第2節 少女と剣山と初めての村
鐘が鳴った。朝だ。私は何方かと言えば夜型だけれど、寝起きが悪い方ではない。
いつの間に寝たのか、夜の記憶は曖昧だった。起き上がろうとして付いた手に刺す様な痛みが走る。
「っ!!」
右手の甲に五本の深い傷。血はもう流れてはいないけれど滲み出てはいる。流れた血は固まって鉄の匂いがする。
昨日の事を徐々に思い出して心拍数が上がっていく。寒気がした。
(死んでない)
生きているかは元々怪しいが。
『大丈夫?』
「ギャッ!!ッ!」
頭の中で声がした。思いっきり空気吸い込んで咳込んだ。びっくりさせないでもらいたい。心臓が止まるかと思った。
と、そんな場合ではない。今のは誰だ?
恐る恐る視線を上げると、何か見てはいけないものが見えた。目の前に着物の女の子がいる。今の私と同じ年くらいの、真っ黒な着物を着た女の子。遂にお迎えか。舟は何処だろう。近くに水がある様な気配はない。まぁ白い流水紋の上に鮮やかな紫の牡丹が咲き誇っているのを見れば、お迎えと言うよりは寧ろ何処の組のお嬢さんですか?といった感じだ。
(あれ、それじゃ行き着く先は同じなんじゃ……)
紫のカラコンと紫の髪。それはどうなのか。黒でいいここは。大きな紫の瞳は異様。顔も整い過ぎてて何か怖い。人形みたいだ。何処かの宮殿で見た黒スーツのお母さんを思い出す。
「あ、貴方が助けてくれたの?」
そんな訳はないとは思ったけれど、ここにはこの子しかいない。
そうか、この子と一緒に来た組の人とかが助けてくれたのか。
「大人の人いる?挨拶したいんだけど」
あわよくば保護して町まで連れて行って欲しい。
女の子は不思議そうな顔をしている。何か違っただろうか。
立ち上がろうと視線を足元に映す。
(……この子、浮いてる)
蜃気楼とはこんなに近くで見えるものか。若しくは幻視か。貧血気味なのは自覚しているが。
まさかあの豹に殺された地縛霊とか。では私もやはり……。
「死んだ?」
『死んでない』
頭の中に幻聴が響く。幻視だけでなく幻聴まで。傷もちょっと包丁で切った程度ではないし、やっぱ私は大丈夫ではないのでは?
立ち上がろうとしたけれど、足の裏に激痛が走って再び座り込む。タイツは破れ、足の裏は酷く切れて皮膚が剥けていた。半分は乾いていたが血だらけだ。砂が付いているし、傷口から入るととてもよくない気がする。破傷風とか。
風が吹いて舞った砂が手の傷口にも当たっている。
(痛い痛い痛い。冗談じゃない痛さだよ!?)
痛いけれど、この子にそれを言っても仕方がない。私見た目は今こんなだけれど中身は大人だし。
『貴方も私も死んでない。私は精霊。死なない』
どうしよう。どう反応しよう。
(妄想?妄想なの?プレイヤーに成り切るつもりはないよ?いや、ちょっと憧れたりはするんだけど、あんまりそっち系には興味ないというか?)
それにこんなM願望もない。痛いのは嫌だ。これは本当に私の夢か?
『私は貴方の精霊、だから名前を付けて』
(取り敢えずこの子は一旦置いとこう。どっちの意味でも痛過ぎる。先にこの傷どうにかしようか私)
少女が浮いている事を再確認し、私は一先ず無視する事にして彼女から視線を逸らす。
近くにガーゼや包帯なんてものはない。ニットのワンピや下着がなくなるのは困るし、残っているのはタイツだけだ。
意を決してタイツを脱ぐ。見られていると同性でも何だか恥ずかしい。
重ねて言うけれど、そんな願望はない。
これが綺麗かというと履きっぱなしだったしそんな事はないだろうけれど、砂が入るよりましだ。
痛みを堪えて砂を払った後、私はタイツを勢いよく引き裂いて手と足に巻いた。
「やっぱり痛いぃぃ」
涙が出て来た。何か触るのはかなり痛かった。でももう破いてしまったし、タイツとしては役に立たない。根性で我慢するしかない。
さて、大分気分も悪い。でも今日も頑張って歩かないといけない。ここにいたって仕方ない。
(どっちから来たんだっけ)
私はその時初めて気付いた。目の前の光景が昨日とは一変している事に。
傍には丘と岩と荒れた大地しかなかったはずだ。しかし今目の前にあるのは地面から無数に突き出した鋭い円錐形の土のオブジェ。表面がとても綺麗に均されているそれは、私の倍の高さはあろうか。私から三、四メートルくらい離れて、囲む様に剣山の森を形成している。
(どうしてこうなった!!)
これに気付かないなんてどうかしている。よっぽど痛みで頭が一杯だったんだろう。
取り敢えず私が通り抜けるだけの隙間はある。何となく怖いし、早くここから出よう。
私は恐る恐る立ち上がる。やっぱり激痛がした。
(頑張れ私、早くここから逃げるんだよ!)
土の剣山は触ったら崩れる、なんて事はなかった。物凄く丈夫に固められている。進むと大分針の間隔の狭いところも出て来た。今私はかなりスリムだと思うのだけれど、ちょっと目測を誤ったかもしれない。お腹とお尻が引っかかった。
「邪魔!」
無事な左手で剣山を叩く。頑丈な土の塊はビクともしな……。
(……ん?んん?)
叩いた剣山が崩れ、一瞬で砂に戻ってしまった。そして私を中心に周りもどんどん崩れ、次々砂に戻って行く。円が広がって行く。大分向こうまであった剣山の森が、ものの数秒でなくなってしまった。
(どうしようドミノ倒しみたい……じゃなかった。これ私のせい?建造物破壊しちゃった!?)
一瞬痛みを忘れた程だ。焦って辺りを見回す。
(誰にも見られてないでしょうね!?砂の美術館的なあれだったらどうしよう!!)
私の力で原状復帰はどう考えても無理だ。
周りは見覚えのある荒野が広がっている。ちょっと周りに砂の小山が増えたけれど。
そして、女の子が付いて来ていた。
『名前』
「…………」
(まさかずっと付いて来る気じゃないでしょうね。あれ?歩いてる。浮かんでなかったっけ?見間違い?)
『名前』
「無理!」
思わず返事してしまったら、あからさまにシュンとされた。何か罪悪感が凄い。いたいけな子供をいじめている気分だ。
ちょっと後ろ暗かったけれど、踵を返し歩き出す。うん、歩きやすくなった。
剣山が砕けて出来た砂の小山の上に、鈍色の石が乗っている。墓標みたいでいい気はしない。一個拾ってみたけれど、やっぱり嫌な感じがして直ぐ捨てた。
手はズキズキ、足は指す様に痛い。正直今貧血っぽくてくらくらしている。あの大きな木が山の向こうで光っているのもかなり眩しい。お腹も空いて来た。石に構っている暇はない。
「なんなのよもう。昨日までは平気だったのに」
『神の加護が』
「黙ってて」
今幻聴に付き合うのはしんどい。ちょっと歩くのもう無理かも。まだ明るいけれど少し休もう。
私は見えていた少し高い丘まで頑張って、頂上で座り込んだ。ここなら何か来ても少しは見渡せるはずだ。
その日はあと少しだけ進んだ。でも、今までに比べたら微々たる距離だと思う。
暗くなるのが怖かった。
女の子はまだ付いて来ている。幽霊でも側にいると少し安心するのは不思議だ。決して幻覚を信用した訳ではないけれど。
夜が来ても眠る気には到底なれなかった。黒い豹が私を見ている気がして何度も振り返る。でもそこには何もいない。
昼間は眩しかった大きな木の光がとても有り難い。お腹が空いているのはとっくに気持ち悪いのを通り越して、もう何も感じなかった。
明け方近くになって、私は朝の鐘まで少しだけ目を閉じる。
すぐに風の音で目が覚める。疲れているのに眠りは浅かった。
幽霊もどきの女の子は、私の真似をしているのか横になっていた。目を瞑ってみたりしていたけれど、まったく眠そうではなかった。目の前にパッチリ開いた紫の目が合って、悲鳴を上げかけた。
(どんだけ至近距離で寝てるのよ!って言うか若干この子光ってない!?怖すぎる!!)
この日も次の日も、私は彼女と何も喋らないままゆっくり歩いた。
手の痛みは少し和らいだ気がする。まだ血が滲むけれど、歩かなきゃいけない足に比べたら大丈夫だ。
足は当然一向に治らず、たまに地面に血が付いた。小さな小さな石の粒でも、巻きつけたタイツ越しに感触を伝えて来る。手に巻いたタイツを更に裂いて少なくし、出来るだけ足の裏に当てがった。足に巻いていたタイツも殆ど折り畳んで足の裏に当て、少ない量で巻き付ける事にした。
この先には何があるんだろう。本当に何かあるのだろうか。
高過ぎる山と壁のお陰で方向を見失う事はない。歩く以外に出来る事は思い付かなかった。一度大きくSOSと書こうかと思ったけれど、砂のところは風で直ぐ流れてしまうし、荒野の地面は固すぎた。
(私、何でこんなに頑張ってるんだろう。進む必要なんて別になくない?)
空腹と睡眠不足で光がとても眩しい。相変わらず天気は良く、大きな木は光っている。
そして夜は眠れなかった。
荒野で目覚めて八日目になるその日、私は丘の上で今までなかったものを発見した。
「また壁」
でも左手に延々続いている高い壁とは明らかに様子が違う。もっと人間味のある高さの、荒野の一角を囲む感じの壁。あそこにたどり着くのにあとどれくらいかかるのか。遮るものがないから見えてはいる。蜃気楼でなければいい。
(壁に囲まれた……村?でもやっぱり人がいるんだ)
疎らに家らしきものも見える。
まだかなり距離があるが、丘から見えたその景色に微かにテンションが上がった。小躍りするほどの体力はなかったけれど。
重い足を引きずってその村に着いたのは、丁度三回鐘が鳴る頃だった。
煉瓦で出来た高い壁が村を囲っている。あんな獣がいるんだからそりゃぁ壁も高くなるだろう。私の背の倍以上ある。自力で超えられる様な高さではない。
まぁ遥か左手に見える壁は、これと比べても多分尋常ではない高さな気がするが。
遠目に唯一見えていた入口の頭上には、村の名前でも書かれているだろう看板。
(…………読めない)
何処の国の、何時の時代の象形文字だろう。
一見見た事ある様なない様な。私はそんなに歴史に詳しくない。うろ覚えの弊害がこんなところで。
(どうしよう。入って大丈夫かな?)
特に警備員が警戒している風でもない。オープンな入口だ。これだけ囲っているのに、開けっぱなしで大丈夫なのだろうか。
門からは、実りの少ない畑の向こうに石を積んで出来た建物が見えている。平屋か、高くて二階建て。屋根は割と平べったい。家の作りは相当古い。
(あれ、ここ人住んでるよね?遺跡とかじゃないよね? )
塀の外と何ら変わらず、村には森どころか低木一本ない。地面はアスファルトでも石畳でもなく、荒野と地続きの砂や土のまま。高台も何もない平坦な街並み。アウシュビッツが脳裏を過る。
暫く迷っていると、後ろから蹄の音が聞こえて来た。
振り返ると思った通り。
(って馬車!?何、ここアーミッシュ!?今どき馬車!)
確かに電線もない、辺鄙な村だとは思っていたが。顔も外国人。そう来たか。
「xxxxxxx!!」
御者が何かを叫んだけれど、よく分からなかった。
危なそうなので脇によけると、馬車はそのまま門の中へ入って行く。
(よし、便乗しよう!)
入り口付近でスピード落とした最後尾の馬車に、私はこっそり乗り込んだ。
そして、歩いてないのに前へ進める事に感動した。
(足痛くない!いや、結構揺れるし板の間だから膝は痛いけど……)
足の裏の指す様な痛みに比べたらこんなもの、ニットワンピを無理やり伸ばして敷いておけば何とでもなる。
馬車と言っても豪華な箱ではない。荷物を運ぶあれだ。幌の付いた荷台を馬が引いている簡素な物。後ろが開いていて人も乗っていない。好都合だ。
乗り込んだ荷馬車が門を超える。検問的な検査は何もない様で、馬車は門を巣通りした。
荷台には、見た事ないものばかり積まれていた。用途が今一想像出来ないが、家財道具か置物だろうか。石?もある。その中に一箱だけ、私の目を釘付けにするものが盛られた箱があった。
「果物?」
何日かぶりに見た食べ物。箱に山積みされているのはピンク色のリンゴ。気が付いたら手の中にあった。
(やだ、どうしよう)
駄目な事は分かっている。お金を払っていない。でもそんなものは持っていない。
それに昨日まで何も食べていない。
(一個だけ。本当にごめんなさい)
謝りつつ、口にリンゴを運ぶ。唇に触れるハリのある皮の感触。小さく口を開け顎に力を入れる。歯が皮を破り、溢れ出して喉を潤すのは甘い液体。何味かと言われればよく分からないけれど、兎に角甘くて水分たっぷりの果物。
(美味しい!染み渡る!果物最強!!もう一個、もう一個だけ……)
「xx!!」
「!!」
二個目を齧りかけた時、背後で誰かが叫んだ。恐る恐る振り返ると、おじさんが荷馬車の後ろから此方を睨んでいた。
「ご、ごめんなさい!どうしてもお腹空いてて!」
いつの間にか馬車は止まっていた。おじさんが手に持っているのは角材。
(それどうするつもり?)
「ごめんなさい!お金持ってないです!すみません!!」
「xxxxxx!?xxxxxxxxxxxx!」
(何?何て言ったの?)
聞いた事のない言葉だった。
「xxxx!?xxxx!?」
「xxxxxxxxxxxxx!!」
人が集まって来る。どうしよう、皆外国人だ。
(てかコスプレ!?髪とか目の色が多すぎて変!)
日本語でも英語でもフランス語でも中国語でもドイツ語でもない言葉。何を言っているのかまるで分からない。
『これ』
幽霊少女が袖から何かを取り出して私に突き付けた。
(何?)
受け取ってみる。それは鈍色の小さな石だった。
(ってこれ、あの砂山に乗ってた不吉な石じゃん!どうすんのよこんなもの!!いたんなら黙って見てないで止めてよ!)
いつからそこにいたのか、女の子はちゃっかりまだ付いて来ていた。喋らないし、視界に映らないから存在をすっかり忘れていた。
「xxx、xxxxxxxx!」
「xxxxx!?」
「xxxxxxxxxxxxxx!?」
「xxx!xxxxxxx!!」
村人だろうか、口々に何か怒鳴る。何故か皆手にしたものを構えている。角材や長い棒。取り敢えず刃物はないけれど、怖いものは怖い。咄嗟に手にしていた果物と石を荷馬車の上から差し出した。
「返す……痛っ!!!」
棒で、叩かれた。当たった右手の甲に激痛が走る。石が跳ね上がり、落ちてきたところを幽霊少女が上手くキャッチし袖の中に仕舞う。
一方齧りかけの果物は転がって、村人の方へ。
「何するのよ!」
「xxxxx!!!」
私も叫んだけれど、村人も悲鳴を上げていた。モーゼが海を割る様に、果物が人の壁を分ける。
(何?それそんなに危ないものなの!?食べちゃったけど!?って、そんな場合じゃない!)
私の近くにいた男二人が、角材を振り上げている。交差した角材を上手く潜る様に、私は荷台から飛び出した。
着地の瞬間の痛みったらない。でも逃げないと。ここにいたらきっとこれ以上に痛い思いをする。
割れた人の壁の間を一気に駆け抜ける。背後で木材がぶつかる音がした。追ってくる気配が増え始める。
(これ絶対殺される!!)
私は路地へ入り込み、グルグルと走り回った。幸い区画整理された様な村ではない。細い路地が入り組んでいて、上手くすれば見つからずに逃げれるかもしれない。
(でも今完全な迷子!)
村人が私を探しているんだろう。怒鳴り声があちこちから聞こえる。大勢が走る足音が直ぐ傍を通る。
(まさか村人総動員じゃないでしょうね)
背にした壁に付いた手先が、緊張で物凄く冷えている。傷口が開いたのか、地面に血が付いている。慌てて周りを見る。良かった、点々と続いている訳ではなさそうだ。
足に巻いていたタイツがずれていたので巻き直す。焦って上手く結べない。
(あーもう!包帯とか落ちてればいいのに!!)
その内鐘っぽい音がガンガン鳴らされ始めた。激しく叩かれるその響きは酷く私の心をざわつかせた。
路地から見えるのは僅かな範囲だけれど、家々の戸や窓が閉められていく。
泣きたくなって来た。確かに泥棒はいけない。勝手に食べたのも謝る。周りは荒野であの黒豹とかがいる中をあの馬車で運んで来た事を考えると、確かに凄く申し訳ないとは思う。
(でも私何も食べてなかったのよここ六日以上!ちょっとくらい話聞いてくれてもよくない!?子供のすることだよ!?)
そう言えば言葉は通じなかった。何語かも分からなかった。でももう少し優しくしてくれてもいいと思う。ちょっと車に侵入して中に置いてあった貴重な食料品を勝手に摂食しただけだ。
(…………確実に不審者だわ。優しさを掛ける要素が何処にも見当たんない)
幾ら小娘でも許される事ではない。
自分の行いを大いに反省していると、また足跡が近づいて来た。必死で壁に身を寄せ、直ぐ走り出せる様に傷む足に力を籠める。足音の方向を確かめる。直ぐ近く。離れて行く。通り過ぎるのは多分男性ばかり。
そんなに危険人物だと思われているのだろうか。女性や子供の姿はない。家の中だろう。
隠れていた家の戸が表の方で開く気配がして、外から誰かが入って来た。壁が薄いのか隙間があるのか、中の音が漏れ聞こえて来る。相変わらず会話の内容はさっぱり理解出来ないが、家人の女性と、入って来たのは男性だ。
「xxxxx!?」
「xxxx。アサギxxxxxxxxxxxxxxxx。ミツヒデxxxxxxxx」
何か、聞き覚えのある音が聞こえた気がする。気のせいだろうか。
その後ドアが再び開き、男性は出て行った。家々に伝達して回っている人でもいるんだろうか。厄介な。
兎に角この村を出よう。元来た道はもう分からないけれど、村を囲んでいる壁に当たりさえすれば、それに沿って行けば何れ出口に着くはずだ。
私は恐々路地を選んで歩き出した。曲がる時の緊張が半端ない。これ、挟まれたら完全に終わりだ。
程なくして私は壁を発見した。さて、これをどっちに行くか。感で左を選択する。
『違う』
踏み出そうとした私の服を引っ張る者がいた。元幽霊少女である。そう言えばこの子、私がどんなに一生懸命走っても平気で着いて来る。着物で一体どんな歩幅しているんだ。
無言で左に行こうとしたが、今度はがっしり二の腕を掴まれた。
『こっち』
抵抗出来ない力で引っ張られる。私の足が右に数歩進む。痛い。
「離してっ」
語気を強める。
「xxxxxxxxx!!」
(見つかっちゃったじゃない!)
左から足音と声が近づいて来る。もう右に行くしかなくない。
(絶対あんたのせいだからね!!)
私は不本意な方角に走り出す。少女は機嫌を良くしたのか、無表情だが満足げに頷いて付いて来た。
そして思ったよりあっという間に、逃避行は終わりを告げる。挟み撃ちだ。
「xxxxxx!xxxxx!」
「xxxxxxx!xxxxxxxxxxxxx!」
「xxxxxxミツヒデxxxxxxxx!!」
まただ。ミツヒデ。確かにそう言った。
「xx―――!!」
村人達が喚きながら一斉に手にしたものを振り上げ襲ってくる。広場とは違う。得物が木の棒や角材ではなく鍬や斧なのだ。明らかに刃物。
(それそういう使い方じゃないでしょ!!)
「止めて!!悪かったから!!謝るから!!」
ほんとに無理だ。今度こそ死ぬ。
それは向けられた事のない、狂気にも似た人々の憎悪。豹から頭を庇った時とは違って、私は振り下ろされるその凶器を目を見開いて見ていた。
風で目が乾いていくのを感じるのに、閉じる事が出来ない。
助けて。
そう祈る暇があっただろうか。私の目の前に、さっきまで後ろにいたはずの幽霊少女が立っていた。
少女は私の両手首を掴み、短い言葉と共に発光する。
『壁』
私達を囲む様に、地面の土が盛り上がり高い高い壁と成る。少女の背後で波打つ地面に足を取られバランスを崩していく村人達が一瞬見えたが、あっと言う間に私達は土の壁に周囲を囲われた。
「これ、何?」
『壁』
「そうじゃなくて」
『助けてって言ったから』
「これじゃ出られないじゃん!」
『壊せば出られる』
剣山があっという間に砂になるという不思議体験を思い出す。
(叩けば崩れると?でもちょっと待って。この状況でその後どうするの?)
「…………まさかあの剣山も貴女がやったんじゃないでしょうね」
『そう』
(今イエスって言った!?)
どっと冷や汗が出る。握る手が汗ばむ。
(どどどうしよう、私この子散々邪険にしたけど、大丈夫だった?不味くない!?いや、まぁ怒ってる感じじゃないし!?大丈夫だよね!?)
あまり時間もない気がする。今私達は凄く狭い井戸の中に詰まっている様な状況だ。
上空は青空が見えているけれど、このままでは酸欠になるのではないだろうか。二酸化炭素は下から溜まっていく。
嫌な結果を想像してしまって、慌てて振り払う。
(助けてくれたのはありがたいけど、どうするのこれ)
頭の中は真っ白で何も考えられない。痛みだけが私を現実に引き戻す。
少女が不思議そうに私を見つめている。
(近い近い!そろそろ手も放して!ちょっと怖くて今言えないけど!)
「xxxxxxxxxxxxxxxx。xxxxxx?」
騒いでいる村人たちのざわめきを通り越し、誰かの声が傍で聞こえた。
でも本当にもう、何と言っているのだろう。何か大事な事か。
「xxxxx。xxxxxxx、xxxxx!!」
今度は離れたところから怒鳴る様な声がして、その後直ぐ影が私達を覆った。
(何?雲でも出た?何か暖かい空気が近づいて来る様な……)
二人で見つめ合っていた視線を頭上に移す。
火だ。熱い。井戸の上から火の塊が私達目掛けて落ちて来る。
「水―――――――――――――――――――!!!!!」
口から出たのは、思えば何だか滑稽な言葉だった。