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在りか ~私の居場所と異世界について~  作者: 白之一果
第2章 魔女の棲み処
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第10節 俺と弟と恐怖の支配者たち

最近捕虜になった内装工、キトセ(18)視点です。ちょっと時間軸が前後します。

 俺、キトセはガンゼットのごくごく普通の家庭に生まれた。下級市民の生活は楽は出来なかったけれど、特別辛い事もない。父と母と三人暮らし。隣には父のもう一人の奥さんユナが住んでいて、俺より二つ上の兄ウルガーと、五つ下の弟ココがいる。ウルガーは結婚してからはアルゼンナーエの親方の下で働いているので、食事は何時も五人で取る。そんな本当に極々一般的な家庭だった。

 十五で成人した後、元々木材加工をしていた父に倣ってナハト親方の店に雇われた。仲の良かった弟は俺も行くと駄々をこね続け、結局一年後に粘り勝ちで見習いとして半ば無理矢理採用された。それから俺と弟は、昼も夜もずっと一緒だった。


 何時もと変わらない日常の中で、刺激と言えば仕事の合間を見て家に戻って来るウルガーから聞く冒険の話だった。冒険と言っても、ウルガーだって木材を扱う仕事をしていて冒険者ではないのだが、ウルガーの雇い主の親方もうちのナハト親方同様、領主様からグリーセントメリベの伐採権を頂いていて、ウルガーはそこへ同行しているのだ。旅の話は面白く、刺激的だった。

 ある日俺と弟は、ウルガーからこんな話を聞いた。


「今回は帰りに変な貴族様にあったんだぜ」

「変?」

「奴隷を連れてた」

「奴隷?別に変じゃないだろ。貴族様なんだし」

「何処であったと思う?」

「もったい付けるなって」

「ここから四日くらい行った草原の中だ。従者二人と奴隷一人だけしか連れてなくて、しかも馬車も荷物もなくて女子供がたった四人で。いくら街道が冒険者に守られてるとは言え、あれは違和感しかなかった。そんでその従者がこの世のものとは思えんほど綺麗でさぁ」

「結局そこかよ」

「貴族様の持ち物には触っちゃいけないんだぞウルガー」

「そうなんだよココ!俺は緊張してなーんにも喋れなかったって言うのに先輩と親方が……」


 その時は唯何となくその話を聞いた。俺はまだ町から出た事がなくて、呆れたふりをしながらもワクワクしながら聞いていたんだ。

 だから次の日偶然にも親方にグリーセントメリベへ誘われた時は必死になって両親を説得した。結果、森の入り口へ着いたその日に拉致されると言う意味不明の状態に陥った訳だが。


 生き残ったのは奇跡としか言いようがなかった。空へ舞い上げられ、落下する恐怖。迫る地面になす術もなく、光に還る事を覚悟した。

 でも衝撃は訪れなかった。


「キト、セ……」

「ココ!!」


 弱々しい弟の声に、俺はハッとした。今、空にいた間、俺は弟の事を忘れて自分が光に還りたくないとそればかりに意識が支配されていた事に酷く罪悪感を覚えたのだ。

 俺は咄嗟に手を伸ばし、巨大な土の網の中にいるという訳の分からない状況の中、弟の手をしっかりと掴み自分の背後へ隠した。

 もしも俺達に何かあったら家族皆が悲しむし、俺だって弟に何かあったら耐えられない。


――何があってもココだけは守らないと!!――




「俺達帰れるかな、キトセ」


 微かに五の鐘が聞こえる地下牢で、弟が呟いた。

 地下牢には親方や同じ木材屋、冒険者、それに兵士が沢山いた。牢と言っても見た事もない程豪華な造りだ。白亜の石、夜だと言うのに昼の様に明るい照明。家なんかより遥かに広くて、そして何より匂いがしない。貴族様の館はこんな感じなのだろうか。夢の様な空間だった。


「帰れるさ!何ビビってんだよ!!」


 一緒に連れて来られた冒険者の一人が、俺達に向かって吠えた。


「おい、止せ子供に」

「お前等だって何であんな奴らの言いなりになってんだよ!おかしいだろ!!」

「そうだぜ!これだけ人数がいるんだろ!?束になってかかれば」


 冒険者がまた騒ぎ出す。


「キトセ」

「大丈夫だココ。隠れてろ」

 

 俺は弟の手を引いて自分の背後に隠した。弟が発言したせいで責められては堪らない。ナハト親方は俺達を庇ってくれる様子は全くなかったから、自分達で何とかしろと言う事だろう。

 ウルガーの話に流行る心を抑えられなかった冒険者と言う存在。俺が憧れていた職業は、こういうものだったんだろうか。武力を笠に着そうな言動が恐ろしい。どうやったって大人の冒険者に俺では太刀打ち出来ない事は分かる。ウルガーの話がどんどん色褪せて行く。


「お前等は何も分かっていない」


 一人の兵士が口を開いた。一目見て貴族様だと分る整った容姿や言葉。剣を握って出来たであろう硬くなった掌に、労働者ではあり得ない綺麗な手の甲。


「何だと?!ガダール様だか何だか知らねぇが、日和って何も出来ない奴が偉そうに!!」

「…………こういう状況だからな、不敬罪で処分されない事に感謝しろよ」


 大の大人がヒュッと息を呑む。流石に貴族様相手に言い過ぎた事に気が付いたのだろう。


「ここが何処だか知っているか?ここは不可侵の神獣の森の中心だ。明日になれば恐らくお前達も神獣様に会う。そうすれば自分が無力な存在だと痛感するだろうさ」

「神獣様だけではない。俺達アルゼンナーエの神法師団が束になっても、ここを統べる方々に全く敵わなかった」


 神法師団と聞いて冒険者達が押し黙る。神法師団は領を守る要。その彼等が手も足も出ない相手に、冒険者とはいえ一介の市民が対抗する術などないに等しい。その片鱗は俺達も森の入り口で既に見ているのだ。


「お前達は神にも等しい方々に逆らって、魔物が跋扈する広大な土地で援軍など期待出来ず、ロクな装備も食料もなく、何日も戦いながら森を抜けられるのか?」

「そのうち分かるさ、ここがどういう場所なのか。それと別に脅すつもりはないが……」


 兵士の一人が此方に視線を寄こす。


「ここでは自分が有用であると示し続けなければ生かしては貰えない。特にそこの後ろの子供」

「え?」

「特定の技能がなければ恐らく畑へ回される。畑仕事だけじゃない。ここは基本自給自足だ。役割によってはお前達が一緒にいられる保証はない。一人で役割が果たせなければ神獣様の食糧にされるか、森へ放り出されるか、最悪光に還されるか」

「そんな事!!」


 強く弟の手を握る。そんな事、俺がさせない。そう言いかけた時、周りの喧騒が一気に止んだ。


「ちょっと煩いよ。トーコ様の眠りを妨げるつもり?」


 地下牢の入り口、格子の向こう側に一人の少女が立っていた。弟よりも幼い、まるで人形の様に美くしい少女だった。


「もっ、申し訳ございません!」


 兵士達が一斉に膝を折り、蒼い顔をして首を垂れる。


(何だ?一体……)

「良く分かってるじゃない。……ねぇ、お前は新入り?」

「俺か?」

(ココ!?)


 叫ぼうとして、声が出ない事に気が付いた。いつの間にか少女が弟の目の前にいる。

 

「お前、目障りだなぁ……僕とちょっと被ってる」


 少女の異様に整った顔と冷たい声に冷汗が流れる。兵士も冒険者も誰も一歩も動かず、視線だけで様子を窺っている。


「でも今還すと気付かれちゃいそうだしなぁ」


 少女が弟を観察しながら周りをぐるっと回る。まるで宙を飛んでいるかの様な軽やかさで。率直に、それは人間ではないものの様に感じた。恐怖から硬直した身体は全く動かず、開いた口で辛うじて呼吸だけが事務的に行われる。喉が渇く。なのに弟だけがその圧を何も感じないかの様に少女に声を掛ける。


「何だよお前、誰だ?」

「お前?誰に口を利いてるの?」

「おい!よせ!!モエギ様、申し訳ございません!この者はまだ幼く状況が分かっておりません!!」


 兵士が声を絞り出す。そこで俺と弟は漸くこの少女が支配する側の人間だと気が付いた。


「モエギ……さま?」


 少女が見下す様に目を細め、口の端を上げる。


「お前、トーコ様の目に留まるなよ」


 少女のものとは思えない、地の底から響いて来る様な音。あれが彼女の声だったのかは判別出来なかった。気が付いた時には少女は消えていたからだ。

 弟と繋いでいた手が、汗で滑って離れる。それが恐怖の大魔王との出会いだった。




 弟は、トーコ様以外に関心がなさそうなモエギ様に特に嫌われていた。多分主であるトーコ様から何故か特別に目をかけられていたからだ。

 ある日なんか、やけにさっぱりした雰囲気で帰って来たと思ったら、


「トーコ様に風呂入れてもらった!」


 等ととんでもない事を言っていた。


「は!?トーコ様と風呂!?」


 一瞬トーコ様の裸を想像してしまったが、俺だって男なんだから仕方がない。まぁ良く聞けば、トーコ様の水の神法で洗われただけだと言う事だったのだが。それでもモエギ様どころかルリ様だって怒りそうな案件だ。


「誰にも見られてないだろうな!?」

「多分大丈夫だってー」


 弟は笑っていたが、俺は心配で仕方がなかった。

 でもそれが悪い事なのか、本当のところ俺には分からなかった。トーコ様は俺達を攫ってきた悪の親玉だ。でも、もしもう帰れずにここで生きて行くしかないのだとしたら、強いものに従うのはとても重要な事だ。

 神獣様を見た時から、俺は少しずつ帰れるかも知れないという希望を失い出していた。


(俺がココを守ってやらないといけないのに、本当にそんな事出来るのか?)


 俺は自分の無力を痛感していた。そしてそれは俺だけでなく、木材屋達も、親方も、兵士や冒険者でさえも同じに思えた。親方なんてここに来てから、一度も俺達に声を掛けて来ない。元々そんなに子供にかまう方ではなかったが、それ以前に「年上だから頼りになる」なんて常識はここでは通用しなかった。

 ここでは、全て自分で何とかして生きて行かなければいけない。自給自足は思った以上に重労働だったし、死と隣り合わせの訓練や、強者に常に見張られ管理されている感覚は酷く心を疲弊させた。

 だから大人だからと言って、他人にかまう余裕のある人などいなかったのだろう。


 トーコ様が一緒にいる時、モエギ様はトーコ様にかまってほしくてよく拗ねていた。


「若いからって良い気にならないでよね!」


 そう弟に可愛く言って見せ、トーコ様に窘められるのを楽しんでいる様子だ。自分の方が幼いだろうに。まぁ子供だから仕方がないのかもしれない。等とは口が裂けても言えなかったが。


 でも俺は見てしまったのだ。モエギ様はトーコ様がいなくなると、弟をまるで捕食するかの様な目で見ているのを。何の感情も籠っていない瞳で瞬き一つせずじっと弟を見ているモエギ様に気が付いた時、俺は背筋が凍った。あれは絶対本気の眼だった。そしてモエギ様にはその地位も力もあった。




「ココ、貴方今日ご飯食べなかったんですって?」


 トーコ様が弟に声を掛けて来る事は度々あった。


「!……はい、その……俺がスオウ様の指示に上手く答えられなかったから」

「だからご飯抜かれたの?」


 緊張して弟は言葉が詰まり、小さく頷いた。弟はその日朝から少し熱があり、朝食の支度を休んでいたところをスオウ様に見つかったのだ。

 捕虜は直接トーコ様にお声がけしてはいけないとルリ様から通達があったし、あの日モエギ様に地下牢で釘を刺されてもいたから事情を訴える事も出来ず罪悪感を感じていた俺は、これ幸いと弟がトーコ様に話掛けられているのを見て見ぬふりしていた。


「蘇芳も仕様がないわね。でも規則だから、ごめんなさいね、助けてあげられなくて。この飴おいしいわよ。キトセと分けて食べて」

「あっ……ありがとう、ござい……ます」

「もーそんな顔しないで?大丈夫よ」


 トーコ様は良く他の方に隠れては弟に何かくれていた。優しく弟を抱きしめて、背中を撫でて安心させてくれる事もしばしばで、俺は弱い立場である弟が虐げられるばかりでない事を嬉しく思いつつも、誰かに見られる事で俺達が完全に孤立でもしないかとヒヤヒヤしていたのだ。

 勿論こんな閉鎖された空間でそんな事が隠し通せる訳もなく、事は直ぐにモエギ様に見つかってしまった。


「今、トーコ様と何してたの?」

「!…………何も……」


 食事の時間が終わりトーコ様が去って直ぐ、モエギ様が皆の前で弟を叱責し始めた。周りにいた者は皆静まり返り、誰一人動こうとしないでじっとこちらを見ている事に不安を覚えた俺は、弟を弁護しようと震える声を絞り出した。


「モエギ様、ココは何もしていません」


 その瞬間、俺は疾風におもいきり吹き飛ばされた。ヨモギ様の庭と畑を仕切る低木が刹那に視界から遠ざかり、地面を転がって、何度も跳ねて、漸く止まったのは敷地の端っこだった。


(何、だ……?)

 

 頭が着いて行かない。全身が痛い。


(ココ!!)


 急に見えなくなった弟が心配で、身体を起こすと激痛が走った。直ぐ傍の堀に目をやると、俺を食おうとでも言うのか魚達が集まって口を開け、鋭い歯を見せている。身震いして視線を逸らし、ズキズキする身体に鞭打って立ち上がってから、俺は自分が東屋の前から畑の端まで弾き飛ばされた事を理解した。


(これがモエギ様のお力…………)


 恐怖に全身が震えた。いや、考えている場合ではない。ココのいるところに戻らなければ。

 夢中で走り出す。たったこれだけの距離が物凄く遠くに感じる。思うように足が進まない。腕に力が入らない。向こうで弟が苦しそうに首を抑え、空中で藻掻いている。

 その様子をモエギ様が、あの目で見ていた。


「ココ!!止めて下さいモエギ様!ココが光に還ってしまう!!」


 俺が慌ててモエギ様に駆け寄ろうとするのを阻んだのは、冒険者だった。


「モエギ様を怒らせるなんて、連帯責任を取らされたらどうしてくれるんだ?えぇ?」

「あいつだけに良い思いさせてんじゃねぇ!俺達が知らないとでも思ってたのかよ!!」


 同じ捕虜だと思っていた冒険者が、数日で手のひらを返した様にモエギ様の側に立つ。この時初めて、俺は大人たちに見逃されていた事に気が付いた。


「でも!ココは熱があって!!」

「いい訳してもどうしようもない。仕事をしなかったのは事実だろう」

「いくら子供でももう十三だろう?体調管理は自己責任だ。俺達も庇えない」


 師団の兵士までもが俺達を諫める。


「でも!!」


 それでもこの仕打ちはあんまりだ。ココはまだ子供で……。


「僕、トーコ様の目に留まるなって言わなかったっけ?」


 感情のないガラス玉の様な綺麗な瞳が弟を射抜く。このままでは本当にココが大樹に還ってしまう。


「止めて下さいモエギ様!お願いです!!」

「うるさいなぁ本当に」

「モエギ様!!」

「何してるの萌黄!止めなさい!!」


 声が枯れる程叫んだ時だった。屋敷に戻ったと思っていたトーコ様が此方へ走って来て、宙でもがいていた弟を直ぐに下ろしてくれた。


「何してたの!?萌黄!」

「ちょっとココがおいたしたから叱ってただけ~」

「にしたって、ココは唯の人間なのよ!?神法で絞めあげたりしたらどうなるか分からなかったの!?」

「トーコ様、その辺で」


 トーコ様が咳込む弟を優しく受け止め、ドレスが汚れるのも厭わず地面に膝を付いて弟を寝かせてくれた。


「各自仕事に戻れ!」


 ガダール様の号令で皆が散って行く中、俺はスオウ様に連れられて屋敷へ入った。


 捕虜の視線が消えた屋敷の中、ヤマブキ様によって絢爛豪華な応接室に運び込まれた弟は、突然現れた高そうなベッドへ横たえられた。

 歪んでいた表情は少し和らいだが相変わらず呼吸は苦しそうで、俺は傷む身体に鞭打ってベッドの横に跪いた。


「大丈夫か?」

「へい……き……」


 掠れた声で弱々しく微笑む弟。


「少し寝ろ。俺はここにいるから」 

「あの、濡れタオル持ってきました」


 使用人頭のミィ様が、弟の額に冷たいタオルを乗せてくれる。俺より少し年下だろうか。その美しい笑顔で微笑みかけられて、俺はこんな時に不謹慎にもドキッとした。一瞬身体の痛みを忘れたほどだ。


 それから暫く、俺は弟の様子を見ていた。弟はあれからすぐに眠ってしまった。途中ミィ様が俺と弟の身体をタオルで拭いてくれようとしたが、貴族のお嬢様にそんな事させられないので断ってタオルを貰った。その時、俺は右腕が動かない事に気が付いた。弟を守らなければならないこんな時に、利き腕が使えないのでは話にならない。

 茫然とした俺に、ノハヤ様の声が聞こえた。


「キトセ、お前もベッドで休め。俺のを貸してやるから。疲れてるだろ、今は身体を……」

「いいえ!!」


 こんな状態で弟から離れるなんてとてもできない。それにもし貴族様のベッドで寝たりなんかしたら、またとんでもない仕打ちを受ける事になりそうな気がして震えた。

 俺は強く首を振った。良く考えれば俺の様な下級市民が貴族様の言葉を遮って発言したなんて、それだけで大事だ。でもこの時はそこまで頭が回らなかった。

 まぁノハヤ様がそれを責める事はなかったし、片手で事が足りず結局ミィ様に拭くのを手伝って貰ったのだが。


 弟の呼吸が安定したのを見届けてから、どうやら俺もそのまま眠ってしまったらしい。ミィ様に揺さぶられて目を覚ますと、悲鳴を上げていた筈の身体が楽になっていた。


(右手が動く……?あれは夢だったのか?) 

「キトセ、萌黄様がいらっしゃいました」


 ミィ様の言葉で振り向くと、応接室の入り口にモエギ様が立っていた。


「…………ごめんなさい」


 いや、夢である筈がない。痛みが消えても、その恐怖はしっかり覚えていた。

 瞳にいっぱい涙を貯めて悔しそうにそう言ったモエギ様は見た目こそ子供に見えたが、俺の身体も鼓動も、本質はそうではないと警鐘を鳴らしていた。




 日が経つに連れ、俺はここがどういう場所か理解し、そして分からなくもなった。

 ここの主であるトーコ様は優しくて、無理なお願いなどしなかった。険悪だった冒険者達と部屋を分けてくれたのもトーコ様だ。思春期真っ盛りの弟は穴の開いただけのトイレが少し恥ずかしい様だったが、それでも俺は弟への危険が減った事に安堵していた。

 更にトーコ様は、未成年の弟に勉強する時間を与えてくれた。俺達の様な下級市民でこの年になって学校に通える子供は極わずかで、勿論俺も大して通っていない。それはとても有り難い事だった。


 トーコ様は俺達一介の捕虜も気に掛け、無茶な事を言い出すモエギ様やルリ様を宥めてくれる。俺の怪我を直してくれたのもトーコ様の指示だと聞いた。

 トーコ様の実力はまだ見た事がないけれど、その行動を見ていると、ミィ様達使用人がトーコ様に忠誠を誓っているのは何となく解る気がした。

 でも、俺は直ぐそれが間違いだったと気付く事になる。


「俺達もいつか帰れるかな……」


 ヲール達がここを去った日、そんな弱音が口を付いて出たのは本当に意図したものではなかった。帰れるかも知れないという希望ではなく、帰れないだろうという諦めが強く出た言葉。


(俺がココを不安にしてどうするんだよ!!)


 しまったと思い慌てて口を噤んだけれど、弟にはそれが聞こえてしまった様だ。


「悪い、忘れてくれ」


 しかし、弟から出た言葉はそんな俺の想いとは全く違っていた。


「トーコ様のいる場所が僕達のいる場所だよ、キトセ」


 俺は弟の返事に愕然とした。そしてこの時、本当の恐怖を知った気がした。

 弟はミィ様に勉強を教わり出してから、少しずつ変わっていってはいた。言葉遣いが丁寧になり、身なりを整え初め、落ち着いた言動が増えた。

 でも、本当に変わったのはそんなものではなかった。


 俺の耳元で「大丈夫」と囁く弟の甘い声、首に絡みつく弟の手にぞくりとした。あの恐怖の大魔王と同じに感じたのだ。

 モエギ様が悪魔と呼ばれていたのは比喩でも何でもない。あれは唯の子供なんかでは決してない。そう知っていた筈なのに。

 ミィ様を介してでもそれに近づいてしまった弟が、あちらの影響を受けない訳はなかったのだ。


 だとするなら、その悪魔を統べるトーコ様は本当に優しいだけの人なのだろうか。

 優しくしてくれたのにはそれなりの理由があったのではないかと、俺は時既に遅くして漸く思い至るのだった。


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