噂の彼女の秘密
時和天音。
彼女の存在を知ったのは高校入学してすぐのことだった。まだ出来たばかりの友人たちとヤマアラシのジレンマで距離感を掴んでいて、踏み入った話ができない時期には学校内の話題が多い。その中の一つで『時和天音』の話が出た。眉目秀麗、容姿端麗、才色兼備と友人はその時和という女子生徒を褒めに褒めちぎっていた。俺はソイツの言うことを話半分に聞いていた。どうせ、話を盛っているのだろうと。しかし、その考えも時和と廊下ですれ違ったことで誤りだったと気付く。
腰まで届くしなやかで艶のある黒髪、白くて一点の染みもない肌、整った顔立ちに黒を基調としたセーラー服を着こなす少女。その姿は何処か戦後失われた古風な大和撫子を思わせる。
なるほど、これは周りが色めき立つわけだ。
しかしその後、特に時和との接点もなく、こちらからアプローチを掛けようとも思わない。
時和天音は高嶺の花なのだ。
高すぎて一般生徒というカテゴリーの俺には、手を伸ばしたとしても届くことはない。それ以前に俺は無駄な労力を使ってまで、色恋沙汰に手を染めようとは思わないので、そんなことを考えて無意味なのだが。
だからこれからも時和と俺の人生が交わることはないだろう。
そう思っていた。
だが、それは五月十四日のちょうど初め、夜中の十二時に大きく変わることになった。
市販の納豆が入ったコンビニのビニール袋を片手に帰路についていた。辺りに街灯はなく真っ暗で、さらに木々が風に靡く音は気味が悪い。そこら辺の茂みから幽霊でも出そうな雰囲気だ。
そもそもなぜこんな夜中に納豆を買いに行く羽目になったかというと、一緒に住んでいる祖父に原因がある。
俺、五月女縁の祖父は無類の納豆好きだ。それも三食とオヤツに食べるくらい大好きだ。しかし、今日、正確には昨日、学校帰りに納豆を買い忘れ、一時間前にようやく忘れたことに気付いたのだ。仕方なく、明日の朝食は我慢してもらおうとじいちゃんに告げると――
「今はほらコンビニとかあるだろ。そこでちょっと買ってこい」
なんて言い出した。
俺が世話になっているじいちゃんの家は、この町の森や畑が多い田舎の地域にある。つまり、近くのコンビニに行くのも一苦労なのだ。これが都会に住んでいれば歩いて十分とかからないが、こっちでは歩いて三十分、自転車で十五分だ。自転車を使っても、往復で三十分かかってしまう。正直言って勘弁してほしい。
だが、養ってもらっている身分でそんなことを言えるはずもなく、渋々買いに出たというわけだ。
しかし、そんな時に限って自転車がパンクしていたりするから、さらに困ったことになった。近くの自転車屋までは、歩いて一時間。結局、コンビニまで歩いて行くことになる。
そしてまだコンビニを出て五分も経っていない。後二十五分は歩くと思うと憂鬱になる。しかも俺には明日提出の課題もあるのだ。学生によくありがちな、まだ夜は長いから大丈夫だろうなんて考えていたらこの様だ。憂鬱どころか帰りたくなくなる。
そんなことを考えている時、それは見えた。
この町に唯一ある湖。名前は確か時和湖だ。それほど大きくもなく小さくもない湖でよくここら辺に住んでいる鹿が水を飲みにくるのでちょっと有名な場所だ。
とはいっても高校の登下校で見飽きている。いまさらそれを見てどうということはないのだが、今日はすこし違った。
湖に一人の女性がいたのだ。
湖畔にではない。
湖の中心、水の上に女性がいたのだ。
何度も目を擦り、確認した。間違いなく、湖の上に立っている人がいる。水に沈むことなく、重力に反発して立っている。
だが、まだそれは些細なことだ。別に俺の人生の中でなんの代り映えもしない出来事と言ってもいい。
ではなんで俺は驚いて目を擦ったりまでしているのか、それは立っていた人物に原因があった。
月光に照らされ、輝く湖の上に立ち、花が鮮やかに描かれた着物に身を包み、その長い袖と腰まである黒い髪は夜風に舞う。そしてなのよりその悲しげな表情が、その姿を一枚の絵のように仕上げていた。
人であるなら男女問わず一目で心を奪われそうな、
妖美で、
儚げな、
時和天音はそこにいた。
いつからだろうか。俺が極力、人と関わろうとせず、一人でいる時間が増えたのは。
幼い頃、俺は自分にしか見えていないことが、恐ろしくて必死で人に伝えようとした。ソイツらは確かに今そこにいて、確かに俺の目に映っていたのだ。しかし、俺以外誰一人として、ソイツらを見える奴はいなかった。
やがて俺は、周りから嘘吐き呼ばわりされ、友達だった子は俺を避けるようになり、両親さえも俺を気味悪がった。
俺は自分の目には人に見えない何かが見えるという現実を受け止めた時から、人を避けるようになったんだと思う。
俺は世界を一枚のフィルターを通して見ている。誰とも共有できない世界は、俺を孤独にしていった。
俺の目が映す真実は、周りにとって妄想であり、虚構だったのだ。そしてそれを語る俺は、ただの嘘吐きでしかない。
だから俺は一人だった。
だが中学に入学した辺りから、それでもいいじゃないかと思えるようになった。
友達がいてもこの目がある限り、いつかは俺の前からいなくなる。最初からいなくなるとわかっているなら、いない方がマシだ。いなくなる悲しみも寂しさも感じなくてすむ。
その考えは高校生になった今でも変わらない。ただ、少し状況の変化が生まれた。
両親元を離れて父方の祖父の家に引っ越してきたのだ。
都心から離れた田舎町。俺のことなど誰一人として知らない場所。
幼いころの俺の奇行を知るはずもない場所だが、どうやら人生の半分以上を一人で過してきた俺の一人ぼっちスキルは、周りに人を寄せ付けないぐらいまで上がっていたらしい。
それでもこんな俺を面白がって、話しかけてくる奴はいた。お調子者で、噂好きで、少しムカつく時もあるが、無口な俺を補って余りあるくらいに話しかけて来てくれる。
この関係が二カ月間も続けば、これは友達と呼び合える仲なのだろうか?
もし、友達と呼んでいいのなら、俺には淡い希望を持ってしまうかもしれない。
「ここでならもしかしたら」と。
「なぁ、時和天音って知っているか?」
その問いに篠崎は、プリントの上を走らせるペンを止めた。そしてまるで未確認生物を見るような目で見てきた。
「どうしたんだ、五月女。お前が人間に興味を持つなんて珍しいじゃん」
言葉に語弊がある。それだと俺が人に無関心で冷たい人に聞こえるぞ。
決してそんなことはない――はずだ。
「からかうな。それで知っているのか」
「もちろんだ。まぁでも、五月女も男だからな。時和さんを知りたいって気持ちはわかる」
うんうん、と篠崎は何度も頷く。
別にそういう恋愛感情や卑しい気持ちで聞いたわけではないのだが、否定しても篠崎は聞く耳をもたないだろう。
一人で勝手に納得して、一人で勝手に突っ走る奴なのだ。一度走り出すと止められないのはここ二カ月で身に染みている。
「それでどんな奴だ」
篠崎に任せていたらいっこうに話が進まないので、再度質問する。
「一言で言えば美人だ」
それは見ればわかる。
「それ以外だ」
「眉目秀麗、才色兼備、容姿端麗」
「前と言ってることが同じだぞ」
進歩という言葉を知らないのかコイツは。
「後、もう一つ。謎が多い」
それは初耳だ。
「謎ってのは具体的にどんなのだ」
「彼女のプライベートなことは誰も知らないんだよ。家族とか、住んでる場所とか。なんでも担当の教師も知らないらしい」
プライベートとは範囲が広い。
しかし、教師が知らないなんてありえるのか。入学手続きで書くだろ、普通。それでなくとも本人に訊いたりするだろう。
「なんでもこの高校の理事長の口利きしてるって噂だ。彼女が本気になれば生徒一人退学にできるって噂もある」
「そんな生徒がいたら怖くて学校生活が送れない」
「何言ってんだ。時和さんがいなかったら学校生活に楽しみがなくなる」
時和にどれだけの期待をよせているんだ、コイツは。
だがなるほど、理事長の口利きがあればプライベートを隠すことも可能か。まぁ、コイツの話を全て鵜呑みにした場合の話だが。
時和天音。
彼女はいったい何者なんだ。
昨晩、湖で見かけた女。格好は着物だったが、あれは確かに時和だった。しかし、その時の彼女はとても人間に見えなかった。湖の上に立っていたこともそうだが、あの姿には人間に出せない妖美さがあった。
俺には彼女が人間だとは思えない。
「まぁ、時和さんにはいろんな噂が流れているけど、今一番話題になっているのが――」
篠崎は勿体ぶるように間を作る。
それだけの驚きの噂なのだろう。もしかしたら彼女が何者なのか、核心を突いたものなのかもしれない。時には真実よりも噂の方が、人を知るうえで核心をついていることもある。
「彼女は彼氏持ちって噂だ」
一番どうでもいい噂だった。
その後は「二年の先輩が男と一緒に歩いているのを見たらしい」だの、「親密そうな関係だったらしい」だのと騒ぐ篠崎を無視して教室を出た。もともと今日提出予定だった宿題をやらずに放課後残された篠崎に付き合わされたのだ。これ以上付き合う義理も、謂れもない。
校庭では野球部の威勢のいい声が聞こえるが、学校内は人気が少ない。昇降口へと下りたところで数名の生徒たちがいた。手には画材道具のようなものを持っている。どうやら全員美術部員のようだ。
彼らに紛れて靴に履き替えようと下駄箱を開いた。その時、目に入ってきたのはいつもの靴ではなく、見覚えのないもの。
それは一枚の便箋。
最初は手紙と思ったが、便箋を二つ折りにしただけのものを手紙と呼ぶのはお粗末だ。メモと呼ぶのが妥当だ。
『五月女縁様へ』と書かれているから、間違いというわけではないんだろう。そして重要なのがメモの内容だが、なんとも達筆な字で『屋上で待っています』とだけ書かれていた。
ベタた。
ベタ過ぎて怪しさまで感じさせてくる。
まぁ、愛の告白やら、ラブレターという選はこの手紙と言えないメモを見た時点で捨てた。残るは悪戯という選だが、俺にはそんな悪戯をされる覚えがない。はっきり言えばそんな友達は篠崎以外にいない。しかし、篠崎はお調子者で悪戯好きだが、片方が嫌な思いをするようなことは絶対にしないし、そもそもアイツはまだ教室だ。だから、この選も考えなくていい。そしてもう一つ、俺に話がある選。しかも、便箋まで使って呼び出すのだから、人前では言えないような話だろし、今も待っているかもしれない。これが一番、可能性がある。
溜息を吐く。
面倒事は本当に勘弁してもらいたいが、行かないと後々さらに面倒になる気がする。
渋々屋上へと向かう。
実際体験してわかったことだが、一階にある下駄箱に『屋上で待っている』なんて手紙(俺の場合はメモ)を入れるなんてただの嫌がらせだ。話があるなら向こうから出向くのが礼儀というものじゃないのか。
そんな愚痴っぽいことを思っているうちに屋上に到着。さっさと終わらせて帰ろう。躊躇なく屋上へと出る。
「遅いっ!!」
出迎えたのは大音量の怒声。
待ち構えたのは鬼のような顔をした時和天音だった。
まぁ、予想は出来ていた。このタイミングで俺に話があるやつは時和しかいない。
「女の子が待っているって言うのにいつまで待たせるの!! それでも貴方男の子!!」
意外だ。時和天音はこんな風に声を荒げて怒るようなやつじゃないと思っていた。人は見かけによらないというのは本当だったらしい。
「それは悪かった。友達と話していてメモに気付いたのが今さっきだったんだ」
「言い訳は聞きたくない」
いや、事実だ。
それに非が全部こっちあるわけでもない。メモを下駄箱にいれるなんて古臭い方法で呼び付けるからこういうことになるんだ。
まぁ、そんなこと言ってもまた言い訳として処理されそうなので言わない。
「本当に悪かった。今度から気をつける」
そう言いながらも内心は「もう次がありませんように」と真剣に祈っている。
そこまで言ってようやく時和は怒りを鎮めた。そして真剣な眼差しで俺を見る顔は、普段学校で見せている顔ではなかった。
「それで俺をここまで呼び出した要件はなんだ」
さっさと用事をすませて帰りたい俺の気持ちに対して、時和はまるで悪知恵を思いついた魔女のような笑みを浮かべた。
「あら、女の子が男の子を屋上に呼び出す理由なんて一つしかないでしょ」
「……そういう冗談はやめてくれ」
「気付いた?」
誰でも気付く。今の時和にそういった雰囲気はまるで感じられない。
「それで要件は?」
責めるように言葉を強く言い放つ。
「昨日の夜、時和湖、私。この単語でだいたいの予想出来るでしょ」
「…………」
そんなヒントをもらわなくても予想は出来ていた。それ以外に俺と時和を結ぶ接点はない。
しかし、どうしたものか。当然のことならが面倒事はごめんだ。ここで正直に話していいものなのか悩む。
「……言っていることがよくわからない。何か勘違いしてるんじゃないか?」
シラを切ることにする。
ここで巻き込まれるのはごめんだ。
「……それは本当なの?」
「ああ、なんのことかさっぱりだ」
「そう……」
時和は俯く。
「ごめんなさい」
「いや、気にするな」
俺はその言葉が勘違いでここまで呼び出したことに対する謝罪だと思った。
だから、話はこれで終わり。
俺は夕日に染まった帰路につく――はずだった。
「――?」
屋上を出ようとドアノブを回すが、扉が開かない。ドアノブは回せるのに扉が重くて押せないのだ。
鍵をかけられた、と一瞬頭を過ったが、手応えがどうもおかしい。鍵をかけられているというより、何かの力で扉を抑えられているようだ。
何度も力を入れるが、扉は一ミリも動かない。
「……マジか」
中から抑えているなんてレベルじゃない。まるでドアノブの付いた壁を押しているような感覚だ。
これは人間の力じゃない。人知を超えた力だ、と瞬時に理解した。
「どういうつもりだ、時和。俺を閉じ込めてどうする気だ」
「貴方がいけないのよ。嘘を吐くから」
そう淡々と喋る時和。
「俺は正直に話した。それを勝手に嘘だと決めつけてほしくない」
「それも嘘」
どうやら時和には嘘は通じないようだ。
「お願いだから本当のことを話して。でないと百目鬼は貴方のことを――」
「百目鬼?」
聞き覚えのない名前。
「それはいったい――」
だから聞き返そうと、言葉を発するもそれは不意に現れた後ろの人の気配によって遮られた。
さっきまで気配も感じなかったのに、今、俺の後ろ、息もかかるような距離に誰かがいる。
「お願い。本当のことを言って」
追い詰められているのはこっちだというのに、時和は必至に懇願している。
それだけ俺が傷ついてほしくないのか、この百目鬼という人物に人を傷つけてほしくないのか、それともただ単に人が傷ついてほしくないのか。
前者だけはありえない、と心の中で馬鹿馬鹿しい考えを罵倒する。
そして溜息を吐いた。
「……わかった。本当のことを言う。それでいいだろ」
時和は満足そうに頷く。
「その代わり、俺もお前に訊きたいことがある」
「貴方が本当のことを話してくれたら、なんでも答えるわ」
その返答に満足して、俺は昨日の夜の出来事を話す。とは言ってもただ納豆を買いに行った帰りに時和湖で時和を見かけたってだけだ。
話すのに一分もかからなかった。
「そうやっぱり貴方は私たちのことが“視える”のね。昨日の私は人間には見ることができないはずなの。それなのに貴方はしっかりと私を見ていた」
一通り話し終えると時和はそう切り出した。
「…………」
「正直に言って。そうしないと」
と時和は俺に後ろに視線を向ける。
そこにはまだ人の気配がある。
また溜息が漏れた。
「そうだ。俺は“視える”よ。人には見えない妖怪とか、アヤカシとか、昨日のお前も俺には見える」
「そう、これですっきりした。脅すようなやり方をしてごめんなさい」
時和の言葉で後ろにある気配が消えた。
糸の切れた操り人形のように体の力が抜ける。背中と両手は冷や汗でびしょ濡れだ。
そして再び時和に視線を向けると、そこには黒いスーツの男が立っていた。
いつの間に。
そう思って男を観察していると額に小さな角がある。
何度か見たことがある。
あの男は鬼だ。
「それで貴方の聞きたいことってなに?」
鬼に気を取られていると、時和の方から訊いてきた。
「お前の正体だよ。よくわからないが、俺にはお前がただの妖怪には見えないんだ」
あの湖での時和は、妖怪やアヤカシという言葉で片付けられるほど小さなものではなかった。
「そうね。まずは自己紹介しましょうか。私は時和天音、あの時和湖の化身」
「化身?」
「ええ、人は私のことを九十九神とか、土地神とか呼ぶわ」
九十九神は古くからある物や土地に心が宿るというやつで、土地神はその土地を守護する神だと聞いたことがある。
「それはつまりお前は時和湖自身であそこを守っている神ってことか?」
「そうね。理解が早くて助かるわ」
これまで妖怪やアヤカシなんかは腐るほど見てきたが、神様を見たのは初めてだ。しかも同じ高校の同級生なんて、神様がそんな人間に染まっていていいのか。
「それでこっちが百目鬼。時和湖の近くの森に住んでいた額に角のある鬼。私のボディーガードなんかしてくれているの」
そこで初めてその百目鬼とかいう鬼と目がった。
どこかで見たことある顔だ。
「あ、もしかしてこの学校の理事長か」
確か学校新聞なんかで見たことある。
「よく気付いたわね」
ここの理事長は若くて寡黙だと一部の女子生徒に人気があると、篠崎から聞いたのだ。
しかし、その理事長が人間じゃなく鬼で、しかも神様のボディーガードだったとは思わなかった。
「最後に一つお願いというより、忠告をしておくわ」
となんとも友好的な笑みを浮かべて、
「もしこのことを誰かに言ったら今度こそ百目鬼が後ろからやるわ」
なにをやるんだ。なにを。
なんとも恐ろしいことを言い放った。
「肝に銘じておく」
そう言うと時和は満足そうに頷く。
「それじゃあ私は訊くことは聞いたから帰るわ。来てくれてありがとう。それじゃあまた明日」
「ああ、また明日」
そう言うと時和は屋上から去り、理事長はいつの間にか消えていた。そして屋上には俺だけが残される。
この時、俺は時和が言った「また明日」が社交辞令だと思っていた。