第1話:犯人(わたし)のハンドアウト
ガラス窓を激しく叩きつける吹雪の音が、まるで外の世界から切り離された絶壁の城を丸ごと咀嚼しようとしているかのようだった。
深夜二十三時三十分。
暖炉にくべられた薪が爆ぜる音すら掻き消すほど、空間は凍てついていた。
白亜館――断崖絶壁に孤立したこの瀟洒な古城の「大サロン」に、耳を劈く女の悲鳴が木霊したのは、ほんの数分前のことだ。
「旦那様が……! 旦那様が、動かないのです……! 書斎で、机に突っ伏したまま、息をしておいでになりません……!」
濡れた床に膝をつき、髪を振り乱して泣き叫ぶのは、三十年この屋敷を取り仕切ってきた家政婦長のマルタだった。夜食のスープを運んだ彼女のトレイは、絨毯の上で銀食器とともに無残に転がっている。
サロンに集まっていた面々の空気が、一瞬で凍りついた。
「おい、マルタ! どういうことだ、父上がどうしたと!?」
声を荒らげてマルタの肩を掴み揺さぶったのは、私の婚約者であるエドガー・フォン・ハルデンベルクだった。整った顔立ちを蒼白に歪め、襟元のネクタイに指をかけて落ち着きなく引っ張っている。彼の額には、この極寒のサロンに似つかわしくない嫌な脂汗が滲んでいた。
「お父様が……そんな、嘘でしょう……?」
エドガーの背後で、神に祈るように胸の前で両手を組み、震えているのは義妹のセレスティーヌだ。修道女のように慎ましいドレスを纏った彼女の瞳には、純粋な恐怖と、それを覆い隠そうとするような不自然な硬直が浮かんでいる。
主治医であるテオドール医師がカバンを抱えて駆け出そうとし、サロンの長椅子に腰掛けていた未亡人フロランス伯爵夫人は、黒い扇子で口元を覆いながら細めた瞳で周囲を冷ややかに品定めしていた。
阿鼻叫喚。絵に描いたようなパニック。
その狂騒の只中で――私は、自らのこめかみを突き抜けるような激しい頭痛に耐えかね、サロンの大理石の柱にそっと手を預けていた。
(……痛い。頭が、割れそうに熱い……)
意識の混濁。硝子細工が砕け散るような音とともに、私の脳裏に「二つの記憶」が濁流のように雪崩れ込んできた。
一つは、この大陸の北端を統べる大貴族、クローデル侯爵家の正統なる令嬢――ヴィヴィアン・クローデルとしての記憶。傲慢で冷淡、しかし社交界のしきたりと計算高さだけは叩き込まれた十八歳の記憶。
そして、もう一つ。
日本の都心、薄暗いオフィスで終電間際までキーボードを叩き、週末になれば徹夜で雑居ビルのプレイスペースに籠もっていた記憶。
シナリオを読み込み、タイムラインを精査し、他人の言動の裏にある「隠された思惑」を暴くことに魂を売っていた二十代後半――。
何百もの密室、何千もの狂言を解体してきた、骨の髄までの『マーダーミステリー狂い』としての前世の記憶。
(私……転生、したの……? それとも、思い出しかけていただけの夢……?)
自分の白い指先を見つめる。前世の荒れた皮膚とは違う、絹のように滑らかで手入れの行き届いた令嬢の手。
だが、その感慨に浸る猶予など、この世界は一秒たりとも与えてくれなかった。
ギイィィィィィン――……!
大サロンの天井、巨大なシャンデリアのさらに上空から、空間そのものが軋むような異様な金属音が降り注いだ。
耳を塞ぎたくなるほどの高周波。
次の瞬間、吹き抜けの天井いっぱいに、禍々しくも美しい青白い光の幾何学模様――巨大な魔術陣が展開した。
「な、なんだこれは……!?」
「魔術陣……? 結界か!?」
エドガーの叫び声に呼応するように、城のすべての窓、すべての扉、煙突の隙間に至るまで、青白い燐光を放つ半透明の結晶膜が張り巡らされていく。
外界の猛吹雪の気配が、完全に遮断された。城全体が、一つの密閉された箱舟――いいえ、隔離された実験場へと変貌したのだ。
誰かが叫んだ。
「扉が開かない! びくともしないぞ!」
「神の怒りか、悪魔の呪詛か……!」
パニックに拍車がかかる中、サロンの中央で一人だけ、微動だにせず冷徹に天井を見上げている男がいた。
帝国司法卿にして監察卿、ユリアン・フォン・ファルケンハイン。
氷を削り出したかのような美貌に、夜の海よりも暗い青の瞳。彼は仕立てのいい軍服風の外套の裾を翻し、帯剣の柄に手を置いたまま、低くよく通る声で呟いた。
「騒ぐな、見苦しい。……これは古代魔導遺構の産物、『審問領域』だ。当主の不審死に反応し、事件が解決するまで外部との接触を物理的・魔術的に一切遮断する、不可逆の絶対結界だな」
ユリアンの言葉が終わると同時だった。
パチ、と音を立てて、私の網膜の裏側に直接、青白い光の文字列が投影された。
他の誰にも見えない、私の視界だけに強制的に割り込んできた、半透明の羊皮紙のようなフォーマット。
それは、前世で私が週末ごとに飽きるほど見つめてきた、あの最悪で最高にスリリングな文書そのものだった。
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【審問領域・キャラクターシート(HO)】
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・氏名:ヴィヴィアン・クローデル
・あなたの役割:アルブレヒト侯爵を毒殺した真犯人
【勝利条件】
翌朝6:00の『最終投票』において、最多得票を免れること。
(※他者に最多得票を集め、処刑を回避すれば完全勝利)
【敗北条件・ペナルティ】
最終投票にて最多得票を獲得した場合、即座に審問領域の雷光により『魂の執行(処刑)』が行われます。
【所持品】
・空のガラス小瓶(※猛毒『蒼鉛の雫』の容器。身体検査で発見された場合、即座に処刑確定)
【秘密・追加ミッション】
亡き侯爵の執務机および金庫に存在する『旧遺言書』を完全に破棄し、自らの廃嫡を防ぎ、家督相続権を掌握すること。
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(――っ!?)
息が止まりそうになった。
心臓が肋骨の裏側で激しく跳ね上がり、全身の血液が一気に沸騰したかのような錯覚に襲われる。
「あなたの役割:アルブレヒト侯爵を毒殺した真犯人」――。
冗談でしょう、と喉元まで出かかった言葉を、私は奥歯を噛み締めて物理的に飲み込んだ。
恐る恐る、胸元からドレスの右脇へと手を滑らせる。
重厚なシルクのひだの奥、目立たないよう仕立てられた隠しポケット。
指先が触れたのは――冷たく、滑らかな、手のひらサイズの硬質なガラスの感触だった。
中身は空。しかし、鼻を近づければかすかに鉱物めいた金属臭が漂う、正真正銘の毒薬の容器。
(私が……本当に、殺したの……?)
記憶が急速にフラッシュバックする。
今夜、二十一時四十五分。
私は確かに、厨房から運ばせたブランデーグラスを手に、二階の書斎へと足を踏み入れた。
机に向かう父――冷酷で、私を道具のように扱い、修道院送りにしようとしていたアルブレヒト侯爵の前にグラスを置き、その中に指先で隠し持っていた「蒼鉛の雫」を一滴、音もなく落とした。
侯爵がそれを一口飲み干すのを、冷ややかな微笑みを浮かべながら見届け、優雅に一礼して部屋を去った。
――あの行動は、夢でも妄想でもない。
この身体、ヴィヴィアン・クローデルが自らの意思で完遂した「犯行」だったのだ。
「……ひどい、なんてことなの……」
サロンの隅で、セレスティーヌが床にへたり込んで泣き崩れている。
「エドガー様、私たち、ここから出られないのですか……? 朝まで閉じ込められるのですか……?」
「だ、大丈夫だ、セレスティーヌ。私がついている。だが……なぜ結界が発動する? 侯爵は病死かもしれないだろう!?」
エドガーが掠れた声で喚くが、その視線は泳ぎ、落ち着きなく右手を上着のポケットへ突っ込んでいる。
周囲の人間たちは、完全に未曾有の事態に恐慌状態に陥っていた。
未知の結界。当主の死。網膜に映る謎のメッセージ。
彼らにとっては、世界の理が崩壊したかのような恐怖なのだろう。
だが――私にとっては違った。
(……落ち着きなさい、ヴィヴィアン。ううん、私)
深く、肺の底まで冷気を吸い込む。
胸の奥で暴れ回っていた動揺が、急速に引いていくのを感じた。
まるで、真冬の湖に氷が張るように。
パニックに呑まれていた脳の領域が、急速に冷徹な計算と論理の回路へと切り替わっていく。
これは、前世の私が何百回と経験してきた、あの極限の盤面だ。
(状況を整理しなさい。感情はゴミ箱へ捨てるのよ)
網膜の文字を、もう一度冷静にスキャンする。
勝利条件は「翌朝六時の最終投票で最多得票を免れること」。
つまり、探偵役や他の容疑者たちを全員欺き、誰か別の人間を「真犯人」として仕立て上げ、そいつに票を集中させて処刑台へ送り込めば――私の勝ちだ。
逆に、私の犯行が暴かれ、最多得票を集めてしまえば即座に死。
エクスキューズなし。ゲームオーバー=人生の終了。
(よりによって、最初の卓で真犯人のハンドアウトを引き当てるなんてね……)
思わず、自嘲気味な笑みが唇から零れそうになるのを必死で押し留めた。
最悪の引きだ。難易度はナイトメア級。
だが、同時に私の奥底に眠っていた「ゲーマーの血」が、ゾクリとするような甘美な痺れを伴って疼き始めていた。
(ルールを読み解きなさい。この世界の理がマダミスを模しているなら、必ず『セオリー』が存在するはず)
まず、制限時間。
今は深夜二十三時三十分。最終投票は翌朝六時。
残された猶予はおよそ六時間半。
その間に、全体議論が計三回、密談フェーズが計三回、そして証拠調査。
初心者が犯人役を引いた時、最も高確率でやらかす致命的なミスが何か、私は痛いほど知っている。
それは――「目立たないように沈黙すること」だ。
やましいことがあるからと口数を減らし、部屋の隅で怯えた無害な令嬢を演じる。
それは序盤こそ追及を逃れられるかもしれないが、中盤以降、情報が出揃って議論が煮詰まった時に必ず仇となる。
「そういえば、ヴィヴィアン嬢はずっと黙っているな」「何も情報を提供していない」「白(無実)を証明する証言が一つもない」――そうして、議論の終盤に都合のいいスケープゴートとして、真っ先に吊り上げられるのだ。
生き残るための鉄則は、真逆。
(盤面を握るのよ。発言権を確保し、議論のファシリテーション(進行)に食い込むの。嘘を吐くのは最小限。九割の真実に、たった一滴の致命的な虚偽を混ぜて、他人の視線を誘導する……!)
思考を固めたその時、背後から音もなく近づいてくる気配があった。
振り返ると、漆黒の夜会服を乱れなく着こなした、背の高い青年が静かに控えていた。
私の専属従者、ローレンス・ケラーだ。
前髪の隙間から覗く濡れたような黒い瞳が、私をじっと見つめている。
彼の表情には、エドガーのような怯えも、セレスティーヌのような動揺も一切ない。
ただ、昏い情念を宿した瞳で私の右手の隠しポケット――そこに触れていた私の指先を、正確に見つめていた。
(……ローレンス)
記憶の引き出しが開く。
二十一時四十五分、書斎から出た直後の薄暗い廊下。
曲がり角の影に、この男が立っていた。
私が毒の小瓶をポケットに滑り込ませた、その決定的な瞬間を――ローレンスは、目撃していたのだ。
ローレンスは私にだけ聞こえるような微かな声で、唇をわずかに動かした。
「……お嬢様。ご安心を」
その瞳には、主人の罪を告発しようとする正義感など微塵もなかった。
あるのは、狂気すら孕んだ、重すぎるほどの盲従と自己犠牲の色。
(この男……もしや、自分が身代わりになるつもりでいるの……?)
背筋に冷たいものが走る。
忠誠心はありがたいが、マダミスにおいて「愚かな味方の暴走」ほど盤面を引っ掻き回す害悪はない。彼への手綱も、早急に握り直す必要がある。
「皆様、取り乱している場合ではありません」
サロンの空気を切り裂いたのは、涼やかで、しかし絶対の威厳を帯びた声だった。
監察卿ユリアンが、円卓の中央へと歩み出る。
彼は腰のサーベルを鞘ごと外してテーブルの上に無造作に置くと、氷の刃のような視線で一同を睥睨した。
「当主アルブレヒト侯爵が死亡し、この館が『審問領域』に閉ざされた。結界の性質上、我々の中にいる『何者か』が侯爵を弑逆したことは明白だ」
「なっ……! 身内を疑うのか、ユリアン卿!」
エドガーが上擦った声で噛みつくが、ユリアンは眉一つ動かさず、冷徹に一蹴した。
「感情論は無意味だ、ハルデンベルク卿。結界を解除し、生きてここから出る方法はただ一つ。翌朝六時の最終投票までに、侯爵を殺害した犯人を特定すること。……外の吹雪を待つまでもなく、我々の命はすでにこの密室の秤の上に載せられている」
ユリアンの青い瞳が、獲物を探す鷹のように円卓の面々を順に射抜いていく。
テオドール医師、マルタ、フロランス夫人、セレスティーヌ、エドガー、ローレンス――。
そして、その鋭利な視線が、最後に私――ヴィヴィアン・クローデルの顔の上で、ピタリと静止した。
わずかに細められるユリアンの瞳。
名探偵としての直感か、それとも司法卿としての観察眼か。
彼は私の表情の微細な変化、呼吸のリズム、立ち姿の重心に至るまでを、ミリ単位で見極めようとしていた。
普通の令嬢なら、その冷たい重圧に耐えかねて目を伏せるか、震え上がるはずだ。
けれど――私は、引かなかった。
背筋をすっと伸ばし、顎をかすかに上げ、完璧な淑女のカーテシーを返すように、優雅に微笑んでみせる。
視線を逸らさず、まっすぐにユリアンの青い瞳を受け止めた。
(ええ、いいわよ。見ていなさい、冷酷な名探偵殿)
ドレスの奥のガラス小瓶が、私の体温を吸ってじんわりと温まり始めていた。
私の手札は最悪。周囲は敵だらけ。
一歩でも踏み外せば即座に処刑台行きの、狂気のデスゲーム。
けれど、私の唇の端は、誰にも気づかれないほど微かに、吊り上がっていた。
「……上等よ。絶対に、吊らせたりしないわ」
誰にも聞こえない宣戦布告とともに、私の完全犯罪を懸けた最初の夜が、静かに幕を開けた。




