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在りか ~私の居場所と異世界について~  作者: 白之一果
第1章 旅の始まり
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第8節 貴族と安宿と夜舞う精霊

「遅くなり申し訳ございません」

「改まってどうした?」

「お前顔色悪いぞ。まだ寝てろ」


 石屋さんはそんな宿屋さんと鍛冶屋さんの言葉には反応せず、真っ直ぐに私を見て土下座した。


「おい、何やって」

「貴族様、見苦しいところをお見せ致しました」

「は?」

「貴族……様?」

(まぁそうなりますよね。否定しなかった私もいけなかったとは思うよ?どうしようかなぁ。

「本当に?」


  疑わし気な四人の視線なんか歯牙にも掛けない精霊二人と違って、小心者の私の神経はあっという間に擦り減って行く。

 

(貴族と裕福なお嬢さんってどっちの身が安全?分かんないよ)

「確かにいい服を着ているが」

「この人が貴族だと言ったのですか?」

「いいえ?」


 つい否定してしまった。私は悪くない。


「ほら、お前の勘違いだ。早く椅子に座れ。まだ顔青いぞ」

「でも……」


 不安な顔で、差し出された腕にすがり付く石屋さん。鍛冶屋さんはその太い腕で無理矢理石屋さんを起こし、腰に手を当ててソファーへ導き座らせた。当然の様に自分も横に座り、石屋さんを挟んで宿屋さんも席に着く。


(腰の手、気になるから!!)


 腐ィルター通すとそのまま肩に寄りかかる石屋さんが見える。儚げな吐息が加治屋さんの……。トリップしてる場合ではない。


(どうしよう、にやけるんですけど)


 ここに来て良かったと、今初めて本気で思った自分にびっくりである。


「大体何でこんな嬢ちゃんが貴族様なんだ?」

「……平民の貨幣の価値を知りませんでした」

(ちょっと!あそこでの話は内緒でって約束したよね!?ここで言っちゃう!?)

「ご本人が身なりを偽っても、従者の方々がそれではとても同じ平民には……」

(偽ってはないけどね!?服の件はまぁ認めるけども、それは私のせいじゃない!!)


 平静を装いつつも、心拍数はメーターを振り切る勢いで上がって行く。


「何処ぞの豪商の娘かも知れんだろう。世間を知らない様だし」

「…………料理や茶の味どころか、食材の名前も何もご存知なかった」

「そこまでか」

「それに黒い布は、貴族でも一部のものしか持てない高価な物だと、通りの向こうの石屋に聞いた事があります。それを従者に与え、ご自分は傷に無造作に巻きつけるなど……」


 蘇芳の着物も、勿論私が与えたものではない。けれども黒い布が貴重で高価なものというのは共通認識らしい。これはまずい。

 俯いて呟くのは独り言なのか誰かに聞いてほしいのか。石屋さんの声は震えている。


(でもまぁ言いたい事はしっかり仰るんですね。こんな狭い部屋だし、それ全部本人に聞こえてますからね?)

「買取した四つの魔石はどれも魔獣化したベリーシエを一撃で倒したものでした」

「「「「一撃!?」」」」

(それも言っちゃうのー?)

「そんな大きな神力の器を持つ者が果たして平民にいるでしょうか」


 四人が息を呑む。

 いやいやその話題もまずい。早くどうにかしないと。まさか本当に?という空気が漂っている。いろんな意味で私の心臓に負担がかかり過ぎる。


「従者の方がお持ちの魔石も……」

「何か聞きたい事があったんじゃなかったの?私疲れてるから、用がないなら宿に行きたいんだけど」

「そっ、それは困ります!番人について、ご存知の事だけでもいいのです!お話頂けませんでしょうか」


 宿屋さんが急に敬語になった。違和感が半端ない。


(これって要するに貴族認定されてしまったって事?)


 裕福な平民はあくまでも平民だ。見た目の年齢を考えると、少なくとも平民より上の身分だと思われたのは間違いない。

 取り敢えず皆席に着いたまま話し合いの場にはいてくれる様だけれど、もの凄い緊張が伝わって来る。石屋の言は余程信用されているとみえる。


「何が聞きたいの?」

「では、番人を一撃で倒したというのは本当ですか?」

「さぁ?私が倒したんじゃないし」

「では従者の方が?」


 瑠璃も蘇芳も完全無視だ。瑠璃の笑顔は参観日に子供を見つめる母親そのもので私しか視界に入ってないし、蘇芳はそもそも興味がない様で私の髪の毛を弄んでいる。主従とは何なのか。


「では、他の番人はどうなりましたか」

「さぁ?」


 仕方がないので私が答える。まぁ内容はあってない様なものだけれど。


「番人がいつ魔獣になったかご存知ですか?」

「?知らないわ」


 これは本当に知らない。番人とは元々魔獣ではないのか。


「では湖が何故出来たかご存知で?」

「…………知らないわ」


 主人が気を揉んでいるのに、気にも留めない従者とはどうだろう。

 質問をしていた宿屋さんがため息を付く。困ったというより、無事質疑応答が終わったという安堵の色が強い。これでは結局何も分からないだろうに。


「調査団を派遣するんだっけ?」

「はい。魔獣は人を襲いますが、この町や近隣の村では対処が出来ません。冒険者を派遣してもらう様ギルドに申請をします。何分金銭の絡む事ですので先に調査をして雇う人数を絞りますが」

(冒険者ギルド!ファンタジーktkr!!)


 流石妄想だ。地獄が異世界に変わって行く。


「魔獣の調査って、危なくないの?」

「勿論危険は伴いますが、倒す事を考えると私達で出来る範囲ですので」

「ちなみに、冒険者っていくらで雇えるものなの?」

「相手の数や強さにもよりますが、番人全部となると大金貨クラスにはなるかと」 

(大金貨あったんだ。確かに高いわ)


 今までの感じで行くと、小金貨が一枚十万円くらいなのでその十倍、百万円クラスである。


「それには及ばないかと」


 ちょっと大人しくしていた石屋さんが話に水を差す。


(今度は何!?)

「恐らく番人は全て……光に還っています」


 石屋さんが蘇芳を見つめる。正確には蘇芳の着物の袖を見ている。

 全員の視線を集めても相変わらず蘇芳は気にも留めていないけれど。


「まさか、そこに全てあるのか?」

「……恐らく」

「全て魔石か?」


 石屋さんが神妙に頷く。


(何?どういう事?何でばれたの!?)

「そんな数を持っていて、人が平気でいられるのかい?」


 水屋のおばあさんの疑問に再び沈黙が訪れる。


(待って。何で皆分かった風なの?確かに他にも持ってる事は悟られたかなーとは思ったけど、全部って?石屋さんは何を知ってるの!?)


 魔石は人が持つには害がある。精霊は外には出て来ないと言っていたから、魔石を沢山持っている蘇芳は普通じゃないかもしれない。


(だから?だったらどうなる?)


 頭の中がグルグルし始めた。


(何を話して良い?何を隠さなきゃいけない?あれ?結局何を話してたんだっけ?)


 駄目だ、このままここにいたら絶対何かぼろが出る。まずい。緊張して前も見れなくなって来る。床から視線があげられない。


「トーコ様、お疲れの様でしたら宿へ行きますか?」

「…………うん」


 固まっていると、瑠璃が良い感じの所で助け舟を出してくれたので乗った。


「確かにもう遅いな。子供は寝る時間だ」


 インテリ眼鏡様の言葉に合わせて、五の鐘が鳴った。


「分かった。話し合いはまた明日にしよう。暫くこの町にいますか?」

「……風の日までは」


 辛うじてそう答える。


「なら四泊ですね。個室と、あんたらは大部屋でいい……ですか?」


 瑠璃と蘇芳はお付きのものだと思われている。従者は普通別室で眠るものなのだろう。でも今一人は心細いかもしれない。


「三人で個室に泊まる」

「申し訳ありません。当宿はそれでは少し狭いのですが」

「同じ部屋が良いの」

「そうですか」


 話し合いは明日またここで二の鐘から行われる事になった。皆仕事は良いのだろうか。そう言えばあのカレンダー、休日はいつなのだろう。私は戦時中に流行ったという軍歌を思い出した。月月火水木金金。

 もう何を考えれば良いのか、よく分からなくなっていた。


 程なくして私は瑠璃に抱き上げられ、宿屋に行った。

 食事で一度訪れた宿屋だ。カウンターで「トーコ」と日本語で名前を書いてから、おじさんに大銀貨一枚と小銀貨を六枚渡す。四泊分だ。食事代は含まれていないので別途必要になる。

 カウンター横の階段を昇れば、片側が大部屋、センター街側に三部屋個室が並んでいた。隅の個室に案内される。そこは三畳ほどの板の間にベッドが一つあるだけの部屋だった。確かに狭い。三人と言わず、一人でも十分狭い。


「三人で寝られるかな」

「私達は寝ませんからトーコ様がベッドをお使いくださいませ」

「そう?」


 疲れてるので遠慮しない。寝ないでいいなら譲ってほしい。切実に。


「ならせめて座っててね」


 このまま一晩中立ち続けていそうな二人に告げる。ずっと見下ろされているのはちょっと気が引ける。

 お願いすると蘇芳も瑠璃も素直に座ってくれた。優雅に床に。


「いや、ここ土足だから。服汚れるでしょ」


 まぁ荒野に座っても汚れなかったから、どうと言う事はないのかもしれない。しれないけれど、ベッドと壁の隙間に挟まる様に向かい合わせで座るのはどうだろうか。


「椅子貰って来ようか」

「必要ありません」

「あ、水とか土で作れるんだっけ」

「いいえ」


 さっと立ち上がった二人が同時に腰掛ける。


(あれ?椅子あったっけ……って空気椅子!!)


 動きも座り方もナチュラルで凄い。


「それ疲れないの?」

「浮いているのと変わりませんし。別に立っていても変わりませんけど」


 そう言えば重さはないんだった。そういうものだろうか。気にしたら負けな気がする。私の希望も叶ったし、二人が良いなら良い事にしよう。疲れた。

 今夜の定位置が決まったところで、瑠璃に水の神法でお風呂と洗濯をしてもらって、包帯を巻き直してもらう。ついでに部屋もベッドも丸洗いしてもらう。町並みから、正直衛生状態を信用しきれない。洗ったら壁もベッドも布団も色が変わるほど汚れが落ちた。


(どうしよう。この部屋だけ色変わっちゃったかも。まぁいいか、綺麗にしたんだし)


 怒られたら宿ごと綺麗にしてしまおう等と本末転倒な事を考える。疲れているのだ。


「明日は役場に行く前に井戸の大きさを見なきゃ。そう言えば何でお兄さんにバレたんだろ……」


 ベッドは硬かった。でも気持ちいい。硬くてもやはりベッドだ。お布団もぺったんこで薄いけれど、何と言っても部屋の中である。

 重かった布団は、洗って水分を完全に抜いてもらうと少しだけ軽くなった。

 心なしか少し暑い。


(外で寝るのに慣れちゃったのかな。やだなそんな慣れ……)


 考え事をしていた筈だけれど、私は多分そのまま寝てしまった。







『蘇芳、貴方何をしていますの?』

『何をとは?』

『あの人種が魔石を見抜いたせいで、トーコ様が余計なご心配をなさる事になったでしょう。分かっているの?』

『私のせいでは』

『貴方が上手く隠していれば余計な詮索をされずに済んだのよ?貴方のせいでないなら何だというの。貴方のせいで万一トーコ様に契約を破棄されでもしたらどう責任を取るつもり?』


 主が微かな寝息を立てる中、狭い個室で精霊達が軽く言い争いをしていた。だが周囲に声は聞こえない。お互い目も合わせず、じっとベッドで眠る主を見続けている。

 黙ってしまった蘇芳に、瑠璃は一つ大げさにため息を付いた。


『あの人種、トーコ様をこれ以上煩わせるなら邪魔なだけね。蘇芳、あれをここに連れて来て下さいませ。取り敢えず事情を聞く事に致しましょう』

『それで瑠璃が納得するなら』


 蘇芳も少しは悪いと思っていたのか、それとも瑠璃に折れただけか、反論はしなかった。蘇芳の答えに瑠璃が目を細める。そこに主に向ける様な微笑は欠片もない。


『それでは、さっさと行って下さい。トーコ様の眠りを妨げる様な騒ぎだけは起こさない様に』

『分かった』


 静かに窓を開けて蘇芳が夜の町に飛び出す。ここが二階だという事は特に気にならないらしい。

 彼女が何事か呟くと、地面から石畳を突き破って土が盛り上がり、支柱を作った。蘇芳は自分目掛けて伸びて来た土の支柱に足を掛け、再び空へと舞い上がる。


 行動様式を合わせられる様、日々主を観察している蘇芳だが、その跳躍は凡そ人ではあり得なかった。

 そもそも精霊は軽い。人の重さを再現する為に大気の神力に干渉して下への方向性を持たせたり、磁石の様に自らの属性である土に自分を引っ張らせたりと、蘇芳もいろいろ研究中である。


 着物の裾をはためかせながら、支柱を足掛かりに真っ直ぐ石屋の方へ飛んで行くその姿を見たものはいない。

 彼女が飛ぶ度次の支柱が現れ、足場にされた支柱は足が離れると共に砂と化し崩れて行く。

 青白く光る大樹がまるで祝福を与えるかの様に、蘇芳は光を纏っていた。


 言葉通り真っ直ぐ突き進み、蘇芳は石屋の前に軽く着地する。真夜中だ。当然石屋は閉まっている。

 彼女は又しても石畳を破壊し、下から現れた土を鍵の形に変えて固定した。丁度今日の昼間、鍛冶屋が鍵を穴に差し込んで回すのを見て扉の開け方を学習したばかりだ。

 完璧に模倣した土の鍵で扉から無事侵入を果たした蘇芳は、きちんと扉を閉めて二階の住居部分に上がって行った。


 ベッドルームには二つの気配があった。

 蘇芳は音もなくベッドに近づき、すやすやと眠る二人を見下ろした。


(二人……)


 彼女は考えた。さて、どちらが目的の人種だったかと。

 暫く無言で見ていたが、正直主以外の人種など蘇芳にとってどれも同じである。


『出て来い』


 蘇芳は器の中の精霊に声を掛けた。怯える気配が伝わって来る。

 蘇芳は神力を込め、もう一度繰り返した。


『出て来い。次はない』


 跳ねる気配がして、おずおずと精霊が現れる。淡い黄色に光る妖精が二つ。同じ属性だ。


『私に会ったのはどちらだ?』

『私、です』


 一つがそう返答した。

 蘇芳は徐に手を伸ばし、手前にあった邪魔な女の細い首を掴んでベッドから引きずり出す。


「っ!!」


 詰まった様な呻き声が漏れた。


「……何、どうした……?」


 隣で眠っていたもう一人が薄目を開けた。直ぐに異常な状態に気が付いた様だ。跳ね起きて状況を把握し様と目を見開くのは男。精霊が前に会ったと告げた方だ。

 蘇芳は暗闇の中で薄っすら光っていた。男には、女の首を持ち上げて立つその姿が良く見えたのだろう。


「離せ!!」


 咄嗟にそう叫び、ベッドから二人に飛び掛かる男。

 蘇芳はさっと避けたが、掴んでいた女に男がしがみ付き重さが掛かったせいで首から手が離れた。


「ククル平気か!?」


 咳込む女を男が背に庇う。


「何するんだ!!」


 蘇芳としては掴みやすいところを掴んだだけで、これをどうこうしようというつもりはなかったのだが、男に睨まれているので何か失敗してしまったのだろうと察する。


「何を間違えたのか」

「その声……貴族様……?」


 男が蘇芳を見とめ固まる。蘇芳にとっては都合がいい。

 蘇芳は徐に男に近づき、そのまま男を担ぎ上げた。


「なっ!下ろして下さい!!」

「静かにしろ」

「貴方!!」


 暴れる男を無視して蘇芳は窓を確認する。


(小さいな)


 窓から出るのは諦めて入り口に向かう蘇芳の足に、今度は咳込んでいた女がしがみ付いた。蘇芳は無言でそれを見下ろす。

 土を細く突き上げれば、これは一瞬で光に還る。そう思った。


(しかしこれも光の属性。弱いが、少しは浄化の足しに出来るか?)


 蘇芳の袖にはまだ九十六個の魔石が入っている。浄化には金がかかるし、主が貨幣を欲しがっていた事も知っている。


(上手くすれば今日の失態を挽回出来るか)


 蘇芳はしがみ付く女を無理矢理脇に抱え上げた。


「きゃっ!何!?離して!!」

「ククル!?」

「メル!!」

「煩い。静かにしないとお前は光に還すぞ」

「「!!」」


 蘇芳がククルと呼ばれた女にそう告げる。二人が息を呑む。


「大人しくしていろ」


 蘇芳は二人を抱えたまま一階に降り、塞がっている両手の代わりに土に命じて扉を開けさせた。

 石屋の扉が開くとそこには土の壁があったが、蘇芳が見つめるだけでそれは崩れて土に戻った。騒いでも隣近所が気が付かなかった筈だ。この時まで石屋は完全に土の壁で覆われていた。

 瑠璃が主の眠りを妨げるなと蘇芳に告げたのが幸いし、この事件を知るものは終になかった。




 さてその頃瑠璃はというと、主の眠る部屋に水の膜を張っていた。部屋の内側を完全に覆う水の盾。

 蘇芳同様ふわりと浮き上がった瑠璃は、水の層を擦り抜けてやはり窓から外に出る。瑠璃に合わせて窓から突き出した水の膜は宛ら飛び込み台だ。


 振り返って部屋の中を確かめる。主は気持ち良さそうに眠っている。この部屋の広さなら十時間くらい密閉しても大丈夫だろう。人種とは脆弱なものだと瑠璃は思う。


 瑠璃が飛び込み台を蹴って空へ舞い上がると、それは窓の中に吸い込まれ、部屋を覆う水に同化した。去り際水が静かに窓を閉じる。


 瑠璃が向かうのはこの町の井戸だ。主が大きさを知りたいと望んでいたから、確かめておく必要がある。

 水の匂い、気配は、水属性の精霊にとって常に感じられる感覚の様なものだ。

 瑠璃は一番近い井戸の水を自分のところまで呼んだ。町の中にあった井戸の一つから勢い良く水が飛び出す。細く伸びた水は瑠璃の元まで伸び、瞬時に固まった。空中に井戸から伸びる水の道が出来あがる。それは道というには細過ぎる、水の線だった。


 瑠璃は器用にその線に着地し、線を歩いて井戸を目指した。

 歩き方はバレリーナの様に軽やかだ。空を歩く姿は、蘇芳同様大樹の光を受けて輝いていた。

 しかしこちらも残念な事に、その美しい様子を見たものは誰もいなかった。ただ一人を除いて。


 井戸の淵に降り立った瑠璃を、腰を抜かして見ていた一つの影。


「あんた、何もんだい」


 水屋の老婆である。


「見張っていた甲斐があったよ。まさかあんたが犯人だったとはね。この町の井戸から水を消したのはあんただろう。何て事をしてくれたんだい!」


 恨みがましいその口調に、瑠璃の笑顔が消える。


(折角トーコ様の為に務めを果たそうと思いましたのに、気分が台無しです)


 確かに瑠璃は、道を作る為に井戸に残っていた水を使った。水の量が少なかったので道ではなく線になってしまったが。だが井戸の水を消した覚えは特にない。塔子が湖を作ったせいで水位が下がったのは、まぁ少し考えれば分かる事ではあったが、一応瑠璃の与り知らぬところである。


「何とかお言い!」

(煩い)


 瑠璃が老婆を睨むと、井戸から空へ延びていた水の線がまるで意志を持ったかの様に頭を擡げた。

 老婆が驚愕する。


「化けもっ!!」


 叫び終わる前に、その細く尖った水の先が老婆の喉を貫いた。


「っがはっ!!!!」


 喉から口から、勢いよく血が飛び散る。瑠璃は首を押さえてのたうち回る老婆を見下ろした。

 大樹の光を受け、瑠璃の水色の瞳が宝石の様に光っている。


(嫌だわ、遊ぶつもりなんかなかったのに。でもこのままではトーコ様にご不快な思いをさせそう)


 喉を貫いた水の線を引き抜く。瑠璃は今度は胸の辺りを意識した。

 老婆に再び水が届くのは瞬く間だった。老婆が持つ神石から水が溢れ一瞬薄く老婆を覆ったが、瑠璃の意志のまま襲い掛かる水の線が触れた瞬間それは霧散した。


 声にならない叫びが静寂の中に響いた気がした。だが喉を潰された老婆から、既に声が発せられる事はなかった。

 老婆は光となって弾けた。光の中から水色に薄く発光する妖精が現れ、小さな石を落として大樹に還って行った。瑠璃はそれを何の感慨もなく見送る。是はこの世の理。精霊である瑠璃に、何ら感情を抱かせない常の光景。


 瑠璃は石を拾い上げた。それは透き通ったアクアマリンの様な石だった。


「小さいけれど、髪飾りには丁度良いかしら」


 肩に掛かるサイドの髪をさっと掬い上げると、髪は瑠璃の白く細い指を擦り抜けひとりでに編まれて後ろで合わさった。そして何の支えもなくその交点にアクアマリンが収まる。

 瑠璃が神力を通すと、アクアマリンは瑠璃の瞳と同じ色で輝き始めた。


(余計な時間を使ってしまったわ。さっさと井戸を調べないとトーコ様が起きてしまわれるわ)


 主の眠りは浅い。

 老婆から再び引き抜いた水を傍らの井戸に戻し、瑠璃は中を覗き込む。井戸の半分ほど、先程の水が溜まっているのが分かる。


(やはり大した量ではないわね。トーコ様は何を心配されているのかしら)


 その後瑠璃は空の散歩を楽しみつつ、ロドの町中の井戸を一通り見て回った。昼間石屋が言っていた通りのこちら側の井戸はどれもさして変わりなく、また通りの向こう側の井戸も大きいとは言っても倍という程ではなかった。

 湖を作った主なら、あっという間に全ての井戸を溢れさせる事が出来るだろう。勿論同量の神力を扱える瑠璃にも造作もない。

 そう判断して瑠璃は岐路に付いた。早く主の眠る穏やかな顔を見て、安心したかった。

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