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第11話:忠誠という名の特級爆弾

深夜一時二分。

白亜館の西翼、かつて密談のために設えられた小会議室。

厚さ十センチを超えるオーク材の扉が重く閉ざされ、カチリと魔術の施錠音が鳴り響いた瞬間、室内の空気は完全に外界から隔絶された。


壁と天井の隙間に、紫色の魔力膜が蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。

審問領域の『遮音結界』。

外の猛吹雪の咆哮も、サロンに残された者たちの息遣いも、一切届かない。

この部屋の中で発せられた吐息の一つ、心臓の鼓動の一つすら、結界の外へ漏れ出ることは物理的にも魔術的にもあり得ない。


制限時間は、わずか十分。

その、最初の三分の一が始まろうとしたその刹那だった。


ザザッ……!


硬質な衣擦れの音とともに、私の専属従者であるローレンス・ケラーは、一切の躊躇なく冷たい絨毯の上に両膝を打ちつけた。

それだけではない。

彼は仕立てのいい漆黒の上着の胸元を床に擦り付けんばかりに深く平伏し、額を私の靴先からわずか数センチの床へと押し当てたのだ。


「……お嬢様」


絨毯越しに押し殺された声。

だが、その低い響きには、常軌を逸した熱量が孕まれていた。

震える両手の拳が、床の織り目を強く握りしめている。


「お願いでございます……どうか、今夜二十一時四十五分、書斎の前の廊下でお嬢様がお持ちだった、あの空のガラス小瓶を……私にお渡しください」


ローレンスはゆっくりと顔を上げた。

乱れた漆黒の前髪の隙間から覗くその瞳は、狂信者が神の奇跡を前にした時のように濡れ、濁った情念の光をギラギラと宿していた。

彼の視線は、私の顔ではなく――私のドレスの右脇、隠しポケットがあるはずの腰元へと、切迫した渇望を込めて注がれている。


「小瓶をお渡しいただければ、私が今ここで、丸呑みにして胃袋の奥底へと隠蔽いたします。たとえどのような魔術スキャンや身体検査を受けようとも、我が肉体を切り裂かれぬ限り、その凶器が決してお嬢様の手元から出たとは露見いたしません」


ローレンスは喉を詰まらせ、浅く荒い息を吐きながら、畳み掛けるように言葉を紡いだ。


「明朝六時の最終投票においては、私が『私が独断でアルブレヒト侯爵を毒殺した』と告白し、自ら最多得票を引き受けます。審問領域の雷光が我が身を焼き、魂が砕かれようとも、何の後悔もございません……! 我が命、我が魂のすべては、物心ついたあの日よりお嬢様のもの。どうか、私を踏み台にして……お嬢様だけは、生き残ってください……!」


痛切極まりない自己犠牲の懇願。

命を捨てて主人の身代わりになろうとする、狂おしいまでの忠誠心。

常人であれば、涙を流して感謝するか、あるいはその恐ろしい重圧に圧倒されて言葉を失う場面だろう。


だが――。


私の内側で急速に立ち上がったのは、感動でも同情でも戦慄ですらなく、氷水を頭からぶっかけられたような「底知れぬ呆れ」と、ゲーマーとしての「激しい憤り」だった。


(……はあぁぁぁ……っ、出たわよ)


私は扇子を握る右手の指先にわずかに力を込め、深く、長いため息を肺の奥から吐き出した。


(出たわ。マダミスを何百卓と回してきた中で、最も頭を抱えさせられた最悪のプレイヤー――『善意のトロール(利敵荒らし)』が……!)


頭痛が痛むのを通り越して、こめかみの血管がピキリと鳴る音が聞こえそうだった。

前世の記憶が、鮮烈な苦い記憶とともにフラッシュバックする。


週末のプレイスペース、クライマックスの投票直前。

自分が犯人(キラー)として完璧なブラフを張り巡らせ、無実の別人に疑いを集中させ、あと一歩で完全犯罪が成立するというその瞬間に――。

「僕がやりました! 彼女を助けるために、僕が自首します!」と、何の脈絡もなく叫び出し、盤面をぐっちゃぐちゃに引っ掻き回してドヤ顔を決めた、あの初心者プレイヤーの顔が脳裏をよぎる。


身代わり。

自己犠牲。

一見すれば美談に見えるその行動が、マーダーミステリーという情報戦のゲームにおいて、どれほど致命的な「利敵行為」であるか。この忠実すぎる忠犬は、何一つ理解していないのだ。


「……却下よ、ローレンス」


冷え切った、感情を一切交えない私の声が、狭い会議室の空気を切り裂いた。


「え……?」

床に平伏していたローレンスが、弾かれたように顔を上げた。

その漆黒の瞳に、困惑の色が浮かぶ。

自分の命を差し出せば、主人は安堵し、喜んでその生贄を受け取るものだと信じ切っていたのだろう。彼の表情は、まるで理解不能な神託を告げられた信徒のように固まっていた。


私は一歩、床を踏みしめて前へ進み出た。

豪奢なシルクのドレスの裾がサラサラと衣擦れの音を立てる。

見下ろす私の視線は、彼が望むような慈愛の色など微塵もなく、愚かなミスを犯した部下を冷徹に裁く上司のそれだった。


「聞こえなかったかしら? 却下よ。身代わりなんて、初心者がやる最悪のプレイング(悪手)だわ」


「お、悪手……? お嬢様、何を仰せなのですか!? 小瓶さえ私が飲み下し、私が罪を被れば、お嬢様への疑いは完全に晴れるのです! 私のような従者の命など、お嬢様のお命に比べれば羽毛よりも軽い! どうか――」


「黙りなさい、ローレンス」


私の鋭利な一喝に、ローレンスは喉を詰まらせて言葉を飲み込んだ。

私は胸の前で扇子をパチンと鳴らし、彼を射抜くように冷ややかに言い放つ。


「あなたのその安っぽい忠誠心で、私の完全犯罪を台無しにする気? ……少しは自分の頭で盤面を考えてみなさい。あなたが今ここで『自首』して、一体誰が納得すると思っているの?」


「だ、誰がって……審問領域が、そしてユリアン卿が……」


「馬鹿ね」

私は容赦なく切り捨てた。

「ユリアン・フォン・ファルケンハインという男の頭脳を、見くびるのもいい加減になさい。彼は感情で人を裁くような俗物じゃないわ。提示された事実と証拠を、顕微鏡で観察するように徹底的に照合する論理の権化よ」


私は指を一本立て、ローレンスの目の前に突きつけた。


「第一に――あなたには、犯行時刻のアリバイがあるわ。昨夜二十一時四十五分、私が書斎で侯爵にブランデーを飲ませていたその時刻。あなたは何をしていた?」


ローレンスは息を呑んだ。

「私は……厨房の勝手口付近で、リネン室の鍵の受け渡しについて、下働きの使用人と話をしておりました……」


「そうよ。複数の使用人が、二十一時四十五分前後にあなたの姿を厨房付近で目撃している。タイムライン上、あなたがその瞬間に二階の書斎へ行き、侯爵に毒入りの酒を手渡すことは物理的に不可能なのよ」


私は冷淡に言葉を続ける。


「ユリアンがそのアリバイを照合すれば、あなたの『自首』など、三分で杜撰な偽証だと見抜かれるわ。そして、次に何が起きると思う?」


ローレンスは蒼白な顔のまま、言葉を失って唇を震わせる。


「マダミス……いいえ、この審問領域における探偵役の思考回路を教えてあげるわ。アリバイのある人間が、己の命を投げ打ってまで偽証を行い、真犯人の身代わりになろうとした時――探偵が導き出す結論はただ一つよ」


私は腰をわずかに屈め、冷たい視線をローレンスの瞳の奥深くへと突き刺した。


「『この男が、自らの命を捨ててまで庇わねばならない人間は誰か?』――よ」


ローレンスの身体が、雷に打たれたようにビクッと跳ねた。


「あなたは何者? クローデル侯爵家の専属従者。幼少期から私だけに仕え、私の影として生きてきた男よ。そんなあなたが命懸けで庇う相手が、義妹のセレスティーヌだと思うかしら? 借金まみれのエドガーだと思うかしら? 未亡人のフロランス夫人だと思うかしら?」


私は首を横に振った。嘲笑を込めて。


「あり得ないわ。誰がどう見ても、あなたが命を差し出して守るべき対象は、この私――ヴィヴィアン・クローデルただ一人よ」


狭い小会議室に、私の冷徹な宣告が突き刺さる。


「あなたが中途半端に自首した瞬間、ユリアンの中で『ヴィヴィアン黒幕説』は百パーセントの確信へと跳ね上がるの。

『従者が身代わりを買って出たことこそが、ヴィヴィアンが真犯人である動かぬ証拠だ』とね。

あなたが処刑台で魂を砕かれた後、翌朝の決選投票で、私は逃げ場を失って最多得票を集め、あなたの後を追って処刑台へ送られることになる。……それが、あなたの望んだ結末かしら?」


「あ……っ、ああ……」


ローレンスの喉から、絶望の呻きが漏れた。

彼は自らの両手を見つめ、ガタガタと激しく震え始めた。

良かれと思って差し出そうとした命が、主人の首を絞める最悪の縄にしかならないという残酷な真実を突きつけられ、彼の信仰は根底から打ち砕かれたのだ。


「私……私は……お嬢様を、救おうと……」


「救う? 笑わせないで」

私は冷ややかに鼻を鳴らした。

「生き残るための正解はね、身内を雑に死なせることじゃないのよ。無実の別人にすべてのヘイト(疑い)を集め、そいつを完璧な犯人として仕立て上げ、全員一致で処刑台へ叩き落とすこと――それだけが、完全犯罪の唯一の勝利条件なの」


私はそう言い放ちながら、密かに自らの足元――ドレスの裾の感触を意識した。


ローレンスは知らないのだ。

彼が必死に「渡してください」と懇願しているあの猛毒『蒼鉛の雫』の空小瓶が――すでに私のポケットの中には存在しないということを。


第6話において、私がサロンの床に扇子を落とし、屈み込んだわずか三秒の隙。

私はあの時すでに、小瓶をポケットから抜き出し、ドレスの巨大なスカートを膨らませる骨組み――「パニエ」の最下段の内側に、シルクのリボンで頑丈に括り付けて固定してある。


今、私の隠しポケットの中にあるのは、第2話で現場から回収したエドガーの「銀のカフスボタン」と、白いレースのハンカチだけ。

誰が私の身体検査をしようと、毒の瓶など影も形も出てこない。


ローレンスが「小瓶を丸呑みにして隠蔽する」などという前時代的で危険極まりないギャンブルに身を投じる必要など、初手から1ミリも存在しなかったのだ。

私の先見の明とプレイングスキルは、この忠犬の浅知恵の遥か先を行っていた。


(まったく……手のかかる忠犬ね。でも――)


私は平伏したまま絶望に打ちひしがれているローレンスを見下ろした。

彼の肩は小さく震え、主人の役に立てなかったという自己嫌悪で、今にも自らの爪を床に立てて血を流しそうなほど追い詰められている。


(この男の忠誠心そのものは、本物よ。利用価値は十二分にある)


彼が持つリソース。

それは、彼自身の「命」ではない。

彼が持っている『3枚の証拠調査トークン』、そして屋敷の裏道や使用人たちの動線を熟知している『従者としての機動力』だ。


彼を勝手に自爆させて盤面を壊されるのは御免だが、私の完全なる遠隔操作の駒(リモート・コントローラー)として再定義できるなら――これほど心強く、これほど使い勝手のいい共犯者は他にいない。


調教の時間だ。

この男の歪んだ忠誠心の信管を、私の手で完全に改造してやる。


スッ……と、私は右手に持っていた象牙の扇子を伸ばした。


閉じた扇子の硬い先端を、ローレンスの伏せられた顎の下へと滑り込ませる。

カチリと象牙が骨に触れる感触。

私は手首をわずかに返し、強引に、しかし優雅な力加減で、彼の顔を上へと持ち上げた。


「……っ」


ローレンスが息を呑み、強制的に私を見上げる形になる。

至近距離。

彼の濡れた漆黒の瞳と、私の冷酷な琥珀色の瞳が、わずか数十センチの距離で交錯した。

彼の喉仏が、緊張と畏怖のあまり、ゴクリと大きく上下するのが見えた。


私は扇子の先で彼の顎を冷たく固定したまま、唇の端を妖艶に、そして底知れぬ悪意を込めて吊り上げた。


「私のために死にたいなら――死に方くらい、私の指示に従いなさい」


女王が跪く奴隷に下すような、絶対の支配の宣告。


ローレンスの瞳孔が、カッと見開かれた。

その瞳に宿ったのは、恐怖ではなかった。

自らの存在のすべてを、魂の形に至るまで主人の意志によって塗り替えられることに対する――狂おしいほどの歓喜と、陶酔の光だった。


「……お嬢様……」

ローレンスの掠れた唇から、熱を帯びた吐息が漏れる。


「生き残りなさい、ローレンス。私の手足となって、私の盤面のためにその命を使い潰しなさい。……理解できたかしら?」


「は……はい……! 我が主、我が魂のすべて……! 仰せのままに……!」


ローレンスは扇子の先で顎を支えられたまま、恍惚とした表情で頷いた。

特級爆弾の信管は、今、完全に私の支配下へと収まったのだ。


密談の残り時間は、あと六分。

私の完全犯罪を確固たるものにするための、共犯者への具体的な命令フェーズが始まろうとしていた。

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