終わった世界と一人の男①
この作品に出てくるミリタリーおよび科学要素にはフィクションが含まれています。
また、現実に即した要素について間違っていたりする場合は報告していただけると幸いです。
興味深いテーマについて記されていた書籍に
思わず時間も忘れて見入ってしまったのだが、
あるページをぺらりとめくると、
どうやら数十ページの中抜けが起こっているらしく、
まったく別のテーマの記されているページに飛んでいた。
崩れた煉瓦塀の民家を物色していた際に見つけたこのボロボロの書籍の、
辛うじて読み取れたタイトルは『世界とぼくら』。
ダークブラウンのタクティカルグローブに包まれた手で触れられる度、
それはザリザリと砂利塗れの嫌な音をたて、ぽろぽろと細かい屑紙となって落ちていく。
書籍を持っているのは全身を軍用規格の装備で固めた男だ。
深緑の迷彩柄BDUカーゴパンツと
黒い合皮のタクティカルブーツを履き、
首元まで隠された防刃の黒い長袖シャツの上から
同色のコンバットシャツを着こみ、
色落ちしたカーマインのタクティカルベストを装備。
ベストには当然グレネードポーチやマガジンポーチが付いているが、
その他にもホルスターやナイフシースが付いていて、
各々からは黒に近い紺色のグリップと黒柄が覗いている。
バラクラバで目元以外を遮り、
拡張性を重視したヘルメットを被って、
額部にミリタリーゴーグルを置いている。
そんな彼は、
顕になっている一重瞼の中に収まる翡翠の瞳が特徴的な男であった。
彼は本に価値がない事が分かると雑にそれを放り投げ、再び民家跡の物色を始めた。
ここは世界で三番目に大きいとされた大陸の、
沿岸部から内陸へ五百キロほど行った所に在る打ち捨てられた住宅地。
人々の暮らしなど最早何処にもなく、
伸びきった雑草、覆う苔、立ち枯れた庭木と未だ青く茂る巨木の中、
辛うじて残っている煉瓦塀とヒビがあちこちに入ったコンクリート道路だけが生活があったということを伝えてくれる。
加えて、転がる大小様々な石と時折風に吹かれて小細く鳴る枯草が物寂しさを増長させる。
生き物の気配は彼が物色する際に出す雑音だけであった。
主に探っているのは瓦礫の下である。
なぜなら、
雨風に晒された目に見える部分にはもはや価値のある物などないことが一目瞭然だからだ。
しかし、だからといって瓦礫を除いたところで目ぼしいものなどほとんど見つからないことは、もちろん彼も理解している。
探しているのは『入口』だ。
瓦礫の下の更に奥へと誘うそれだ。
何故そのようなものがあると分かるのか。
言ってしまえば『よく見かけるから』である。
かつての文明崩壊の折もしくは以前において、
この閑静な住宅地ですら何らかの災禍に襲われていたのは遺された物から容易に推測できる。
その遺された物とは先述したような焼け落とされた廃墟であったり、
どかされた瓦礫の下から時折発掘される丁度銃弾程度の大きさの穴が開いた頭骨であったり、
彼のように旧文明の遺産を掘り起こしている者には馴染み深い『地下室やシェルター』だ。
特に地下室は多くの家屋に備えられており、
中にはとても万が一を想定したとは思えない量のカビの生えた食料品や錆び付いた銃器に銃弾が置かれていることがザラにある。
その食料も時には食べつくされ
白骨死体が手をつなぎ合って眠っていたりするのであれば、
当時が並々ならぬ情勢であった事が分かるのだ。
さて、先刻までに既に何軒かを探り終えていた彼は、
此処になければ場所を移そうと考えていたのだが、
そういった考えは良いように裏切られ、
キャビネットらしきボロボロの木箱を引き動かしたその下に、
もはや本来の用途を達成できそうもない木製の蓋を発見した。
腰を落とし金具の取っ手に手をかけ上へと開くと、
朽ち切っていたそれはなんの予兆もなく崩壊する。
そうして生まれた木クズが蓋の上に乗っていた小石と共に落下し、
木蓋の下に隠されていた階段とぶつかって音を立てる。
その音のほとんどは反響しなかったが、一回、コォンと甲高いのが耳に付いた。
蓋が崩壊する際に吹き上げた砂埃から目を防ごうと咄嗟に空いていた方の腕を上げていた彼は、
鬱陶し気に立ち籠める埃を払おうとして、
そのとき僅かな木片を伴った取っ手を未だに掴んでいる事に気が付き、残骸をそこらに放り投げた。
宙を舞ったそれはやがて地面へ落ち、なんとか保っていた板としての形状を諦める。
蓋の末路など気にすることはなく、穴の底を覗き込んだ。
遮っていた物がなくなった為に陽の光が少し差し込めるようになった地下。
薄っすらと照らされた階段の先に存在したのは
コンクリート造りの壁と、そのすぐ横に備え付けられた金属扉である。
どうやら先ほどの高音はこれに小石が偶然当たった所為で生じたらしい。
観察してみると階段の先のスペースはほとんどなく、
直方体にくり抜かれた空間に木製階段を下ろしただけの作りとなっていた。
無聊な結果に小さく溜息を吐き、
そのまま階段を下ろうと足を差し込んだ。
その時である。
木蓋が朽ち切っていたのだから当然木製の階段も同様だと何故気が付かなかったのか。
突然の浮遊感に襲われて、ああ落ちると思った直後に彼は舌打ちをするのだ。
木クズや小石が落ちていった時とは比べようもないほどに盛大な音が上がる。
およそ五メートルの距離を落下した階段は見事にバラバラになり、
大量の土煙が噴火の様に舞い上がっただけでなく、
勢いが収まっても尚、狭い空間の三分の一を埋め尽くしていた。
ところで、
突然の災難に見舞われた彼だが、あのまま無様に落下するようなことはなかった。
寸でのところで入口の縁を利用し、腕を引っ掛けることで体を支えたのである。
瞬く間の判断には成程相当の場慣れと言うか、身軽さを見せつけたと思うものであろう。
しかし実際はただ落ちるよりも情けない。
土煙の容赦ない襲撃によって隈なく体を茶白く染められて、
胸から上だけが地上にあり、
それより下はすっぽりと宙ぶらりんになってしまっているのはどうしようもなく無様だ。
無味乾燥とした風が一つさざめき、体に積もった埃を舞わせた。
得てして爆音とはその後の静寂を強調するもので、
本来は聞こえよう筈もない微小な塵が地に当たる音すら明瞭であった。
仏具のお鈴が鳴らんとする様な滑稽な画に、果たして隠されていなかった目元にすら影を落として、客観的に想像する己の不格好な様に気絶しそうですらある。
昔はそうでもなかったのだが、
今現在の彼の性分がこういった場所に連れと来るようなものでないことに無意識ながら安堵する。
こんな状況を仮に気の置けぬ者がいたとして、
どうだろうか、まあ大爆笑されるのは避けられないだろう。
さて、いつまでもこの阿呆な状態でいるわけにもいかないので、
腕の力だけで体を綺麗に引き上げると、未だ薄い白煙に沈む底を見る為に上半身を穴の上へ突き出した。
目算で地上との距離は五から六メートル。
ただ飛び込むだけならば何も問題はないが、帰りが少しばかり面倒になってくる。
地下室に目ぼしい遺物があれば回収するのだが、
仮にそれが抱えなければならないような大きさの弾薬ケースやら小型の食料コンテナであれば、ここまで持って帰るのに無駄な労力を割く必要があるからだ。
どうしたものかと言う風にポリポリとヘルメット越しに頭を掻き、
これしかあるまいとベストの前面にあるハンドマグポーチの一つから掌に収まる程度の巻尺に似たステンレス製のケースを取り出した。
そして、そのケースから少し飛び出ていた金具の先端に指を掛け、
ワイヤーロープをそれなりの長さだけ引っ張り出す。
出てきたワイヤーロープの先端から数十センチを、
穴の周囲を観察してふと発見した十分に地に埋まっている鉄骨にしっかり括り付け、
あとはケースの方をぽいと穴の中に投げ入れれば、
するすると自然にワイヤーロープが伸びていき簡易ラぺリング装置の完成である。
試しに何度かワイヤーに体重をかけたが鉄骨が抜ける気配はない。
額に置いていたゴーグルを装着し、いざ穴を降りて行く。
とは言え、ほんの五メートル弱の距離だ。
彼が壁を三回蹴れば難なく木製階段の残骸の上に降り立った。
未だ砂埃が薄く舞っていたがゴーグルのおかげで目を痛めることはない。
金属扉のドアノブに左手をかけ、
しかしすぐに開けるようなことはしなかった。
ベストの右肩についていたナイフシースより、刃渡り十八センチほどのコンバットナイフを取り出すのだ。
取り出し方の関係から最初は順手でナイフを持っていたが、
器用にくるりと柄を回して逆手へと持ち変える。
そうしてこれより何が飛びかかって来ようと大丈夫なように準備を整えてから、慎重に、極力音を立てずドアノブを回した。
ゆっくりとドアが押され開かれていく。
キィィと耳障りな金属音が鳴り続ける。
ゆっくり、ゆっくりと開いた部分が広がっていくが、そこに中の様子が窺えるほどの光量が入っていくことは決してない。
ドアの先には黒の絵の具で塗り潰されたれたかのように暗闇だけが在していた。
やがて完全に金属の扉は開け放たれる。