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「婚約破棄、受理します」とサインした瞬間、全使用人が『ならば我々も』と一斉退職しましたが、私の知ったことではありません。〜隣国の皇帝陛下に『君がいるとよく眠れる』と安眠枕がわりに溺愛中〜

作者: 抵抗する拳

「アリア! 貴様のような愛想のかけらもない女との婚約は、これをもって破棄させてもらう!」


 王宮主催の夜会――ではなく、公爵邸の執務室。

 時刻は定時を三十分過ぎたところ。


 目の前でテーブルを叩き、唾を飛ばしているのは私の婚約者であり公爵家の嫡男、ジェラール様です。

 金髪碧眼の美しいお顔が、今は興奮で真っ赤に茹で上がっていますね。


 彼が腰に手を回しているのは、最近雇われたばかりの新人メイド、ミナさん。

 ピンク色のふわふわした髪の毛が可愛らしいですが、勤務時間中に雇い主とイチャつくのは服務規程違反です。減給対象ですね。


「⋯⋯聞いてるのか! 俺はミナと結婚する! お前のような、書類と計算機しか愛せない冷血女は出ていけ!」


 私は手元の懐中時計を確認し、パチン、と蓋を閉じました。

 ふむ。残業代を請求するには微妙な時間ですが、まあ良いでしょう。


 私はスッと背筋を伸ばし、完璧な角度のカーテシーと共に口を開きました。


「承知いたしました」

「は⋯⋯?」

「ジェラール様のお申し出、謹んでお受けいたします。こちらの婚約は、本日ただいまをもちまして白紙撤回ということで」


 私は持っていたバインダーから、一枚の書類を抜き出しました。


「な、なんだそれは」

「あらかじめ用意しておりました、『婚約破棄および公爵家運営に関する業務提携解消同意書』でございます」

「ぎょ、業務提携⋯⋯?」


 ジェラール様が怪訝な顔をしましたが、私はすかさず彼の手に最高級の羽ペンを握らせます。


「難しいことはございません。要は、私が今後一切、貴方様に関与しないこと。そして、貴方様も私に一切の干渉をしないこと。その確約書です」

「ふん、どうせ慰謝料の請求だろう! 金ならいくらでもくれてやる!」

「いえ、金銭の要求はございません。ただサインを。これさえあれば、晴れて貴方様は自由です」


 自由。

 その甘美な響きに、ジェラール様のIQが急降下したのが見て取れました。


 彼は書類の内容――『※本契約の締結と同時に、アリアが構築した全魔力供給システム、および人事管理システムの権利はすべて甲に返還されるものとする』という極小フォントの文言――に目を通すこともなく、サラサラと署名しました。


「よし! これで終わりだな!」

「はい。不備なく。⋯⋯これにて、私の業務はすべて終了いたしました」


 私は書類を素早く回収し、鞄に収めます。

 前世、ブラック企業の人事で培った「退職届受理スキル」が、まさか異世界で役に立つとは。


「おい、待てよアリア」


 私が踵を返して部屋を出ようとすると、ジェラール様がニヤニヤと笑いながら呼び止めてきました。


「泣いてすがらないのか? 今なら土下座して『事務員として置いてください』と頼めば、考えてやらんこともないぞ? お前、俺がいないと生きていけないだろう?」


 ⋯⋯逆です。

 貴方が、私(の事務能力)なしで生きていけると思っているのですか?


「お気遣い感謝いたします。ですが、お断り申し上げます」

「なにっ?」

「私はこれより、長年溜め込んでおりました有給休暇⋯⋯いえ、永遠の休暇をいただきますので」


 私はニッコリと、あくまで「ビジネスライクな笑顔」を向けました。


「それではジェラール様、ミナ様。どうぞ末長く、破滅的な未来をお楽しみください」


 私は執務室のドアを開け放ち、廊下へと足を踏み出しました。

 その瞬間です。


 ブツンッ⋯⋯ヒュン。


 屋敷中の魔道具が作動する低い駆動音が、唐突に途絶えました。

 同時に廊下の照明、執務室のシャンデリア、空調の魔石――すべてが光を失い、屋敷全体が薄暗い静寂に包まれます。


「な、なんだ!? 停電か!?」


 ジェラール様が慌てふためく声が聞こえます。

 当然です。この屋敷の魔力循環システムは、私が毎朝5時に起きて調整し、私の魔力を効率的に流すことで維持していたのですから。

 私が契約を破棄した今、供給が止まるのは道理。


「お、おい! 誰か! 明かりをつけろ! 執事長! 騎士団長!」


 ジェラール様が廊下に向かって叫びました。


 闇の中から数名の影がぬっと現れます。

 執事長のセバス、メイド長のマーサ、そして騎士団長のガレインです。

 彼らは長年この家を支えてきた古株たち。


 ジェラール様が安堵の表情を浮かべます。


「なんだ、いたんじゃないか。早く魔石を交換しろ! それとアリアを捕まえろ!」


 しかし。

 彼らは動きませんでした。


 それどころか、セバスがおもむろに胸元の「公爵家紋章入りのバッジ」を取り外し、チャリ⋯⋯と床に落としたのです。


「⋯⋯セバス?」


「ジェラール様。アリア様との契約終了、確認いたしました」


 セバスが、いつもの温厚な声を、氷点下の冷徹さに変えて告げました。


「我々使用人一同、雇用契約書第12条『アリア様が当家の運営から退いた場合、即時に労働契約を解除できる』という条項を行使させていただきます」


「は、はあ!?」


 続いて、メイド長のマーサが白いエプロンを脱ぎ捨てました。


「アリア様の完璧なシフト管理と福利厚生があったからこそ、このクソ⋯⋯いえ、手のかかるお屋敷で働いておりましたの。アリア様がいらっしゃらないのであれば、本日付けで退職させていただきます」


「ま、待て! 誰が俺の着替えを手伝うんだ!?」


 最後に、騎士団長のガレインが剣を床に置きました。


「俺たちの給与未払いを立て替えてくれていたのも、アリア様でしたからな。⋯⋯あ、これ、今月未払い分の請求書です。あとで払っておいてください」


 騎士団長は懐から分厚い封筒をジェラール様に押し付けると、私の元へと歩み寄ってきました。


「アリア様。荷馬車の準備はできております」

「手回しが良いですね、ガレイン」

「これより我々も『有給消化』に入ります。どこへなりとも、お供いたしますぞ」


 廊下にはいつの間にか、荷物をまとめた侍女や料理人、庭師たちがずらりと並んでいました。

 皆、晴れやかな顔で「お疲れ様でした!」「さあ、行こう!」と口々に囁きあっています。


 私は振り返り、暗闇の中で呆然と立ち尽くす元婚約者と、状況が飲み込めず震えている浮気相手を見つめました。


「というわけですので、ジェラール様」


 私は最後に、今日一番の清々しい声で告げました。


「これからの屋敷運営、どうぞ『お一人』で頑張ってくださいませ」


「ま、待て! 待ってくれアリア! 電気が! 風呂が! 俺のご飯は――!!」


 悲痛な叫び声を背中で聞き流し、私はヒールを鳴らして歩き出しました。

 カツン、カツン、という小気味良い音が、私の新しい人生のカウントダウンのように響きました。


 さあ、まずは泥のように眠りましょう。

 おやすみなさい、元職場(ブラック企業)。



* * *



「⋯⋯揺れませんね」


 私は手元のティーカップを見つめて呟きました。

 波紋一つ立っていません。


 現在、私は隣国ヴォルカへ向かう大型魔導馬車の中にいます。

 内装はベルベットと金細工で埋め尽くされ、座り心地は最高級ホテルのソファ以上。

 どうやら『貴賓用特別車両』のようです。


「陛下から『アリア嬢の尻を痛めるようなことがあれば、御者全員の尻を叩く』と勅命が出ておりますので」


 向かいの席で、執事(元公爵家)のセバスが優雅に紅茶を注いでくれます。

 その横では、メイド長のマーサがクッキーの缶を開けていました。


「アリア様、バタークッキーになさいます? それともナッツ?」

「ありがとうございます。⋯⋯それにしても、まるで社員旅行ですね」


 窓の外を見ると護衛の騎士(元公爵家)たちが楽しそうに馬を走らせ、後ろの荷馬車からは料理人たちの笑い声が聞こえてきます。


 悲壮感はゼロ。あるのは「ブラック企業からの脱出に成功した」という解放感だけです。


「皆様の再就職先も、ヴォルカ帝国が『好条件』で受け入れてくださるとのことで安心しました」

「ええ。給与三割増し、完全週休二日制だそうで。全員、アリア様への忠誠心がストップ高です」


 セバスの言葉に私はほう、と安堵の息を吐きました。

 私の転職活動(婚約破棄)に彼らを巻き込んでしまった責任は感じていましたから。


 それにしても、快適です。

 トラブル対応に追われない午前中というものが、これほど素晴らしいものだったとは。


 ふと、私は遠く離れた元職場――公爵邸のことに思いを馳せました。

 今頃、どうなっていることやら。



           * * *



 一方その頃、公爵邸。


「さ、寒い!」


 ジェラールはベッドの中でガタガタと震えて目を覚ました。

 空調の魔石が切れているため、室内は外気と同じ気温になっている。


「おい! 朝だぞ! 誰かいないのか! 着替えだ!」


 叫んでも、誰も来ない。

 いつもなら、この声と同時にセバスがホットコーヒーを持って現れ、マーサがアイロンのかかったシャツを差し出すはずなのに。


 しびれを切らして起き上がると、クローゼットの中は空っぽだった。

 洗濯物が戻ってきていないのだ。


「な、なんだこれは⋯⋯俺に昨日の靴下を履けというのか!?」


 仕方なく床に落ちていた服を拾い上げ、部屋を出ようとしたその時である。


 ズズズ⋯⋯ドサッ!


「ぐわあっ!?」


 ドアを開けた瞬間、天井まで積み上げられていた『未決裁書類』の山が雪崩を起こし、ジェラールを生き埋めにした。

 これらは全てアリアが毎晩こっそり処理し、ジェラールの机に「承認済み」として置いておいたものだ。

 彼女がいなくなった今、書類はただの紙くずの暴力となって彼に襲いかかる。


「た、助けてくれ⋯⋯! 誰か、誰かアリアを呼んでこい!!」


 書類の山の下から、情けない悲鳴が虚しく響いた。



         * * *



 国境を越え、ヴォルカ帝国の王宮に到着したのは夕刻でした。


 案内されたのは、皇帝陛下の私室。

 重厚な扉が開くと、そこには書類の山と格闘する一人の男性がいました。


 銀髪に、切れ長の紫の瞳。

 冷徹で恐れられる若き皇帝、ヴァレリウス陛下です。

 ただ、その目の下には濃いクマがあり、全身から「激務」のオーラが漂っています。


「⋯⋯来たか、アリア」

「お久しぶりでございます、ヴァレリウス陛下。この度は雇用契約の件、迅速なご対応に感謝――」


 私が挨拶と共に、懐から『今後の業務改善提案書』を取り出そうとした、その時です。


 ぐいっ。


 陛下が私の手首を掴み、そのまま自身の身体へと引き寄せました。

 視界が回転し、気づけば私はふかふかのソファの上。

 そして背中には、陛下のたくましい胸板の感触がありました。


「へ、陛下?」

「⋯⋯充電」


 耳元で、甘えたような低い声が聞こえます。

 先ほどまでの「冷徹皇帝」の威厳はどこへやら。

 陛下は私の肩に顔を埋め、大型犬のようにすり寄ってきました。


「あの、業務の引き継ぎを⋯⋯」

「却下する」

「では、今後のスケジュールの確認を」

「それも却下だ」


 陛下は私の手からメモ帳を取り上げ、サイドテーブルに放り投げました。

 そして代わりに、一冊の詩集を私の手に握らせます。


「君の仕事は、ここで私の抱き枕になって、のんびりと本を読むことだ」

「⋯⋯それは、職務記述書ジョブディスクリプションに含まれておりませんが」

「今追加した。皇帝命令だ」


 陛下は私の腰に腕を回し、ぎゅうと抱きしめました。

 拘束具のようですが、不思議と不快感はありません。

 むしろ、適度な重みと体温が心地よいくらいです。


「⋯⋯君がいると、頭の中のノイズが消えるんだ」


 ポツリと、陛下が呟きました。


「君の周りだけ、空気が整然としている。余計な感情や、汚い計算がない。⋯⋯ただ、静寂がある」


 私の「事務的で面白みのない性格」が、重度の不眠症である彼にとっては「最高級の空気清浄機」のような役割を果たしているらしいのです。

 なんとニッチな需要でしょうか。


「だから、動くなよ。⋯⋯ああ、いい匂いだ。インクと、紙の匂いがする⋯⋯」


 数秒もしないうちに陛下の呼吸がスゥ、スゥと寝息に変わりました。

 私の肩に頭を預け、完全に脱力しています。


 普段は大陸一の軍事国家を統べる皇帝が、私の前では無防備な子供のよう。

 そのギャップに、胸の奥が少しだけくすぐったくなりました。


(⋯⋯まあ、悪くない待遇ですね)


 私は観念して、身体の力を抜きました。

 ブラック企業での「泥沼の争い」から一転、ここは静かで、暖かくて、誰も私を怒鳴りつけたりしません。


 求められているのは「私」という存在だけ。


「おやすみなさいませ、陛下」


 私はページをめくりながら、膝の上で眠る皇帝の銀髪を、そっと指先で撫でました。

 これは確かに、とんでもなく高待遇な「永久就職」かもしれません。



           * * *



「⋯⋯陛下、門前に薄汚い男が『アリアに会わせろ』と騒いでおりますが」

「ほう? 余興に通してやれ。アリアの『断捨離』の最終確認だ」

 

 衛兵の報告に陛下が面白そうに頷いた、数分後のことです。


「アリアァァァ!! 頼む、戻ってきてくれぇぇぇ!!」


 ヴォルカ帝国の謁見の間――ではなく、日当たりの良いサンルームに耳障りな絶叫が響き渡りました。


 静かな午後のティータイム(兼、陛下の抱き枕タイム)を台無しにしたのは、ボロボロの浮浪者⋯⋯いえ、元婚約者のジェラール様でした。


 かつての煌びやかな公爵令息の面影はありません。

 無精髭は伸び放題、服はシワだらけで、左右の靴下は色が違います。


「どうやって国境を越えたのですか」

「か、川を泳いできたんだ⋯⋯! そんなことよりアリア! 屋敷が大変なんだ! 借金取りが押し寄せて、ミナの奴は宝石を持って逃げて⋯⋯」


「はぁ⋯⋯」

「俺はもう一週間もパンの耳しか食べてない! 服だって、この通りシワだらけだ!」


 ジェラール様は着ているシャツの裾を掴んで訴えました。

 確かに、かつて私が毎朝チェックしていた純白のシルクシャツは、今や雑巾のように薄汚れています。


「⋯⋯ジェラール様。貴方様が今着ているそのシャツ、洗濯と糊付けの適正コストをご存知ですか?」

「は? こ、コスト⋯⋯?」

「その特注シルクを洗える業者は王都に三軒だけ。シミ抜きとプレスを含めれば、一枚につき銀貨3枚が相場です」


 私は冷ややかに告げました。


「お食事もそうです。貴方様が好まれていた『仔牛の赤ワイン煮込み』材料費とシェフの技術料を合わせれば、一皿で金貨1枚は下りません。それを毎日、空気のように消費されていた」

「だ、だから何だと言うんだ!」


「つまり貴方様は、年間数千枚の金貨に相当する『家事労働サービス』を、私と使用人たちからタダで搾取していたということです。⋯⋯その対価を払う能力もないのに、偉そうな口を利かないでいただけますか?」

「う、ぐ⋯⋯ッ」


 具体的な金額を突きつけられ、ジェラール様が言葉を詰まらせました。

「愛」や「情」で訴えてくる相手には、「請求書」という現実を叩きつけるに限ります。

 

「わ、分かった! 分かったから! お前のあの『謎の錬金術(※帳簿整理と資産運用です)』があれば、また元通りになるだろう!? な? 復縁してやるから! こっちに来いアリア!」


 焦ったジェラール様が、私の腕を掴もうと薄汚れた手を伸ばしてきました。

 その、指先が触れるか触れないかの、刹那。


「⋯⋯気安く触れるな」

 ズンッ、と。

 サンルームの空気が、質量を持って凍りつきました。


「ひッ!?」


 ジェラール様が悲鳴を上げ、腰を抜かしてその場にへたり込みます。

 私を背後から抱きしめていたヴァレリウス陛下が、わずかに片目を開け、底冷えするような殺気を放っていたのです。

 まるで、獲物を狙う竜のような瞳でした。


「そ、その女は、アリアは俺の婚約者で⋯⋯!」

「『アリア』と呼ぶな。⋯⋯不愉快だ」


 陛下は私の腰に回した腕に力を込め、ギリ、と所有権を主張するように私を抱き寄せました。


「その名は、私の口内で転がすためにある。⋯⋯貴様のような薄汚れた男が、気安く呼んでいい名前ではない」

「あ⋯⋯あ、あ⋯⋯」


 圧倒的な「格」の違いと、濃密な独占欲。

 睨まれただけで、ジェラール様の股間あたりから情けないシミが広がっていくのが見えました。


「アリア、こんな男と婚約していたのか?」

「⋯⋯申し訳ありません、陛下。私の処理済み案件ゴミが、分別されずに戻ってきてしまい、赤面の至りです」


 私は陛下の膝の上に座らされたまま――大変恥ずかしい体勢ですが、陛下が離してくれないのです――懐から一枚の書類を取り出しました。

 もちろん、コピーです。


「ジェラール様。こちらの書類をお忘れですか?」

「だ、だから、その婚約破棄は無効だと言っているんだ!」

「いいえ、有効です。そして見ていただきたいのは、裏面の特記事項。第14条『契約不履行および精神的苦痛に伴う違約金条項』について」


私は指先でツツッ、と一番下の行を示しました。


「そこには『公爵家の流動資産の80%、および領地経営権の一部を慰謝料としてアリアに譲渡する』と明記されております」

「は⋯⋯?」

「貴方様がサインされた時、私は確かに『金銭の要求はない』と申し上げました。ええ、現金は頂いておりません。代わりに『資産そのもの』を頂きましたので」


 ジェラール様が金魚のように口をパクパクさせています。

 私は淡々と、トドメの一撃を放ちました。


「つまり現在、公爵家の実質的なオーナーは私です。貴方様は当主の座を追われ、ただの『無職』となられました」


「そ、そんな馬鹿なあああ!! 俺は読んでない! そんなの読んでないぞおおお!!」


「契約書を読まずにサインをする。その愚かさの対価としては、妥当な授業料かと」


 私が冷たく言い放つと、陛下が面倒くさそうに指を振りました。

 それが合図でした。


「連れて行け。⋯⋯不法侵入罪だ。鉱山送りにして、たっぷり『労働』の喜びを教えてやるといい」

「はっ!」


「いやだ! アリア! 助けてくれ! 俺は働きたくない! 事務作業だけしていたいんだあああ⋯⋯ッ!」


 衛兵たちに引きずられ、ジェラール様の情けない声が遠ざかっていきます。

 扉が閉まると、サンルームには再び、穏やかな静寂が戻ってきました。


「⋯⋯やっと静かになった」


 陛下は私の腰に顔をすり寄せ、ふう、と満足げな息を吐きます。


「アリア。今の騒音で一気に疲れてしまった。⋯⋯責任を取ってくれるね?」

「責任、とは?」

「二度寝の付き添いだ。⋯⋯あと一時間、動くなよ」


 陛下は私の体温を確かめるように、さらに強く抱きしめてきました。

 重いですが、不思議と悪い気はしません。


 窓の外には、のどかな光景が広がっています。

 元騎士団長のガレインが、剣ではなくジョウロを手に、鼻歌混じりで花壇に水をやっていました。


 「鬼のガレイン」と恐れられた強面が、今は綻びきっています。どうやら彼は、血の匂いよりも土の匂いの方が性に合っていたようです。


 そして、風に乗って甘く香ばしい匂いが漂ってきました。

 庭のテーブルでは、元メイド長のマーサたちが焼きたてのアップルパイを切り分けています。


「さあ、休憩にしましょう! 今日は残業なんてありませんよ!」

「「「やったー!」」」


 若いメイドや庭師たちの、弾けるような笑顔。

 誰かの怒鳴り声に怯えることも、理不尽な命令に走り回ることもない。


 ただ、穏やかな時間だけが流れています。

 彼らのあんなに幸せそうな顔を、私は公爵邸で一度も見たことがありませんでした。


(⋯⋯ええ。本当に、最高の転職でしたね)


 私は陛下のサラサラとした銀髪を撫でながら、ぽかぽかとした陽気の中で目を閉じました。

 ここにあるのは愛しい重みと、幸せな微睡みだけ。


「おやすみなさいませ、ヴァレリウス様」


 私(元社畜)の平穏な日々は、まだ始まったばかりです。

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