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通過点に臨む

「受験票持った?」

「持った」

「鉛筆、消しゴム持った?」

「うん」

「お財布は?」

「ある」

「ハンカチ、ちり紙」

「あるよ」

「受験票は?」

「それ二度目」

「じゃぁ、鉛筆」

「それも二度目」

「やばい。緊張してきた」

「いや、受験するの俺だから」

「鉛筆持った?」

「持ったって。それに全部削ってあるよ」

「そうでした」

 二〇三号室の前で繰り広げられていたのは漫才ではない。いよいよ雄大が試験に挑む日がやって来たのだ。友香里は気が気ではなかった。むしろ雄大の方が落ち着いていた。昨日も友香里が部屋に押し掛けて、あれしろこれしろとお節介を焼いていた。食事まで色々言って、試験前夜を盛り上げた。雄大は早く寝たかったが、友香里が自分の部屋に帰ったのは十二時も回った頃だった。

 友香里が作曲に使っていた青い鉛筆を握り締め、絶対この鉛筆で問題を解く様に言っていた。それ専用の鉛筆削りまで用意し、例え芯が折れても大丈夫な様に対応した。雄大が笑いながらも御礼を言い、青い鉛筆と鉛筆削りを筆箱にしまうのを見て、友香里はホッとした感じだった。

「んじゃ、行って来るよ」

「いってらっしゃーい」

「営業は?」

 雄大の後ろで友香里は手を振って見送ったが、雄大に言われて慌てて部屋に飛び込んだ。雄大は階段の所で時計を見て立ち止まった。空に輝く太陽の角度で正確な時間を計ろうとしたが、少し進んでいる感じがした。それでも三分待つと、一応それっぽい化粧をした友香里が、ドアを蹴って飛び出した。

「お待たせ!」

「変身速いじゃん」

「まあね」

 カンカンと音をたてて階段を降りる雄大を、友香里が走って追い掛けた。カカンカカンという音がして、地上に降り立った時は同時だった。友香里は雄大の隣に並んで歩みを緩めたが、パンと雄大の背中を叩いた。

「遅刻したらどうするのよ!」

「大丈夫だよ」

 雄大は時計を見て笑った。試験会場まで歩いて十分なのに、まだ一時間以上も余裕があった。雄大は隣の部屋から持ち込まれた大量の目覚まし時計を止めるのに、いつもより朝の貴重な時間を浪費してしまった。それでも時間に余裕はあった。

 試験会場まで雄大と友香里は並んで歩いていたが、喋っていたのは友香里だけだった。雄大は少しうんざりとしながらも、時々笑いながらうんうんと頷いていた。

「名前書き忘れるなよ」

「判ってるよ」

「昼休みにトイレに行けよ」

「行く行く」

「手をちゃんと洗うんだぞ」

「洗う洗う」

「おやつにこれ食べるんだぞ」

「何これ?」

 雄大はビニール袋を渡されて、中を覗きこんだ。友香里は慌ててビニールの口を手で塞ぐと、雄大から取上げた。そして中が見えないようにきつく結ぶと、再び雄大に渡した。遠足じゃあるまいし、試験におやつなんて聞いたことがない。雄大は笑った。

 とにかく、試験会場の入り口でそんな話をしているものだから、雄大は周りからの視線が気になって仕方なかった。時計を指差して友香里にもう一度営業について言わなければ、そこで一時間は喋っていそうだった。

 雄大に言われて、友香里は我に返った。そして、もう一度雄大に受験票を持っているか確認すると、駅へ向って走り出した。

「友香里!」

 後ろから雄大の声がして、横断歩道の真ん中で友香里は振り返った。すると雄大が右手を上げて手を振っているのが見えた。友香里は何やってんだと思ったが、雄大の左足が動き始めたのを見て安心した。早く受験会場に行って欲しかった。

 雄大は降ろし掛けた右手を自分の口に持って来ると、友香里に向って緩やかに弧を描いた。友香里は再び走り出そうとしたが、それを見て足が動かなくなった。何かが体を貫いて行くのを感じていた。そんな友香里に気が付くこともなく、雄大はもう一度手を振って試験会場に消えた。

 そんな雄大を見ても、友香里は眉毛を少し動かしただけだった。自分の心臓が歩行者用信号の点滅より速い鼓動を刻んでいることにも気が付いたし、このままでは車にひかれてしまうことにも直ぐに気が付いた。友香里は反対側の歩道まで無事に辿り着き、深呼吸をしながら駅へ向った。

 電柱に書かれた番地を足すと百になるとか、マンホールの蓋には幾つかの種類があるとか、遠くに見えるマンションの部屋数が百三十二であることとか、そんなのが判るくらい冷静だった。

 しかし、そこから駅は直ぐそばのはずだったが、歩いても歩いても辿り着かなかった。

 一年で一番寒いはずの二月初旬。今日も冷たい風が吹いていたが、友香里はマフラーを振り回していた。


「おはようございます」

「おはよー」

「よろしくお願いします」

 友香里はスタジオに訪れる人に頭を下げていた。挨拶をしても返事さえくれない人もいたが、それで怒ることはない。皆忙しいのだ。その忙しい合間、わざわざ名も知らぬ者の為に掛け付けてくれたのだ。それだけで感謝しなければ済まなかった。

 それにしても自分の為に、一流のミュージシャンが集るなんて友香里には不思議だった。それだけ期待されているのは判る。それにしても集った人達は凄すぎる。ミキサーの幹島から聞いた話だと、その楽器では日本でもトップクラスの腕前なのだそうだ。

「よろしくお願いします」

 楽器を演奏できない友香里には、こうして頭を下げるしか出来なかった。そして曲についての思いを語るしかなかった。

 最初は五分で帰ろうとしていたミュージシャンもいたが、友香里の話を聞いて調整だけで三十分も掛けた。曲想が合わなくて何度も録り直したミュージシャンもいた。

「秋山さんはこうしてくれたのですが……」

「秋ちゃんが? しょうがないなぁ」

 友香里がボソッと言った一言で考えを変えてくれる人もいた。その様子を調整室の幹島は、大声で笑いながら眺めていた。調整室の音がスタジオに漏れることはない。だからではないが、幹島は久しぶりに熱い仕事が出来ると思った。皆が友香里の曲を良い物にしたいと考えていた。

「ありがとうございました」

「お疲れ様ー」

 レコーディングが終わって帰っていくミュージシャンに、友香里は再び頭を下げた。皆、友香里を励ましてくれた。帰って行くミュージシャンは、大抵社長に頭を下げて帰って行った。しかし、その様子を友香里が見ることはなかった。友香里も深く、深く頭を下げていて、出口が閉まる音がするまで頭を上げなかったからだ。


 夜も遅くなって星も見えない都会の空だったが、友香里には素晴らしい明日が待っているに違いないと感じられた。何をきっかけにこうなったのか、それは判らない。どんよりとした雲が広がる空を見上げても、そこに自分よりも輝く光を見出すことは出来なかった。

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