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エンジェルズ・トーク

作者: こうづき


「わからん」

 明るい音楽が流れるメイド喫茶の片隅で、ひとりの男が重々しく口を開いた。この店の常連である佐藤だ。黒縁の眼鏡をかけ、日曜だというのにかっちりとスーツを着込んでいる。

「アイドルとは、会えてこそアイドルではないのか。『会いに行けぬアイドル』が、なぜ人気を博すのだ」

「サトさん、『なんでアレが人気なんだ』とか言い出したらもうオッサンっすよ。つーかサトさんもうオッサンっすけど」

 ケチャップでハートマークの描かれたオムライスを外側から少しずつ削り取りながら、黒ずくめの服を着た痩せぎすの青年・鈴木がヒヒッと笑う。

「でもまぁ確かに、現場派にはツラい時代っすねぇ。オレは在宅も全然アリだと思うっすけど。動画も最近のは、むしろ本物のライブより臨場感あるっつーか。エンジェルズなんか動画の質も良くて最高っすよ。Mayaちゃんなんか見てるとホント、目の前に天使が舞い降りたなーってカンジっす!」

「あんなもの、『会いに行けぬアイドル』の筆頭ではないか。Mayaのような完璧な美少女など実在するはずがなかろうよ。あれはもはや、非実在のバーチャルアイドルと変わらん」

「え? なにげにサトさんMayaちゃん推しっすか? つかエンジェルズ聴くんすか?」

「推してはいないが、仕事でな」

「あぁ! まだクビになってなかったんすね、『ねこ動』!」

 エンジェルズ――「ねこねこエンジェルズ」といえば、大手動画サイト「ねこねこ動画」から生まれたアイドルだ。ライブやトークの映像は主に「ねこ動」内で配信されており、有料チャンネルへの登録者は日に日に増えている。

「我々の活動には軍資金が要る。そのためなら、私はいくらでも従順な社畜になろう」

「あはは、そりゃそっすね。大好きな子たちのCD買えないとかライブ行けないとか、想像しただけで鬱になるっす」

 うんうん、とひとり納得して頷く鈴木。

「あ、そーいや、エンジェルズもついにやるんすよね、リアルライブと握手会! サトさんも『ねこ動』のエンジニアなら、チケット取れたりしないんすか?」

「さあな。しかし、そうか……『エンジェルズ』が……」

 何やら考え込み始めた佐藤。鈴木はそんな佐藤を見てにやにやと笑いながら、オムライスのハートマークにそっとスプーンを差し入れた。



 由佳が香織とお茶をするのは、いつもこの駅前のコーヒーショップだ。同じマンションに住み、同じ年頃の子供がいるという縁で親しくなった香織。それ以外の接点はないに等しいというのに、なぜか付き合いは長い。由佳の子供が高校になじめず不登校になったときも、香織は家族ぐるみで親身になってくれた。

「あ、これ、エンジェルズの曲じゃない? そういえば由佳、まーちゃんは元気?」

 店内BGMが明るい曲調のアイドルソングに切り替わる。つい先日リリースされた曲だ。

「ええ、まあ。でも、相変わらず四六時中アイドルのことばっかりで……少しはたっちゃんを見習ってほしいわ」

「こっちこそまーちゃんを見習ってほしいわよぉ。うちの子なんて、大した趣味もなくてつまらないったら!」

 話の最中に、香織のバッグの中から軽快なメロディが響いた。これも「エンジェルズ」の曲だ。香織は「ちょっとごめんね」と断って、眼鏡型のVRゴーグルをかける。

(まったく、猫も杓子も……)

 アイドルだの、VRだの。自分の知らないものに苛立つようになったのは、いつの頃からだったろうか。

 通話中の香織を眺めていても仕方ないので、由佳は抹茶ラテをすすりながらタブレット端末を開く。

(またエンジェルズ……)

 ニュースアプリのトップにその文字を見つけ、由佳は思わず眉をひそめる。ニュースは人気アイドル「ねこねこエンジェルズ」の、初ライブ兼握手会の実施を伝えていた。



「Maya」

 鼻が触れそうなほどの距離で、少女はにっこりと笑う。艶やかなセミロングの黒髪。きめの細かい、少し日に焼けた健康的な肌。気の強そうな眉。ぱっちりと開かれた黒目がちの瞳。やわらかそうな唇。そんじょそこらのバーチャルアイドルには太刀打ちできない、みずみずしい存在感。

「やっと会えるんだね、Maya! Mayaも僕に会いたかっただろ?」

 少女が困ったように目を伏せ、それから照れたように笑う。そっと口を開いた少女だが、音声はとうにオフになっている。

 これは男に向けられた笑みではない。男の声が彼女に聞こえているわけでもない。そんなことくらい男も承知している。だがそれでも、沈黙のなかで夢想するのは自由だ。

 「ねこねこエンジェルズ」のメンバーが交代でアップするこの「ファンのみなさんへのごあいさつ」動画は、高画質の360度カメラで撮影されている。被写体を真ん中に置いて周囲をカメラで囲んだ、いわゆるバレットタイム映像というもの。VRゴーグルを使って再生すれば、目の前で呼吸し、こちらを見つめ、何かを喋るMayaの姿が、いつでも目の前に現れるのだ。

 ――という話を数少ない友人にしたところ、彼はひとしきり大笑いしたのち、「お前は天才的なバカだな!」と男を褒めたたえ、それから何やら考え込みはじめた。



「作ってみた。感想よろしく」

 そんな一言と共に、友人からURLが送られてきたのは、あの会話から数日後のことだった。どうやら「ねこねこ動画」から「エンジェルズ」の動画を呼び出すウェブサービスらしい。全部で三十人以上いる「エンジェルズ」のメンバーのうち、Mayaをはじめとした数人の人気メンバーの名前がある。Mayaの名前を選択してみれば、出てきたのは彼女の動画。それも音を消した――すなわち、男が今までやってきたとおりの、「彼女と話しているという妄想にひたれる」動画である。

「ああ……やっぱりMayaは可愛いなぁ」

 目の前のMayaは、ファンに向ける優しい微笑みを浮かべ、そして。

「ありがとう」

 と、ハスキーな声で答えた。

「うおっ!?」

 こいつ、喋るぞ! という叫びを飲み込んで、男は改めてMayaを見つめる。落ち着け、とつぶやいて深呼吸。おそらく友人は、動画に含まれている音声のいくらかを切り取って、こちらの声に合わせて適当な返事をする機能を付け加えたのだろう。男の通う情報系の大学には、そのくらいのスキルを持つ学生はそれなりに存在している。

 偽者のMayaは思う通りには喋らない。けれどいくつかのキーフレーズには反応しているのか、たまに驚くほど的確な答えが返る。こんな言葉を言ってみたらどうだろう。こうだったら? ひとりで妄想していたときには思いもつかなかったようなMayaの返事が、もどかしいながらも楽しみでならない。

 握手会よりも中毒性の高い、恐ろしいサービス。

 男がふと我に返ったときには、時計は朝の五時を指していた。



 メイド喫茶の片隅に、ふたりの男が腰を落ち着けていた。常連客の扱いはメイドたちにとっても慣れたもので、いつもどおり「ちょっと不慣れな調子」でオムライスにハートマークを描く。こうした小さな演技が、顧客満足度を押し上げるのだ。

「サトさん、これマジでヤバいっすよ! 神っすよ!」

 ヒヒッ、と笑いながら、鈴木はVRゴーグルを起動して佐藤に差し出す。佐藤は眼鏡型のゴーグルの柄を紙ナプキンで拭ってから、ゴーグルの画面を眺めた。

「Mayaか」

「SariちゃんとかRikkaちゃんとかもイケるっすけど、Mayaちゃんがダンゼン出来がいいっすね! これ作った人、ぜったいMayaちゃんファンっすよ。間違いないっす」

 佐藤の眼前に現れたMayaは当然のように立体映像だ。近すぎず遠すぎない距離感。これは握手会の距離だ、と佐藤は思う。アイドルとファンが、物理的にも精神的にも、いちばん近づく瞬間。

「まずは何か話しかけるっす」

 マイクをオンにして、こんにちは、と声をかけると、Mayaは「こんにちは!」と弾んだ声で答える。映像とは合っていないから、声だけは別の動画から取ってきたのだろう。

「応援している」

「ありがとう!」

「かわいいな」

「ありがとう!」

 まったく同じ調子の回答が二回。

「結婚してくれ」

「嬉しいなぁ、いつかね!」

 冗談っぽい口調でMayaが答える。ファンを慈しむような笑みとその声は、まったく別の場所で発せられたものであるはずなのに、妙にしっくりと映像に合っていた。……とはいえ。

「いいっすよね、これ!」

 ゴーグルを外し、再びその柄を紙ナプキンで拭いながら佐藤は口を開く。

「そうか? ……これではまるで、バーチャルアイドルと話しているようではないか」



「ねえサリちゃん、これ知ってる?」

 レッスンの合間の休憩時間は、女子高のようなにぎやかさにあふれている。椅子の上にあぐらをかき、Tシャツの裾をまくって手で風を入れる咲里の姿は、とてもファンにはお見せできない。そんな咲里に、六花はタブレットを差し出す。

「何これ! あたしたちの動画? あ、あいさつ当番のときのやつだ」

 咲里が何か言えば、画面の中で咲里――もとい、「ねこねこエンジェルズ」のひとりSariが、「ありがとう」だの「うんうん」だの「やだキモい」だのと声を出す。

「あはは! すごーい! キモーい!」

 その言葉は、自分自身と話す感覚についての発言なのか、それともこんなサービスを作ったどこかのファンに向けたものなのか。

「でもさ、こーやって見てると、なんかバーチャルアイドルになったみたいだよね。CGのやつ」

「ああいう作り物にはかなわないけどね……。生身で勝てるのなんて、マーヤちゃんくらいのもんでしょ」

 六花の視線の先には、VRゴーグルをかけた真彩の姿がある。セミロングの髪をゴムでお団子にまとめたレッスン姿。指でトントンと太ももを叩いているリズムを見るに、おそらく振り付けの確認をしているのだろう。

「マーヤちゃんはほら、もう存在が三次元を超えてるカンジだから……」

 咲里の声にからかうようなトーンはない。真顔でつぶやいた咲里に、六花も深くうなずく。オーディションのときから、皆町真彩という少女は別格だった。審査員は彼女を、「アイドルになるために生まれてきた少女」と評している。六花や咲里も人並み以上の容姿と能力の持ち主ではあるが、真彩とは比べるべくもない。歌唱力やダンスのキレのようなものではない、まとう雰囲気そのものが、まさにアイドルなのだ。十年前も、おそらく十年後も二十年後も、彼女は「アイドル」であり続けるだろう。そんな感覚を抱かせるような少女だった。

 それでいて彼女は、誰よりアイドルを愛し、アイドルになるために努力している。ダンスの振りは自分どころか周囲のメンバーの分まできっちり覚えているし、周りの誰かがミスをすれば、それがまるで正しいアレンジであったかのように振る舞ってステージをまとめ上げる。誰より輝いていても、全体の調和は損なわない。

 動画サイトでの活動がメインであるがゆえに、ときおり冗談めいた調子でその存在を疑われる「ねこねこエンジェルズ」。もし自分がファンだったとしたら、きっと真彩の実在を疑っていただろうな、と六花は思う。彼女はそれだけ完璧な「アイドル」だ。もしスキャンダルのひとつでも報じられれば、むしろ真彩も人間だったのだとホッとしてしまいそうなほどに。

「あ、これマーヤちゃんのもあるんだ?」

 咲里が六花のタブレットを操作して、Mayaの動画を呼び出す。その爽やかな笑顔に、色気のあるハスキーボイス。ちりっとした敗北感を首筋に感じながら、六花も画面をのぞき込む。抱いた嫉妬さえまとめて愛してもらえそうな、陽光を思わせる笑み。そのMayaは、咲里の言葉に応じて、ある時は的外れな、そしてある時は妙に的確な返事をする。

「……ねぇ、リッちー」

 動画を途中で止め、咲里が眉を下げて困ったように笑う。

「これさぁ、もう、生身のあたしたち、いらないんじゃない?」

「サリちゃん、それ……思っても言っちゃダメなやつ……!」



「そも、人は何のために握手会に行くのだろうか」

 自室の高価な椅子に深く腰掛け、佐藤は哲学的な調子で問題を提起する。

「握手したいからじゃないっすか? つか、サトさん仕事中じゃないんすか? サボりっすか? いーけないんだ」

 ボイスチャットの向こうで、鈴木がヒヒヒと笑う。

「握手の本質とは何だ。手と手が触れ合うことか? ならばひとことも言葉を交わさずとも、握手をすればいいのか?」

「うーん、それ微妙っすねー。やっぱ、アイドルの握手会に行くときって、その子に認知してもらいたいじゃないっすか。話題も考えるし、いろいろ工夫もするし」

「私はそうは思わん」

「え、サトさん違うんすか? オレ以上にゴリゴリの現場派じゃないっすか。在宅と現場の一番の違いって、アイドルからの認知じゃないっすかね? 臨場感で言ったら、VRのおかげで、家で観る配信もけっこういいトコまで行ってると思うんすよ。現場行くとやっぱ違うなって思うっすけど、家で観てるときは全然気にならないんすよね」

「そうか? まったく違うではないか。私が現場に赴くのは、声を出し芸を打ってその場を盛り上げ、共にライブを作り上げたいからだ。たとえ生配信で、こちらのコメントだけは彼女たちの見る場所に表示されるのだとしても、それでは足りん。モニタ越しでは、同じ空気を吸っている感覚もない」

「えー、どうせ同じ酸素分子とか吸ってるわけでもないんだし、いいじゃないっすか」

「吸っているかもしれんだろう」

「……信教の自由は否定しないっす」

 半笑いの声。

「握手会も同じだ。この身が認知などされずとも良い。私の言葉に彼女が応える。彼女の言動に私が応える。そうして、共にひとつの場を作り上げる――それこそが握手会の本質ではなかろうか」

「じゃあ別に握手しなくてもいいじゃないんすか? 交流ができれば」

「ふむ。そういうことになるな」

「マジすか! あれ? でもその定義なら、相手はモニタ越しどころか、バーチャルアイドルだっていいんじゃ? それなりに会話できちゃうのもあるし……つか、なんでいきなりそんなこと聞くんすか?」

「考えているのだ。『エンジェルズトーク』は、握手会の代わりなのだろうか、と」

 佐藤は目の前のモニタを見た。三台並んだ大型ディスプレイに、それぞれMayaの姿が映し出されている。鈴木が佐藤に教えたウェブサービス、「エンジェルズトーク(非公式)」で表示される動画のひとつだ。けれど佐藤が見ているのは、「トーク」が動いているサーバをクラッキングして得たデータ。いや、佐藤にとってはクラッキングとも言えないものだ。なにしろセキュリティが脆弱すぎる。このサービスを作ったのはド素人か、そうでなくても慣れない学生かなにかだろう、と佐藤は予想している。

「Mayaちゃん、今日のパンツ何色?」

「えー、分かんないよー!」

 動画と共に流れる、かみ合っているようなかみ合っていないような会話は、実際にどこかで誰かが交わしたものだ。ユーザの声を認識するため、「トーク」は一度その音声データをサーバに取り込んでいる。普通ならすぐに消去するそのデータを、このシステムは丁寧に保存していた。サービス改善のためだろう、と佐藤は推測している。アイドルたちが自分たちの声に応えてくれる。そんなサービスを作るためには、エンジェルズの少女たちにどんな声がかかっているのか知る必要があるのだ。……とはいえ、佐藤なら音声データそのものでなく、それを解析して文字に起こしたデータを保存するが。

「代わり、ねえ。オレにとっちゃ別物っすけど、代わりになるって人もいると思うっすよ。ただ可愛い子を近くで見たいだけの人とか。本物には言えない、下ネタとか内輪ネタを言ってみたい人なんかもいるんじゃないすかね? あとは、本物の握手会に備えて、心の準備をする練習台とか。アンチにとってはガス抜きにもなるかも」

「ふうむ……」

 本物には言えないこと。練習台。ガス抜き。どれもそれらしい。「トーク」の開発者の目的は、何となく、それらの近くにあるような気がする。少なくとも「トーク」は、ただ彼女たちと擬似会話を楽しみたい、というインターフェイスにはなっていない。謎を解く鍵を求めて、佐藤は鈴木に尋ねた。

「なあ。このサービス、映像は『ねこ動』からの呼び出しだが、音声データは違うようだ。おそらく元映像から切り取っているのだろうが、著作権を確認する都合でチェックしておきたい。いつ発せられたセリフか、調べられないだろうか」

「それ仕事っすか? バイト代もらえるんすか?」

「何を言う。健全なファンなら、著作権違反のコンテンツがアイドルを悲しませることくらい、百も承知であろうが。これは立派なファン活動だ」

「んー……ま、サトさんに頼まれごとなんて珍しいし、いいっすよ。いつもいろいろお世話になってるっすもんね。友達にも聞いてみるっす」

「……いたのか、友達」

「いるっすよ!?」



「ぜったい、また来てねっ!」

 名残惜しそうにファンのひとりに手を振って、Maya――真彩が振り向けば次のファンがいる。相手のあいさつを待って明るく応え、ぎゅっと両手で握手。

「やっぱり、マーヤちゃんはすごいなぁ……」

 そうつぶやいたのは咲里ばかりではない。Mayaとの握手を終えたファンたちは、口々にその神対応を褒めたたえていた。

「休憩です!」

 スタッフに声をかけられ、わずかな休憩。ライブで体を使ったあと、握手会で頭も使うハードワーク。慣れないエンジェルズの少女たちは、水分補給やトイレ休憩に走る。

「ねえマーヤちゃん、ファンの方と話すコツってあるの?」

 六花の問いに、真彩はきょとんと目を見開き、首をかしげる。

「私は、自分が見たいアイドルをやろうとしてるだけ。コツは、イメトレかな?」

「イメトレ?」

「そう。こんな方が来たらこう言おう、こんな風に笑ってこう手を出そう、って、最近ずっと考えてたんだ」

 握手会が楽しみで仕方がなかった、と言外に伝えてくる、真彩の弾んだ声。「こんな後輩がいたら愛でたい」「こんな同級生がいたらぜったい部活が楽しい」「こんな先輩がいたら惚れる」という感情が一気に心の中に押し寄せてきて、六花は思わず胸を押さえた。どうして自分はファンとしてあの列にいないのだろう、と思わず自問してしまう。

(ああ、でも、やっぱり……)

 レッスンのときにだって、何度も思ったけれど。

 皆町真彩は天才だが、同時に努力の人でもあるのだ。



「あっ、まーちゃんのお母さん! お久しぶりです」

「え、たっちゃん?」

 振り返った皆町由佳に、竜弥は「どうも」と会釈する。

「こんなところで会うなんて、偶然ですね!」

「え……ええ、そうね」

 由佳が戸惑うのも無理からぬことだろう。なにせここは「ねこねこエンジェルズ」のライブ兼握手会の会場だ。マンションのロビーならともかく、こんなところで竜弥に会うとは思っていなかったのではなかろうか。

「たっちゃんは一人?」

「友達と来てるんですけど、そいつはRikkaちゃんの列です」

 熱狂的なMayaファンだった彼が突然Rikkaに乗り換えたと聞いて、竜弥は少なからず驚いた。聞けば、諸事情あってRikkaのトーク動画を見続けていたら、いつの間にか彼女の魅力にはまっていたのだとか。

「それにしても、おばさんもこういうところ来るんですね。まーちゃんは嫌がりそうなのに、チケットくれたんですか?」

「あの子には何も言ってないわ。でも、心配じゃない。たっちゃんこそ、チケットはあの子から?」

「ええ、まあ」

 周囲のファンに聞こえないよう声を落として、竜弥は答える。あることの「お礼」として真彩にもらったチケットは、陰の功労者である友人のぶんと合わせて二枚。

「それにしても……本当に、こんなにファンがいるのね」

「ファンの数はこんなもんじゃないと思いますよ。ライブにまでは来ないって人も、家が遠くて来れなかった人も、たくさんいると思いますから」

 そう、と由佳が肩をすくめる。

「ちゃんと見てあげてください。まーちゃん、がんばってるので」

「がんばるって、何を? ただ握手するだけじゃない」

「そんなことないです。ほら、出てくる人、みんな嬉しそうじゃないですか」

「商売女じゃないんだから」

「……おばさん」

 いらだちを隠さずに、竜弥は由佳の顔を正面から見た。身長差のせいで見下す形になってしまう。

「あのまーちゃんが、知らない人とこんなに話してるんですよ。それだけで、どんなに本気で努力してるか分かるでしょう?」

「それは……」

 やがて由佳の順番がやってくる。真彩は一瞬ものすごく動揺したあと、すぐに表情を立て直し、アイドルの笑みで母親に話しかけた。

「こんにちは! 私のライブ、どうでした?」

「……真彩」

 それきり口ごもった由佳の手を握り、「楽しんでくれてたなら、私もすごく嬉しいです」と告げる。

「良かったわよ」

 去り際に由佳が残した一言に、真彩が破顔一笑。続いて入って来た竜弥にも、その余波めいた笑顔が向けられる。

「こんにちは!」

 握手の瞬間、真彩は小声でささやいた。

「どう、ちゃんとできてるでしょ? たっちゃんのおかげだよ。ありがとう」



「まるで、真彩じゃないみたいだったわ」

「そりゃあ、そうじゃないですかね」

 嬉しそうな、それでいて素直に褒めることもできないような、複雑な表情でうつむく由佳。竜弥はつとめて軽い調子で答える。

「あれはまーちゃんじゃなくて、『ねこねこエンジェルズ』のMayaですから」

 今日ここで「Maya」になるために、真彩は練習を重ねてきたのだ。

 竜弥が用意した、あの「エンジェルズトーク」のデータを使って。

「そうね。今日のMayaは」

 真彩のいたほうを振り返って、由佳はつぶやく。

「まるで、仮想世界から出てきたアイドルみたいだった」



 Rikkaに推し変した、と告げたときの友人の顔は見ものだった。Rikkaの握手には初々しさがあって、クールな美貌と相まって不思議な魅力を作り出している。

 Mayaを嫌いになったわけではない。さらに言うなら、Rikkaに推し変した、というのもまた、正確な表現ではなかった。

 友人――竜弥との待ち合わせ場所に行く前に、男はVRゴーグルを取り出す。

「ただいま」

「おかえり!」

 画面の中で、「エンジェルズトーク」のMayaが笑う。

 もはや、本物のMayaに会いたいとは思わなかった。ライブの最中でさえ、わずかな違和感をぬぐえなかったのだ。

 彼にとって、本物とは今ここにいるMayaである。生身のMayaを見てイメージを壊したくなかったのだ、と言ったら、このサービスを作り出した友人はいったい、どんな顔をするのだろうか。


10


「すげー良かったっすよ! サトさんも来ればよかったのに! あんな子たちが三次元に存在するって奇跡っす!」

 メイド喫茶の片隅で、鈴木が情感たっぷりに「エンジェルズ」のライブと握手会の感想を語る。Mayaはさすがの神対応。嫌味も下ネタも軽やかにかわし、予想より一歩深く踏み込んでくる。ノリが良いが毒舌なSari、怜悧な外見に反して気さくなRikkaもファンの間では話題になっていた。

「にしても、あれが初めての握手会ってすごいっすよね。最初はもっとキョドるアイドルが多いのに」

「無論、練習したのだろうよ」

 おそらくは、「エンジェルズトーク」を使って。

 「トーク」には「裏メニュー」とでも言うべきものが存在する。表メニューがファンのためのものなら、裏メニューはアイドルのためのもの。ファンが自分に何を問うのか、それに自分がどう答え、ファンはどう反応するのか。佐藤が見たログの中で、少なくともMayaはファンたちの声を聞いた。そこで、さまざまなタイプのファンへの返答や、どんな言葉にも動じない心を身に着けたのだろう。

 鈴木によれば、ほとんどのメンバーの声は公式動画からそのまま抜き出したもの。だが、Mayaの声には一部、スタジオとは音響効果の違う、該当動画の見当たらないものがあった。「生放送で企画ものとかあったんすかね?」と鈴木は首をかしげていたが、おそらく違う。ログを見る限り、あれはMayaが録り下ろしたものだ。

 Mayaがそれを公言することは決してないだろう。非公式サービスの利用もクラッキングも、心情的に許されることではない。

 だが実際、彼女は聞こえるはずのないファンの声を聞き、それに答えた。まるで、天使が迷える子羊の訴えに耳を貸し、人知れず祝福を授けるように。

「いや、ありゃ才能じゃないっすか? もう、マジで完璧すぎっす」

「完璧なものを見たいのなら、CGで充分だ」

 佐藤は首を振る。

「完成されていないからこそ、意味がある。水の中でもがいているから、白鳥の泳ぎは美しい」

「え、じゃあサトさん、MayaちゃんよりRikkaちゃん派っすか?」

 いいや、と佐藤は微笑んだ。

「――水の中を見てしまったからな。次の握手会では、間違いなくMayaのもとに並ぶさ」


真彩はコミュ障な元引きこもりです。磨けば光るタイプだったのでしょう。

サイトのセキュリティがザルっぽいのに問題が起きていないのはご愛敬です。きっと竜弥は頑張ったものの、佐藤がそれ以上のスーパーハッカーだったのでしょう。

お読みいただきありがとうございました。

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