幕間 Ⅰ
幕間Ⅰ
男は絶望と憎しみの狭間でページを捲った。
鮮やかな朱色の装丁の本を左手に持ち、ほんの少しの希望を抱いて右手でページを進めていく。
男の指は、手触りの良い薄い紙に綴られた滑らかな文字をなぞっていて、その瞳は無心に文字を追っていた。
寝食を忘れる程に幾度となく繰り返してきた所作に迷いはなく、澱む事なく幾千夜も続けられてきた。
脳裏に刻み込まれた物語は、文章を読まなくとも容易に続きを浮かべる事ができた。
それでも男は自身の記憶が擦り切れる程に物語を脳内に焼き付け、文字が掠れる程にその指でかぞって、紙が破られそうな程ページを捲った。
朝も夜もなく、男は本を開き、物語が終幕を向かえれば、また閉じられた本を最初から読み返す。
そうして今もまた、最後の一文に並んだ余白さえも、その長く節くれだった指でなぞり、物語は終わりを向かえた。
珍しく息を吐いて少しの間、反芻するように瞼をゆっくりと閉じた。
「もう一度、君に会いに行こう」
朱色の表紙に金の文字で書かれたタイトルをなぞり、何度も表紙を撫でると、再びその厚い表紙を開いた。
変わらない物語を、褪せる事のない想い出が、この本には詰まっていた。
「……ん?」
変化の乏しい男の目が見開かれ、瞬時に口元に歪んだ笑みが形作られた。
変わる事のない筈の物語が詰め込まれた魔女の書いた本に、小さな変化が訪れた。
男が幾度となく読み込んだこの本に、登場した事のない人物が現れてわ少しずつだが男の知る文章を変えていた。
突然の異変に男は嗤った。
この異常を男は両手を挙げて歓迎した。
ページが進むにつれ、来訪者はきっと物語の深淵へと向かうだろう。
ならば、この訪れに歓喜し、変化に感謝しなくてはならない。
「誰よりも、この物語の変化を望んでいるのは、俺なのだから」
そして男は手を伸ばしていた。
インクの臭いのする紙に掌で触れ、次いでその手を持ち上げると口元へと持っていき、躊躇なく親指の腹に犬歯を当てた。
ガリッと音がする程強く噛み切れば、当然の事ながら男の指からは赤い鮮血が伝った。
血を垂らしたまま、成人男性らしい逞しい手を本の表紙へ掲げると、今までにない程優しくその装丁を撫でた。
床に落とされた朱い本、落ちた拍子にページが開いたその先には物語のはじまりが綴られていた。
そしてその物語に、2人目の来訪者の存在が綴られる事はなかった。