魔王のささやかな願い
ドアベルをカランと鳴らして店内を見渡すといつもの客が席に座っていた。
朝から元気良くモーニングのパンをもりもりとパクついている。彼のその元気の良さをほほえましく思いながらも、顔には出さないだけの自制心はあるつもりだった。
いつもと同じブレンドを頼むとスティックシュガーを二本掴む。部下の前では消して見せられない姿だが、ここならば本当の自分でいられる。
ダイエットシュガーを二本入れてかき回すとい
つもの仕事の準備に取りかかる。仕事の準備といっても部下の配置を纏めるだけの簡単な仕事だ。
悪魔大公は2つ目の玄室に。地獄の道化師は5つ目の玄室に。
今日は勇者の部隊が我が城に攻め入って来ると聞いている。だから名乗りの文面のチェックもしておかないといけない。いざというときに噛む事だけは避けたい。
頭の中で『ふははは。勇者よ、よくぞ我が城に来た。さぁ、我が腕の中で息絶えるが良い』と喋る。
うん、あまり長くてもいけないのでこれくらいが丁度いい。
『我が腕の中』か。
ふと向かいの席の彼をちらと見た。
勇者は器を掴んでサラダをかき込んでいる。彼はいつもここでモーニングを食べているが、いつ見ても食欲旺盛で食べっぷりが気持ちよい。
食が細い魔王としては羨ましい限りだ。
『我が腕の中』よりも『彼のたくましい腕の中』の方が良いな、魔王はそう思った。
いつから彼を眺めてきたのだろうか。
この店の町に生家のある彼は、いつもここで朝食を食べてから冒険の旅に出る。
そんな彼の成長を眺め続けた魔王はいつしか彼に話しかけたい、そんな思いを抱くようになっていた。だが、魔王である彼女がなにを話せばよいのか。そんな煩悶の中、ようやく絞り出した言葉が「おはようございます」だった。すると彼も挨拶を交わしてくれた。
嬉しかった。だが顔には出せなかった。それでいい。彼には彼の仕事がある。自分の変化で彼の仕事に影響を与えてはいけない。
そう自分に言い聞かせてそれ以上の会話を避けた。
それは彼も同じで魔王である自分への会話は朝の挨拶と季節の変わり目の挨拶だけだった。
「今日は暑いですね」
「ええ、本当に」
「今日は寒いですね」
「ええ、本当に」
季節の挨拶を何度か繰り返した今日、彼は我が城にやって来る。
どんな顔をして彼を出迎えようか。
ふと思った。
自分が彼に抱いている恋心を明らかにしたら彼はそれを受け入れてくれるだろうか。
魔王の耳に耳障りな音が聞こえた。
勇者の仲間の女騎士の具足の音だった。
彼女がいる限り、彼の隣に自分の居場所はないだろう。そう思った。
もし、女騎士を倒した後に告白したら勇者は受け入れてくれるだろうか。それとも憎しみの刃で自分を貫くのだろうか。
その時になってみなければ分からない話にすぎなかったが、その考えに魔王はとりつかれてしまった。
すっかり冷めたコーヒーを飲み干すと挨拶をした。
「お先に」
しかし声は彼には届かず、挨拶は口の中だけで終わった。
店の玄関を出る前に転移の魔法を使って女騎士との合流を避けると、魔王は自領に戻った。
誰もいない広い空間の玉座に深く座ると魔王は呟いた。
「我が腕の中で眠るが良い」
息絶えるを眠ると言い換えると、魔王はその日の仕事に取りかかった。