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本性

 雄大と友香里は二〇三号室の前にいた。一月も元旦と呼ばれる日は不思議と暖かい。しかしそれ以外は割りと寒い。雄大は部屋で待っている方が良かったが、友香里がピポピポ押すので外に出た。二人はそこで寄り添って、寒さを凌いでいた。

 今日は西園寺の所に行く日だ。もうすぐ安田が迎えに来る。雄大は時計を見た。友香里は雄大の時計を覗き見て、直ぐに下を見た。

「早苗ちゃんじゃない?」

「あ、ホントだ」

 早苗は二階の廊下に並んでいる二人を見ていたが、別に動揺する素振りはなかった。ただ少しだけ階段の音が大きかっただけだ。きっと今日のランドセルは、中身が多いに違いない。

 友香里は雄大の隣から離れて、笑顔で早苗を迎えに行ったが、早苗はその横をすり抜けた。友香里は「あらっ」と呟いてくるりと回った。

「どうしたの?」

 雄大の素朴な質問に、友香里は一瞬、早苗の頭上から湯気が噴いたのが見えて笑った。

「手紙。ジェニファーから」

 いつもながら無愛想に言うと早苗はクルリと振り返った。目の前に立つ友香里と目が逢ったが、別に早苗は友香里の方を見たかった訳じゃなかったのだ。雄大は早苗のランドセルを開けると、中から手紙を取り出した。

 小学生のランドセルがどうなっているのか、友香里はちょっと覗いて見たかった。友香里は一歩前に出ると、まだ雄大が上に持ち上げている蓋の隙間から、中を覗き込もうとした。

 すると早苗が小さい体を捻って、それを阻止した。友香里を鋭い目で睨み付けると、友香里に言い放った。

「レディーのバックを覗くなんて、失礼よ」

 甲高い声でそう言われ、友香里は素直に覗くのを止めた。早苗の方を見ると口を膨らませて怒っている。少しおかしいと思ったが、友香里はそこで笑わなかった。

 男の子に、ランドセルを悪戯された記憶が蘇った。泣いて帰った友香里を見て、父は家を飛び出して行った。翌日、その男の子は学校を休んだので、何があったかは聞き出せなかったが、友香里にはどうなったか大体想像が付いた。友香里は早苗の父が、どんな男か知らなかった。

「ごめんね」

 友香里は早苗に謝った。

「何、生意気なこと言ってんだよ」

 雄大は取り出したエアメールを見ながら、早苗の頭を小突いた。早苗は手紙を取り出したのを確認することもなく、時間制で振り返った。大きく上に開いた蓋がパタンと落ちて、大きな音がした。

 友香里はその場にしゃがむと、ブラブラしている鞄の蓋をカチッと音がするまで閉じてあげた。

「ありがとう」

 その音に気が付いて、早苗は肩越しに礼を言った。友香里はその礼に、笑顔だけで答えた。雄大は封筒を開けて手紙を見ていた。

 友香里はスッと立ち上がると、二歩歩み出て雄大の手紙を覗き込んだ。その様子を早苗はニヤニヤしながら見ていた。人の手紙は覗いても良いのだろうか。友香里は少し早苗の基準が判らなかったが、そこは子供だと思った。

「ゲッ」

「何?」

 隣で友香里がいきなり変なことを言うので、雄大は何事かと思った。しかし、友香里が思わずそう言ったのも無理はない。その手紙は日本語で書かれていたものではなかった。

 友香里はもう一度早苗の方を見た。薄笑いを浮かべる早苗は、それを知っていたのだ。それに、友香里の普段の言動、目付き、顔つき、性格、スタイル、洋服のセンス、住まい、預金残高、それらを総合的に判断して、友香里にはドイツ語が読めないと判っていたのだ。

 友香里は早苗の想いが読めた気がした。しかし、読みたいのは手紙の方だった。黙って読んでいる雄大ではなく、友香里は早苗に質問をすることにした。

「誰からなの?」

「ジェニファー」

 それは聞いた。聞こえてた。

「ジェニファーって誰?」

「オーストラリア人」

「オーストリア」

 雄大が手紙を読みながら口を挟んだ。一瞬早苗と友香里は雄大の方を見た。早苗はしまったという顔をしていたが、些細な間違いに友香里は気にしないことにした。

「女の人?」

「そう」

「留学生だよ」

 手紙を読みながら雄大が補足したが、二人は聞いていなかった。早苗は手紙の影に隠れていることを確認し、友香里に向ってニヤッと笑った。友香里はその笑顔の意味が直ぐに判った。奥歯を噛み締めると、早苗を睨んだ。

「金髪なんだ」

「へー」

 友香里は自分の髪を見たが、それは黒だった。営業上そういうキャラになっていたからだ。いや本当は、父が何と言うか判らなかったからだ。友香里は髪の色より音楽活動に興味があった。

 友香里が金髪にあまり興味を示さない様なので、早苗は次の説明を考えた。

「ボインなんだよ」

「へー。お姉ちゃんより?」

 その質問に早苗は大きく頷いた。そして右手を顔の前に持って来ると、横に振りながら答えた。

「もう、全然」

「なによ!」

 早苗の細めた目を見て、友香里は一瞬にして頭に血が昇った。こういう時、本人は頭に血が昇ったと自覚はしていない。友香里は足を肩幅に広げ、両手を背中に回し胸を張った。

「どう?」

 友香里は手紙を読む雄大に聞いた。雄大はチラッと友香里を見たが、どう言って良いか判らずに目線を手紙に戻した。

「まだまだ」

 早苗が友香里の奮闘を見ながら、更に手を振った。友香里は右足をその場で叩き付けた。

「あんただって小さいじゃない」

「私はこれから大きくなるのよ」

「私だってこれから大きくなるのよ」

「大人はもう大きくならないもん」

「何言ってるの、こっちとこっちから寄せて」

「何やってるの?」

 小学生と喧嘩する友香里を、冷めた目で雄大が見ていた。早苗はそれを見て逃げた。友香里は忌々しい目で、早苗を追った。そして歩き始めた雄大の隣で、もう一度手紙を覗き込んだ。

 丁度下に安田のバンが来ていた。先に階段を降りた早苗が、車から降りた安田と何か話した後、軽々と持ち上げられて助手席に乗せられた。安田は上を見上げると、友香里が雄大の手紙を覗き込みながら歩いているのが見えた。

「これなーに?」

「顔文字だよ」

「そう?」

 友香里が指差したのは『(:P』と『(:D』の所だった。手紙は横書きだったのだが、そう言われても良く判らない。

「縦に見るんだよ」

「へー」

 くるりと雄大が手紙を回し、指差して見せた。そう言われて見れば、顔に見えないこともない。友香里が頷くと、雄大は手紙を折りたたみ始めた。

 金髪でボインのオーストラリア人である何とかという名前の、美人でかわいくてお金持ちで、何不自由なく生活し、時々日本にもファーストクラスでフラッとやって来て、空港で出迎えた雄大にハーイなんて言っちゃって、そんでもって雄大の家に泊まって、早苗と風呂で背中の洗いっこしたり、水鉄砲で遊んだり、家族で毎日スキヤキ突っつきながら「魚沼産コシヒカリは美味しいわ。オホホ」なんて、ドイツ語だか都都逸だか知らない言葉でジョークを言って、「何言ってんだ何とか」なんて言われて笑っちゃう女が、受験を控えたこの大切な時期に、わざわざ地球の反対側から、女の子らしいかわいい便箋に、チャラチャラとした顔文字なんかを書き込んだものを、刺客に持たせて送り付けて来たと。そういうことだ。鞄にしまわれた手紙で中身が判ったのは、そこだけだった。


「ねぇ、今度遊園地に行こうよ」

 後ろの席で友香里が雄大に言った。その瞬間、安田はバックミラーを見て後方確認を行った。しかし今日は荷物が満載で、後方はサイドミラーでないと判らない。安田はそのことを忘れていた。

 安田の隣に座っていた早苗は、膝を抱えて座っていた。垂れ下がった髪の奥で目が光ったが、首を七度右に傾けただけだった。

 雄大は上の空だった。もうすぐ試験が迫っていた。練習は十分に行った。楽譜も暗譜した。一日八時間ピアノに向った。しかし不安だった。

「行っても良いって言われたらね」

 雄大は誰がとは言わなかったが、友香里には判った。今向っているのは西園寺邸だ。西園寺が雄大のピアノを聴いて、合格間違いなしの太鼓判を押せばOKと言うことだ。友香里は笑顔になった。

「じゃぁ大丈夫だよ」

 友香里は毎日雄大のピアノを聞いていた。だから雄大が凄く上手いのは一番知っているつもりだった。

 友香里は窓の外を見ようとしたが、見えなかった。営業用のバンは窓にシールや広告が張ってあるので、普段使わない後ろの席は蔑ろにされているのだ。それでも友香里には、何故か遊園地が見えた。

 豆汽車に乗るも良し。メリーゴーランドに乗るも良し。コーヒーカップをぐるんぐるんするのも楽しい。友香里の記憶にある遊園地は、小さい頃家族で行った記憶しかない。雄大となら、お化け屋敷にも行かれるかもしれない。友香里は横目で雄大の方を見て、ニヤッと笑った。


 西園寺邸に着くと、雄大と友香里は安田に礼を言うと、先に降りて中に入った。渋滞で少し遅れていた。早苗はバンが止まってから靴を履いていたので少し出遅れた。地面に飛び降りてドアを閉めると、ちょっとだけ安田の方を振り返った。今日はハンドルに顔を埋めてはいなかった。

 安田がバンを停めて玄関に行くと、丁度西園寺と早苗が話をしている所だった。安田は聞くつもりはなかったので、西園寺に会釈して通り抜けようとした。

「嫌!」

 安田は早苗の大きな声に驚いて足を止めた。そして西園寺の方を見た。西園寺はしゃがんで早苗と向き合っていて笑顔だった。

「お父さんみたいに怖くないから」

 西園寺は笑顔で早苗に何かを勧めている様だったが、早苗は断固拒否していた。

「どうしたんですか?」

 西園寺に出来なくて、安田に出来ることは車の運転くらいしか思い浮かばなかったが、安田は口を挟んだ。すると西園寺は安田にも笑顔を向けた。

「ピアノやらないかって誘ってるんだけどね」

「嫌!」

 西園寺と安田が話しているのに、早苗が明確な意思表示をした。どうやら早苗は「ピアノ」と聞くと「嫌」と答える様に仕込まれているかの様だった。安田も早苗の前にしゃがむと、やさしく質問した。

「エレクトーンは? エレクトーンも楽しいよ?」

「エレクトーン?」

 今度は嫌とは言わなかったが、早苗はエレクトーンを知らない様だった。

「家はエレクトーン教室もやってるんだ。どう?」

「いや」

 そう答えたのは意外にも西園寺だった。安田は驚いて西園寺の方を見た。西園寺は直ぐに笑顔になって早苗に言った。

「電子ピアノならどうだ?」

 早苗はその質問には答えずに、走って奥へ行ってしまった。西園寺と安田が目を向けると、西園寺幸枝が棒の付いた大きなキャンディーを振っているのが見えた。

「釣られてしまったな」

「そうですね」

 交渉に失敗した二人は、笑いながら立ち上がった。その時安田は、西園寺がエレクトーンが嫌いなことを初めて知った。しかし西園寺が気にしていたこと。それは鍵盤の重さだったのだ。


 西園寺は少し前に、若くして亡くなった教え子のことを思い出していた。オルガンしかなかったその子の悩みは、筋力不足からくる持久力不足だった。病気もそうだが、西園寺にはどうすることも出来なかった。西園寺は斉藤早苗に眠る、ピアニストの素質に期待していたのだ。

「先生は小さなお子さんも指導されるのですか?」

 安田はちょっと聞いてみた。しかし西園寺はきょとんとした顔で安田を見た。西園寺にしてみれば安田も含め、みんな子供みたいなものだ。昔、教授と呼ばれていた頃からそうだ。何を今更言っているのだろうと思った。

「子供はかわいいよね」

 そう言うと西園寺は、にっこりと微笑んだ。その微笑を見て安田は、母親が幼稚園児にリトミックを楽しそうに教えているのを思い出した。しかし、わがままばかりを言う子供には、それなりに厳しく接することもあった。そんな指導が近所では人気を呼んでいた。

「でも、かわいがるだけではいけませんよね」

「そうかね?」

 西園寺は少し意外なことを言われた様に思えた。まるで自分が、全然厳しくない様な、そんな言われ方である。安田は西園寺のとぼけた顔を見て、右手の拳をブンと振って言った。

「たまにはガツンと言ってやることも必要だと思います」

「それはそうだね」

 西園寺は安田の真似をして右手をブンと振った。しかし安田の太い腕に比べて、西園寺の腕はいかにも弱弱しく細かった。


「もう一度。同じ所から」

「はい」

 雄大は西園寺に言われて、もう一度試験の曲を弾き始めた。西園寺は椅子から立ち上がると、右手をブンブンと振りながら雄大の演奏に合わせて体を揺らしていた。

「違う! そうじゃない」

 西園寺の声が響くと、雄大のピアノは直ぐに止まる。そして西園寺は楽譜をトントンと叩いて雄大に質問をする。

「ここは何て書いてある?」

「フォルテです」

 雄大は即答したが、矢継ぎ早に次の質問が来た。

「君は今フォルテだったかね?」

「はい。強く弾きました」

「違う。フォルテは強く弾くじゃない」

「えっ」

 雄大は頭の中で音楽辞典を開いていたが、フォルテのページに赤く大きなバツ印が付けられた。

「君は何も判ってないな。ピアノで強く弾くと言うのは、どういうことかね?」

 西園寺は雄大を鋭い目で直視し、少し顎を雄大の方に振って聞いた。判っていないと指摘しておきながら、そんな質問をされても、雄大は困った。きっと答えは否定されてしまうのは明らかだった。しかし、雄大は答えなければならなかった。さっきから息継ぎをしていなかったので、少しだけ息を吸うと、小さな声で力なく答えた。

「大きな音を出すことです」

「そうじゃないだろ」

 期待した通りの間違い回答をさせられたのは判った。しかし雄大にはもう少し時間が欲しかった。答えのヒントが欲しかった。今まで大きな間違いなんてしたことのない雄大にとって、なぜか基本的なことに答えられない自分がもどかしかった。

 雄大が目を西園寺から逸らし、答えを求めて楽譜に視線を合わせた。その様子を見て、西園寺は雄大に質問をした。

「じゃぁ、この曲をピアニカで弾いたら、ここのフォルテはどう弾くかね?」

「息を沢山吐きます」

 ピアニカは小学生以来触れたこともない。しかし雄大はその構造について記憶があった。

「それで大きな音を出すのかね?」

「はい」

「それはピアノのピアノより小さいのでは? オーケストラのピアニッシモより小さいのでは?」

 その質問に雄大はまた答えられなかった。黙って頷いた。それを見て西園寺は両手の手のひらを上にして振りながら、回答を示した。

「フォルテは『賑やかに』です。ここの情景を浮かべて、一人一人の顔を思い描いて下さい。楽しそうにしていますか? 嬉しそうにしていますか? 叫び声を上げている人はいませんか? イメージして下さい。イッメージ。叩けば良いってもんじゃありません」

「はい」

 雄大の返事を聞いて、西園寺は素早く指示をした。雄大は頭の中にある音楽辞典のページを整理する時間を欲していたが、西園寺はそれを許してはくれなさそうだった。

「もう一度、二百三十四小節目から。ハイ。タラリラー、ダダンダン、ダン! ダダンダン! そう! 違う!」

 大きく手を振ったかと思うと、西園寺はピアノを叩いて演奏を非難した。雄大はビク付いて演奏を止めた。

「今のが君のフォルテなのかね?」

 演奏しろと言われたので弾いたに過ぎなかった。きつく言われている最中に、楽しい曲を楽しい気分で弾けと言われても、雄大はそこまで切り替えの早い奴ではなかったのだ。

 しかし西園寺にはそれが判っていた。判っていたからこその指導なのだ。指導とは、出来ないことを判らせ、出来る様にすることなのだ。

「答えなさい。どうなのかね?」

「えっと……」

「君は自分で説明の出来ない様な演奏をしているのかね?」

「いいえ」

「じゃぁ、きちんと説明しなさい。今のフォルテはどういう情景だったのかね?」

 直ぐに説明出来ない雄大を、西園寺は許さない。下調べもせずに演奏することなど、素人のすることだ。緊張して喋れないこともあるだろう。しかし、調べていないで目が泳いでいるのと、緊張して口が回らないものの見分け位付く。西園寺は全てを見通す目で雄大を睨んだ。

 友香里は西園寺の後姿と、しどろもどろの雄大を見ながら壁際で小さくなっていた。椅子に座っていたが、足が浮いた様な緊張感があった。

 隣には足が浮いた状態でブラブラ揺する早苗が、ペロペロキャンディーを舐めながら雄大の様子を見ていた。早苗にとってこの程度のことは、いつものことの様に思えた。

「君は斉藤君に何を教わっていたのかね!」

「すいません」

 西園寺は雄大の師匠、斉藤の名前を出して叱責したが、早苗がいたことを思い出して横目で早苗を見た。早苗は知らん振りをしてペロペロキャンディーを舐めていた。

「はい。じゃぁここは飛ばして、二百七十五小節目から。ハイ。ジャンジャンジャン。君、手の置き方違うんじゃない?」

「はい」

「いつもそうなの?」

 今度は手の置き方まで言われて、雄大はうんざりしてきた。しかし西園寺がおかしいと言えばおかしいのだ。雄大は顔には出さなかったが、何がおかしいのか不安になった。

「君、ヘソの前弾くとき右手の使い方が変だよ」

「こうですか?」

「右手は観客から見えるんだから、もっとこう! こうだよ」

「はい」

「指動かないの?」

「いいえ」

「じゃぁ、そうしなさい。それじゃかっこ悪いだろ」

「はい」

「はい。もう一度二百七十五小節目。ジャンジャンジャン。ラララァーラ、ラララー。もっと歌って、そう。ラララー。違う!」

 既に何が違っていたのか、雄大には判らなくなっていた。少なくとも音は外さなかったはずだが、もはやそんなことは前提、当たり前のこととして、別の何かのはずだ。雄大には何が悪いのか、自分では判らなかった。

「ペダルの踏み込みが甘いし、戻すのも遅い。音が濁ってるでしょ」

「はい」

 濁っているだろうと言われて、即座に返事をした雄大だったが、その返事を聞いて西園寺の目が更に鋭くなった。

「濁ってるよね?」

「はい」

「濁ってるって判ってるのに直さないの?」

「いいえ」

「でも、直さなかったよね」

「はい」

「どうして直さなかったのか説明しなさい」

「それは……」

 また雄大は答えられなかった。濁っていると指摘されたから、今判った訳であって、演奏中に判った訳ではない。しかしそんなことを西園寺には言えなかった。何と言えば良いか考えていた。

 早苗が薄笑いを浮かべてペロペロキャンディーを口から出した。そして雄大に向って言った。

「注意力がないのよ」

「そう! 早苗ちゃん良いこと言うねぇ」

 後ろを振り返った西園寺の顔は、目が垂れ下がり、子供でもあやす様な優しい顔だった。

「もっと言ってやって」

 西園寺は早苗の方を向いたまま、雄大をブンブンと指差した。しかし早苗は笑うだけで何も言わなかった。西園寺は雄大の方に向き直ると、頭から湯気が出ている様に見えた。

「小学生にも見抜かれて、試験にそれで通ると思うのかね?」

「いいえ」

 雄大は泣きそうになりながら、小さく答えた。友香里はいつも聞こえてくる曲がそんなに難しい曲だったのかと思いながら、一緒に小さくなっていた。

 次に指導を仰ぐのは友香里だった。いつもとは違う西園寺と雄大の様子に、友香里は身も凍る思いだった。姉もここで、こんな風に言われていたのだろうか。家に帰ってきた姉は、そんなことは一言も言わなかった。

 隣に座っている早苗は、相変わらず落ち着いた表情でピアノの方を眺めていた。時折薄ら笑いさえ浮かべていた。

 ある時友香里は気が付いた。早苗が薄ら笑いをすると、西園寺が怒ってピアノを止めるのだ。その度に雄大はどぎまぎして、おろおろして、更に西園寺に言われてしまうのだ。するとそんな時の早苗は、窓の方を見て小さく肩を竦めるのだ。友香里は右目と眉毛の間にある筋肉を少しだけ動かして、早苗を見るのだった。

「じゃぁ、次。友香里ちゃん」

「はい!」

 西園寺に言われて、友香里は大きな声で返事をすると立ち上がった。西園寺は雄大をピアノから追い出す様にして、今度は自分が座る番だと主張した。

 友香里は歩いているのに、足が床から離れている様な気がした。そしてぐったりとした雄大とすれ違った。しかし二人は、目を合わせる程余裕がなかった。

「おや、随分緊張していますね」

 西園寺は友香里を見て笑った。

「はい!」

 緊張していることを高らかに宣言したのか、それとも反射的に言っただけなのかは判らない。友香里にいつもの笑顔はなかった。西園寺は雄大への指導が、友香里には刺激的だったのかもしれないと思ったが、小さな早苗が足をプラプラさせながら平然としているのを見て思い直した。

「もっとリラックスして」

「はい!」

 友香里は両腕を後ろに回し、両足を開いて休めの姿勢を取った。しかし西園寺には、両肩を上げて無理矢理後ろに反って倒れそうな友香里の姿が映っていた。

 このままではレッスンにならないと思った西園寺は、苦笑いしながら首を伸ばし、友香里の向こう側を覗いた。

 そこにはぐったりと座る雄大が見えた。早苗にまで小馬鹿にされてしまっている様な、そんな雰囲気だった。それを見て、友香里の緊張は、雄大に対する指導を見てしまったのが原因なのだろうと、思い直した。

 西園寺は薄笑いを浮かべると、顎で雄大の方を指して言った。

「終わったら、動物園にでも連れて行ってあげなさい」

「はい!」

 友香里はさっきと同じ様に大きく返事した。しかし、返事をしてしまってから質問の意味を考えた。それからゆっくりと、友香里は気を付けの姿勢に戻った。目が垂れて来て、上の歯で下唇を噛むと、口を横に引いて笑った。

 それを見た西園寺は、下唇を突き出して頷いた。それからいつも通りのボイストレーニングをスタートさせた。友香里が上をむいて声を出している間、雄大は下をむいていた。安田と早苗は目をむいていた。友香里は西園寺が仏様に見えた。


 その日は動物園に行くには遅かったので、帰ることにした。それでもガックリと肩を落とす雄大の気晴らしにと、友香里は事務所へ誘った。事務所は遊び場ではなかったが、早苗も付いていくことになった。早苗ならいい子にしているに違いない。友香里は助手席でピクリとも動かない早苗を見て笑っていた。

 事務所に着くと、友香里は早苗を連れて二階に上がって行った。丁度入れ替わりに降りてきた社長と雄大が、挨拶を交わしているのを友香里は振り返ったが、そのまま階段を上って行った。友香里は早くコーラが飲みたかったのだ。

 友香里と早苗が事務所でコーラを飲んでいる間、社長と雄大は倉庫にいた。そこには相変わらず沢山のCDがあったが、今度は希望の光を放つCDの方が多かった。雄大は積み上がった友香里のCDを見て唸った。これが今の二人の実力を示す物差しだった。

「凄いですね」

 今日の雄大はすっかり自信がなくなっていた。積み上がった友香里のCDを見て、敗北感が心の中を駆け抜けた。

「今度は三万枚プレスしたからね」

 そんなこととは知らず、社長は笑いながら指を三本立てて言った。

「凄いなぁ」

 雄大は倉庫の中を見回して、ただ感心するだけだった。

「もっと売れる様なら、追加しないとね」

「家の店でも売るのかなぁ」

 にこにこしながら大きな声で呟いた社長に聞こえて来たのは、雄大の意外な一言だった。それを聞き逃さないのが社長の社長たる所以である。

「CD店なの?」

「はい。マスターレコードと言います」

 その言葉に社長は驚いた。マスターレコードと言えばレコード店でも割と大きな方だ。その御曹司が雄大だったのだ。

「是非、お願いします」

「いえいえ、そんな」

「一番良い所に置いて下さい」

「私は何も決められませんよ」

 深々と頭を下げる社長に、雄大はそう言って手を振った。社長もそれは判っていたが、何が起きるか判らない。それがこの業界なのだ。頭を上げた社長はにっこり笑うと、友香里のCDが入ったダンボールをポンポンと叩き、雄大に言った。

「どうですか? 一箱」

「そんなに要りません」

 むげに断る雄大に、社長は笑った。確かに同じCDをそう何枚も買う人はいない。雄大は他のダンボールにも目を向けた。友香里のCDとは違い、他のCDは一箱とか二箱とか、物によっては少しづつまとめて箱に入っているものもあった。同じ一箱なら、どちらかと言うと、こちらの方がお買い得に見えた。

「こっちは売らないのですか?」

「どれ?」

「これです」

 社長は振り返って、思わず聞いた。雄大がぐるぐると指差したCD群を見て、社長は頷くと商談を始めた。

「それ、まとめて十万円で良いですよ」

「え? 本当ですか?」

「うん。良いよ」

「随分お買い得ですね。一枚百円位になっちゃいますよ?」

「いやー、あんまり手放したくないんだけど、どうしても欲しいって言うならお譲りしますよ」

 雄大は少し考えて、社長と硬い握手を交わした。両者とも笑顔のWin・Winな取引だった。雄大は若くしてバイヤーとしても有能な所を垣間見せた。彼の素早い決断力は、今後の人生においてもきっと有益であると思えた。

「後でお届けします」

「本店の方に運んでください」

「承知しました。じゃぁ積んどいて下さい。これカギです」

「はい。判りました」

 客にCDを積ませて、社長は上機嫌で事務所へ上がって行った。これで友香里のCDを追加発注してもスペースがある。あと何枚追加可能か、発売日からの休日を確認しながら考えていた。

 雄大はバンに、自分の仕入れた友香里のCDを積み込んでいた。聞いたことのない曲ばかりだったが、ジャケットの水着姿を見てにやにやしていた。


 事務所の二階では、友香里と早苗が遊んでいた。社長と雄大がいないのを良いことに、コーラを片手に事務所内を歩き回っていた。

「お行儀が悪い」

 安田の言うことなんて、聞かない二人だった。安田だけがソファーに座り、お行儀良くコーラを飲んでいたが、一番大きなゲップをした。

「お下品」

「ダメね」

「煩いな」

 友香里と早苗が顔を見合わせて笑った。安田は飲み掛けの缶をテーブルに置いて、あくびをした。

「これがね、キーボードって言うんだよ」

「へー」

 友香里が電気を入れると、上のほうにあるランプがチカチカと光り、直ぐに消えた。早苗は不思議そうに見て、それから友香里の方を見た。

「色んな音が出るんだよ。これトランペット」

「へー」

「トランペットって知ってる?」

「知ってる」

 友香里はドレミファソと弾いた。トランペット吹きの休日でもさっくりと弾ければ良いのだろうが、友香里が弾けるのは猫踏んじゃっただけである。

「変な音」

「そう?」

 早苗の素直な感想に、友香里は笑った。とりあえず別のスイッチを押すことにした。

「これバイオリン」

「知ってる」

「お、詳しいね」

 そう言いながら友香里は何を弾こうか迷ったが、やっぱりドレミファソと弾いた。

「変な音」

「あんた耳いいんだね」

 友香里は感じの悪い返事しかしない早苗を見て、苦笑いを浮かべた。あと友香里が判るのは、リズムのボタンだけだ。

「これはサンバ」

 そう言いながら友香里がリズムボタンを押すと、軽快なサンバのリズムが鳴り出した。

「おぉっ」

 やっと子供らしい反応を聞いて、友香里はコーラを飲み干した。早苗は友香里を押しのけて、隣のボタンを押した。次々とリズムのボタンを押して行ったが、知らないリズムばかりだった様だ。結局止まったのはワルツの所だった。

 友香里はダンスなんて踊ったことはなかったが、一人で踊って見せた。それを見た早苗は笑いながら、その踊りに合わせてワルツを弾いた。友香里も調子に乗ってくるくると回った。しかし、直ぐに気が付いてキーボードの所に戻ってきた。

「リズム合ってないから」

 早苗にそう言って、別の曲をリクエストした。早苗は機械が鳴らすリズムに合わせて、スケーターズワルツを弾いて見せた。友香里は頷いて再び踊り始めた。

 安田はその様子を見て固まっていた。背がやっと届くキーボードで早苗が演奏していたのは、華麗なる大円舞曲、だと思った。多分。

「ねぇ、一緒にバンド組まない?」

「嫌」

 バンドの意味も恐らく判るまいと思ったが、いつも通り即答されて友香里は笑った。でも友香里は、早苗と組んでみたいと思っていた。ピアノが弾けるからでもなく、可愛いからでもなく、友香里は何となく影のある早苗を明るい子にしたかった。

「芸名も考えたんだ」

「げいめい?」

「ディアノでどうだい?」

「ディアノ?」

「うん。決定」

「いいよ」

 早苗は口を尖がらせながら、適当に答えた。友香里がどんなバンド活動をしているのか早苗は知らなかった。それに早苗とは学校が違う。クラブ活動を一緒に出来る訳がないと思った。

 半ば強引に早苗の芸名を決めた友香里は、くるりと回りながらキーボードの所に戻ってきた。

「よろしくね」

「嫌」

 握手を拒否されて友香里は笑った。早苗はきちんと最後まで弾きたかったのだ。いくら父親が嫌いでも、何故か教わったことは守っていた。それがルールだと教え込められていた。

 友香里が考えたディアノ。それはPianoの先頭一文字をDに変えたものだ。PとD、どちらが笑顔に見えるか。それはDの方だ。笑顔でピアノが弾けます様に。友香里がそう願って付けた名前だった。

 友香里は早苗が一曲弾き終わるまで待ったが、握手は叶わなかった。早苗はキーボードが気に入ったらしく、リズムのスイッチを切り替えた。

「それは踊れません!」

「うふふ」

 友香里はそう言いながらも踊り始めた。早苗がテンポを速くすると、友香里が悲鳴を挙げた。それを見て早苗が、両手を口に当てて笑った。友香里は思っていた。早苗はもっと笑えば良いのにと。そして気が付いた。早苗が笑っている時、自分も笑顔になっていることに。

 友香里は笑いながら踊れないステップを踏んだ。そして早苗の方に手を伸ばした。すると早苗はキーボードの下を潜って友香里の方に走っていくと、その手を掴んで一緒に踊り始めた。

 二人の笑い声が、事務所に響いていた。


 レッスンの合間に、西園寺は交通刑務所にやって来た。面会の手続きをして暫く待つと、看守に連れられて一人の男がやって来た。

「八百九拾参、面会だ」

「はい」

 斉藤が看守に言われて扉を開けた。もう直ぐ出所できるからだろうか。大分元気そうだ。西園寺は安心した。

「番号で呼ばれるんだな」

「はい。そうです」

「良い番号を貰ったな」

 その言葉に、斉藤は少しだけ笑った。そして、看守に聞こえているのだが、西園寺に小声で言った。

「私だけ『さん』付けで呼ばれているんです」

「そうか! 流石だね」

「恐縮です」

 西園寺はちらりと看守の方を見たが、無表情のままだった。

「教授、お久しぶりです」

「元気そうだね」

「はい。なんとか」

 斉藤は鉄格子の向こうで頭を深々と下げた。西園寺はうんうんと頷いた。斉藤は芸大に入ってから西園寺の指導を受けていた。しかし、宮本派に誘われて西園寺の許を去った。西園寺はそのことを恨んだりしてはいなかったが、残念に思っていた。

 そのまま昔話に花を咲かせたかったが、二人の世界は長く繋がっていなかった。西園寺は本題に移った。

「増田君は大分良くなったよ」

「そうですか」

「あぁ、まだ子供っぽい所もあるが、君に似ているね」

「雄大は私が何とかしなければいけないのに、申し訳ありません。頼れるのは教授だけなんです」

 斉藤は深々と頭を下げた。

「教授は止めたまえ。私はもう、ただのボイストレーナーさ」

「本当に残念です」

 斉藤が言うと、西園寺は笑いながら右手を頭の上で左右に振った。斉藤はその様子を唇を噛んで見ていた。

「ところで教授、雄大のことなんですが」

「あぁ、あの調子なら合格間違いないだろう」

 笑顔で西園寺は左肘を付いて言った。斉藤も前に乗り出して西園寺に小声で話しかけた。

「えっ!」

「お願いします」

「君、そんなことをして良いのかね?」

「はい。それが雄大の為です」

 西園寺は斉藤を怪訝な表情で見つめた。斉藤はそれでも笑顔のままだった。

「君が嫌いでも、試験官は馬鹿じゃない。そんなこと直ぐに見破るよ」

「そうでしょうか」

 すっ呆けた斉藤の問いに、西園寺は少し頭に血が登った。昔の癖が出そうになったが、ここはグッと堪えて冷静になった。

「そうだとも。魂のこもった演奏と、そうじゃない演奏を見分ける位できるさ」

 西園寺はまた頭の上で手を左右に振ったが、今度は笑っていなかった。斉藤は椅子の背もたれに寄り掛かりながら、吐き捨てる様に言った。

「ここは日本ですから」

 丁度そこで時間となった。西園寺は渋い顔で笑顔の斉藤と判れた。桜が咲く頃、斉藤はここを出る。真っ先に行くのは被害者の墓参りだろう。その次に訪れるのは、娘の早苗の所ではなく、一番弟子の雄大の所だろう。西園寺は正門で再び振り返ったが、斉藤の顔はもう見えなかった。

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