終わった世界と一人の男④
時間の無常さを感じながら、
彼は抱えていた麻袋を合皮の剥がれたソファに置いた。
ただそれだけの重さにすらも耐えられず、
その朽ちた足の片方が半ばより折れる。
積み重なった年月分の埃が舞った。
手の空いた彼が行うのは先と同様、物漁りである。
片っ端から棚の本の群れを調べては床に投げ捨てたり、
キッチンの収納の戸を開いてみては奥の方からかき出したり。
そうして結局、価値を見出したのは二つだけ。
アナログゆえの使い易さから意外に需要のあるピンタンブラー錠&ダイアル式の手提げ金庫と
本棚に横置きにされていた厚手の手帳に挟んであったメモ用紙だ。
書かれていたのは『地下倉庫 掃除 アレックスと交代』といった簡潔な文。
金庫はコーヒー豆とまとめてソファに置き、
メモ用紙をズボンのポケットに仕舞うと、
彼はこの部屋に存在する三つの通路の調査に乗り出す。
一つは入ってきた時のもの。
一つは先が完全に崩落し通れたものではなかったが、
丁度良く空いていた小さな瓦礫の隙間からその先を観察してみると、
大分先の方に何やら大穴が空いているのが確認できた。
残ったのは最初の出入り口の対面にあるものだ。
順当に考えれば先と同様に各住宅と繋がる通路を繋いだ廊下であろう。
開けて見るとその予想はほぼ当たっており、
異なっているのは、
こちらに背を向けて横倒しになっている警備ロボットが廊下の真ん中を陣取っていたことと、
あちこちに大ネズミの骨と死体が散乱していたことだった。
糞尿と死臭の混じったとびきりに酷い臭いはバラクラバ越しでも鼻に染みてきて、流石の彼も思わずえづく。
消化したはずの軽い朝食がドロドロの状態で飛び出てきそうであった。
掌で鼻を覆いながら沈黙する警備ロボットに近づいていく。
辺りに注意を払ってから腰を落とし、ゴーグルを額部に置いた。
これから行うことの精度に影響するわけではないが、気分的にその方が良い感じがするからだ。
翡翠の瞳の奥が淡く光り、
暗視フィルタに覆われた視界に様々なウィンドウと文字の羅列が出現する。
読んでいくと分かるが、
これはロボットについての情報を要約し、様々にまとめて羅列したものである。
流し読みつつ、実際に手に触れて状態を調べていく。
やはり経年劣化が激しく
所々が錆びつくどころか腐食までしており、
フレームは歪み、装甲は齧り取られている。
特に足の部分は酷いものだ。
これでは動こうにも動けず、たとえ動力が残っていても這い蹲る以外になかっただろう。
軽機関銃となっている両腕には残弾がない。
残念ではあるが仕方のないことだ。
壁にある多数の弾痕や、既に骨になっている大ネズミの数の膨大さから戦闘の激しさが理解できる。
撃ち尽くしたところで一機の弾数ではとても足りなかったに違いない。
沈黙している理由はバッテリー切れらしいが、
動いたところでもはや警備仕事に就けないのは明らかだ。
持ち帰ることも一瞬検討したがやめた。
どうせ鉄くずとしてしか売れない上に、正直言って面倒だから。
興味を失った彼は、
ロボットよりも気になっていたことを調べる為に、未だ死臭を放つ大ネズミに近づいた。
可怪しいのだ。
骨を晒している個体と肉のある個体がいることが。
ロボットの劣化具合を見るに
整備されなくなって途方もない時間が過ぎている筈なのにもかかわらず、
何故新たに大ネズミがこのような場所で死骸を晒しているのか。
足で死体を転がし外因を診る。
半ば白骨化が進んでいた腐乱死体であったが、運良く9mm弾による銃創を発見した。
この廊下にある電子ロック済みの扉を見回し、今までに見た扉も思い起こす。
その全てがしっかりと閉ざされていたのは間違いない。
成程、いたわけだ。この男以外にもこのシェルターに侵入を試みた者が。
とすると、
その侵入経路はこの先の突き当たりにある扉の先か、
もしくはあの崩落した通路の先か。
ひとしきり現状を把握しきると男は先を見据え、突き当りの扉へと進み、それを開く。
その向こうは物置ではなく、
地下へと降りる階段であった。
これで先駆者の侵入経路が確定した。
メモ帳に記されていた倉庫を探る機会が失われなかったことに軽く安堵しながら、彼は階段を降りていく。
無論また先のように踏み抜くのも嫌なので、
足先を伸ばし段を踏み叩くのに多少へっぴり腰になることも厭わない。
用心は大事である。
階段を降りきると、スライド式の大きな金属扉が壁に設置されていた。
鍵はかかっていなかったのでそのまま横に引く。
なるべく音を出さないように慎重を期したつもりだが、
やはり古いそれは少なからず異音を立てる。
開け放つと、そこには先ほどの共同スペースの1.5倍程度の空間が広がっていた。
コンテナが積まれた多数のスチールラックが置かれている。
中には倒れているものもあり、その所為でコンテナの中身がばら撒かれていたりもしている。
入口近くの壁に倉庫内の見取り図が掲げられていた。
ここは常温保存の利く食料品や日用品の倉庫らしい。
そして前方奥に冷暗所、右奥には共同の金庫室もあるようだ。
いくら冷暗所であろうと物は全滅しているだろうし、とりあえず見るべきは此処と金庫室か。
そう考え、手始めに近くのコンテナの中身を探ろうとして。
瞬時に入口へと飛び退き、身を扉の後ろに隠した。
一瞬。
ほんの一瞬だが、彼の研ぎ澄まされた聴覚は微かな擦過音を捉えていた。
扉に身を隠したまま倉庫内を見据える。
緑と黒で構成された世界は至って平穏で、蠢くものもなければ光が閃くこともない。
ただ、しかし確かに何かが視界から外れた場所で音を立てていた。
カリ、カリ、カリとハッキリとした音が聞こえる。
大ネズミが固形物を齧っている音か。
いや、どうにも断続的過ぎる。
あれらが物を食べる時はこんな音をさせたりはしない。
であればこれは、恐らくは爪。すなわち移動音。
ラックが倒れる鈍い音がした。
扉越しに様子を窺いつつ、タクティカルベストのホルスターより自動拳銃を抜いて構える。
そうして漸く音の主を視界に捉えた。
否、捉えられたとはとても言い難い。
なぜなら彼に見えたのは対象の『頭部』のみであるからだ。
連立するラックの間から、それはぬぅっと顔を突き出して鼻をひくつかせていた。
デカ過ぎる。
顔だけで以前発掘したことのある六十インチ液晶並だ。
体を合わせたらその全長は軽自動車にも匹敵するかもしれない。
『大ネズミ』とは通常のドブネズミなどと比較して大きい種であるというだけで、
中型犬程度にはなり得るにしても人間を超すまで育つからと名付けられたわけではない。
ここまで育った個体は異常だ。
加えて異常なのはその眼の数だ。
その横顔には二つあったのだ。
通常位置している場所の、その下にもう一つの眼球が。
しかもそれぞれが独立してギョロギョロと動いている。
この地下に巣食う大ネズミの特異個体。
仮称『王鼠』はヒクヒクと鼻を動かし髭を揺らし、あたりに注意を払っていた。
扉を開けた際に生じた音に反応し、原因を狩りに来たのだろう。
意図的に呼吸の深さを調整して肉体のコンディションを整える。
チャンスであった。
今ならば眼球に銃弾を撃ち込み、
そのアドバンテージを利用して王鼠を無力化することは十分に可能である。
だが、行動に起こす直前だ。
新たに聞こえてしまったのだ。
より小さく、しかし多い。
床が擦れる音。
大量の移動音。
獲物に向ける、飢死寸前のか細い鳴き声の輪唱。
彼が目を向けたのは倉庫内とは別方向。
倉庫を覗く己の背後。
爛々と光る双眸は数えるのも億劫で、
床を覆い尽くしているという事実だけで十分であった。
そう、そこには悍ましい量の大ネズミが群がっていた。
ひたすら彼を食い入るように見つめていた。