おかしな少女
「ティアリーズか。綺麗な名前だな――ほら、ティアリーズ。猪肉とヤギのミルクのスープだ。見た目はあれだけど、味は保証する」
俺は器にスープを入れてティアリーズに渡してやった。この辺りは香草が自生している。だから、乾燥させた香草は簡単に手に入れることができるため、今夜のスープにもたっぷりと入れていた。
ヤギのミルクも乳臭さが抜けていい塩梅になっているはず。猪肉に関しては、夕方まで生きていたワイルドボアの肉だ。新鮮なのは間違いない。
「…………」
だけど、ティリーズはスープの入った器を手にしたままじっと中身を見ていた。
「ヤギのミルク嫌いだったか……?」
まあ、臭みは取れているとはいえ、ヤギのミルクは癖がある。苦手な奴もいるだろう。
「分からない……」
「分からない?」
何が分からないのか? 俺はティアリーズに聞き返した。
「うん。ヤギのミルクという物を見たのは初めてだから、嫌いかどうかは分からない……」
ティアリーズは淡々と答えている。
「ああ、そうなのか。この辺りじゃ、ヤギは多いから、ミルクも肉もよく食べるんだけどな。ティアリーズは食べたことがないのか」
「……うん」
「そうか。なら、一度食べてみろよ。案外いけるかもしれないからさ」
小さく頷くティアリーズに、俺はスープを勧めた。気に入ってくれるかどうかは分からないが、そんなことよりも今は食事を摂って、体力を回復させるべきだ。
「これを食べるの……?」
「え? あ、ああ……。そうだけど……、匂いとかきつかったか?」
なかなかスープを食べようとしないティアリーズ。もしかしたら、香草を入れ過ぎたかもしれない。
「いや、そんなことはない……。匂いは……なんだろう……凄く、これが欲しいと思えてくる匂い……」
ティアリーズはスープに顔を近づけて匂いを嗅いでいる。どうやら匂いは気に入っているようだ。
「まあ、とりあえず食べてみろって。それなりには美味いと思うからさ……」
一応、俺としてはそれなりに食える代物だと思っていたのだが、ティアリーズの反応を見ていると、自信がなくなってくる。
「どうやって食べたらいいの……?」
ティアリーズは首を傾げて訊いてきた。ちょっとした仕草だが、やたらと可愛い。
「どうやってって……。そら、スプーンで食べたらいいだろ」
スープと一緒に木製のスプーンも渡している。なんでそんなことを聞いてくるのか俺は不思議に思った。
「スプーン? これのことか……」
ティアリーズはスプーンを見ている。が、使ってスープを食べようとはしない。
「なあ……。お前、スプーンの使い方は分かってるよな……?」
もしかして、この子はスプーンの使い方を知らないのでは。そんなことあり得ないだろうと思いつつも、俺は聞いてみた。
「分からない」
「まじかよ!?」
俺は驚きに声を上げていた。いや、スプーンを使ったことないって、どういう環境で育ってきたんだ? ドラゴニュートってスプーンを使う文化がないのか? でも、普通に考えたら分かると思うんだがな。
「しょうがねえ……。貸してみろ」
少々ぶっきらぼうな言い方をして、俺はティアリーズから器とスプーンを受け取った。
「ほら、こうやって掬って」
俺は息でスープを冷まし、ティアリーズの口元に一口分のスープを持っていった。
「…………」
だけど、ティアリーズは口を開けようともしない。かといって嫌がる素振りもない。どうしたいんだこいつは?
「いいから口を開けろ」
何がしたいのか分からないが、今は食べ物を食べさせることが先決だ。
俺がそう言うと、ティアリーズは素直に口を開けた。
俺は、ティアリーズの小さな口の中にスプーンを入れてやる。
「何やってんだ? 口を閉じろよ」
開けたままの口にスプーンが入ってる謎の状態。なぜこいつは食べようとしないのか理由がさっぱり分からない。
パクッ
ようやく一口のスープを食べたティアリーズ。俺はそっとスプーンを抜き取り、器に戻――
「んんんんんんんーーーーーッ!!!」
突然、ティアリーズが大きな声を上げた。
「なッ!? どうした!?」
ティアリーズは、もごもごと口を動かしながら、胸の前で小刻みに手を振っている。
やがて、ごくりと飲み込むと、真直ぐ俺の方を見て声を上げた。
「アイク! これは何!? なんなの!?」
「えっ……、猪肉とヤギのミルクのスープだけど……」
急にテンションが上がったティアリーズに、俺は驚きながらも何とか答えたみた。
「す、凄い! なんだろう……。これは何と言えばいいんだろう……」
「な、何が……?」
「初めて食べた!」
「お、おう……そうか……。まあ、俺のオリジナル料理だからな……。他では食べられないだろう……」
どうやら、かなり喜んでいるようだ。ただ、尋常ではない喜びようなのが何ともいえないところだが……。
「そうじゃない! 私は初めて食べたんだ!」
「おう……、分かってる……。まあ、でも……。ヤギのミルクを使った料理って、結構あるけどな……」
「これが料理……。食べるってこういうことだったのか……」
何やらとても嬉しそうにしているティアリーズさん。まあ、凄く可愛いのだが、やはり何を言いたいのか分からない。
「ちゃんとした料理を食べたことがないのか……?」
そこで俺は、ふとティアリーズの身なりを見た。ボロ布の服を着ている。そして、こんな森の中で行き倒れていた。
これらの情報を踏まえると、見えて来るのは、ティアリーズは何かから逃げてきたということ。
では、ティアリーズは何から逃げて来たのか。こんな料理にも感激しているくらいだ。かなり劣悪な環境にいたと見える。
例えば奴隷商人に捕まっていたとか。
珍しいドラゴニュートで、しかもこれだけ美しい容姿をしている。となれば、奴隷商人が捕まえていたとみてもおかしくはない。
「食べ物を食べたこと自体が初めてだ」
なんかとんでもないことを言っている。
「食べ物を食べたことがない……?」
俺は聞き返した。奴隷商人に捕まったとしても、生かしておくために食事は与える。死んでしまっては、売り物にならないから。
ということは、奴隷商人から逃げて来たという線はないということか? だが、この身なりからすると、何かから逃げてきた可能性は高いと思う。
「そう。私の記憶する限り、今までに食事という行為をしたことがない。だから、初めて食べるという行為をしてみて、これほど心が沸き立つものだとは思いもしなかった」
ティアリーズは目を輝かせながら言っている。いや、そこまで感動するような料理を作ったわけじゃないけどな。
「そうか……。お前には食べ物を食べたっていう記憶がないんだな……」
俺はそこで一つの推測ができた。食べ物を食べたことがないのではない。食事をしたという記憶がないのだ。つまり、記憶喪失。行き倒れていた影響だろうか。さらには頭を強く打っている可能性もある。
「そういう記憶はなにもない。食事という行為がこれほどのものとは思いもしなかった!」
ティアリーズはそう言って俺の手の中にある器をじっと見つめている。
「あっ、すまん。食事の途中だったな。もう、食べ方は分かるだろ。残りは自分で食べろよ」
俺はそう言うと、スープの入った器をティアリーズに渡してやった。
「うん!」
元気よく返事をするティアリーズ。俺から器を受け取ると、拙い手つきでスープを食べ始めた。
まるで子供だ。見た目は、切れ長の目に白い肌をした美しい顔立ちなのだが、大きな瞳と相まって、今は幼さの方が強調されている。
「俺も飯にするかな」
ガツガツと食べるティアリーズを横目に、俺は鍋から直接スープを食べる。食器は俺一人分しかない。行儀がどうとかこの際気にはしない。どうせ他に誰もいない森の中だ。
「なあ、ティアリーズ――」
少し聞きたいことがあって、声をかけようとした時、視界の端に銀髪が見えた。
ふと見てみると、器を空にしたティアリーズが、じっとこちらを見ている。
「もう喰ったのかよ!?」
つい先まであった器一杯のスープは何処へやら。綺麗に中身のなくなった器を手にしたティアリーズがいる。
「食べた」
「仕方ねえな――ほら、おかわりだ。好きなだけ食え」
器にスープを入れてやると、ティアリーズは嬉しそうな顔で食べ始めた。
「よっぽど腹が減ってたんだな」
そら、食べ物を食べたという記憶がないくらいなのだから、もしかしたら、何日も食事をしていなかったかもしれない。
それなら、この鍋のスープくらい、この少女にくれてやっても惜しくはない。
俺はそう思いながら、荷物の中から、保存用の干し肉を取り出して齧った。鹿の肉を塩漬けにした後、天日で干したもの。肉は硬いが、日持ちがして、味も良い。
「…………何、それ?」
干し肉を齧る俺を、ティアリーズは興味津々に見ている。
「えっと……、鹿の干し肉」
俺は歯で肉を引き裂きながら言った。
「鹿の干し肉……」
「食べたいか?」
答えなど分かり切っているが、一応聞いてみると、ティアリーズはコクコクと頷いた。
「ほらよ。硬いからよく噛めよ」
俺は荷物の中から、もう一つの干し肉を出して、ティアリーズに渡してやる。
「んんんんん~~~~ッ!?」
今度も口をモグモグさせながら、ティアリーズは小刻みに震えていた。
「こっちの方が美味いってのは認めるがな……」
猪とヤギのミルクのスープを食べた時よりも、ティアリーズの反応が大きい。おそらく、こちらの方が好みなのだろう。
自分の作った料理より、保存食の方が気に入られたというのは癪だが、干し肉は確かに美味い。
「ん~~! こんな物が存在していたのか……。驚き……。この世界は、なんて広いのだろう……」
「ただの干し肉だぞ」
あまりにも大袈裟に感動しているティアリーズに、俺は思わず横槍を入れてしまう。
結局、ティアリーズは鍋にあったスープを飲み干し、干し肉も完食した。
俺の夕飯がほぼなくなったということだ。一応、スープは明日の朝の分も作っておいたんだがな……。
「なあ、ティアリーズ」
俺は聞きたかったことがあることを思い出して、再び声をかけた。
「なに?」
「覚えてる範囲で構わないんだけど。どうして、行き倒れたか話してみてくれないか?」
俺の推測では、ティアリーズは記憶喪失。ただ、どこか覚えているところもあるのではないかと質問をしてみた。
「私が覚えているのは、暗い部屋だけ……」
ティアリーズの顔に影がさし、地面を見ながら答えた。
「あっ……。聞かれたくない話だったか……?」
不味ったかもしれない。俺はそう思った。こんな身なりをしているのだ。思い出したい記憶のわけがない。
「そんなことはない。ただ、私の記憶にあるのは、暗い部屋がほぼ全て……」
「暗い部屋……」
「そう……。暗い部屋。冷たくて、寂しくて、何もない、暗い部屋……。私はずっとそこにいた……」
「いつから?」
「ずっと……。私の記憶の始まりは、暗い部屋から……。そこから、ずっと、ずっと長い間。私は暗い部屋にいた……。声を出すこともなく、聞くこともない。私はそこにずっといた。だから、私は、食べ物を食べたのも初めての経験……」
「ちょっと待て! 食べ物を食べたのも初めてって……。今までどうやって生きてきたんだ?」
「動かずにじっとしていた……。私は生命力が強いらしくて、ずっと食べ物を食べなくても死ぬことはなかった……。それでも、かなり衰弱はしていたけど……」
俺は一つ合点がいったことがあった。ティアリーズがスプーンの使い方すら知らなかったことだ。
知らなくて当然だ。そもそも、食べるということをしたことがないのだから。そういえば、ティアリーズ自身が言っていたことだ。それを俺が曲解しただけのこと。
いや、普通分かるわけがない。何も食べずに、じっと動かずに生きてきた、なんて想像できるわけがない。
にわかには信じられない話だが、ドラゴニュートという存在自体、俺は詳しくは知らない。もしかしたら、本当なのかもしれない。
そこで、俺はもう一つ疑問が湧いた。
「なあ、ずっと独りでいたってことだよな?」
「うん……」
「だったらさ……。言葉はどうやって覚えたんだ? 声を出したこともないんだろ?」
ティアリーズの話では、声を出すどころか、聞いたことすらないということだ。だったら、どうやって言葉を使えるようになった?
「私には、母が残してくれた知恵の宝珠がある」
「知恵の宝珠?」
聞きなれない単語に、俺は聞き返した。
「これが知恵の宝珠」
ティアリーズはそう言って、前髪をかき上げた。
そこには、額に埋まった小さな赤い宝石があった。カットではなく、磨かれて丸くなった赤い宝石。それが、ティアリーズの額に埋めこまれている。豆粒ほどの大きさしかない、この宝石が知恵の宝珠らしい。
「それは……、一体なんなんだ?」
知恵の宝珠とやらを見せられても俺にはさっぱり分からない。
「この宝珠には、母の英知が詰まっている。だから、私は言葉が理解できる」
だったら、食事の食べ方も理解しておけよ、とは言えなかった。食べ物を食べるっていうことを、いちいち知識として入れておく発想はなかったんだろうな。分からないなんて思いもしないだろうし。
そこで、俺は自分の勘違いに気が付いた。ティアリーズは記憶がないわけではないのかもしれない。
「もしかして、お前は、その暗い部屋から逃げ出してきたのか……?」
俺は核心に迫った質問をした。
「うん……。私は、そこから逃げて来た……」
そして、ティアリーズは静かに、事の顛末を話し始めた。