第42節 領主と魔女の対面と交渉
本日は2節投稿(予定)です。
1節目(第42節) ~ エルザーニス Side ~
2節目(第43節) ~ トーコ Side ~
咆哮と呼ぶべきガダールの声が風の神法によって轟いたのは、獣が気配を察知して逃げ出すよりも短い時間だった。訓練された精鋭である近衛師団の兵士達が帯剣に手をかけた瞬間にはもう、彼等の視界は森の緑から土の茶色に変わっていた。
彼等は神獣の棲み処を目指して真っ直ぐ北へ進んでいたが、隊列が文字通り真っ直ぐだった訳ではない。森には木々が生い茂り、低木は兎も角巨木を切り倒して進んでいた訳ではないのだから、百名近い兵士の列はグネグネと木々を避けてうねっていた。
にも拘わらず、土はまるで木々も獣もそこに存在しないかの様に北から南へ向けて一気に彼等に覆いかぶさり、人のみを閉じ込めたのである。それは土砂災害とは決定的に違っていた。
視界を奪われた彼等がそれに気が付いたのは、各々が少しだけ落ち着きを取り戻し、自らの呼吸と他人の声を聴き、身体の感覚を確認し、そしてエルザーニスが真っ暗になった彼等の視界に神法の灯を灯した時だった。
「皆……無事?」
「エルザーニス様……」
「エルザーニス様!」
「おい、灯だ!」
「明かりを!!」
適正を持つ兵士が次々と光を生み出していく。
最初はたった一つの灯だった光が次第にその明るさを増して空間を包んでいく様子は、まるで神が生命を創造する様を思わせた。
「ご無事ですか、エル様」
「私は無事だよエンデ」
そこには人しかいなかった。乗っていた馬も、積んでいた荷物もない。あるのは各々身に付けていた僅かばかりの物資と武器のみだ。恐らく誰もが気付いていただろう。しかし、それを声に出して不安を煽るのは得策ではない。
「ガダール様もご無事かな」
変わりにエルザ―ニスはそう口にした。口にしたものの、誰も彼が無事ではない姿など想像出来ないだろうと思った。
「確認して来ましょう」
やはり微塵も危惧していない声色でそう申し出たトーダリィが、前方の兵士をかき分け様として手を伸ばす。そして初めて、隊列がなくなっている事に気が付いた。
「ガダール様、こっちですかね」
トーダリィが何となくガダールの方向を考え定めていると、
「点呼―――!!」
聞き覚えのある張りのある大声が飛んで来た。
「こ無事みたいですね」
「そうだね」
「ですねぇ」
三人がほっと溜息を付く間にも、点呼の号令に従い隊員が次々と番号を発する。
「九十八!!」
平時の点呼と遜色ないその声に、皆が森の前に残して来た二名以外の九十八名全員がこの場に無事でいる事を知った。
エルザーニスが内心安堵の息を吐いていると、前方――と思われる方向――からざわめきが伝わって来た。ガダールが此方へやって来たのである。
「ご無事で何よりです」
「お主もな」
普段なら丁寧に挨拶を交わすところだが、ここは言わば未知の域。または戦場。
それに加えてこの不思議な空間は狭かったので、他人との距離が十分に離れていなかった。それこそ三十センチと開けずに人がいるのである。
挨拶もそこそこに、エルザーニスは自らの神法で作り出した光を高く上げ天井を照らして見せた。
「ここは、何なのでしょう」
「…………分からん。既に魔女の手中であるのかもしれぬ」
ガダールの慎重な言い回しに、エルザーニスは胸騒ぎを思える。戦場でガダールが臆する様子を見せた試しはない。
「洞窟みたいですねぇ」
成人男性の身長の二倍程度しかない天井の高さ、総勢百二名が立ったまま集まってもいっぱいになる四方を壁に囲われた空間。圧迫感が凄い。
「土ですねぇ」
地面も天井も壁も、先程まで踏みしめていたグリーセントメリベの土そのものである。端の方にいた兵士が思い切り叩いても、壁は壊れる様子も崩れる様子もまるでなかった。
「土の箱に閉じ込められちゃいました?」
「そんな神法聞いた事ないぞ」
「私もありませんよ」
ルミアとトーダリィがまた掛け合いを始めようとした時、ズズズッと鈍い音が響いた。
「おい、揺れなかったか?」
「揺れましたよねぇ?」
地面が揺れた様に感じたのだ。
「そんな事……」
誰かが半信半疑否定しようとしたその時。
「!!」
「揺れたぞ!!」
「おい!!押すな!!」
「無理だ!傾いてるぞ!!」
ズンと頭から押さえ付けられる様な圧力を感じた後、今度は足場が消えたかと思う様な浮遊感を感じ、冷やりと肝が冷えた瞬間に彼等は傾いた地面を目撃した。そしてバランスを失った同僚が迫って来て、坂の下になったものは押し潰され、呻く様な、痛み耐える様な幾つもの声で箱の中は満たされた。
突然世界が揺れるという未知の恐怖に遭遇した近衛師団はなす術もなく、ただ幾人かの上級者だけが周りの状況を把握しようと懸命に目を凝らすも、咄嗟の事に集中が切れた神法の光は悉く霧散して、彼等は踏みしめる大地と共に再び視界を失ったのだった。
彼等はまるで、升に注がれた酒だった。升が傾けばあっちへこっちへ千鳥足で行ったり来たり。持ちての手が震えれば波打つ様にざわめきが起き悲鳴と怒声が木霊する。
そんな状況が数時間ほども続き彼等が疲弊しきった頃、一気に地面が落下し、彼等は地に叩き付けられる様な衝撃を受けた。
それから浮遊感はなくなったが、地はその後も幾度も揺れた。
光に還るものがなかったのは、それこそ奇跡としか言いようがなかった。
暫くして彼等が恐る恐る体を起こし、手探りで人との間合いを取りつつ全身の痛みと揺れによる酔いと恐怖に顔を顰めていると、突如として天から光が降り注いだ。
暗闇にいた彼等はその眩しいまでの光に目を細め、徐々に慣れて来ると土の箱の天井が消えて空が覗いている事に気が付いた。
「あぁ、大樹よ…………」
タードリィの言葉に皆の心に篤いものが込み上げる。
そして光の強さからして三の鐘は既に鳴っている筈だとエルザーニスが考察した時、箱の淵からまだ成人前の幼い子供が此方を覗き込んでいるのを見つけたのだった。
「どうやら我々は魔女に捕らわれた様だね」
「そうですねぇ……」
呆けた様なルミアの返答にも頷ける。
それは美しい少女だった。柔らかな髪を風に靡かせ、微笑む姿は正に天の使いを思わせる。箱の淵に立った彼女の紺色のワンピースが風で揺れたが、ブーツインしたパンツを履いていた為残念ながら見上げても中身は見えなかった。
少女はそんな邪まな視線にっこりと微笑んで、そして値踏みする様に兵士達を見回して言った。
「誰がエルザーニス?」
可愛らしいその声に、兵士達は一瞬にして身体を硬直させた。本来なら雄々しい精鋭である彼等が、たった一人の少女に気圧される。
隅々まで届く筈のないその声が皆に聞こえたのは、少女が風の神法に声を乗せたのに違いなかった。
「…………私だ」
声を上げたルミアを少女の瞳が捉える。ルミアがエルザーニスを庇う様に前へ出る。これは打ち合わせていた通りだった。しかし。
「嘘」
少女が薄っすらと笑った。
「っ!」
ルミアだけでなく、その表情に悲鳴に近い息を呑む声が幾つも上がり、幾人かの兵士達が崩れ落ちる。獣に、それこそ神獣クラスの災害に見舞われたかの様な恐怖を、その場にいた誰もが本能で感じ取った。
見入られたルミアは突如現れた一陣の風に締め付けられた様に膝を折る事も出来ず、呼吸をする事も叶わなくなる。
「僕はエルザーニスがいればそれで良いんだけど」
少女のその言葉は、エルザーニス以外の命の保証はしないとも取れた。
「もう一度だけ聞くね。エル……」
「私だ!」
「エルザーニス様!」
焦るトーダリィをさっと片手で制し、ルミアの横に立ったエルザーニスは少女の元まで声が届く様に大きく告げる。
「失礼をした!彼を離しては貰えないだろうか!」
エルザーニスに少女の神法は読み取る事は出来なかったが、ルミアの様子がおかしい事は背後からでも感じられた。このままでは駄目だと強く警鐘が鳴る。エルザーニスは少女から目を離さずにルミアの腕を掴む。強固な力で押さえ付けられたかの様にその腕は動かない。神法だ。ガダールが剣に手をかけている。だがこの密集した空間で抜けるとは思えない。
「どうか!」
兵士が騒ぎ出すのを抑える様に、エルザーニスは再び叫ぶ。そして次第に少女の笑みが広がるのを、エルザーニスは見逃さなかった。
フッと空気が緩んだ様な気がした途端、隣のルミアが盛大に咳込み身体を曲げた。
「魔女とお見受けする!此方は話に応じる用意がある!先ずはここから出しては貰えないか!」
ルミアの安全を確保したエルザーニスは、少なくともこの呑まれた空気を対等に戻そうと間髪入れず少女に問うた。
「魔女ぉ?僕がぁ?」
少女が不満そうにそう返す。
(僕?少女ではない?いや、それより魔女ではない?)
魔女の候補は少女二人と女が二人。これほどまでに近衛師団を圧倒するのだから、これが第八師団を捉えた従者かもしれない。
(若しくは魔女を含め四人とも強者……良くないな)
少なくとも彼女――または彼――は風の属性を持っている。透き通った黄緑色の髪。あんなに薄い色の人間は見た事がない。風の属性の神の称号持ち、若しくは恐ろしく器が大きいもの。
下手な事は出来ない。それはガダールを始めルミアもトーダリィも分かっているだろう。
ルミアが体勢を立て直した時、箱の外から別の女の声がした。
「萌黄、領主はいたの?」
「見つけたよ。どうするの?」
「取り敢えず連れて行けば?」
箱の淵に、もう一人女が現れた。これまた美しい。美男子と囃されるエルザーニスから見ても別格である。兵士を籠絡しようという策略なのか、二十歳前後の妖艶な美女である。女の深紅の髪は少女と同じとまでは言わないが、透き通っている様にも見える。
(最悪かも……)
エルザーニスは心の中で形勢を更に下方修正する。
「あれが?何て小さい」
一瞬アレの大きさかと色香に惑う兵士達。しかしそんな訳はない。
その言葉は神力の器を指しているに違いなかった。ルミアの腕を掴むエルザーニスの手が汗ばむ。
「此方へ来なさい、エルザーニス」
美女の瞳が魔と化したベリーシエの様に獲物を見る眼へと変わる。兵士達が縮こまる。
「領主に対してその口の利き方か!!」
「駄目だトーダリィ!」
色めき立つ一部の部下が噛み付くのを、エルザーニスは強い口調で諫めた。光に還されては敵わない。ここでは満足に抵抗すら出来ないのだ。
しかし美女はトーダリィを一瞥しただけで、少女に至ってはもう人に興味を抱いた様子がない事に、エルザーニスは内心安堵の溜息を吐く。
「失礼だが貴方が魔女か!こちらは話し合いをする用意があるが、そちらまで伺う事が出来ない!我々をこの箱より出しては貰えないか!」
「やっぱり飛べもしないのねぇ」
エルザーニスが「我々を」と強調してみるが、誘導の効果はまるでない上に予想外の言葉が降って来る。そして憐れむ様な美女の視線がちらりとルミアに向いた気がした。ルミアの髪は緑。風の属性である事は視るものが見れば分かる。
(跳ぶ?まさか飛ぶのではないよね?)
出られない事を分かった上で箱を開けられたのだ。つまりそれは、それだけの器だと見なされたと言う事。
魔女の器は如何程なのか。神法で飛ぶなど聞いた事もない。
(ミドリやアトリは飛んだけれど……)
あれは例外中の例外。そもそも彼等は人ではない。そんな人間にぞろぞろと出て来られては堪らない。
思案しているのか、美女は此方をじっと見ている。
(先手を取られた上に勝ち目がまるで見つからないなんて、どうしたものかな)
外交の席でこんなに緊張した事はない。これはまるで……。
「魔女とやら!儂も連れて行っては貰えぬか!」
エルザーニスがその気持ちを探り当てる前に、やはりと言うべきか、横やりが入った。
「ガダール様!」
「ガダール?」
「どっかで聞いた名前―」
「そうねぇ」
美女が一瞬目を細め、笑った。
「面白そうだから、あれも連れて行きましょ」
「えぇ?トーコ様はエルザーニスと話すんだよ?」
トーコ、と聞いて魔女を連想して反応したのは勿論エルザーニスとガダール、それにルミアにトーダリィである。
「ほら、面白そうなのが四人もいるわ」
「怒られたら紅のせいだからね!」
どうやら一人で連れ出されると言う事態を回避したエルザーニスは、心の中で情報を整理する。
(魔女トーコの部下……モエギとクレナイの立場は対等。風に火。あと一人は……)
その思考を遮る様に、またしても風が吹いた。風は器用に四人を空へと巻き上げる。ルミアとトーダリィの悲鳴が箱の中に反響する中、エルザーニスは眼下に言葉に出来ない景色を見た。
神獣の棲み処と思われる場所にぽっかりと開いた大地。大地を囲む、不自然なまでに生えそろった周囲の巨木。絢爛たる白亜の屋敷、整えられた庭。それを守る恐ろしくも美しい神秘の獣。
(あれが神獣……)
土の箱に押し込められた近衛の兵士、大地に整列している捕虜となった神法師団が十八名。
(第八隊が十七名、第九隊が一名)
兵士の格好から数を瞬時に見分ける。報告書通りだ。それにしても服装は乱れ、兵士達は疲弊している様子である。やはり捕虜としてそれなりの扱いを受けていたのだろう。
庭の一角には軍行の為の物資や、魔女との交渉に使う予定だった贈答品の数々が山積みにされている。乗って来た筈の馬の姿はない。
そして先程の美しい少女が一人、美女が二人。
(黒い着物!?)
モエギとクレナイの他に、それは見事な黒い着物を来た美女が此方を見ている。髪は透き通った紫。土属性の称号持ちか、此方も器が大きいのか。
劣勢増す中、それよりも目を引くあの服装。
(黒は家の専売特許なのに……それに着物…………)
受け身を取らねばと咄嗟に腰の剣を掴んだが、意に反して落下の速度は緩やかで、四人は少女達の前にふわりと着地した。
少女達の背後で整列する兵士から歓迎の意が強く伝わって来る。感極まって涙を浮かべる者も見て取れる。しかし恐らくは言葉を発する事を禁じられているのだろう。第八隊隊長サダート・キーニーズはこの状況に厳しい表情でこちらを見ている。
エルザーニスもここで兵士に声を掛けるのは賢明ではないと考え、兵士達にさっと片手を上げて答えるに止めた。そして直ぐに少女に向き直り礼を述べる。
「助かった、モエギ殿」
「へぇ?僕だって分かるんだ?小さいくせに」
少女がころころと笑う。どうやら呼び方については不満はないらしい。
裏のあるその笑顔は貴族の子女の様だ。服は領主であるエルザーニスより上等な生地である事が分かる。ただの少女ではない。これは人間離れした美しさから来るものなのか、その髪の色が見せるものなのか、それとも類稀なるその神力の器の大きさが見せるものなのか。
「付いて来て」
不思議な少女は白亜の屋敷に向けて歩き出す。四人は顔を見合わせ頷き合って、ぎょろりとした巨大な神獣の眼の前を冷汗一杯に通り過ぎ、少女の後を追った。
それは見事な屋敷だった。離宮より遥かに小さい建物だったが、贅に尽くされ、この世のものとは思えない装飾で彩られた美しい白亜の屋敷だった。
(おばあ様の部屋みたいだ)
白亜の屋敷は、肖像画に描かれている昔のアカリの住まいによく似ていた。見た事もない様式で、調度品ですら一々その価値は計り知れなかったと、エルザーニスは彼女の昔を知る人々から聞き及んでいる。
「これ程とは……」
そう唸ったのは誰よりもアカリのその棲み処に詳しいであろうガダールだった。
現在何故その贅沢な住まいが存在しないのかは分からないが、兎に角エルザーニスには二つとないと思っていたものが目の前に突如として現れたのだ。二の句が継げぬのも仕方のない事だと思う。
少女が近づくと扉は自然に開き、四人を出迎えた。通された玄関広間は、左右には壮麗な柱が並び、高い天井には見た事もない美しい照明が飾られていたが、他には中央にポツンと重厚なテーブルを挟んで二人掛けのソファーが向かい合わせで置かれただけの、本当にただの玄関ホールであった。
「トーコ様―。エルザーニスを連れて来たよー」
少女が奥に向かって声を掛ける。四人は緊張した面持ちで奥の扉を見つめた。
暫くして扉から出て来たのは、これまた美しい淡い色のドレスを着た少女だった。エルザーニスは奥の扉から現れたその少女を見て、漸く腑に落ちた。
(黒髪黒目。おばあ様……)
少女の様子はアカリに良く似ていた。そう、この緊張感は祖母に対する時に感じるものと同じ。これ以上ないと言わざるを得ない屋敷に全美な服。整った顔立ち。そして属性に左右されない黒い瞳と髪。
少女の後ろから、これまた透き通った水色の髪の美女が登場した。
(彼女達とモエギと着物の女性が件の四人?)
背後で風の流れを感じ、反射的に四人が振り返ると、問題の着物の美女が扉を後ろ手に閉めていた。
(退路を断たれた、のかな)
布を黒く染める技術はランファレ家の持つ秘匿技術である。他の領主家や他国の王族に贈答品とする事はあるし、偉業を成した者にKの名と共に下げ渡す事もある。密売があるとも聞いているが、あんなに堂々と身に付けられるようなものではない。
エルザーニスの記憶する該当の貴族の中に彼女はいなかった。しかもあれほど完全に漆黒とは。
そもそも着物と言う服の形は、祖母アカリが生み出したものだと聞いている。あれはアカリが他国の王族との式典用に特別に用いる服の様式で、この世界に比類ないものの筈だった。
ではあれは何なのか。
透き通った従者達の髪の色も見た事もない空を飛ぶ神法も計り知れない大きな神力の器も、どれをとってもアカリに似ている。
(いや、同じと言うべきかな…………そうか、この従者達は)
「精霊か……」
エルザーニスはガダールの呟きにハッとした。彼はアカリの父親である。知らない筈はなかったのだ。
隣にいたエルザーニスが漸く拾えたその小さな声に、見事なまでに反応して此方を凝視する美女達。
「ガダール様」
「全員ではないな」
「はい」
心してかからなければ。神法で敵う相手ではないだろう。では、この身を守れるのは剣ではなく情報。知識と知恵だ。
身構える四人を気にした様子もなく、魔女は用意されていたソファーに座った。隣に水属性の美女が腰掛ける。
「どうぞ」
魔女トーコの声が一際近くで響いた気がした。とても澄んだ、少女の声だった。
「魔女トーコ、こんな場所で話し合いを?」
ルミアの言葉に精霊達が殺気立つ。
「見ての通りこの家は大きくないの。ここしか部屋がないわ」
ここを部屋と呼べるかは別として、言い分は尤もに思える。精霊達は不満そうだが、魔女の声が先程の不自然な反響をはらんでいない事に安堵を覚え、エルザーニスとルミアはソファーに腰掛けた。ガダールとトーダリィは直ぐ背後に立つ。
「警戒しなくても、そちらが手を出さない限りは攻撃しないわ」
魔女の言葉を一先ずは信じても良いだろうとエルザーニス達は判断する。
「では改めて魔女トーコ、私はエルザーニス・R・ランファレ。此方は交渉官エンデ・ルミア。後ろの者は護衛だ。同席を許可してくれた事に感謝する」
「嘘は付かない方が良いよぉ?」
魔女の後ろでモエギが笑っていた。交渉の場で表情を変える程子供ではないが、内心この小さな少女に不気味さを覚えずにはいられない。
(精霊に人の道理なんて無意味か)
彼女達は嘘やごまかしを見破れる。何らかの神の称号かもしれない。最悪だ。
「後ろは近衛師団隊長のネイガ・トーダリィと……」
「ガダール・R・ランファレじゃ」
魔女が目を見張った。
「賢者ガダール?」
「そう呼ばれる事もある」
「…………萌黄」
「本当だよトーコ様」
やはりこのモエギと言う少女が嘘を看破する能力を持っているのだ。
「ではそちらも……お名前を伺っても?」
「…………私はトーコ・D・ウェネーフィカ」
知らない家名だ。他国の貴族だろうか。
魔女に目配せされ、隣の美女が自ら名乗る。
「私は瑠璃・F・ウェネーフィカ」
「僕は萌黄・F・ウェネーフィカ」
精霊だと思っていたもの達が、魔女と同じ家名を口にした。親族、若しくは魔女さえ精霊と言う可能性。そんな事があり得るのだろうか。近くに主人たる人間は見当たらない。
因みにアカリの精霊に家名はない。
「扉の前にいるのは?」
「蘇芳・F・ウェネーフィカ」
ここへ嫁いだ平民でなければ、彼女は魔女の血縁者。Kの名を冠する訳でもない。
「あの素晴らしい服は何処で?」
交渉前の他愛もない世間話でペースをこちらに持ち込みたいエルザーニスの思惑は、魔女が眉間にしわを寄せるというたったそれだけの仕草によって終わりを告げた。
相手の懐まで来たが、此方の立場が圧倒的に弱いのでこれ以上強くは出られない。今や近衛師団も捕虜同然。ここにいる四人も例外ではない様子である。
第八隊程度では彼女の障害になり得ない事はもうはっきりと分かっていた。であるなら、神法師団全隊を以てしても魔女の従者に敵わずと言うキーニーズの報告は真実だった訳である。
(この状況で有益な情報を引き出さなければならないのか……)
アカリの言葉を反芻する。
「ところで魔女トーコ、この話し合いにはお茶は出て来ないのかな?」
場の主導権をどうとるべきか。
「…………飲むとは思わなかったわ」
どうやらこのくらいの要求は許容範囲内の様である。魔女は精霊達と違い、凡その人の常識を理解している様に見受けられる。
ルリが手を上げると、奥に控えていたらしい執事とメイドが飲み物を持ってやって来た。中身は水だった。
(流石に訪問して水を出されたのは初めてかも。玄関ホールで会談を促されたのも初めてだけど……)
しかしその水は、煌びやかなガラスの水差しからこれまた至高の杯に注がれる。どうやら用意して来た贈答品は役に立ちそうにない。既に相手の手中にあるものが贈答品として使えるかは分からないが。
目の前に置かれたそれを、真っ先に口に入れて見せる魔女。混ざりものなどないと自ら証明してみせたのだ。
ここの魔女も精霊も、言葉を飾らない。感情を表情に出し、見栄を張ろうとはしない。この屋敷で一番広い空間であろう玄関ホールで話をするのも、飲み物を自ら毒見してみせたのも、恐らく魔女にとって理に適っているのだ。
エルザーニスにはこの魔女が、貴族らしくない年相応の少女に見えた。
(この魔女に金品で解決出来る事なんてあるのかな)
しかしそうなると、信用を買う為にもこの水を飲まざると言う選択肢はなくなった。ルミアが先に口を付けたのを確認し、エルザーニスも一口飲んでみる。毒の耐性なら領主として最低限付けてはいる。
「冷たい。美味しい」
「それは良かったわ」
(性格も素直。益々誠実に対応しなくては後が怖いな)
それよりも問題なのは。
(この執事……)
ここの従者はとても仕立ての良いものを着ている。クレナイもそうだったが、エルザーニスが着ているものより上等なものである事が見て取れる。
「知り合いだったかしら」
どうやら魔女はそれも隠すつもりがない様である。
「良く仕えてくれたので」
解雇したつもりはなかったが、捕虜と言う扱いでもない様だ。では答えは一つ。
真っ青になって首を振る執事の視線の先にあるのは魔女……ではなくルリだった。凄い形相で執事を睨んでいる。魔女が従者達のやり取りを気にした様子はない。
(彼はアドバンセチア家の……ホノライだったかな。第九隊の偵察組に配属された下級貴族だし、大した情報を持っていないのは不幸中の幸いかな)
しかしある程度の情報は漏れていると考えなければ。
まさか身内が敵方にいるとは思いも寄らなかったが、第八隊の大部分を光に還す様な人物だ。手段を問うても無意味だろう。洗脳されている様子は全く見受けられないが、この調子で捕虜全員が、更にはここにいる四名が魔女の軍門に下る様な事があればレザーヌは終わりだ。
(彼女が脅威となるのは間違いない…………最悪です、おばあ様……)
前哨戦から劣勢も劣勢。
暗雲立ち込める交渉の行方に、エルザーニスは初めて外交に対して恐怖を覚えたのだった。




