肥溜めで乾杯①
旧文明において曰く、人間とは食物連鎖の輪から外れた存在だと言う。
それはあらゆるものを食らう場所に位置するからだとも、人工的な食物で捕食が完結するからだとも理由づけされる。
しかし、時を経た現在、それは全く的外れな見解であると言わざるを得ない。
今、人間はしっかりと食物連鎖の輪の中に組み込まれている。
『エネミー』と呼ばれる天敵の脅威に晒されて、自然の一部として生きている。
◆
世界に永遠の安息場所はない。
それは己で作り上げるもので、そして呆気なく打ち砕かれるものである。
しかしそうであっても、人は居場所を作らなければ、群れなければ生きていくことはできない。
だからこそ、遺された都市遺跡を利用してコミュニティを打ち立てるのだ。
此処もそんなコミュニティの一つ。
ただ、頭に『かつての』といった言葉が付いてしまうが。
在りし大都市の一区画の周囲に数年かけてブリキ板や木板に鉄骨などの様々な物を用いてバリケードを構築し、その内部の約二十平方キロメートルを居住地としていた。
当時の人々の一大プロジェクトにより立ち上がった此処は、
ほんの数年の栄華を誇った後にたった一度の厄災で簡単に崩壊し、
以来打ち捨てられたこの場所には同じように何かを捨て去った浮浪の民が住み着くようになっている。
誰が言ったか廃れた都。ゆえに誰もが『廃都』と呼ぶ。
そんな忌み名を持つ場所だが中心部は中々の活気に溢れており、連日のように露天商が店を開いていたりする。
と言うのも、ここは他のコミュニティのように軍が常駐しておらず、したがって官営店も存在していないからである。
つまり此処は闇市で、売り物は軍を通していない闇の品というわけだ。
品質など保証されていないし、時には盗まれた品を買ってしまい運悪く元の持ち主に報復されることもある。
そんな危険性を多分に孕んだ商品は、しかし結構売れていたりする。
食料品など売れる商品の最たるものだ。
たとえ腐っていても買う者はいる。
餓死の苦しみから逃れる為、味のある物を食べたいが為、背に腹は代えられない。
買いたくなければ泥水を啜れ、そこらで死んでる動物の死骸でも食え。
初めてこの都市に流れ着いて食料を求める者は、
品質に文句を言ってこのような返答をされるのが一種の通過儀礼のようなものとなっていた。
銃火器や爆弾なども需要がなくならない商品だが、その取引は専ら特定の商人によって行われている。
暗黙の了解というやつである。
適当な廃墟に店を構える彼らはこの都市の古残にあたる者たちで、信用というものを元手に商売をしている。
軍の発行しているクレジットを耳揃えて払うか高価な物を代価とすれば、提供される品の質の高さを保証するわけだ。
独自の流通経路を構築している彼らは顔も広い。
噂によると、とある場所への口利きをしたりもするらしいが本当のところは分かっていなかった。
また、闇市での取引は基本的に物々交換である。
多いのは銃弾いくつで取引に応じる、などだろうか。
古残が独占しているのは銃火器であり、銃弾はこの限りではない。
むしろ銃弾を古残に売ることでクレジットを手にし、それにより彼らから銃火器を買うといった事を行う者も多くはないが確かにいる。
そうなるとクレジットもまんざら捨てたものでもなし、物々交換などせずにそっちを使えばいいではないかと思うものだが、
言ってしまうとそういう考えができるのは非常に稀な存在である。
金を貯めるといった行為の有用性が分からないだけでなく、
何よりもまず貯めるだけの我慢が足りないのだ。
将来よりも目先のこと。
溜まっていくクレジットより今楽しめる酒。
ゆえに、クレジットなぞはみ出し者である彼らにとっては便所の紙より価値が低い。
なにせ大をしても尻を拭いたりするような御上品な者たちはほとんどいないのだから。
皆泥水で洗って、あちこちに汚水をそのままに残している。
ほとんど獣同然だ。
衛生管理なんて夢見るもんじゃない。
毎日あちこちで腹を壊すか、病気になるか、殺されるかで誰かが死んでいるのだ。
不定期に開催される、死体を持ち寄って火にくべてそれを肴に騒ぐというイかれた名もない祭りがあるからまだギリギリを保っているが、
普通ならばとっくに疫病やら何やらでこの都市は全滅している。
娯楽は喧嘩という名の殺し合い、
工業用アルコ―ルみたいな酒の飲み比べ、
立ちんぼの娼婦を買うか襲うか。
さて丁度良い。
今し方すぐそこで、慣習を犯して、拳銃の売買が成立した。
これからどうなるか見ていけば、きっとこの場所のことを一層実感できることだろう。
拳銃を買ったのは、露店を開いている目の蕩けた明らかに危うい感じな禿頭の初老の男。
売ったのは、目深にフードを被っているがニヤけた口元がどうしても隠せていない小男。
まるで手入れもされていない錆塗れのリボルバーを満足そうに眺めた初老の男は、それをズボンのウエスト部分に雑に突っ込んで固定した。
ホルスターの代わりのようだが万が一暴発でもしようものなら散々な目に遭うに違いない。
代価として小男が手に入れたのは、初老の男が隠すようにして取り出した封の切れていないミニチュアボトルに入った琥珀色のウィスキーである。
明らかに価値に差があるが、初老の男は気がついていないのか、はたまたどうでもよいのか。
小男の嫌らしい笑みはこの為だ。
お互いに円満な商談をしたわけだが、その後も平穏無事に終わるわけではなかった。
まず、初老の男は露天を畳もうとした直後にフード付きのコートを羽織った数人に取り押さえられて路地裏の暗がりへと消えていった。
行き着く先は古残の店。
殺されはしないが、二度と銃火器の売買を行おうとは思えないような事をされるだろう。
対して、浮かれた足取りで闇市を後にする小男を追う者がいる。
こちらも同様の格好をした者たちであったが、しかし、彼らが手を下す前に三人のゴロツキ然とした男たちが小男に近づいていた。
ゴロツキのうち一人が小男の肩を叩き、小男が振り向いたところを一人が羽交い締めにし、最後に二人で力を合わせてボトルを奪う。
当然ながら小男も抵抗を試みるが、三人に四方八方から殴られたり蹴られたりするのだから勝てるわけもない。
程なくしてボロ雑巾のようになった小男は、運良く死なずにフラフラとその場を去って行った。
いつの間にかコートを着た者たちはその場から消えていた。
ところで、この三人のゴロツキだが実は知り合いでも何でもない。
たまたま偶然にも同時に小男が酒瓶を持っていることを目撃したというだけの仲なのだ。
そんな赤の他人である三人に対して酒瓶は一つ。
あとはご想像の通り。
鮮血が舞い、折れた歯が地面に転がり、周りまで巻き込んで暴れだす。
この一連の騒ぎに関係のない人々は興味を持とうともしない。
ここはそんな場所なのだ。
中心に近づくほどこういった光景は日常的であり、
ドロドロに煮詰めた屑共の坩堝は言ってしまえば『肥溜め』である。
そんな肥溜めにあって、
廃都に住まう者は絶対に近づこうとしない半径数十メートルの隔離地域が存在する。
ほんのすぐ傍にあるはずの闇市の活気はとある境界を境にピタリと止んで、
酩酊した者でさえ一歩足を踏み入れれば瞬時に酔をとばして足早に逃げて行く。
度胸試しにも使えない恐ろしき場所。
その隔離地の中心には崩れたビルが遺されていた。
それほど規模は大きくなく、二階までは無事だが三階以降はポッキリと折れてしまっていて、折れた部分は周りの建造物を潰してしまっている。
近くには装甲車が停まっていた。
塗装が若干剥げたオリーブグリーンの甲鈑が特徴の巨大な車だ。
割れて吹き抜けになっているガラス張りの入口から中に入ると、元は何か催しを開く場所であったのだろうか、壁による区切りがほとんどない一階が広がっている。
そこには荒れた部分もあれば生活感を見せる部分もあった。
瓦礫が端の方に置かれている空間。
中央に木製のダイニングテーブルが陣取っている。
その周囲にはキャスターが無理やり取り外された椅子が一脚。
テーブルの上には錆取り用の工具と共に、しっかりと手入れの行き届いたリボルバーが置かれていた。
四人がけのL字型ソファの上には濃い画風の擦り切れた漫画雑誌が半ばより開かれて置き去りにされている。
近くにはそれが入っていたのだろう小さい本棚があり、上部にはラジオが収まっていた。
三個の薄汚れた大容量ポリバケツの中には、缶詰と生ゴミとその他もろもろが意外にもしっかり分別されて捨てられている。
その他の物が入ったバケツはあちこちが割れていた。
家具だけな空間は静謐な様で主を待ち続けている。
あと三時間もすれば昼時だというのに、このビルに住まう者は未だ置きてくる気配がない。
二階にある比較的綺麗な部屋でベッドから足を放り出して惰眠を貪っているのだ。
折り畳めば一人がけのソファになる紺色の簡易ベッドの上で薄手のタオルケットを顔まで被っているのは、黒いメッシュの入った緋色の髪の男。
何故か寝ている間でもダークブラウンのタクティカルグローブを外さない彼は、
そろそろ気候が暑いものに変わっていく時期だというのにもかかわらず長袖の肌着を着ているのも相まって、変わった格好だなという印象を与えてくる。
しかし、変わり者に加えてまったくガサツ極まりない寝相をしているのに、寝息だけは穏やかでイビキはほとんど聞こえてこない。
すぅすぅと深く柔らかな睡眠を続けている。
ともすればもう数時間は寝続けると思われた。
だが、彼が一度横に寝返りをうつと簡易ベットの小ささが仇となり、憐れにも床へと落下してしまった。
間抜けな呻き声を上げつつ彼はタオルケットをよけて立ち上がる。
すると全体的に短く揃えられた髪において、唯一背の半ばまである襟足がふさりと舞った。
歳の頃が予想できる目元の皺。
そんな目を半開きにした寝ぼけ眼であたりを見回す彼はポリポリと後頭部を掻き、次いで服の下に手を入れて腹を掻くと、大きなあくびを一つ。
ベッドやその周囲をガサゴソと探り出したかと思えば何やら黒いヘアゴムを見つけて、それを使って長い襟足を一纏めにすると部屋を出て行った。
大型の真空密閉コンテナを開いて中から缶詰を二個取り出す。
蒸留器の水を入れたプラスチックのカップを持って階下へと向かう。
これから食事のようだ。
まだ眠気は取れていないのか、何度も何度もあくびを放つ男。
あまり信じたくないかもしれないが、彼こそが廃都の住人がここら一帯を恐れて近づかない理由だ。
彼の過去を恐れる者、彼の交流相手を恐れる者、彼自身を恐れる者。
各々わけは違えど恐れているという事実は皆同じ。
されど渦中の人たる彼は、今日も変わらぬ朝を迎えるのだ。
判別できないくらいに擦り切れたラベルの缶詰だが、意外にも中身は無事なものが多い。
まあ中には当然、発酵し尽くしてダメになった物もあるが。
一見ブリキを溶接しただけのようなそれは、しかし遺物の例に漏れず理解不能な技術の結晶である。
キリキリとプルトップを引っ張って開くと、
まるで時間を凍結させていたかの如く当時の色味鮮やかな中身が、濃厚な匂いを醸し出して迎えるのだ。
温めたり出来ないことと量が若干少ないことを除けば、これ以上ない食の領域における贅沢品である。
本日の朝食はクリーミーなスープに豆のトマト煮。
かくも食卓を華やかすこれらを、
だが男はちびちびと楽しむ感性は持ち合わせておらず、一気に口内に流し込む。
頬をリスのように膨らませて咀嚼し、飲み込んでから
案外この組み合わせは当たりだったなとガサツな感想を抱いた。
良い気分であった。
このままもう一度寝床に戻れれば尚更。
だが、起きた直後から気がついていた、明確な意志をもって彼の住まう此処へと向かってくる人間の気配がその選択肢を却下していた。
何となしに放り投げられた空の缶詰が綺麗な放物線を描いてポリバケツの中に収まったのと同時に、
コンバットパンツと厚革のブーツを履き、
柄の入った紺色のタンクトップの上から、
用途を完遂できないだろうに、黒い防弾チョッキを前を開けて羽織っただけの
筋骨隆々な大男が入室した。
服の下から覗く浅黒い肌の頭部を含めた右半身には
多様な植物が入り混じり絡まった模様のタトゥーが彫られていて、
明らかに廃都での堅気的な身分である浮浪者とは異なる存在であることが窺い知れる。
外見相応の重い足音を響かせながら男は彼に近づいて、そして佇んだ。
テーブルに投げ出した足を組み、
ヘソの当たりで両手を合わせ、
背もたれに体を預けて相手を見上げるという尊大な態度を崩さずに彼は言う。
「そう構えるなよ。
身なりと雰囲気から自殺志願者じゃねぇことくらい分かる。
顔なんか覚えちゃいねぇが雰囲気が新人って感じだ。
大方、あのアマの雇われだろ?」
アマ、という部分に男は眉尻をピクリと動かして反応した。
だがしかし、やはり要件を口にしようとはしない。
「雇われじゃなくて犬の方だったか……こいつは失敬。
一体どこから湧いてくるのか教えてもらいてぇな。テメェみたいな忠義者は」
と口の端を歪めて皮肉気に笑った。
「話せねぇなら帰んな」
深く呼吸し己を落ち着かせてから、漸く男は彼に話しかけてくる。
「――――噂通りの傍若無人で、ラバーロード。
不老の魔女からの伝言、聞いてもらえやせんでしょうか」
「伝言? 依頼じゃねぇのか。珍しい」
「いや、恐らくはそうなんでしょうが今回は『来い』と」
「俺にそんな口を利ける奴はそうはいねぇってのを分かってんのか? あのアマ」
「姐さんなりの親愛かと……ッ!?」
語る男の不意をついて体を起こした彼は
腕を伸ばしタンクトップの襟元を掴み、
再び重力に従って腰が下りていくのと膂力を用いて、
男の頭を鼻先まで無理やり引いた。
反射的に男は前傾となっていくのを止めようとするが一瞬も抗うことは出来ず、
彼の腕を掴んだところでそれが揺らぐことも決してない。
やがて見上げるほどの大男は暴力的な牽引力に耐えかねて膝を折った。
揺れる前髪の陰から閃く鋭い翡翠の眼光が男を貫く。
「二度と言うな」
底冷えのする彼の一言は、男に呼吸を忘れさせた。
護身の拳銃を抜く暇すら与えられず優位な体制を取られたこと。
丸腰にもかかわらず相手への勝利のイメージが絶無であること。
共に敗北を認めるには十分すぎるほどで、
しんと静まった空気の中で男は一度首肯することで了解の意志を示す他なかった。
「表で待ってろ。ついでだ、乗せてやる」
「――――気持ちだけ貰っときやす……」
首元を撫でつつの遠慮を最後まで聞こうともせずに彼は二階へと上がって行った。
ぽつんと一人残された大男は、物理的に重く感じる腰を上げて廃ビルの外へと出た。
未だ落ち着かぬ体を鎮静する為にコンバットパンツのポケットから金属製のシガレットケースを取り出し、中身の煙草を一本味わう。
その一本が吸い終わる頃に、フードが付いている全身をすっぽり覆うほどの色落ちした藍色のコートを羽織った彼がやって来た。
その下には恐らく何か装備はしているのだろうが、きっちりと前が止められていて窺い知れない。
「なんだ、まだいたのか」
「……改めて、依頼のほど恩に着ります」
「はー、柄に合わねぇ奴だな。んな事の為に無駄な時間過ごしたってのか」
「いえ、待つのには慣れてますんで」
「ハッ、犬らしいねぇ」
皮肉に男は反応しなかった。
ただ、踵を返して彼のもとを去るのみ。
その背をつまらなそうに見つめる彼。
髪を揺らす程度の風が吹いた後に動き出し、
停めてあった装甲車に乗り込んで、男が向かう先とは逆に車を進める。
カーオーディオのボタンをいくつか押すと、
メランコリックな曲調のソウル・ミュージックが流れ出す。
窓を全開にしてみれば、その調べが軌跡のように外へ後ろへと流れていった。
街の中央と聞いて想像するような、
十字路を起点として広がる町並みや目立つ巨大な建造物は廃都の中心足り得ない。
廃墟の合間で隠れるようにして細々とアウトローが集まって、やがて始まった闇市こそがそれである。
ゆえに彼の車がやがて入った大通りは、決して人の往来が見られるようなところではない。
切なげなメロディが正しく似合う、灰色の街並みが車窓を通して目に入る。
照らす太陽が浮かぶのは抜けるような青空。