄大は帰って来なかった。いつ帰ってくるか判らなかったが、友香里は何も心配していなかった。ここは芸大生が住むアパート。合格すれば雄大は帰ってくるのだ。雄大なら合格間違いない。友香里は二〇三号室のドアに張られたネームプレートを見て、毎日挨拶をしていた。

 そんな日々を送っていた三月。テレビは桜の開花宣言が、いつになるか予想していた。友香里は桜が好きだった。パッと咲いたら皆で騒いで、惜しまれつつパッと散る。CDの売り上げは好調だし、営業も上手く行っていた。もしかしてテレビに出られるかもしれないと言われていた。あとは安田の営業次第だ。

 友香里は寝坊したので、一つしかメロンパンを買えなかった。そのビニール袋を持ってアパートに帰ってきた。友香里は晴れ渡った空を見上げると、手を伸ばしてあくびをした。暖かい日だった。

 友香里の目が二〇三号室の前にいる、怪しい男を捕らえた。友香里は怖くなって足を止めた。雄大ではなかった。その見るからに怪しい男は、直ぐに階段を降りて出て行った。何て気の短い男だ。借金取りならもう少し頑張るだろう。

 友香里はホッとして路地から出ると、自分の部屋に向った。階段を上るときには誰もいなかったはずだが、二〇三号室の前まで来たとき、後ろから階段を上ってくる音が聞こえた。友香里は振り返った。

「ゆうちゃん!」

 友香里は笑顔で階段まで走って戻った。雄大は友香里が走り寄ってもあまり嬉しそうにしなかった。少し強張った顔だった。

「いよう。元気だった?」

「元気元気!」

 友香里は雄大の腕を取ると、ほんの少しだけ並んで歩いた。雄大は少しも照れることなく普通でいた。友香里が頭を雄大の肩に寄せても何も言わなかった。

「ごめんね」

 そう言うと、雄大は少しだけ笑った。二〇三号室の主はポケットから鍵を取り出すと、カチャっと鍵を開けてドアを開けた。中は何も変わっていなかった。友香里は雄大に続いて部屋に上がり込んだ。

「もう見に行ったの?」

「いや、まだ」

「そう」

 友香里が言ったのは、合格発表のことだった。雄大もそれは判っていた。だからさっきから緊張していたのだろう。友香里はあれだけ自信満々だった雄大が、いざ合格発表の日になってドキドキしているのを見て、もう遅いと思っていた。

「大丈夫だよ」

「うん」

「何、自信ないの?」

 友香里が少し意地悪く言った。あまり怒らせない様に。

「いや」

 それについて雄大は明確に否定した。入学試験なんて通過点の一つ。雄大はその先を見ていたのだ。友香里は緊張するのと、自信喪失は別次元のものなのだと思った。友香里は手にぶら下げたビニール袋を覗いた。

「これあげるよ」

「師匠が帰ってくるんだ!」

 雄大は振り返ると友香里に叫んだ。友香里はびっくりしてビニール袋に手を突っ込んだまま固まった。

「師匠?」

「そう!」

「ゆうちゃんの?」

「そうだよ」

「西園寺先生?」

「違うよ!」

 雄大は、何も判ってないなぁという感じで答えた。この前話しただろうよという感じだった。友香里はメロンパンを握り締めたまま考えた。

「斉藤さん?」

「凄い人なんだぜ!」

 友香里が答えたのと、雄大が嬉しそうに言ったのとは同時だった。雄大は今まで押し殺していた感情が、一気に噴出した様な喜びの表情だった。友香里は久々に逢った雄大が、自分ではない人間にときめいて嬉しそうなのが気に入らなかった。雄大は友香里の答えに合否を答えなかったが、きっとその気に入らない相手は斉藤さんだと思った。

「さっきいた人かな」

「ホント?」

 友香里が雄大の話に合わせて話題を振ると、雄大は友香里の話しに耳を傾けた。

「うん。少し前にここにいた」

「言ってよ!」

 雄大は部屋を飛び出したが、直ぐに戻ってきて受験票の入った鞄を取上げた。友香里はこれを取りに来ただけなのだと思った。それでもまぁ、良い。明日になれば雄大も落ち着くだろう。今日はその斉藤さんに譲ろう。友香里は深呼吸をすると落ち着きを取り戻した。

 部屋の奥にはピアノがあった。友香里は安心した。このピアノがある限り、雄大はここから急にいなくなるなんてことはないのだ。友香里は雄大と一緒に部屋を出た。雄大は鍵を締めると、階段へ走った。

「いってらっしゃい」

「ちょっと見てくるよ」

 雄大は階段の途中で友香里に気が付いた、そんな感じだった。友香里は遊園地に行く子供がはしゃいでいるだけだと思うことにした。そう思うと雄大の喜びが自分の喜びの様に思えた。

「食べる?」

 友香里の声に再び雄大は振り返った。友香里の手に握られたメロンパンを見て、雄大は笑った。そして何か言った。友香里には「お前が食え」と言っている様に見えた。直ぐに友香里はパク付いた。それを見て、雄大は頷きながら笑って階段を降りると走り始めた。友香里は二〇四号室の廊下の突き当りから雄大の後姿を追った。

「落ちてても、帰ってきてね」

 友香里は合格を願っていたが、一番の願いは雄大の傍にいることだった。友香里はメロンパンを食べながら玄関のドアを開けた。中に入ると右手を真上に伸ばし、食べ掛けのメロンパンを右手に持ち、飲み込んでからクルリと一回転回った。こんどは何も起きなかった。友香里はメロンパンを再び咥えると、ノートと赤鉛筆を持って窓辺に行った。

 今日の桜並木は遠くまで望むことが出来た。だからもう直ぐ咲くであろう桜と、そこを勢い良く走って行く雄大は良く合っていると思った。しかし、友香里に今必要なのは、そよ風に揺らぐ満開の桜とメロンパンと雄大だった。友香里はメロンパンを口に押し込むと、楽しそうにバラードを書き始めた。

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