芽生え
美しい、という感情はどこから生まれてくるんだろう。
哲学的には知覚や感覚と情感を刺激して、内的快感をひきおこすものと位置づけられている。
飛騨の安峰山から見える朝霧の雲海やら、ウニエの塩湖に雨が降り天を映す鏡となる光景を見て美しいと感じ、クラシックの名曲を奏でるヴァイオリンの音色もコンサートで聴くプログレシッブ・ロックの情緒あふれる演奏も歌声も美しいと感じる。
あるいはポスト印象派の画家が制作したローヌ川の星月夜を表現した風景画から、数百人が関わり僅か二時間ほどしかない彗星を巡る男女の運命を描いたアニメーション作品も美しいと感じる。
ある数学者は、数学的な美を感じることもあると言う。
美しい、と感じるのは人間だけなのだろうか。
世界を渡る鳥は?
人間と同じ哺乳類は?
水槽の中で海を知らない魚は?
同じように美しいと、感じるのだろうか。
精神なのか、DNAなのか、それとも別の何かが求めているから、美しいと感じるのかも知れない。
彼女が落ち着くまでの間、ハンカチを所持していなかったことをここまで後悔したことはなかった。
不思議な泣き方だった。
これまでも自分自身も含めて泣くときは顔を歪めて喚くのが一般的だと思っていたが、あれほど綺麗に涙が溢れて泣いている姿はドラマでも見たことがない。
まるで自分が泣いていることに気付いてないのかのようにその瞳は俺を捉えて離さない。
途中から口元に手をやり抑えながらも目は開いたまま、俺はいつの間にか俺という姿ではなく違う自分自身そのものを見られているような気分になった。
恐る恐る、俺は彼女に近付く。
本当に久しぶりに接する女の子は、さわれば壊れてしまうのではと思うほど儚く感じる。
「大丈夫...かい?」
返事はない、しかし首を縦にふり合意を示していた。
どうしたものかと困り果ててしまうのも当たり前だ。
なんせ母親以外の女性と関わるのすら数年振りなのだ。
数分は部屋にある備品と同化していたと思う。
ようやく落ち着いたようで、自分のハンカチで涙を拭いなぜか俺に謝りの言葉を口にする。
外はもう薄暗くなっていた。
「何があったのか、聞いてもいい?」
「その前に...私から聞いてもいいですか?」
まだ少し涙声で不安そうに上目遣いで話してくるもんだから、俺は心はその綺麗な瞳に急降下してしまいそうなのを抑え、一瞬どんな重い話をされるのかと思ってしまったが、なぜ俺なんだろうと疑問はあるけど俺も男なんだから受け止めてやると覚悟を決める。
「久しぶりに学校に来て、なにか気が付いたことはありますか?」
彼女の瞳に強い意志が宿る。
「え~...う~ん...」
え?なんだそれ?ここまで来て聞きたいことがそれなの?
なにか気が付いたことって教室では殆ど寝た振りをしていただけだし、今更クラスの連中と馴れ合おうとも思ってないからそんなこと聞かれても困るわ。
そう言うと二人揃って落胆してしまう、何でやねん。
しかし、改めてよく考えみよう。
俺が忘れていなければ桜井さんとは、今日この日まで会話すらしたこともないのは紛れもない事実で、なにも接点がない俺だからこそ聞きたかったことなのかもしれない。
と、なれば導かれる答えは一つ。
桜井さんから見ると明らかに学校で何かが変わっており、久しぶりに登校してきた俺ならば気付いてくれるはずと思いそれを確認してきたのではないか?
普通の女の子が涙を隠そうともせずに泣くものか。
なにかとても辛いことがあったに違いない、今日まで誰にも相談を出来ず叶わず我慢していたことが崩壊してしまったのだろう。
しかし桜井さんはここまで来てもそれを喋ろうとはしない。
俺がなにも気が付かない鈍感野郎なのは自分自身でも知っているが、どうやら期待を裏切るような形になってしまったようで肩を落とし今にもため息をつきそうだ。
ーーーもしかしたら、とても言いにくいことなのかも。
学校にとって虐めとは大問題に発展しかねないため、根絶したい隠蔽したいことだが殆どの場合において、虐めはとてもありふれるものだと思う。
なんせ対象者が辛い、と感じ苦痛に繋がったらそれは虐めなのであって、人間は他者の内面を知ることは出来ないため気がついたら自分も虐めの加担者になっていたということも良くある話。
そもそも、虐めとは生物に共通する普遍的な性質なのだ。
人間と同程度の脳細胞をもつイルカだって集団的な暴力行為を行うし、水槽にいれた魚も個体を仲間外れにし例え救いだしたとしても別を個体が仲間外れにされると言う。
自然界ではそれは、なにも問題がないことなのだ。
しかしながら人間界ではそれは大問題となり得ることになり、人間が自らを知的生命体と自負する所以は、自己を自身で律する法や道徳を作り上げているからだ。
つまり自ら虐めに加担していくやつは人間以下の存在だと思っていればいい。
今日、別に学校にいて暴力行為や鋭利な言葉は聞かなかったと思うから、原因は分からないが桜井さんはあのクラスで集団から無視でもされているのだかろうか?
昔はもっと明るい女の子だった気がするし、少なくとも学校で声を一度も耳にしないことはないような女の子だったはずだ。
無視されるのはとても辛いことだ、だってそれは自分自身という存在を否定されているのだから。
存在を認識されない、という点では今日の俺も似たようなものだったので親近感でも湧いたのかな?
「なにか、つらいことがあるなら...助けるよ」
桜井さんは直ぐに顔を上げて二つの瞳で自分を見つめる。
まるでその言葉を待っていたかのようだった。
しかしまた彼女は俯いてしまう、できる限りかっこ良く喋ったつもりだったが彼女の琴線には響なかったみたいだ。
「今、話しても絶対に信じてくれないと思う...」
その言葉でようやく理解した。
彼女は自分のことをまだ信用していないのだ、だから彼女が話したいことでも話すことが出来ない。
どう答えるかを迷う、ここで信じるよと答えても彼女は信じないだろうし話が終わってしまうかもしれない。
ここは可能性を広げることにしよう。
「それなら一緒に遊びに行かない?」
彼女は無言だが、なに言ってるんだこいつと顔に出てしまっている。
「話してみて分かったけど、なんか言いにくいことみたいだし自分も桜井さんもこうやって話すことなんて初めてでしょ?なら少しづつ仲良くなろうよ、その方が俺も楽しいから」
桜井さんは言葉がのみこめなかったのか、目をこちらに見開いてぼんやりしている。
俺は彼女の目を直視することが出来ない、窓の方を向きながら手に汗を握り彼女の反応を待つ。
すると彼女は突然ニヤリと目を細めて笑った。
「...ふ~ん、へ~そうなんだ」
「そ、そうだよ?今日、気がついたことは桜井さんがちょっと暗い感じだなって、前はもっと明るかったと思ってたから」
彼女はニヤニヤしながらそうだね、と頷いている。
そう、桜井さんはこんな感じの人で喜怒哀楽がちゃんと顔に現れて、なんというか人を小馬鹿にするような目で見てくるのだ。
「もう、暗くなって来たから一緒に帰らない?桜井さんはバス通学だよね、時間は大丈夫?」
「うん、たぶん丁度いい時間だと思うし...まだ時間はあるよね...大丈夫...」
桜井さんは何か自分に言い聞かせるように呟いていたが、バスの時間は30分単位で定期に来るしいつもは駅から徒歩出来ているが女の子と一緒に帰れるなら130円は安いものだ。
帰りの車内の中で揺れながらどうやって桜井さんの連絡先のアカウントを聞き出そうかを考える。
全国の中学生諸君らはどうなのか知らないが俺の中では女子は集団的に行動するもので、まず二人きりになんてなることが出来ない。
集団で行動すると人間というものは不思議なもので、性格が変わったり普通に話をすることが出来なくなったり学生は特に顕著に現れると思う。
女子なんて話しかけるだけでなぜか不機嫌になり集団から排除しようと容赦ない言葉を放ってくる。
一対一では絶対に言えないような言葉を、別に性格が悪い子ではないんだけど言ってくる。
つまり、この時期に二人きりになれること自体が好機であり勝ちパターンでもあるのだ。
「そういえば、平山くんは何で学校に来なくなったの?」
彼女は余裕が戻ってきたみたいでまるで会話の主導権を握っているような雰囲気だった。
「特に何かがあった訳ではないよ、遅刻を繰り返してたら行きづらくてさ」
「そうなの?先生は心配してたけど、私は病気なのかなって思ってた」
「全然、どこも悪いところはないよ?引き篭もりでもないからね」
まぁ、普通に考えて不登校児は家にいると思うよね。
バスは駅にたどり着き電車に乗り換える。
中途半端な時間帯でもあり駅には学生は殆どいなく、もしこれで同級生でも数人いたら反応が違うんだよなとも思いながらも会話を続ける。
駅のホームで彼女は俺を見ながら俺だけに向けて話す。
それだけでなにか特別な気分になり、女子中学生と二人きりで下校している事実に心が舞い上がる。
会話は基本的には俺のことばかりであり、彼女が答える。
「平山くんは難しく考えすぎなんじゃない?」
「別にみんな授業に出てきたことを、全部覚えていないと思うよ?」
「今、中学受験の試験を受けたって落ちちゃうかも」
「所詮はテストなんだから対策すれば点は取れるものよ」
それもそうかもしれない。
言われて気がついた。
もう俺はテストそのものに意味を感じてないのだ。
テストで一回いい点を取れたところで何になるんだろうか?
頑張って頑張って頑張り続ければ報われる。
それがテストの良いところであり、対象者を比較する指数になり得るのだ。
言うなれば自分はドロップアウトしたのだ。
親からしたら、名門のいい大学に入学し一流のいい企業に入社し立派な人間になって幸せに家庭を築きあげるのが理想なんだろうが、俺には無理だ。
自分で自分の限界を作り上げているのかもしれないが、自分はそんな大した人間ではないのだ。
蛙の子は蛙、トンビは鷹を生まない。
毎日学校に通うことすら出来ないのにそんな人生を頑張り続けていくなんて不可能に等しい。
「俺には向いていないと思うから、違う生き方をしてみようと思うんだ」
彼女が俺の話を真剣に聞いてくれるもんだから、恥ずかしい所まで話してしまった。
男は黙ってる方がカッコいい、女の子が喋る話は意見を求めておらず同調を求めているだけなんだとか頭に浮かぶが、彼女は自分のことを話さないため俺が喋るしかない。
「俺は宇都宮線だけど桜井さんは何線?」
「京浜東北線、平山くんは確か遠くから来てるんだっけ」
「そうだね、ここから45分ぐらいかな」
電車から降りて階段を登る脚取りは少し重たくなる。
もう、別れの時が近づいているからだ。
歩幅を短くし、出来る限り平然と、声が震えないように、聞く。
「そういえば、桜井さんのアカウント教えて?」
「携帯の?うん、いいよー」
彼女は答えて携帯を取り出す動作が軽かった。
嬉しいけど、なんだか勇気が無駄になった気がした。




