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Sfortuna tristezza  作者: 灯尋
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はじまりの本

はじまりの本


 小さな頃、期待と希望、夢と好奇心で胸を一杯にして、祖母にくっついて回っていた。


 優しい祖母の手は、関節が目立ち、筋や血管が浮く老いた皺くちゃの細く、しかし力強いもので、いつも頭を撫でてくれた。

 年齢の伺える声で、何度も名前を呼ばれて顔を上げれば、いつだって慈しみの表情を向けて、記憶に残る香りと供に抱きしめてくれた。


 いたずらをして両親を困らせた時も、近所の友達と小さな事でケンカをして泣かせてしまって、自分も大泣きした時も、祖母は優しく頭を撫でてくれた。


 しかし一度だけ、そんな穏やかな祖母が、その細く下がった目を吊り上げて、柄にもなく大きな声で怒鳴った事があった。


 祖母の家にある、大きく古い蔵に友達と隠れんぼをして潜り込み小さな体を使って奥へ奥へと進んで行った。

 積み込まれた荷の表面は白く色が変わり、肺にちっとも優しくない埃を舞い上げる。


 大人には到底入り込む事が出来ないような隙間に辿り着き、腰を落ち着けて、周囲を見回すと、右手のすぐ近くに、1つの箱が置かれていた。

 表面を濃い色に変色させた木の箱は、小さな両手では覆い隠せない程の大きさで、ずしりと重く、やけに厳重に紐で封がされていた。


 何重にもされた紐は、年数が経っていたせいか、紐目が緩み、子供の不器用な指でもしゅるしゅるといとも簡単に解けていった。

 カタリと音を立ててズレた箱の蓋の中には、幾重もの紙の束が詰め込まれ、埃の入り込む余裕もない状態だった。


 そして紙をかき分けて見つけたのは一冊の本だった。


 やけに手触りの良い表紙は厚く、中に使われている紙は雑に扱えば破れてしまいそうな程に薄いものだった。

 赤に何度も煤けたインクを落とした様な本には読めない文字で、金色の装飾がされたタイトルが書かれていた。

 どれだけ先へとページを進めても理解できる文字はなく、子供の無知な経験では、知らない国の文字なのだろうと、すぐに興味を失った。


「そこで何をしているの!!」

突然差し込んだ外の光と供に背後から優しい祖母の厳しい声が降ってきた。


 入口から真っ直ぐに奥に進んで、丁度蔵の裏側に着いていたらしく、壁の高い所にある木窓から、祖母が顔を覗かせていた。

 祖母の声に遊びの時間が経ったことを感じて、そそくさと本を元の通りになる様に片付けて、蔵を後にした。


「あの蔵に入っちゃいけないと何度も言ってあっただろうに、あの場所で何をしていたんだい」


 先程よりも険のとれた声音だったが、眉間の皺は深く、両肩を揺する手は痛みを感じる程に、強く掴まれていた。


「もう二度と、あの蔵に……あの本に触ってはいけないよ」


 真剣な面持ちで、重く語る祖母は到底冗談を言っている様には見えなかった


「あの本は、人を食べてしまう、怖い本なんだから」



 あれから12年が経ち、3日前……大好きな祖母が亡くなった。


 取り壊される事になった土蔵は、夏の気温で蒸される様に熱く、埃の匂いも鼻につく程に立ち昇っていた。

 あの日、祖母に叱られた時から一度も入る事のなかったこの蔵に、残された祖母の遺品の片付けを頼まれて来たものの、乱雑に積まれた品々は年季が入ったものばかりで一見で仕分けは困難だと、すぐに匙を投げる事になった。

 そして迷う事なく、記憶から消える事のないあの場所へと足を向けていた。

 成長した体には窮屈な隙間は行く手を阻み、自由がきかないため、地道に物をずらしながら進んで行く。

 全身を埃で白くしながら、ぽかりと空いた棚の前へと辿り着く。

 しゃがみ込んで、覗き込んだ先に、あの箱は変わらず置かれていた。


 ずしりと重い箱を掴むと、小さな頃に大きいと感じた木箱は今でも重いと感じる程度に重量があった。

 あの時は気付かなかったが、箱の蓋にも何かが書かれている。

 解読を諦めて、蓋を開く事にした。

 ふと懐かしい声がした気がして、顔を上げる、が小さな四角い木窓はぴたりと閉じられ、光は差さず、もちろんそこから覗く大好きな顔もなかった。


 中に閉じ込められていた本は、記憶とは違わずに幾重もの紙に包まれて、濃い赤の装丁を誇っていた。

 箔押しされた、金の装飾文字、どこか覚えのある古い匂い、隠れんぼの先で見つけた古めかしい本、少しもあの時と変わらない……筈だった。


「ス……スフォルトゥナ……ト、リステ、あ?」


 変わらない、筈だった。


【スフォルトゥナ・トリステア】


 指でなぞる、金の文字は、知らない言葉でそう書かれていた。


「読めた……何、語?」


 ドクドクと、心臓が脈を打つ。


[スフォルトゥナ・トリステア]

意味は、不幸と悲哀。

「人を、食べる本……不幸と…悲哀……」


 ズキズキと頭が痛み出すが、視線を文字から外せないまま額に手をそえる。


 ぐらりと視界が揺れて、息苦しさに襲われた。

 ガンガンと痛みが増す頭に気を取られ、蔵に入って来た人の気配に気付かずに呼ばれていた事にも気付いてはなかった。


「おい、紫弦いるー?」

「ち、千草!」


 障害物の向こうから突然投げられた声に顔を上げた。

 拍子に足元が縺れて体が大きく傾き、狭い空間で必死に手を伸ばせば、隣接する棚に行き着いた。

 揺らぐままに全体重を中身のない棚に預ければ、そのままズルズルと、埃の堆積した床へとへばり込んだ。

 頼りない体はもたれ掛かったせいで、申し訳程度に置かれていた品々が、頭上に音を立てて落ちてきた。


「いった」

「紫弦、いるの?何やってるの?」

「今、戻っ…痛っ!?」


 急いで声のする方へ向かおうと立ち上がる時に、支えにした棚から出た釘で右手を傷付けてしまった。


「さっきから、痛いって言い過ぎじゃないか?

怪我したのか?」

「何でもない、今行くよ」


 右手の親指から地が滲んでいたが、気にせずに右手で本を抱え直すとその場を後にしようと返事をした。

 いつの間にか頭痛は去り、足元も言う事をきくようになっていた。


「大丈夫か?紫弦、しづー?」


 しかし、あの狭い家具や古い祖母の遺品の間を抜けて、友の千草と合流する事はなかった。


「おい、紫弦って、早くおいで?

紫弦、しずー?」





 夕刻の薄暗い土蔵には、深紅の本が残されるだけで、友人の紫弦の姿はどこにもなかった。


 床に残された本と、円を描く赤い痕に、千草は背筋を凍らせた





「……紫弦が、消えた………?」

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